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文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

いやーもう、びっくらこいたうどんの話。

 

うどんのお化け

うどんのお化け

 

 

えー、相も変わりません。本日ご紹介したいのは、古川緑波の「うどんのお化け」でございます。

 

古川緑波と言えば昭和の名喜劇俳優ですが、青空文庫に入ってるんですね、びっくり!

 

で、本書を読んでさらにびっくり。ていうのは、ロッパさん、本書の中でこんなことを言ってるんです。

 

「おかめ、卵とじ、鴨南蛮、鍋焼――と、昔風なのからカレーうどん、きつねうどん(油揚げの入った奴。無論関西から来たもの)或いは、又、たぬきというのもある。」

 

エエー!嘘やーん!

 

きつねうどん、カレーうどんと同列なんですか! 昔風に含まれないんすか! マジか東京人(昔のね)! お前ら(昔のね)きつねうどん知らんのんか! 「きつねうどん(油揚げの入った奴。無論関西から来たもの)」とか、説明いるんか! 

 

うーーーそーーーやーーーーーん!!!

 

……すみません。つい興奮してしまいました。いや、江戸は蕎麦文化とは知っていましたが、はあ、ほんとにそうだったんですねえ。

 

ちなみに本書が含まれているエッセイ集「ロッパの悲食記」は1959年に初版が刊行されたとのこと。うーん、てことはですよ、ちょっと長めに見積もっても、中のエッセイがどこかの雑誌かなんかに前もって発表されていたとしても多分戦後じゃないですか。

 

えええ、そうなんだ。東京の人の多くは戦後まできつねうどんのこと知らなかったんだ。

 

はー。いやー。へええええ。

 


……あ、ごめんなさい、今回ほんとにそれだけが言いたかったんです。いやー、びっくりしたわ、もう。

 

あ、で、うどんのお化けってなんなんだって? まあ、それは本書をお読みください。多分数分で読めるエッセイなので。いやー、うどんのお化け、遠慮したいわ。

 

というわけで、おなじみ古川緑波著「うどんのお化け」に関する素人講釈でございました。

 

もう、ほんとびっくり。

 

……あれ、じゃあきつね蕎麦は一体いつから?

 

うどんのお化け

うどんのお化け

 

 

春琴抄を歌いながらレビューしてみる話。

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

 

 
えー、相も変わりません。本日は谷崎潤一郎著「春琴抄」をご紹介したく、とは言え普通にレビューするのもなんですから、今回はちょっと趣向を変えて、歌いながらレビューしたいと思うわけでございます。

 

というわけで、失礼して、あー、コホン、テステステス。

 

それでは、歌わせていただきます。新世紀エヴァンゲリオンの主題歌の替え歌で、「残酷な佐助のテーゼ」。


どうぞ!

 


ざーんーこーくな天使のように
しょーうーねーんよ、神話になーれー!

 


琴のバチがいま
顔のどこか叩いても
わたしだけをただ見つめて
微笑んでるあなた

 

そっとふれるもの
もとめることに夢中で
運命さえまだ知らない
いたいけな瞳

 

だけどいつか気付くでしょう
その手元には
遥か未来 突き刺すための
針があること

 

残酷な佐助のテーゼ
厠からやがて呼ばれる
ほとばしる熱いパトスを
その紙でふけるのなら
この宇宙(そら)に泣いて喜ぶ
少年よ しもべになれ!

 


マーリーヤー セーパーテーソー
マーリーヤー トゥーセー

 

「佐助!なんでこんなこともできへんの!」
こいさん、すんまへん!」
「佐助!あんさんなんかもう、出てお行き!」
「そんな、かんべんしとくれやす!」
「佐助!この阿呆!」
「こ、こいさん、やめとくなはれ!」
「佐助!」
ビシッ
「佐助!」
バシッ
「佐助!」
ドカッ
「佐助ーーー!!」
「逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ」

 


ずっと眠ってる
わたしのSの本能
あなただけが Mの使者に
呼ばれる朝がくる

 

細い首筋を
月あかりが映してる
稽古中の時を止めて
虐げたいけど

 

もしもふたり逢えたことに
意味があるなら
わたしはそう 自由縛る
ためのバイブル

 

残酷な佐助のテーゼ
悦びがそしてはじまる
繰り返すいじめのかたち
その意味に目覚めたとき
誰よりも光を放つ
少年よ しもべになれ!

 

人は愛をつむぎながら
歴史をつくる
夫婦なんてなれないまま
二人は生きる

 

残酷な佐助のテーゼ
その目からやがて血を吹く
ほとばしる熱いパトスで
思い出を裏切るなら
この宇宙(そら)を抱いて輝く
少年よ しもべになれ!

 


……お粗末さまでございました。おなじみ谷崎潤一郎著「春琴抄」に関する素人の替え歌でございました。

 

あ、ちなみに、春琴抄と新世紀エヴァンゲリオンは何の関係もありませんから。(いや分かっとるわ)

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

 

 

新しいものはいつだって、すべてファンタジィから生まれてくる。

 

無限の書 (創元海外SF叢書)

無限の書 (創元海外SF叢書)

 

 

*本書は書評投稿サイト「本が好き!」様からの献本で頂きました。ありがとうございます!

 

舞台は中東のとある専制国家<シティ>。この町で青年アリフはハッカーとして暮らしていました。

 

金持ちの王族と、そして政治に食い込んだイスラム教の宗派によって支配されたこの国で、電脳空間は多くの不満分子たちの拠り所だったのです。ところがシティでは少し前からサイバースペースにおける検閲が強化されていました。「ハンド」と呼ばれた何か、個人なのか、集団なのか、あるいはただのプログラムなのか――によって、この町で最初のブロガーであったニュークォーター01はネットの世界から姿を消し、そして多くのブロガーたちがテロリストの汚名を着せられて逮捕されるようになります。アリフの仕事は、そんなネットの世界で蠢いているクライアントたちを「ハンド」の手から守ること。

 

アリフにはインティサルという恋人がいて、彼女は庶民である彼とは本来釣り合わない貴族の娘でした。ネット上のフォーラムで出会った二人。しかしある日インティサルがアリフに対して別れを切り出したことから物語が始まります。結婚の話が持ち上がり、インティサルにはそれを止めることができなかったのです。

 

 

別れの最後に、彼女はアリフに言いました。

 

「アリフ、もう帰って」ふるえながらヴェールをつけなおし、「あなたの名前が二度とわたしの目に触れないようにしてちょうだい。お願いよ。ほんとうに――とても耐えられないわ」

 

アリフは彼女の言葉に従い、彼女のアカウントがどんなことがあってもネット上で彼と接触することができないよう、プログラムを組み立てます。ところがそのプログラムは、彼にも理解できない働きをし始めます。そのプログラムは、たった一行の文章から、その文章を書いたのがインティサルだと判別するようになったのです。

 

丁度その頃、二つの事件が起こります。一つ目は、アリフの元にインティサルからある本が届けられたということ。その本の名前は「千一日物語」。かなり古そうに見えるこの本が一体どうして自分に渡されたのか、アリフには分かりません。

 

そしてもう一つはアリフが作ったプログラムが原因で、彼のサーバーが「ハンド」にハッキングされてしまったことです。このことにより彼の身元は国家保安局に知られることになり、彼は追われる存在となるのです。

 

アリフは幼馴染のダイナと共に逃げ出し、ある男の元へ向かいます。その男の名は吸血鬼ヴァイラム。彼の本性は、幽精(ジン)でした。アラジンの魔法のランプなんかに出てくる、あれです。

 

アリフはヴァイラムに連れられて幽精の世界へ行くことになるのですが……おっと、この話はもうここまでにしましょう。

 


さてこのように、本書はインターネットとサイバースペースをモチーフとしたサイバーパンク小説でありながら、同時に「千一夜物語」のような魔法物語でもあります。

 

サイバーパンクと魔法物語、そう言うとまるでミスマッチのように思えるかもしれません。しかし本書を読めば、実はそうではないことに気付くでしょう。

 

現実世界は、常に魔法物語のようなファンタジーの世界とともにある、そんなことに気付くことでしょう。

 


人類の歴史を遡ってみると、人間はつねに現実世界とは別の幻想的な異世界というものを描いてきたことが分かります。

 

現代の私たちが古代と呼ぶ時代、この時代はいわゆる「神話の時代」でした。その頃は現代に生きる私たちよりもずっと人間と神は近い関係にあり、そして自然の現象一つ一つもまた精という別の存在としてあったのです。

 

その時代から少し経つと、「宗教の時代」が始まります。そこでは戒律が生まれ、そして信仰が生まれました。

 

宗教の力が弱まった時、新たに誕生したファンタジーの舞台が「異国」です。西洋におけるオリエンタリズムや、あるいは日本の場合は逆に西洋が「リアルな異世界」であったことでしょう。

 

様々な情報が行き渡り、異国ですらもはや「想像できない世界」ではなくなった時、人間が発見した異世界が「宇宙」です。

 

さて、そして現代。現代の私たちにとって最も「リアルな異世界」と呼べるものはなんでしょう。それは「サイバースペース」です。このサイバースペースは、確かにリアルではありません。でも、私が今このサイバースペースに書き込んでいる文章を、今、これまで出会ったことのないあなたが読んでいるわけです。サイバースペースは異世界でありながら、同時に現実でもある。

 

何でこんな話をしているかというと、この物語のテーマこそがそういった「現実の重層性」だからだと思うのです。

 

現実はあくまでも現実です。例えばいくら私が電脳空間が現実にリンクしていると言ったところで、あなたが現実の私に与えることができる影響はとても少ないものでしょう。

 

また、私がここでどれだけの主張をしたところで、それが一体何になるでしょう。

 

所詮は非リアルな世界。頭でっかちの現実を知らない自称軍師様が、素人のくせに評論家ぶって大きな顔でのさばっている世界。

 

そう、それも事実。それもサイバースペースの「現実」。

 


ちょっと「サイバースペース」という言葉について調べてみましょうか。

 

wikipediaでこの言葉を調べてみると、こんな風に出てきます。

 

サイバースペース (英:Cyber-space) は、コンピュータやネットワークの中に広がるデータ領域を、多数の利用者が自由に情報を流したり情報を得たりすることが出来る仮想的な空間のことを指す。
1980年代に、SF作家のウィリアム・ギブスンが自著『ニューロマンサー』や『クローム襲撃』の中で使用したサイバネティックス (cybernetics) と空間 (space) のかばん語で、黒丸尚により電脳空間と訳されている。
仮想空間や仮想環境もこれに近い意味をもつ。サイバー犯罪(Cybercrime)といった言葉もある。」

 

そう、確かにその通りなのでしょう。でも、そのように「サイバースペース」という言葉を厳密に定義した瞬間、サイバースペースという言葉が持つ魔法は失われてしまう。

 

私は思うのです。サイバースペースはある意味では中つ国であり、アリスが落ちるラビットホールでもあるのではないかと。そして今私が向かっているこのパソコンは、言うなれば私にとってのRX-78であり、キングズ・クロス駅の9と4分の3番線だったりするはずだ、と。

 

だからこそ現代に生きる私たちにとって、インターネットやサイバースペースは可能性でありうる。

 

もちろん、私は分かっています。そんな比喩は「正確」だとは言えない。

 

でも、はっきり言いましょう。論理的な人や現実的な人は、テストでは100点を取れるかもしれないけれど、決して何かを生み出すことはできないし、何かを変えることもできない。

 

それが、「論理」とか「現実」と呼ばれるものの罠。

 

なぜならそれは、この世界をたった一つのことに限定してしまうことだから。重層的なはずのこの世界を、0か1かのデジタルなものの見方の中に閉じ込めるということだから。

 

長老は一瞬考えた。
「殿下のおっしゃる通りかもしれませんね。新しいもののはじまりは、すべてファンタジィだったともいえます。その昔、イスラム法を学ぶ学生は想像力を自由にはばたかせるよう奨励されました。たとえば中世において、聖都巡礼の旅のあいだ礼拝に必要な洗浄をいつおこなうべきか、激しい議論が戦わされました。徒歩で旅する場合は? 船旅の場合は? ラクダを使う場合は? 地上の可能性をすべて語りつくしたとき、ひとりの学生が新たな問題を提起しました。空を飛んでいく場合はどうなるのか。そのケースにおける法の適用について、真剣な議論がおこなわれました。その結果わたしたちは、ジェット旅客機が発明される五百年も前に、空路による聖都巡礼に関する規則をつくりあげていたのです」

 

実用的知識を重んじ、自分が合理的だと思っている人は言います。フィクションなんて何の役にも立たない、と。

 

でも実際にはこの世界はフィクションと共に歩んできたし、これからも歩んでいくのです。

 

現実の力の方がいつも少しだけ強くて、だからあらゆるフィクションの世界はいつだって時間の経過とともにその力を弱めていってしまうけれど、でも、私たち人間はそのたびに新しいフィクションの異世界を作り上げてきたのです。

 


アリフが組み立てたプログラム、たった一行の文章だけでその文章を書いたのがインティサルだと特定できてしまう謎のプログラム「ティンサル」。それは、デジタルな思考の中に比喩を理解するという思考を組み込むことで生まれます。

 

つまり、私がさっき喩えたみたいに、「サイバースペース」は単なる電脳空間であるだけではなく、それはナルニア国であったり、リリパットだったり、あるいはメイちゃんが転がり落ちたトトロの穴だったりするという、そのことを理解できるプログラム。

 

そう、そんなプログラムは存在しません。現実的に。論理的に。

 

でもそんなプログラムを想像したこと、実はそれこそが本書における一番のファンタジィであり、一番の嘘だと思うのです。

 

幽精や魔法の世界なんかよりも、もっとずっと。

 


本書はサイバーパンクでありながらアラビアンナイト的な魔法物語である、このミスマッチが魅力だ、と多くの人は思うかもしれません。

 

でも本当はそうではないのかもしれない。

 

なぜなら、もしかしたら本当は、全てのサイバーパンクは最初から、魔法物語だったのかもしれないから。

 

うん、もちろん、それは決して「正確」な表現ではなく、ただの「比喩」でしかないのだけれど。

 

 

無限の書 (創元海外SF叢書)

無限の書 (創元海外SF叢書)

 

 

私たちの知っている「本」というものはきっとこの先、どんどんその姿形を変えていく。そして私たちが「本を読む」ということの行動や意味というものも。

 

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)

 

 *本書は書評投稿サイト「本が好き!」様からの献本で頂きました。ありがとうございます!

 

「賢さ」とはなんでしょう。

 

私たちは恐らく「賢い人」というのは、私たち一般人にはとても理解できないような問題を解決できる人だと思っています。

 

でも世の中にある「難解な問題」そのものに視点を当ててみると、そういった「難解な問題」の多くは実は「理解できない問題」ではなく、「解読するのに複雑な手続きが必要な問題」なのではないでしょうか。

 

言い換えるならば、私たちのような一般人であろうと、あるいはとんでもなくIQが高い人であろうと、問題を解決する能力そのものには大きな違いはないのです。なぜなら、人間の脳というものは大体みんな同じ形状で同じ質量なのだから、物理的に大した違いが生まれるはずがない。

 

つまり一般人の私たちは「複雑な問題」を「理解できない問題」とはき違えていることが多いのではないか、と。

 

とは言え現実の世の中には私たちのような一般人とそうでない賢い人たちがいるのは事実で、ではこの違いは何かというと、それは「スピード」なのです。500メートルを走ること自体は誰でもできるのだけれど、何秒でゴールまでたどり着けるか、という能力の差が「賢さ」なのですね。

 

さて、ここで少し話が変わりまして、一昔前に「ビーチボーイズ」というドラマがやっていたのです。反町隆史竹野内豊のW主演で、あとデビュー間もない頃の広末涼子が出ていました。

 

物語はあるさびれた港町に二人の若い青年がやってきて、サーファーの親父(マイク真木)が経営する民宿「ダイヤモンドヘッド」で働きながらこの二人の青年が成長していく、という物語です。

 

この物語の中で主人公の桜井広海(反町隆史)は泳げない、というキャラでした。ところがドラマが進むにつれ、彼は実は泳げないのではないということが明らかになってきます。いや、泳げないどころか、実は彼はオリンピックの代表候補にもなれるほどの水泳の選手だったのです。

 

じゃあ泳げるんじゃん、というとそうなのではなく、彼はプールでは泳げるのだけれど、海で泳ぐことができないのでした。プールという枠があり、スタートとゴールがあったら泳げるのだけれど、海のように何もないところではどうすればいいか分からなくなって泳げない、と。

 

……お前は一体何の話をしているんだ? と怒られそうなので、そろそろここで本書の話に戻しますと、本書「ペナンブラ氏の24時間書店」は先にお話しした二つの話と同じことを語っているような気がするのです。

 

主人公のジェイクはかつてベーグルの新興チェーン会社でネットを使ってマーケティングやデザインをしていました。ところが不況のあおりを受け会社が倒産、失業中の彼は偶然立ち寄った奇妙な書店「ペナンブラ氏の24時間書店」で働くことになります。

 

ここは一見普通の古書店のようでしたが、一つ違ったのは建物の奥に行くととんでもない数の蔵書があり、しかもこれらの蔵書はみんなネットで検索しても出てこないような本ばかり、そしてそれらの本はタイトルから内容まですべて暗号のような文字で描かれている、ということでした。

 

ジェイクの仕事は店番をすることと、この奥にある蔵書を借りに来る会員から本を受け取って希望する本を渡すということ。

 

ある日暇を持て余したジェイクは自分のノートパソコンの中にこれらの蔵書のデータと、そして誰がどの本を借りに来たか、というデータを入れて3D書店をパソコン内につくり、そのデータを解析します。

 

この頃知り合ったグーグル社員のガールフレンド、キャットに手伝ってもらい、グーグル社内の驚異的なシステムを利用した彼は、この謎の書店「ペナンブラ氏の24時間書店」に謎の本を借りに来る謎の会員たちが求めていた「答え」を、わずか一日で知ることになるのです。

 

と、いうのがこの物語の序盤です。ここからようやく、この物語は始まるのです。

 

これって、ちょっと不思議だと思いませんか? だって、もう、答えは出てしまってるんですよ。グーグルの力を使って。

 

でも、きっとそれこそがこの著者がこの物語で描こうとしたことだと思うのです。「答え」を見つけることではなく、もっとその前にある何か。

 

 

インターネットやコンピュータのすごいところ、それは私たちのような一般人でも、驚くべき「スピード」を手にすることができるということ。

 

でも、それは本当に「賢さ」なのでしょうか。

 

私には、IQが高い、という「賢さ」と、私たちが現在インターネットを駆使し、コンピューターのプログラミングによる解析をすることで享受できる「賢さ」は同じようなもののような気がするのです。

 

それは、あくまでも「スピード」にすぎない。

 

そしてこの「スピード」は結局のところ、測量するためのスタートとゴールがあらかじめ決まっているからこそ測ることができるもの。プログラマーがプログラミングできるのは、あくまでも具体的で明白に想像できる範囲内だけのこと。「これをこうしたい」というスタートとゴールがあらかじめ決まっているものだけだということ。

 

特異点を信じるには楽観的でなきゃだめなんだけど」キャットは言う。「それって意外とむずかしいのよね。最大幸福の想像(マキシマム・ハッピー・イマジネーション)ってやったことある?」

「日本のクイズ番組みたいに聞こえるね」

 キャットは胸を張った。「それじゃ、やってみましょ。初めに、未来を想像して。いい未来を。原子爆弾はなし。サイエンスフィクションの作家になったつもりで」

 オーケイ。「世界政府……ガン撲滅……ホバーボード」

「もっと遠い未来。そのあとはどんないい未来が待ってる?」

「宇宙船。火星でパーティ」

「もっと先」

「≪スター・トレック≫。瞬間移動装置。どこへでも行ける」

「もっと先」

 ぼくはちょっと口をつぐんでから気がついた。「もう想像できないよ」

 キャットが首を横に振った。「本当にむずかしいのよね。いまのでだいたい……千年ぐらい? そのあとに何が来るのか。そのあとにどんなことが起こりうるのか。想像が限界に達しちゃうわけ。でも、わかるわよね? あたしたちって、すでに知っていることに基づいて想像しているだけだから、三十一世紀のことになると類推できなくなっちゃうのよ」

 

千年後の未来がどうなっているかなんて、誰にも想像がつかないですよね。だって、そんな遠い未来を想像しようとしたって、一体どこにスタートとゴールを設定すればいいのか分からないから。そんな遠い未来は、まるで海のようなものだから。

 

ドラマ「ビーチボーイズ」のなかで、「ダイヤモンドヘッド」の親父さんであるマイク真木は夏の終わり、主人公の青年たちに向かって言います。

 

「ここは俺の海だ。お前たちにはお前たちの海があるだろう」

 

 

そう、これはジェイクにとっての「海」の物語。IQが高い人もそうでない人も、グーグルの社員も謎の古書店の店員も、みんな自分の中に持っている「海」で泳いでいく。そこにこそ、本当に大切なものがある。プールの中での「スピード」を競うことなんかではなく。

 

 

ジェイクがキャットとそれに友人のニールと共にニューヨークへ行った時のこと。

 

ニューヨークの人だかりを見てキャットは思います。この人の群れの行動を、コンピューターの中でモデル化することが可能だろう、と。

 

しかしそれに対してニールは言います。

 

「だめだね」ニールはそう言ってクイズ番組のブブーッという音を真似た。「できない。たとえルールがわかってもね――ところで、ルールなんて存在しないんだ――でも、たとえルールが存在したとしても、モデル化はできない。どうしてだかわかるかい?」

 シミュレーションをめぐってぼくの親友とガールフレンドが火花を散らしている。ぼくはただ傍観することしかできない。

 キャットが眉をひそめる。「どうして?」

「記憶力(メモリ)が足りないからさ」

「何言ってる――」

「いいや。すべてをメモリにとどめておくのは無理だ。どんなコンピュータもそこまで大きくない。きみたちのいわゆる――」

「ビッグボックス」

「そう、それでもだ。大きさが足りない。この箱のほうが」ニールは両手を広げ、歩道、公園、もっと先の通りを囲むように動かした。「大きい」

 

 私たちが千年後の未来なんて思い描くことができないのと同じように、千年前の人たちだって、現在のような未来を思い描くことはできなかったでしょう。

 

千年前の本を愛する人たちが、電子書籍で本を読んだり、こうやって書評をネット上に投稿したりすることになる、なんてまさか思いもしなかったに違いありません。

 

でもきっと、千年前の読書家と、今を生きる私たちの間は、同じ「本」という「海」でつながっている。私たちが想像もできない何かによって、論理的に答えを導くこともデータを解析することもできない「何か」によって

 

それこそ、「本」という名の「海」は、とてつもなく広いのです。多分、この地球上にある海よりも、もっと、ずっと、ずっと。グーグルのビッグボックスのメモリでも全然足りないくらいに。

 

 

私たちの知っている「本」というものはきっとこの先、どんどんその姿形を変えていく。そして私たちが「本を読む」ということの行動や意味というものも。今、私たちはその丁度分岐点に立っているのでしょう。

 

きっと、私たちはそうやって一歩ずつ、未来へと進んでいくのです。たとえその未来が現在私たちが思っていたような、あるいは願っているようなものと違っていたとしても。

 

かつて教会という閉ざされた空間で閉ざされた人たちにのみ受け継がれていた本が、印刷技術によって世界中の総ての人に広まっていった時、写本というものがだんだんと滅びていったように、今私たちにとって当たり前の「本」もまた、その姿を少しずつ消していくのでしょう。

 

 

千年後の未来は想像つかないから、逆に千年前の過去について想像してみましょう。

 

きっと千年前の本を愛する人たちは、現在の私たちの「本」を見て、こんな風に言うだろうと思うのです。

 

「こんなものは本とは言えない。こんな風に自動的に記述されて大量生産されているものなんて、俺たちの知っている本じゃない」

 

それと同じようなことを、今の私たちもまた、未来の「本」に対して感じるのかもしれない。

 

 

「賢く」なることでつまずいてしまうことがもう一つ。それは、目の前に広がる「海」すらも、自分の独善的な「プール」の枠にあてはめようとしてしまうこと、自分の「プール」が「海」なのだと、勘違いしてしまうこと……

 

千年後の未来で、人間たちは一体どんな風に本を読んでいることでしょう。そんなこと、誰にも分かるはずがないことです。たとえ世界中の人口の上位2%の知能指数を持っていたとしても。

 

地球の外周を計算しようと思ったら、まず最初に何をしたらいいんだろうと、夜道をひとりで歩きながら考えた。見当もつかない。ぼくだったら、たぶんググるだけだな。

 

あるいは、どれだけインターネットでググったとしても。

 

多分、本当に大切なことはどれだけググったところで分からない。本当に大切なことというのはネットの中には存在しないし、多分どの本の中にも存在しなくて、自分自身の中にだけあるものだから。

 

本書は主人公がある本の暗号を解いていく、という物語ですが、暗号解読、という意味では一つの作品について深く考えることもまた、ある種の暗号解読だと思うのです。

 

そして私は、私なりの答えをこの物語の中に見つけた気がします。

 

それは、ちょっと大げさに言えば「本とは何か」ということ。

 

多分、暗号解読のために必要なものは、高いIQでもなければ、ネットやコンピュータを使いこなすことでもない。

 

必要なのは「本」という「海」を泳いでみよう、という、ちょっとした勇気とか、アイデアとか、多分そういうもの。

 

そしてそれはどんな問題よりも「難しい」問題だったりする、ということ。

 

 

そんなことを考えながら、私は本書を読みながら、想像もしえない千年後の本好きに向かって、マイク真木の真似をしてこんなことを言ってみたくなるのでした。

 

「これは俺の本だ。お前たちにはお前たちの本があるだろう」

 

なんてね。

  

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)

 

 

驚異の新人作家・幸田露伴の話

 

風流仏・一口剣 (岩波文庫)

風流仏・一口剣 (岩波文庫)

 

 内田魯庵が「都の花」を出版していた金光堂に遊びに行くと、そこに山田美妙がいたそうで、しかもその美妙が何ともテンションが高かったとのこと。魯庵が「何か嬉しいことがあったのですか?」と尋ねると、「いやね、すごい新人が出たんですよ」と美妙。その「すごい新人」こそ、幸田露伴なのでありました。

ちなみにそんな露伴、デビュー作を美妙の「胡蝶」の批評もしていた依田学海先生の元へ持っていき、是非帯文を書いてくださいと頼んだところ、「あなたの作品がそんなにいいものなら、私の帯文なんていらないでしょう」と意地悪を言われ、「だったら好きにせいっ」と怒ってその本を置いて帰ったのだそうですね。

で、この学海先生が露伴が帰った後に本を読んでみると、これがとんでもなく面白い。学海先生、露伴のところへ行って「この度は大変失礼いたしました」と詫びを入れたのだとか。すごいですね。

で、この露伴はどういう人だったかというと、学歴はあまりよくないのですね。というか親の経済事情で学校をやめなければならなくなって、16歳で北海道で働き始めます。

しかしそこで坪内逍遥の「当世書生気質を読んで一念発起、東京に帰ってきて作家になるための修業を始めるわけです。で、図書館に通い詰めて独学で勉強したのだとか。

それが後年になって「明治時代の作家で最も博識なのは幸田露伴」と言われるまでになるのですから、大したものですね。本当にすごい人というのは、こういう人のことを言うのでしょう。


というわけで、今日はそんな幸田露伴の作品をご紹介したいわけでありますが、本当はね、デビュー作の「露団々」が読みたいのだけれど、青空文庫にもないし、岩波文庫にもなぜか入っていないようなので(ここで読めるよ、と知ってる方がいらっしゃたらどうかご教示くださいませ)、同年に刊行された二作目となる本作を読みながらですね、新人作家としての幸田露伴について講釈垂れさせていただきたいわけでございます。


さて、それではまずこの「風流仏」がどんなお話なのか、あらすじをご紹介いたしましょう。

時は明治の初め、京都で仏師の修行をしていた珠運という男がおりました。この珠運、師匠から認められて晴れて独立することになったわけですが、その前に当時から仏像と言えば鎌倉と奈良がメッカでしたから、この二か所を修行がてら巡ってから京都に帰って身を建てよう、と、こう考えたのでございます。

で、珠運が鎌倉に行って次は奈良へ向かおうとする道すがら、信濃に立ち寄った時でございました。ここで彼は一人の美しい花漬け売りの女性と出会うのです。この女性は歳は二十歳前後ぐらい、当時からするともうそれほど若いとは言えないものの、可愛い顔立ちで、しかも性格もすこぶるよさそうだ、と。

珠運は宿に帰るとこの女性の話を宿の主人にするのですね。すると宿の主人は、「ああ、それはお辰のことですね」と言って、「あの娘は本当にちょっとそこらにはいないようないい娘なのですが、とにかく不憫な娘でねえ」と、彼女の生い立ちの話をするのです。

そのお辰の生い立ちというのが、こういうことなのです。彼女の母はもともと京都で芸者をしていたところ、一人の侍と恋仲になった。で、二人は契りを結んで京都に居を構え、赤子を身ごもることになったのです。

ところがそんな折、戊辰戦争が起こったのでした。官軍側であったこの侍は、生まれてくる我が子を見ることもなく出征します。

そうしてお辰の母は京の地でお辰を生み、そして夫の帰りを待ちながら細々と暮らしていましたが、戦争が終わっても夫からは何の連絡もありません。

恐らく戦死してしまったのだろう、とお辰の母は幼い娘を連れて生まれ故郷である信濃へと帰ってきたのです。そしてそこで三味線の師匠をやりながら母一人娘一人で何とか生活していました。

お辰の母はせめてお辰がお嫁に行くまでは、と思っていたのですが、日頃の苦労がたたって病に伏してしまいます。

さて、そんなお辰の母には一人の弟がおりまして、この弟というのがもう、酒は飲むわ博打はやるわのどうしようもない男だったのですが、まあそういう男によくある話で女を口説くのはめっぽううまかったりするのです。で、ある大商家の一人娘をまんまとたぶらかして旦那の地位に上手く滑り込んだのでした。

この弟は羽振りが良くなったのだから姉であるお辰の母を助けてやればいいのにも関わらず、そんなことはしようともしませんでした。ところがある日この弟が妻を連れて京都へ旅行に行こうとした時のことです。弟の妻というのは、まあこういう男にだまされるような純情な女の人でありましたから、夫に向かって言ったのですね。「そう言えばこの道すがらにあなたのお姉さんが住んでいると聞いたことがあります。結婚したのにこれまで一度も会ったことがないというのは、なんとも申し訳がないこと。是非連れて行ってくださいな」と。

で、夫の方は嫌々ながら姉のところへ女房を連れて行ったのです。そうして訪れて女房はびっくり仰天、どうしてこんなに貧しい暮らしをしているのか、と。で、お辰の母と話をするうちにこの女房は泣きながら「今まで知らなかったとはいえ、義理の姉にこんな暮らしをさせてしまって申し訳ありません。どうかこれからはうちの家が援助をしますから、ご安心ください。お辰ちゃんもちゃんと育ててあげましょう」と。

このことを聞いてお辰の母はすっかり安心し、そしてそれから少しして息を引き取ってしまいます。

そうしてお辰は叔父夫婦の元へと貰われることになりました。そこでお辰は裕福な商人の家のお嬢さんとして育てられることになったわけですが、ところが不運なことにこの叔母もまた少しして死んでしまったのです。

さあ、そうなると残ったのは意地の悪い叔父とお辰だけです。叔父の遊び癖は一向にやみませんでしたから家業はどんどん傾き続け、そうしてお辰はまた貧乏暮し、働きもせず遊んでばかりいる叔父のために花漬け売りの仕事をしなければならなくなったのです。

お辰にも色々と縁談の話がなかったわけでもないのです。何しろ器量も気立ても良い娘なのですから。ところがこの娘と結婚したら、もれなくあの叔父が付いてくる、というのでお辰は誰にも貰われることなく、たった一人で苦労を背負いこんでいるのでした。

さて、そんな話を宿の親父から聞いた珠運は憤慨します。そしてどうにか自分が彼女を助けてやれたらいいのに、と思います。

しかし今の自分はと言えば、いまだ修行中の仏師の身。多少の蓄えはあるものの、それとて京に帰って身を建てるための資金です。珠運はそんなしがない自分の身を呪いながら、信濃を発とうとしたのでした。

ところがそこで珠運はある光景を目にします。なんとそれは、お辰が家の外で柱に縛られているところだったのです。

これは大変だと紐を解こうとする珠運でしたが、お辰はそれに対して「どうかそんなことはやめてください。このままにしておいてください」と言います。

一体どうしてかとそのわけを聞くと、どうやら叔父は遂にお金に困り、お辰を女郎屋に売り払うことにしたようなのです。だったらなおさらこのままにはしておけない、と言う珠運でしたが、だからと言ってここで助けてもらってもどこへも行くあてはない、もしここであなたに助けてもらったなんてことが叔父に知れたら、どんな目に合うか分からない、とお辰は言います。

そこで珠運は自分のなけなしの貯金である百円をこの叔父に渡し、自分がお辰を買うことにしてやるのです。

さて、そうしてお辰を連れて宿に帰った珠運は再び京へと向かおうとします。そして珠運はお辰に向かって「あなたはもう自由の身なんだから、これからは好きなところに行って好きなように暮しなさい」と言うのでした。

そこへ宿の主人が珠運にこう言うのです。

「ちょっと待ちなさい、珠運さん。そういうことでしたら、いっそのことあなたがこのお辰を嫁にもらってやればいいじゃないですか。あなたも決してお辰のことが嫌いなわけではないんでしょう」

いや、別に自分はそういうつもりで彼女を助けたわけではない、と固く固辞して一度はその場を立ち去った珠運でしたが、しばらく歩いて離れれば離れるほど、頭に浮かぶのはお辰のことばかり。そうなのだ、自分はお辰に惚れてしまったのだ、と珠運は思い返してまた宿へと戻ります。

「ほら見なさい。まああとは私が祝言の準備も全部しますから」と宿の主は喜んで言い、そうして珠運とお辰は晴れて結ばれることになったのです。

ところが、祝言の前日になり、お辰が急に姿をくらましてしまいます。一体何があったのか、もしやあの意地悪な叔父にさらわれてしまったのか、と気を揉んでいるところに、一人の男が現れます。

この男は岩沼子爵という貴族の使いの男で、田原と言いました。そして彼は珠運に二百円のお金を渡し、どうか今回のことはなかったことにしていただきたい、と言うのです。

というのは、あの戊辰戦争で死んだと思われていたお辰の父は、実は生きていたのです。彼は戊辰戦争で殊勲を挙げ、新政府の使える男として一侍から子爵へと上り詰めていたのでした。この岩沼子爵が出世してから京都で生き別れた妻と娘を探しているうち、なんとか娘の方だけが信濃で暮していると分かった、と。で、娘を自分の元へ引取ろうとしたところ、どうやら仏師の元へ嫁ぐことになっているらしい。

そこで岩沼子爵からしたらですね、お辰が花漬け売りの娘であったならまだしも、彼女が自分の娘であると分かった以上、お辰はもはや子爵の令嬢である、と。その子爵の令嬢である娘と仏師とでは釣り合いが取れないだろう、と、こういうわけなのです。

しかし納得がいかないのは珠運です。そもそも二百円払うからなかったことにしてくれ、と言うのが気に食わない。自分はお辰を金で買ったつもりはないが、だからと言って二百円もらって引き下がったのでは、まるで自分が欲のために自分のお金を出したみたいでいやだ、と。

じゃあいったいどうすればいいんです、という田原に、珠運は言うのでした。お辰を返してほしい、岩沼子爵の娘のお辰ではなく、花漬け売りのお辰を返してくれ、自分は花漬け売りだったお辰に恋をしたのだから、と。

そんな無茶な、というわけで、結局珠運とお辰の結婚はなかったことになり、お辰は岩沼子爵の元へ引取られるわけですが、お辰のことが忘れられない珠運はかつてお辰たちが暮らしていた家を借り、そこに住みこんでしまいます。

宿の主もそもそもは自分のおせっかいが話がこじれる元の一つと言えば一つなので責任を感じてなんとか珠運を立ち直らせようとするのですが、一向にらちがあきません。

そのうち珠運は家の中で黙々と仏を彫り始めました。その姿を見て村の人々はやっと彼も仏師としての自分の仕事に精を出すようになった、と胸をなでおろしたのですが、そうして彼が彫り上げた仏の顔を見てみんなびっくり、その仏の顔は、お辰に瓜二つだったのでした。

そうして自分で彫ったお辰そっくりの仏を見つめながら暮らす珠運に、宿の主もとうとう堪忍袋の緒が切れて珠運に言います。

「珠運さん、あんたいい加減にしなさいよ。いつまでもそうやってもう帰ってこないお辰に恋い焦がれて、なんだと言うんです。あれぐらいの娘は、これから生きていたらいくらでも出会うことができますよ。あなたはお辰に恋をしてるんじゃない、お辰の影法師に恋をしているんだ。実際、この新聞をごらんなさい。お辰はもうすぐ今業平と呼ばれているイケメンの貴族と婚約したそうですよ。ね、お辰は所詮そんな女だったんですよ。眼を覚ましなさい」

しかし珠運は逆に宿の親父に向かって怒ります。親父さん、あんた前と言ってることが違うじゃないか、と。そうして宿の主の手から新聞紙を奪い取って家の中へ引きこもってしまいます。

そうして家の中でその新聞を読んでいると、確かに岩沼子爵の令嬢が貴族と婚約した、と書いてある。

珠運は悶々とします。一体どういうことだ、お辰は自分に気があるんじゃなかったのか。助けてやった時あんなにうれしそうに、自分のことを見つめていたではないか。櫛を彫ってプレゼントした時も頬を染めていたではないか。あれは全部嘘だったのか。俺はあの親父の言うとおり、お辰の影に恋していただけなのか。

くそう、こんな仏、こうして、こうして、こうしてやる! と言いながら珠運は仏の顔を刻んでいきます。そうすると仏は涙を流し、「ああ、そんなことはおやめください、どうしてそんなことをするのです」と言うのです。珠運はその言葉を聞きながら、自ら作った仏を切り刻んでゆくのでした。


と、こういうお話なわけで……すみません、最後まで書いてしまいました(汗)

で、このお話なのですが、古文調で書かれているため現代の私たちにはちょっと読みづらさもあり読み終えるのに時間がかかるのですが、分量としてはかなり少ないのですね。当時の時代の人であれば、恐らく2、3時間で読めたのではないかと。

そう考えるとですよ、そのたった2、3時間の分量の中にもうどれだけ「え? まさか!」の展開が盛り込まれているんだ、と。この物語の構成力たるや、すごいと思うわけです。二転三転どころじゃないですね。七転八倒とはこのことか(絶対違う)。そりゃあ美妙もうなるよね、と。

更に加えてですね、実はこの物語、最後の最後に強烈なオチが用意されているのです。

というわけで、もうここまで書いてしまったのですからこの最後のオチもここでご紹介してしまいましょう。

この作品の最後の章、タイトルは「団円 諸法実相」とあり、こんな風に始まるのです。

「 帰依仏の御利益眼前にあり

 恋に必ず、必ず、感応ありて、一念の誠御心に協い、珠運は自が帰依仏の来迎に辱けなくも拯いとられて、お辰と共に手を携え肩を駢べ優々と雲の上に行きし後には白薔薇香い薫じて吉兵衛を初め一村の老幼芽出度しとさゞめく声は天鼓を撃つ如く、七蔵がゆがみたる耳を貫けば是も我慢の角を落として黒山の鬼窟を出で、発心勇ましく田原と共に左右の御前立ちとなりぬ。」


全部引用するとあれなんで、まあ私が適当に現代語訳すると、だいたいこんな感じになります。

「恋というものは人と人との心の交わりであり、それは人と仏の交わりとも同じようなものです。お辰に強く恋した珠運の思いはそのまま珠運の仏に対する帰依ともつながり、珠運は自ら作った仏に導かれて花漬け売りのお辰と共に天へと昇って行ったのでありました。
 この様子を見て村人たちはみな驚き喜び、天へと昇っていく珠運とお辰という御仏の姿を見てこれを拝んだ者は農民は大収穫、商売人は大繁盛、北は北海道においては鰊が大量にあがり、佐渡でも漁師たちが大漁で大喜び。世間では威張り散らした貴族がその身を落として庶民が大喜びしたのだとか。あれもこれもみんな、この仏様の御利益でございます。
 この風流仏を篤く信仰する者は子孫繁栄家内安全間違いなし。一方でこのめでたき仏様をおざなりにし、イスラム教だのキリスト教だのといった邪教に近づく者には仏の懲罰がくだるであろう! おお、怖しや怖しや」

とまあ、この小説のラスト、こんな感じなんですよね。いや、本当ですよ。嘘じゃないです。

どうです、このオチ。すごくないですか? 

この作者、頭がおかしいんでしょうか?

いやあ、これ、今読んだらこれがあの幸田露伴の作品だから、というのでこの最後は「オチ」だと分かるんですけど、この作品が初めて世に出た時、まだ幸田露伴はデビューしたての新人ですよ。「幸田露伴? 誰やねん」の状態でこれを世に出したわけです。もし私がこの当時生きていてこの作品を読んだら、間違いなく「あ、こいつはヤバい奴だ」のレッテルを貼りますね。

でも今から考えると、実はこのオチこそが幸田露伴のすごさなんです。

というのは、この物語というのは基本的には珠運の視線で描かれてるわけです。主人公は珠運で、作者はこの珠運に寄り添っているのですね。

で、この作品の最後、珠運というのはもう、明らかに頭がおかしくなっているわけです。自分が彫った仏の声が聞こえるくらいに。どこで頭がおかしくなっているかと言えば、私はなんとなくお辰の家に住み始めたあたりから「もうこいつはヤバイ」と思いますが、そう考えるとですね、実はこの作品の最後の方の描写って実は珠運自身の妄想の可能性が高いと思うんですよね。

つまり実際お辰が珠運のことをどう思っていたのかとか、そういうことは本当は分からないわけです。ただ珠運は「お辰も本当は自分と結婚したがっていた」と思っていたし、「そうじゃなかったのか」という彼の独り言だけが書かれているけれど、本当かどうかはわかりません。

ここでですね、あまり上手でない作家だと、最後の最後で「このように珠運は狂ってしまったのである」みたいなことを書いてですね、「や、珠運は狂ってしまいましたが、作者である私は違いますよ。客観的にそれを観察してるんですよ」という態度を取るわけです。

しかし露伴はそうはしないんですね。作中の主人公の気が狂ってしまったのであれば、その視線に寄り添っている作者もまた、最後は狂って見せるべきだ、というのが、多分このかなりヤバいオチの意味だと思うのですよ。

もうね、ここですよ。この幸田露伴という人のすごさは。恐らく当時の読者はこの作品を読んで、この幸田露伴という作者は気が狂っているんだろうと思ったことでしょう。でも、それでいいんです。なぜなら作者というのはあくまでも作品の背後にいるべき存在なのだから。

そこまで作品に寄り添えるということ、この作品のために自分が世間からどう思われてもかまわない、と言えること、これって「作家としての器量」の問題だと思うのですね。その器量がこの幸田露伴という作家にはある。

この、なんですかね、小説というもの、作家である、ということにまさに人生をかけている感じは「舞姫」で己をさらけ出した森鴎外や後の私小説家たち、あるいは坂口安吾太宰治なんかとつながる感じがします。

そういう意味では、幸田露伴という人はある意味日本文学で最初に誕生した本物の作家、と言えるのではないかと私は思うのですね。明治二十年代の作品ってどうしたら戯作から小説になれるのか、ということで言文一致とか客観的視点とかいろんな方法をみんな試しているわけですけど、露伴はもう、戯作者でありながら完全に小説家なんですね。露伴からしたら言文一致も客観的視点もみんな小細工にすぎない。なんていうか、もう、レベルが違うんでしょうね。


と、、うーん、本当はもっと別の話がしたかったのですが、ここまでもう十分すぎるぐらい書いてしまったのでその話はまたいつか別の作品で。

おなじみ幸田露伴著「風流仏」に関する素人講釈でございました。

 

 

風流仏・一口剣 (岩波文庫)

風流仏・一口剣 (岩波文庫)

 

 

ハイファンタジーとスチームパンクとスパイものを足して3で割ったらこうなる話。

 

 

えー、相も変わりません。本日ご紹介したいのは野村亮馬著のコミック作品「インコンニウスの城砦」でございます。著者はアフタヌーンで「キヌ六」や「ベントラーベントラー」などの作品を連載していた方のようですね。(ごめんなさい、私はその辺は未読です)

 

舞台はとある氷に覆われた惑星。この惑星では北半球と南半球に別れて戦争が行われていました。

 

詳しくは描かれていないのですが、恐らくこの惑星はもともと魔術的な文明が栄えていたようなのですね。で、この惑星には人間だけでなく、ドワーフやエルフといった幻想的な人種も共に暮らしているのです。

 

ところが北半球のどこかで人間は科学を生み出し、北半球側の人間たちは科学と魔術を融合させた文明を生み出して、南半球側を駆逐していくのですね。

 

で、元々は南半球側だったものの北半球に占領されてしまった都市インコンニウスに、ある日一人の少年がやってきます。

 

カロという名のこの少年は、南半球側のスパイとしてインコンニウスの軍需工場で働くことになるのです。

 

一方その頃南半球側ではインコンニウスを奪回するための新兵器として自律行動する巨大兵器、戦略巨像(ゴーレム)を開発していました。

 

しかし北半球側もその頃科学技術と魔術を融合させた新兵器の移動城砦(ラクス)を開発していたのです。

 

そうして南半球側のインコンニウス奪回作戦が開始されます。

 

しかしその情報はすでに北半球側に知られており、遠隔操作できる北側の移動城砦54号はこのゴーレムを待ち構えていたのでした……

 


というのがこの物語なわけですが、まあ言うなれば指輪物語スチームパンクにしたらこうなるよ、という話なのでございます。

 

ファンタジーとしてのスチームパンクというのは割とよくあると思うのですね。スチームパンクというのはもともとウィリアム・ギブスンの「ディファレンス・エンジン」がその始まりで、厳密に言うならばスチームパンクというのは19世紀の科学技術でどこまで可能か、ということが本来の趣旨だったのでした。

 

つまりSFというジャンルにおけるスチームパンクというのはなにかとんでもなくすごいものが登場したとしても、それが可能であるという技術的裏付けがちゃんと描かれていなければいけないわけです。

 

まあでも最近のスチームパンク物はあんまりそんな細かいところにはこだわっていないものが多いのですが、こだわる人はそういうものは本来スチームパンクではなくヴィクトリアン・ファンタジーと呼ぶべきだ、という人もいます。私も結構その意見には賛成なのですが。

 

まあそういうわけでですね、スチームパンクものの作品の中には「あ、これはガチのスチームパンク」というのとそうでないのが存在するわけですね。

 

で、例えば以前ご紹介した「スチームオペラ」なんかは割とガチな部類に入るのです。なぜかというとあの作品には宇宙船が登場しますが、19世紀の科学技術では本来不可能であるはずの宇宙船を物語に登場させるためにわざわざ「エーテル」なるものを物語に取り入れているからですね。

 

で、本作もその「割とガチなスチームパンク」の部類に入るわけで、ここで重要になってくるのが「魔術」なわけです。

 

特に北半球側の文明というのは人間中心の文明であるがゆえに科学が基礎となってくるのですね。だから南半球側のゴーレムというのは何で動くのかよく分からないのですが、北半球側の移動城砦というのはなぜ動くのか、ということが重要になってくるのです。

 

この移動城砦が動く仕組みというのがとても面白くて、エンジンにあたる部分の内燃機関で魔術が使われているのですが、この魔術を敢えて不完全にすることによってエンジンで常にエネルギーが発生し、城砦が動く、という仕組みになっている、と。

 

このことは結構この物語において重要な要素なわけですが、もうそんなことを考えている時点で「ああ、もうこの作者そういう話がめっちゃ好きな人だわ」というのがよく分かりますねえ。

 

本書は1巻で完結しているのですが、恐らくこの背後には科学文明と魔術文明に関する詳しい設定があることがうかがえます。

 


まあそういうわけでですね、もう本作が「指輪物語 meets スチームパンク」というだけでもかなり面白いのですが、実はそれに加えてもう一つこの作品の一押しポイントがあるのですねえ。

 

それがなにかというと、本作が「スパイもの」であるということです。

 

そういうやそうだね、と。指輪物語の世界観を描いたファンタジー小説や漫画というのは多くありますが、その世界観でスパイものって、これまでになかったと思うのですが、どうでしょう?

 

ということで、電子書籍で販売されている本作「インコンニウスの城砦」は、スチームパンクが好きな人、ファンタジーが好きな人、スパイものが好きな人にまるっとおすすめの一作なわけでございます。

 

さらにこの三つを足して三で割ったら一体どんなことになっちゃうのか? それは是非、実際に読んで実感していただきたい。

 

そして私は本作をできれば大判の単行本で読みたい! と切に願うのでございます。

 

おなじみ野村亮馬著「インコンニウスの城砦」に関する素人講釈でございました。

「気」の力を体得する方法の話。

 

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)

 

 

えー、本日もまた一席お付き合いいただきたく、本日ご紹介いたします書籍は幸田露伴著「努力論」でございます。

 

努力ですよ、努力。もうタイトルからして汗臭い感じがしますね。まあ本書の内容を一言で言うなら、「努力は大事だよ」ってことで、そう言っちゃえば身もふたもないんですが、皆さん努力してますか? まあ、しなきゃならんのだろうなあとは思っていても、なかなかできないのが努力ですよねえ。

 

露伴先生は言うのです。「努力すればなんとかなるもんだ」と。そんなことを言うとですね、「や、努力しても叶わないことだってあるだろう」と、そうおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。

 

まず最初に露伴先生は言うのですね、努力には二種類ある、と。一つが直接的努力であり、もう一つが間接的努力です。

 

直接的努力というのは、今この瞬間頑張ることですね。で、たいていの人は努力、と言った時にこの直接的努力を思い浮かべるわけです。だから「努力だけでは叶わないこともある」と。確かに、この直接的努力だけではどうにもならないことっていうのが世の中にはたくさんあるわけですね。

 

例えばもし私が「よし、俺は今から大作家となり、傑作をものにするのだ!」と決意したとして、机の前に座ってうんうん必死に頭を絞ったからと言っていわゆる傑作と呼べる小説が書けるか、と言ったら、そうじゃない。

 

というのは、小説を書くために必要な努力というのは「机の前に座ってうんうん必死に頭を絞る」という直接的努力ではないからですね。

 

では小説を書くために必要なことは何かと言えば、それは普段から色んなものやことを見て、聞いて、考えることなわけです。そういう日頃からの習慣としての努力、これが間接的努力なのですね。

 

ということで、日頃から間接的努力をこつこつと行い、そしていざという時にはしっかり直接的努力をすることができれば、まあ大概のことは成し遂げられるよ、と。そういう話なわけです。それで出来なかったら多分それは努力の方向性が間違ってるんだよ、と。

 

まあ、そうなんでしょうねえ。でもそれが私のような凡人には難しいわけですが。

 

しかし露伴先生、ここで言うのです。ここまで述べてきたいわゆる「努力家」は確かに努力家ではあるけれども、二流の努力家にすぎない、と。というのは、「努力」という言葉にはどこか「いやいややってる」「無理矢理やってる」感があって美しくない。露伴先生に言わせれば、「俺、頑張ってるぜ」という自意識があるうちはまだまだ二流の「努力家」なのです。

 

実はもっとすごい一流の「努力家」というのがあってですね、それはどんな人なのかと言うと「努力をしているつもりなく努力している人」なのです。

 

なんかもう禅問答みたいになってきましたね。

 

まあ、言うなれば「好きこそものの上手なれ」というやつですね。こういう一流の努力家はですね、「やるな」と言われてもやるのですね。むしろ人から「ちょっと休みなさい」と言われるような、そういう人が真の努力家なわけです。そういう境地に達したいものですねえ。

 


さて、努力は大事、と言われても、なかなかやる気が出ないのが凡人でございます。一流の努力家の話をされても、ああそんなすごい人もいるのですね、と他人ごとになってしまうものでございましょう。

 

努力をするために必要なことはなんでしょうか。努力、というのは、結局のところ「やる気」の問題なわけですね。つまり「気」なのです。

 

気、気功というとなんだか怪しげな話のように思えますが、なかなかそう捨てたものではないのかもしれません。私たちは普段何気なく「気」という言葉を使っていますが、この「気」とはなんでしょう?

 

「気」というのは、「気が張る」こともあれば「気が弛(ゆる)む」こともあるものです。確かに努力は大切なのだけれど、「気が張り」っぱなしだと精神上よろしくないでしょう。そのことをみんな知っているから、「努力は大事」と言われると、「うげっ」という気分になるわけです。「ずっと気を張っていられるか」という「気分」になるわけですね。

 

そう考えると、上手に努力できる人、というのは、言い換えればこの「気」を上手に扱うことのできる人、ということができるでしょう。

 

この「気」を上手に扱うために必要なこと、それは何よりも健康であることだ、と露伴先生は説きます。「元来心は気を率い、気は血を率い、血は身体を率いる」と。つまり血行を良くすることで気力というものは充実してくるものなのですね。

 

私たちの「気」というのは血行の循環が良ければ自然と張ったり弛んだりするものなのですが、生きていると「今ここで張らねばならない!」という状況が訪れたりもするわけです。で、出来ればそういう時にちゃんと「気を張れる」人になりたいものですよね。そのためにも自分自身にとってちょうどいい「気」の弛緩の具合というものを感じておく必要があるわけです。

 

さて、とは言え実はこの「気」というもの、ただ張ればよいというものではないと露伴先生は言います。というよりも、上手に張ることができればいいのですが、大概の人はそれができない、と。

 

で、多くの人は気を張った時に「散る気」、「凝る気」、「昂る気」、「暴れる気」のどれかになってしまう。

 

「散る気」というのは、「よっしゃー、やるぞー!」と気合を入れたはいいものの、すぐに興味があっちこっちに行ってしまう傾向のことですね。まあ、私なんかがそのモデルケースみたいなものです(汗)

 

逆に「凝る気」というのは、あることのみにこだわりすぎてしまって周りが見えなくなってしまうことです。そういうのもあまり良くない、と。

 

「昂る気」と「暴れる気」も同じようなことで、自分が「気を張る」のはいいのだけれど、それで独善的になってしまう感じですね。誰かを見返してやりたいとか、そういうルサンチマンを原動力にして気を張ると陥りがちなのだとか。

 


まあ、「気」なんて言うと、まるでオカルトのように感じるかもしれません。西洋では精神と身体、という二元論的な考え方が主流ですが、どうなんでしょうね、私はあまり好きじゃないんです。そういういわゆる心理学的な考え方だと、例えば「努力ができない」という人がいたとしたら、もうその人の人格を否定する感じになっちゃうじゃないですか。人間はみんな正直で誠実でまじめ、清廉潔白なのがスタンダードになってしまって、全ての人を均質にしてしまうじゃないですか。

 

でも、精神と身体の間に「気」というわけ分からんものをワンクッション入れて、本書のように「や、それは気の使い方が下手なんでしょうなあ」と言えばですよ、なんとなく努力できない私のような人も救われるわけです。「そっかー、じゃあ仕方ねえな」と思えるじゃないですか。「ああ、俺は気の使い方が下手なんだなあ」と思えばですね、まあ世の中たいていの人は気の使い方が下手なわけですから、変に落ち込むこともないわけですよ。で、改善したいと思うなら改善すればいいわけで。これ、西洋の人が学ぶべき東洋の知だと思うのですよね。

 


最初に述べたように、本書は別に「努力しなくてもいいよ」と言ってる本ではないのです。いわゆる自分が賢いと思っている人によくある「努力とかしなくていいでしょ。効率でしょ。コスパでしょ」という本ではないです。むしろそういう奴はクソだよ、と。豆腐の角に頭ぶつけて死ねばいいのに、と(嘘です。そこまでは言ってません)。

 

でも、だからと言って「お前ら努力しろ! 俺ができるんだからお前にもできる!」みたいなうざい、暑苦しい本でもないです。その辺ちゃんとなんで努力した方がいいのか、どうやったら努力できるのか、懇切丁寧に理屈で説明してくれます。

 

なんていうか、「感情」と「理性」って相反したもののように思えますが、露伴先生に言わせればどっちも大切だよ、と。感情が勝ちすぎる人は熱心なのだけれど筋の通らないことを言うものだし、理性が勝ちすぎる人は合理的であるがゆえに冷淡になる。でもそのどちらにも陥ることなく「努力」という熱い汗臭いテーマを冷静に合理的に語りきった露伴先生という人はやっぱすごいなと思うわけです。

 


ま、とりあえず私が今年に入って最初にした「努力」は、本書を読むことでしたとさ。(難しかったー!)

 

おなじみ幸田露伴著「努力論」に関する素人講釈でございました。

 

 

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)