文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

狭い部屋を出て空を見上げる話。

 

人生に相渉るとは何の謂ぞ

人生に相渉るとは何の謂ぞ

 

 

えー、相も変わりません。本日もまた眉唾物の戯言にお付き合いいただきたいのでございます。

 

本日ご紹介したいのは、北村透谷著「人生に相渉るとは何の謂ぞ」でございます。

 

このタイトル、要するに「人生に役立つかどうかということの何が重要なんですか?」ってことでございます。この評論は明治26年に女学雑誌社が発行していた雑誌「文學界」に掲載されたものです。ちなみに「文學界」は後に「若菜集」に収められる島崎藤村の詩や樋口一葉の小説、田山花袋の小説などが掲載されていたロマン派を牽引する雑誌だったのですね。あ、現在文芸春秋が発行している「文學界」とは全くの別物でございますのでご注意を。

 

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北村透谷

 

さて、この評論の目的は何か、それはずばり山路愛山批判なのでございます。

 

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山路愛山

 

山路愛山の話は実は一番最初に坪内逍遥の「小説神髄」のところでチラッと触れたのですが、この当時人気のあった批評家の一人です。

 

近代文学が誕生した頃、「小説」というものは文学とは呼べるものではありませんでした。小説の中で文学と呼べるものは、政治小説であったり歴史小説であったり経済小説であったり、そういう「役に立つもの」だ、という考えの人が多かったのです。

 

そのような認識を広めていた批評家の一人が山路愛山だったのですね。

 

で、彼は徳富蘇峰が主催し、当時の文学(小説を含む)の先陣を切っていた「國民之友」の記者として同誌上に「史論」という記事を掲載していました。

その中で愛山はこう述べたのです。

 

「文章即ち事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し。共に空を撃つが為めに非ず為す所あるが為也。万の弾丸、千の剣芒、若し世を益せずんば空の空なるのみ。華麗の辞、美妙の文、幾百巻を遺して天地間に止るも、人生に相ひ渉らずんば是も亦空の空なるのみ。文章は事業なるが故に崇むべし、吾人が頼襄を論ずる即ち渠の事業を論ずる也」

 

つまり、文章を書く者は事業として社会的、経済的な影響を与えるものでなくてはならない。なぜならば作家にとって筆は英雄にとっての剣と同じものだからだ。武器を持つ英雄が世のためになる戦をしないことは「空の空」、全く意味がないのと同じように、美辞麗句で彩っただけのくだらない小説を書いたり読んだりすることもまた「空の空」である、と。ゆえに作家はその文章がいかに世間に影響を与えたかどうかがによって評価が決まるのだ。幕末に志士達に大きな影響を与えた頼山陽がその典型である、と述べたわけです。

 

これはつまり、「大切なものは実用的であるかどうかだ」ということになります。「結果がすべてだ」と、そういうことになるでしょう。

 

ということは、作家にとってはその小説を書いて売れましたか? 誰かに影響を与えましたか? ということが大切なことだという話につながるわけです。

 

一方読者にとってはその小説を読んで何か得るところがありましたか? 人生の役に立ちましたか? ということがすべてだと。

 

で、そんな意見に対して透谷ははっきりと「No」をつきつけたのですね。

 

そうじゃないだろう。そんなこと、どうだっていいじゃないかと。そしてそのような価値観は小説に限らずさまざまなものに対する批評眼としておかしいと。

 

まあでも、こういうことって興味ない人にとっては「どっちでもいいじゃない。個人の勝手でしょ」と思うかもしれません。

 

実際山路愛山のように実用性を主張する人たちも、大抵問い詰めていけば最後には「私がどう思うと私の自由だ」とか言い出すものです。

 

しかし忘れてはならないのは、「実用性」なる概念は本質的にそれが自分のためであろうと社会のためであろうと、「公共的であることが正しい」という原理の元に成り立っているということです。

 

そしてよくよく考えれば明らかなことですが、公共性と自由というのは突き詰めればどちらかを選ばなければならなくなる問題なのです。元々両立しないものなのです。その意味で「公共性の正義」に依って立つ「実用性」を主張する人が「自由」を主張すること自体、もう本質的に矛盾しているのですね。

 


なんて、こんな話をしても具体性がないとか抽象論だとか言われそうなので、もうちょっと具体的な話をしていきましょう。

 

本論において透谷は愛山の姿勢や主義を批判しているだけではありません。実際に批評家としての愛山の評価そのものも批判しています。

 

例えば愛山は江戸時代の戯作者として山東京山、柳亭種彦曲亭馬琴を比較し、最も評価されるべきは山東京山である、としています。それはなぜか。その理由は後の研究によって京山は当時の世相や風俗といったことをより克明に、写実的に表現していることが分かっているためです。つまり京山の作品を読めば、この頃の様子がよく分かる。歴史的に価値があるから素晴らしい、と。

 

一方で曲亭馬琴はその内容に歴史的でたらめが多く、馬琴の主観的表現が多すぎるからよくない。種彦においては生まれが庶民でなかったために庶民の暮らしが分かっていないからダメだ、とこう言ったわけです。

 

でも、そうなのでしょうか。なんかおかしいと思いませんか?

 

(ところで、山東京山という戯作者のことをご存知の方ってどれくらいおられるでしょうか。山東京伝なら聞いたことがあるという人も多いでしょうが。その京伝の実弟でございます。誰も知らないだろうけど)

 

もちろん、愛山が個人の趣味として京山が好きだったとして、別にそれに異を唱えるものではないのです。それこそ、そんなの「個人の自由」ですから。

 

この愛山の論のおかしさは、彼が批評に対して必要な「客観性」を勘違いしているところにあると言えるでしょう。

 

おのれの嗜好、趣味、偏見、独断という自分の趣味をさらけだすことと「批評」とは別のものです。そして愛山が浅はかなのは「実用性」なる概念を持ち出すことによっていかにも自分が「客観的」な態度をとっているように振舞いながら、結果としておのれの嗜好、趣味、偏見、独断を披露しているに過ぎない点です。つまり、「なんて客観的な俺w」という自意識過剰な態度そのものが「主観的」であることにご本人が気付いていないところなのです。

 

と言っても、これは当時のことだけに限りません。現代でも愛山と同じような考え方をしている人は山ほどいるでしょう。小説の話だけでなくありとあらゆる分野において、「実用性」なる一語をもって文化を評価し、判断しようとする無粋な輩が。

 


透谷は言います。

 

源頼朝は能く撃てり、然れども其の撃ちたるところは速かに去れり、彼は一個の大戦士なれども、彼の戦塲は実に限ある戦塲にてありし、西行も能く撃てり、シヱクスピーアも能く撃てり、ウオーヅオルスも能く撃てり、曲亭馬琴も能く撃てり、是等の諸輩も大戦士なり、而して前者と相異なる所以は前者の如く直接の敵を目掛けて限ある戦塲に戦はず、換言すれば天地の限なきミステリーを目掛けて撃ちたるが故に、愛山生には空の空を撃ちたりと言はれんも、空の空の空を撃ちて、星にまで達せんとせしにあるのみ。行いて頼朝の墓を鎌倉山に開きて見よ、彼が言はんと欲するところ何事ぞ。来りて西行の姿を「山家集」の上に見よ。孰れか能く言ひ、執れか能く言はざる」

 

まあ、そもそも世の中に大きな事業を残した人が偉いと言うなら、それこそ小説家のように文化に従事するよりも、政治や経済に従事した方がそれこそずっと「実用的」であるでしょう。「実用性ある小説が是か非か」と言う以前に、もう「小説」そのものが「非実用的」なものなのだから、そこにこだわる人はそもそも読まなきゃいいだけの話です。で、読むのなら「実用性云々」を口にすること自体がもう間違っている。

 

透谷は言います。例えば源頼朝という人は一大事業を成し遂げた人だけれど、後世の私たちは彼から一体何を得ることができるのか、と。子分を集めてどこかの僻地から政府の転覆を狙うとか?

 

その一方で西行という人はその時代においては何の「実用性」もなかった人かもしれない。シェークスピアしかり、ワーズワースしかり。しかし後世の私たちは彼らの残した書物に触れ、そこから何かを得ることができる。得ようとする意思のある者であるならば。

 

それはなぜか。それは彼らが愛山の言う「空の空を撃ちたり」し者たちだったからだと。「実用性」や「有用性」は結局今現在だけ「役に立つ」のだけれど、「空の空の空を撃ちて、星にまで達せんとせし」者の言葉は時間を越える「普遍性」があるのだと。

 

「小説なんて読んで何か役に立つですかぁ?」という輩には、こう言ってやればよい。「じゃあ、読むなよ」と。読まなくても死なないよ。

 

そうしてあんたは生きている間にたくさん金を儲け、たくさんの女(あるいは男)を抱き、たくさんの美味い飯を食い、生きている間の自分の欲を存分に満たして死ねばよい。どうせ死んだとて死後の世界があるわけじゃなし。死後に名前を遺したとてそのことを自分自身が知りえて満足できるわけでもなし。

 

(もちろん、「実用的」なものが小説のような芸術作品において必要になる場合がまったくないわけではありません。例えば既に作家なり絵描きなりを職業としており、それだけでどうしても食べて生きたい! という人にとって「実用的」な戦略はマーケティングの一つとして有用でしょう。なんだかんだ言っても私たちは霞を食べて生きることはできないのだから。

 

でも、優れたマーケティングによって到達するのはあくまでも「優れた商品」であり、決して「優れた作品」ではないわけです。で、この世界に「優れた商品」だけがあって「優れた作品」なんて存在しなくてもいい、という人は、まあそういう世界にいればよいのでしょう)

 

「自然は吾人に服従を命ずるものなり、「力」としての自然は、吾人を暴圧することを憚からざるものなり、「誘惑」を向け、「慾情」を向け、「空想」を向け、吾人をして殆ど孤城落日の地位に立たしむるを好むものなり、而して吾人は或る度までは必らず服従せざるべからざる「運命」、然り、悲しき「運命」に包まれてあるなり」

 

ただ、なんでしょうね。人は霞を食って生きていくわけにはいかないという事実、それが事実だということなんて、みんな知っているわけです。所詮私たちなんて単なる物質の塊にしかすぎないのですから。どれだけ長生きしても100年とちょっとの時間しか所有していないのですから。でもそれを認めることは、私たち自身を一人の「人間」から単なる「数字」「記号」へと変換してしまうでしょう。

 

そのことを「空しい」「悲しい」と感じるところから「小説」なり「芸術」というのは始まるような、そんな気がするのです。

 

私はね、正直なところ、別にいいと思ってるんですよ、現実主義者や唯物論者でも。もしもその人が赤の他人だけでなく自分自身や自分の家族も「数字」や「記号」と認識できるのでしたら。でもそんな人、見たことないですけどね。そういう人はみんな、周りはすべて「物質」に過ぎないのに、なぜかご自分だけが「物質」ではないと思っていらっしゃる。「なんて客観的な俺w」という己の姿を鏡に映して見れる人なんて、見たことないわけです。「なんて客観的な俺w」と思いたいなら、まずはお前自身がただの「数字」や「記号」や「物質」にすぎないと認識せよ。

 

「彼は狭少なる家屋の中に物質的論客と共に坐を同くして、泰平を歌はんとす。歌へ、汝が泰平の歌を。
 然れども斯の如き狭屋の中には、味もなき「義務」双翼を張りて、極めて得意になるなり。剛健なる「意志」其の脚を失ひて、幽霊に化するなり。訳もなき「利他主義」は荘厳なる黄金仏となりて、礼拝せらるゝなり。「事業」といふ匠工は唯一の甚五郎になるなり、「快楽」といふ食卓は最良の哲学者になるなり。ペダントリーといふ巨人は、屋根裡に突き上るほどの英雄になるなり。凡ての霊性的生命は此処を辞して去るべし。人間を悉く木石の偶像とならしむるに屈竟の社殿は、この狭屋なるべし。この狭屋の内には、菅公は失敗せる経世家、桃青は意気地なき遁世家、馬琴は些々たる非写実文人西行は無慾の閑人となりて、白石の如き、山陽の如き、足利尊氏の如き、仰向すべきは是等の事業家の外なきに至らんこと必せり。」

 

透谷は言います。「実用性」という狭い部屋の中の法則に安寧する者はすればよいと。「歌へ、汝が泰平の歌を」と。

 

そうやって「現実」という狭い部屋の中に閉じこもって楽しく暮らせばよい。自分の部屋の中に閉じこもっていれば、本当の「現実」は見なくてもすむだろうから。

 


しかし、本論の最後で透谷はこう述べるのです。

 

「頭をもたげよ、而して視よ、而して求めよ、高遠なる虚想を以て、真に広濶なる家屋、真に快美なる境地、真に雄大なる事業を視よ、而して求めよ、爾の Longing を空際に投げよ、空際より、爾が人間に為すべきの天職を捉り来れ、嗚呼文士、何すれぞ局促として人生に相渉るを之れ求めむ」

 

そうでない者は狭い部屋を出て、空を見上げよ。その空の向こうにあるものを見よ、と。

 


坪内逍遥は「小説神髄」によって「芸術たる小説」の狼煙を上げました。

 

そして北村透谷による本論と次回ご紹介する「内部生命論」によって、「芸術たる小説」はさらに一歩前へ進むこととなります。

 

それは正に山路愛山が主張したような「実用性第一主義」からの小説の魂の解放と呼べるものでした。

 

とは言え、そのことによって「芸術」とは何か、「小説」とは何かといったことの「答え」が用意されたわけではありません。

 

逍遥も透谷も、確かにただ己の「小説観」を述べただけに過ぎないのかもしれない。

 

ただ重要なのは、この二人の「小説観」をきっかけに、「小説」や「文学」というものは一体何か、あるいは「芸術」とは何かということを多くの作家が考え、実行していくことになるということです。それは今も続いている。

だから私たちはこう主張することができましょう。

 

「小説」や「文学」や「芸術」とは何かという問いに対して、普遍的な答えなど存在しない。

 

むしろ「普遍的な答えは存在しない」ことこそが「普遍的な答え」であると。

 

そのことに何の意味も感じない人、そんなものはくだらない禅問答に過ぎないと思う人は、どうぞあなたの狭い部屋へお帰りなさい。そこにはきっと、計算されて定義された「あなたの小説観」なるものがあるのでしょうから。

 

歌へ、汝が泰平の歌を。

 


次回、北村透谷の話最終章「内部生命論」へ続く!!

 


おなじみ北村透谷著「人生に相渉るとは何の謂ぞ」に関する素人講釈でございました。

 

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ちなみに山路愛山はこの評論がきっかけで「俗物」というあだ名が付けられましたとさw

 

 

人生に相渉るとは何の謂ぞ

人生に相渉るとは何の謂ぞ

 

 

尾崎紅葉と幸田露伴をまとめてぶった斬った若手評論家の話。

 

「伽羅枕」及び「新葉末集」

「伽羅枕」及び「新葉末集」

 

えー、相も変わりません。本日もまた馬鹿馬鹿しい話を一席。

 

本日ご紹介したいのは、北村透谷著「「伽羅枕」及び「新葉末集」」でございます。

 

本書が一体どういうものか、一言で言えば、尾崎紅葉が上梓した「伽羅枕」と幸田露伴が上梓した「新葉末集」についての北村透谷の批評でございます(当時25歳)。で、この2作品を取り上げながら尾崎紅葉幸田露伴という当時絶大な人気を誇っていた2作家の作家性を浮き彫りにし、しかも、その上でこの二人をぶった斬るというものなのでございます。

 

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北村透谷

 

いいですねー。わくわくしますねー。まあ、今で言うならば若手の評論家が伊坂幸太郎米澤穂信をぶった斬るみたいな感じでしょうか。誰かやらないですかねー、そういうこと。やらないだろうなあ。

 

というわけで、また例によって具体的な内容を紹介していきましょう。

 

まず透谷は言うのですね。「伽羅枕」と「新葉末集」を読んでみたのだけれど、この2作品はどうも似ている、と。

 

で、彼は言うのです。そもそも尾崎紅葉という作家の魅力は何か。それは美辞麗句を用いた情景描写の巧みさであり、また物語の構成力だ(写実性)、と。一方幸田露伴のすごいところはどこかと言えば、それはアイデアの奇抜さとその状況下で揺れ動く人間の心情を巧みに描いていることだ、と(理想性)。

 

つまり写実性が持ち味の紅葉と理想性が持ち味の露伴は、ともに擬古典主義として江戸時代の戯作からの大衆文学の流れを引き継いでいるということと、売れっ子作家であるという共通点はあるものの、作家性という面から見ると全く違う特質を持っているのです。

 

映画に例えれば、アクション映画が得意な紅葉と、ヒューマンドラマが得意な露伴といった感じでしょうか。

 

まあね、ここまでは透谷は別にこの二人をまだぶった斬ってはおりません。むしろこの二人を褒めているとも言えます。

 

しかーし! この後でございます。

 

この二人の作風がなぜか似通ってきている。それはなぜか?

 

透谷は言うのでした。

 

ああ、なるほど。その理由が分かったぞ。その理由とは……


お前ら二人とも、古臭いんじゃーーー!!


バサッ! ウギャーッッッ!!

 


なーんて、ま、それは冗談としても、透谷は二人の作風が似てきている原因は、どうもこの二人の女性の描き方、あるいは女性観というものが似ているからではないかというのですね。紅葉にしろ露伴にしろ、小説の中に登場する女性はみなどこか前時代的で、因習に従う女性なのです。

 

しかし北村透谷という人はもう、バリバリの浪漫主義者なのですね。「厭世詩家と女性」という恋愛至上主義を表明した評論を雑誌に投稿しているほどなのです。人生に必要なものとは何か、それは愛だ! とか、本気で思っている人なのです。ゆえに人生の目的とは何かと尋ねられれば、それは恋愛の成就であると、本気でそう思っている人なわけです。

 

そしてこれからはもうそういう時代になると。男はもちろんのこと、これからは女性だって自由恋愛をするようになる。

 

まあ実際、前回ご紹介した「藪の鶯」でもそういった女性が描かれていたわけで、これはあながち透谷の妄想や願望に過ぎないとも言い切れない部分があると思います。最初にそのように変わりつつある時代があり、透谷はそれをポジティブに受け入れる立場だった、ということでしょう。

 

とは言ってもね、別に透谷は自らが自由恋愛至上主義者だから紅葉と露伴を批判したわけではないのです。だとしたら本当につまらない。

 

そうではなく、透谷が本論で主張しているのは、紅葉と露伴が実際にどのような女性観を持っていたとしても、彼らのスタイルというものが時代に即した女性像を描くことを不可能にしている、という話なのです。

 

透谷は言うのです。なあ、紅葉さんよ。あんたの魅力は物語の展開を重視することにあるんじゃないのか。それが「伽羅枕」ではどうだ。大どんでん返しの展開がしたいばっかりに、主人公の女性のキャラが前半と後半で変わってしまってるじゃないか、と。

 

一方で露伴にはこう言うのです。なあ、露伴さんよ。あんたの持ち味は奇抜な状況の中で生きる人間の悩みや苦しみ、それに負けない根性を描き出すところにあるんじゃないのか。「風流仏」なんて正にそうだったじゃないか。それが今はどうだ。写実的に描こうとするばっかりにキャラクターが類型化してしまってちっとも感情移入できやしない、と。

 

なんで二人ともこうなってしまったのか、それは二人とも自分たちのスタイルに捕らわれすぎていて、今現在の時代を生きる人間を描写できていないからだ、と。紅葉は物語の展開を重視するがゆえに、露伴は状況の奇抜さを重視するがゆえに、本来描かれるべきである登場人物がかつて江戸時代の戯作で描かれていたような類型的な人物になっているんだ、と。

 

違うだろう、あんたたちが「擬古典主義」なのはあくまでもそのスタイルであって、その物語の中に登場する人物たちは「現代的」でなきゃ、現代で「擬古典主義」をやる意味がないじゃないか、と。

 

この時代に求められていたもの、それはなんと言っても「新しい小説」なわけです。「新しい時代」を小説という形に描写することが大切なのだと、そういう通念があった時代です。

 

しかし彼らは自らの得意とするそれぞれのスタイルによって、そしてそれが受け入れられたことに安住することによってむしろ時代から取り残される運命にある、と透谷は指摘したのでした。それは主観の押し付けなんかではなく、両作家の作風や特質をしっかりと分析し、同時に時代というものもしっかり見据えた上での結論だったのです。

 

まあそうでなくても紅葉と露伴は今で言う大衆作家なわけですから、時代に逆らったものを書くことはできないでしょう。時代が変わろうとしていて、人々の認識も変化しようとしているのに作家がそれに対応できないとしたら……大変なことですね。

 

紅葉さんに露伴さん、あんたらは確かに今は時代の寵児かもしれない。でもあんたたち、今のお得意のスタイルにあぐらかいてると次第に時代から見捨てられるぜ、と、売れっ子の人気作家二人に対して警告しているのですねえ、若干25歳の若造が。やるじゃない。

 

まあ実際この北村透谷の登場を皮切りに、数年後には島崎藤村の「若菜集」や与謝野晶子の「みだれ髪」などを筆頭とした浪漫主義ブームというのが訪れるわけです。

 

だからほんとにこの指摘は的外れではなかった。

 

もしかしたら紅葉も露伴も、この批評を読んで「うわ、痛いところを突かれたな」と思ったかもしれません。

 

特にこの後、尾崎紅葉は代表作となる「金色夜叉」を発表しますが、これは正に当時の現代女性の心理を描写した作品となるわけですからねえ。しっかり指摘を受け止めている証ではないかと。

 


やー、ほんとね、この北村透谷という人はいいんですよねえ。もっとメジャーになってもいい人だと思うのですが。

 

というわけで、そんな新進気鋭の若手評論家北村透谷の話、もうしばらく続きます。

 


おなじみ北村透谷著「「伽羅枕」及び「新葉末集」」に関する素人講釈でございました。

 

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尾崎紅葉

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幸田露伴

 

 

「伽羅枕」及び「新葉末集」

「伽羅枕」及び「新葉末集」

 

 

伝統と誇りある我らがニッポンは、アメリカ様の支配下にある話。

 

アメリカ様 (ちくま学芸文庫)

アメリカ様 (ちくま学芸文庫)

 

 

えー。相も変わりません。本日もまたくだらない話にお付き合いいただきたいわけでございます。

 

本日ご紹介するのは、宮武外骨著「アメリカ様」でございます。この本がどういう本かと申しますと、「ザ・自虐史観☆(キラーン)」とも呼ぶべき一冊。気骨のジャーナリストであった著者が敗戦の翌年に戦前の日本を支配していた軍閥やそれを後押ししていた官僚、マスコミ連中をとにかく曝しあげ、そして代わりに支配者となったアメリカ様を褒めまくることで当時の世相もまた馬鹿にしまくったという一冊なのでございます。

 

というわけでどのような内容なのか、ちょっと引用してみましょう。

 

「戦争が終わり、日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました。皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は未来へと命をつなぐことができました。
そして米国は、日本が戦後再び、国際社会へと復帰する道を開いてくれた。米国のリーダーシップの下、自由世界の一員として、私たちは平和と繁栄を享受することができました。」

 

……あ、間違えました。これは本書の内容ではなく、2016年、真珠湾での安倍晋三総理大臣のスピーチでございました。いやー、びっくりした。あんまりアメリカ様を礼賛しているものだからつい間違えちゃった。

 

早く押し付け憲法を排して自主憲法を制定し、戦後レジームから脱却しなきゃいけないところ、けしからん間違いを犯してしまって本当に申し訳ございません。

 

えー、気を取り直して、改めて

 

「誠に奇な因縁と感ずるのは、我が日本と阿米利加国との関係である。封建制度徳川幕府が倒れて明治維新の政府が建設されるに到ったのは、その前嘉永年間にアメリカより使節ペルリが浦賀へ来たのがモトで、鎖国攘夷が開港に変じた結果、西洋諸国の文明を輸入しておおいに開化ぶることになったのである。それが近頃さらにアメリカよりマックァーサー元帥が我が国に押込んで来たのが、破天荒の無血革命、軍閥の全滅、官僚の没落、財閥の屛息、やがて民主的平和政府、開闢以来の最大御維新、勿怪の国勢となったのである。これ思えば、アメリカ様は日本国民一同が揃って感謝礼拝すべき大恩恵国ではないか。南無アメリカ様。」

 

というわけで、ほら、どうせ大して変わらないから別にいいじゃん。(いいのか)

 

ちなみに本書において著者は自らを「半米人」であると申しております。あ、でもこれは半アメリカ人というわけではございません。著者は本書執筆時80歳であり、米寿である88歳まであと「八」足りないと。そういうわけで米が半分足らないので「半米人」でございます。

 

とにかくこの宮武外骨という人は、言いたいことを言う人であり、戦前から多くの雑誌や新聞を発行しては発禁をくらうということを繰り返していたのでございました。

 

とりわけ有名なのは大日本帝国憲法が発布された明治22年、「頓智協会雑誌」に掲載した「頓智研法発布式」でございましょう。大日本帝国憲法の発布を受けて世間で絵葉書が出回るなど大人気だったため、それをパロディにした記事を雑誌に掲載したのでありました。

 

内容は「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」をもじって「第一條、大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」としたなどで、骸骨が憲法を発布している絵を雑誌に載せたところ、これが不敬罪にあたるとして禁固3年の刑を受けたのでございます。

 

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明治天皇を骸骨になぞらえるとはけしからん! というわけですね。しかしこの戦前に存在した「不敬罪」なるもの、本当におかしな法律でございます。そもそも天皇ご自身がこの絵を見て「こ奴はけしからん。不敬である。捕縛せよ」などとおっしゃったわけでもございますまい。当時の警察なり裁判官が勝手に天皇陛下のご意向を「忖度」し、著者に罪をおっかぶせたわけでございます。

 

まあこの宮武外骨なる人、もしも現在に生きていてTwitterなんぞやっていたら何度も大炎上しているに違いありません。

 

しかし私は思うのですが、戦前の「不敬罪」にあたるようなもの、現在にもあるようで。何かと言うと「正論」をふりかざして「けしからん!」と怒る人、あれは一体何なのでしょうか。一体誰の気持ちを「忖度」しておられるのか。

 

とりわけ最近では「政治」や「マスコミ」に対して、何か高邁な理想を抱いている人が多いような気がするわけです。

 

でも政治家なんて本来欲にまみれた人しかなろうとは思わんもんですし、マスコミなんて本来単なる野次馬根性の表れでしかないでしょう。

 

それをなんだか「政治家とはこうあるべき!」「マスコミはこうあるべき!」なんて思い込んでいる人は、その生真面目な性分を振り回してそのうち「国民はこうあるべき!」なんてことも言い出すんじゃないかと。もう、そうなると「不敬罪」まであと一歩です。

 

そう考えると戦前であれ戦後であれ、日本人というものは実は何も変わってなどいないのでしょう。それこそ著者が暗に指摘しているように、「天皇陛下」が「アメリカ様」に変わっただけで、いやもっとその前にさかのぼれば、そもそも「将軍様」が「天皇陛下」になり、今は「アメリカ様」になっているだけでございます。

 

で、「虎の威を借るなんとやら」どもが勝手に支配者様のご意向を忖度してデカイ面してのさばっているのが有史以来の伝統と誇りある我らがニッポンの姿でございましょう。

 

まあこういうことを言うと、どこかのお稲荷様から「自虐史観だ!」などと言われたり、あるいは逆に別のお稲荷様から「封建主義者だ!」などと言われたりするのでしょうか。あるいは「アナーキスト」?

 

……まあいいや。そんなことどうでも。

 


で、そんなアメリカ様を礼賛した本書なのですが、ここまでアメリカ様を持ち上げているにもかかわらず、本書は発行時にGHQによる検閲を受けて一部削除を命ぜられてしまいました。

 

それはこんな部分でございます。

 

「世相の反映で近頃は盗人が多くなり、小ドロボウは無数に殖え、人間の過半が盗人になったらしいが、その中で前例にもなく多いのは、持兇器強盗である。単独ではやり得ないのか三人組、八人組、十人組など集団式の強盗が続出である。どうして斯様に強盗が多いのか。こればかりはアメリカ様のお陰だとも云えないが、進駐軍人が来て以来のことだから、何らかの刺戟によるものらしいと思う。それは兎に角、昔の強盗は三十歳以上、四十歳、五十歳の者であり、体躯も頑丈で、いわゆる雲突くばかりの大男というのが強盗の本格であった、しかるに近頃の強盗は、新聞紙の記事によると概ね二十二、三歳、中には十幾歳の者もあり、若い女が集団に加わっているのもあった。その写真を見ると、いずれも可憐の青少年ばかり。変れば変る世の中だなあと半米人の老人は只々嘆息のほかなしである。
 この事象の原因は色々であり、要は戦時の政治経済教育の頽廃に帰するが、主な点は食糧の欠乏。米は不足、酒なく菓子なし、料理屋へも行けずであるのに、一方では贅沢にくらす者がある。そこで若盛りの者が「エヘ、ままよ、太く短く」という悪念を起す結果である」

 

というわけで、これの一体どこがアメリカ様のお気に触ったのか、恐らく「進駐軍人が来て以来のことだから」という一文なのでございましょう。たったそれだけで引用した文章全部削除でございます。

 

いやはや恐ろしいかな権力。戦前の日本であれアメリカ様であれ、あまり大差ないのかもしれません。実際著者もこのとき、「なんだ、自由の国といっても(戦前の日本と)変らないじゃないか」と落胆したそうです。

 

まあそういうわけで、現在では特に「自尊自立」とか「凛とした態度」なんていうのが一部の人の間でとても人気があるようですが、自虐史観に染まった私などが見ると、「本当にそんなことできるんですかね、私たち日本人が」と思うわけでございます。

 

梶井基次郎丸善檸檬ではありませんが、「日本礼賛本」にあふれ返った書店の棚に本書をこっそり置いていってやろうか……なーんてね。

 

ま、そんな小さなテロですら、とても怖くてできない小市民の私でございますよ。あなかしこ。


お馴染み宮武外骨著「アメリカ様」に関する素人講釈でございました。

 

アメリカ様 (ちくま学芸文庫)

アメリカ様 (ちくま学芸文庫)

 

 

日本初の女性近代文学作家の話。

 

藪の鶯

藪の鶯

 

 

講釈垂れさせていただきます。

 

いきなりですが皆様、三宅花圃という女性をご存知でしょうか? 何を隠そうこの人、日本女性初の近代文学作家なのでございます。

 

今回ご紹介する作品「藪の鶯」が出版されたのは明治21年のこと、坪内逍遥の「小説神髄」「当世書生気質」から2年後、二葉亭四迷の「浮雲」、山田美妙の「武蔵野」の翌年になります。

 

近代文学の中でも明治期になると女性作家って樋口一葉ぐらいしか思い浮かばないという人も多いかもしれませんが、やー、日本の女性はすごいですよね。女性解放運動なんかのずっと以前にもう女性作家が誕生しているわけです。

 

で、本書がどのような物語なのかというと、4人の女学生の物語でございます。内容は、ほとんどあってないようなもので、ある意味今で言う「日常系」ですかね、明治の時代に現れた4人の若くて新しい女性の模様を、坪内逍遥の「当世書生気質」と同じように写実的に描いています。

 

それもそのはず、そもそも著者の三宅花圃さんは「当世書生気質」を読んで「あ、これなら私にも書ける」と思って書いたのだそうです。で、出版の際にはなんと坪内逍遥本人が校正してくれたとのこと。ほんとこの頃の逍遥は若手の発掘に力を発揮してますよね。

 

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三宅花圃

 

関係ないですがちょうどこの頃同じく「当世書生気質」を読んで「あ、これは俺にはとても書けない」と思ったのが尾崎紅葉だったわけです。そういうこと素直に言っちゃうところ、嫌いじゃないんですけどね。(あれ、「浮雲」だったかも。どっちか忘れました)

 

で、せっかくなので著者の三宅花圃という人がどういう女性だったのかと言うと、本名は田辺竜子、元々父親江戸幕府幕臣という名門士族で、10歳の頃から中島歌子の元に通って和歌を学ぶといった才女だったそうです。(中島歌子と言えば知っている方も多いでしょうが、同門に樋口一葉がいるわけですね。彼女は三宅花圃の後輩にあたるわけで、彼女がデビューする際には三宅花圃がずいぶん力を尽くしたと言われています。)

 

ところがまあ、こういう時期ですから、両親が没落してしまったと。で、亡き兄の法要をするお金すらない、ということで「じゃ、いっちょ小説書いて儲けますか」ってことで書かれたのがこの作品です。なんかすごいですね。

 


というわけで作品の内容に話を戻しますと、主な登場人物は二人の女性で、一人は篠原浜子という薩摩藩父親の元に生まれた娘。この人の父親は江戸時代には「尊皇攘夷だ!」と声高に叫んでいたにもかかわらず時代が変わるところっと態度を豹変し、暮らし方から何から西洋至上主義になったのです。で、その娘である浜子もその影響を大いに受けて毎夜鹿鳴館へ繰り出してはダンスを踊ったりして気楽にすごしています。文明開化を満喫しているんですね。

 

もう一人の重要人物が松島秀子という女性。この人も生まれは士族なのですが両親が相次いで他界してしまったため、暮らしが貧しくなってしまいます。元々は浜子と同級生で真面目な女性だったのですが、今では学校を辞めて内職をしながら弟を学校に通わせているのです。

 

で、まあそういう時代ですから、士族や家族の息子たちと言うのは学校を卒業すると西洋に洋行するわけです。そうして帰ってくると彼らには政府の要職たる官人のポストが用意されている。上手に時勢に乗るような輩というのは学校に行ってもろくに勉強するわけでもなく、毎日遊び呆けて学校を卒業したらまんまと官人のポストに滑り込み、高い給料を得ていると。そんな様子が描かれています。いつの時代もそんなものですね。

 

そんな世渡りの上手い男の一人が山中という男で、学内での評判は良くなかったのだけれど同輩の誰よりも出世している。

 

で、浜子には勤という許婚がいまして、この勤も学校を卒業して西洋に留学したのですが、多くの人と違い彼は西洋主義になることなくむしろ西洋には優れたところもあればそうでないところもあると、そんな風なしっかりした考えを持っているんですね。

 

勤は帰国後浜子と結婚するはずだったのだけれど、嫌だと。浜子の方も自分と意見が合わないから嫌だと。

 

そこに折も折浜子と山中の結婚話が浮上して、ああよかったよかったと思ったのも束の間、浜子は山中に裏切られて逃げられてしまうのです。

 

で、勤の方は浜子よりもずっと堅実な考え方を持った秀子と結婚することになりましたとさ、という、そんなお話なんですね。

 

まあ、西洋気取りの新しい女が痛い目にあって、昔ながらのしっかりしたお嬢さん(実はどう考えてもモデルは著者)が幸せになって読者もみんな「やっぱそうでなきゃいけないよな!」と拍手喝采、みたいな感じですね。

 


この小説は一般的に「楽天的な写実主義」だと言われています。確かに、実際読んでみるとこの小説には「煩悶」する様子がどこにもないのですね。登場人物がみんなとてもあっけらかんとしている。

 

で、このことに注目してみると、実はそれって「当世書生気質」も同じなんですよね。あの作品にも「煩悶」はない。

 

じゃあ文学作品に「煩悶」が描かれたのはいつからかと言うと、それは二葉亭四迷の「浮雲」になるわけです。

 

ここでちょっと面白いのが、以前私は坪内逍遥の話をした際に彼が「小説神髄」で打ち出したのは「芸術主義」と「写実主義」だと申しました。

 

坪内逍遥のこの頃すごかったところって実はこのことで、もし彼が「小説神髄」で打ち出したのがどっちか一つであったなら、多分「近代文学」なるものは誕生していなかったと思うんですよね。

 

ここで彼が「芸術主義」と「写実主義」の両方を打ち出したからこそ、その後の作家たちは「文学とは何か」というテーマを考えることができたのです。

 

例えば二葉亭四迷という人は、「浮雲」を書いて逍遥を乗り越えたわけですが、彼がなぜ小説家として逍遥よりも優れているかと言えば、それは彼が「浮雲」において主人公の心の内面を描写したからなんです。そしてその流れを森鴎外も受け継ぐことになる。

 

小説神髄」で「芸術主義」と「写実主義」を打ち出した逍遥の中では「芸術であること」と「写実的であること」は不可分なものだったのですね。それをそのまま受け継いだのが山田美妙であり、また本書の作者である三宅花圃だったわけです。あとは尾崎紅葉らの硯友社も実はそうです。

 

でもその一方で「や、芸術的であるためには写実的でなくてもいいんじゃね?」と言い出したのが二葉亭四迷であり、森鴎外だったわけですね。

 

まあそう考えるとですよ、以前私は「逍遥派」と「鴎外派」を無理やり分けてこの頃の文学を語りましたが、実際にはもっとぐちゃっとしてるんですよね。

 

前は「自然主義」と「浪漫主義」で分けましたけど、「心情描写は是か非か」という視点でもう一回捉えなおしたら、逍遥の一派につながるのは三宅花圃、山田美妙、尾崎紅葉の次は永井荷風谷崎潤一郎横光利一川端康成と続き、坂口安吾太宰治なんかに至るわけです。この人たちは、ちょっと極端に言えば「登場人物の心理とかどうでもいいんだよ、話が面白ければそれでいいんだよ」という人たちです。だから文学嫌いな人もこういう人たちの作品は楽しく読めると思うんですよね。

 

一方で「いや、心情を描くことが大事だ。ここがリアルだったらぶっちゃけ話の筋とかどうでもいいし!」というのが二葉亭四迷に始まり田山花袋とか島崎藤村といった自然主義につながり、私小説へと発展してゆくわけです。面白い面白くないというのは主観や嗜好の問題なのであれですけど、まあ理屈的にはこういう人たちが出てくるのも道理に適ってるんですよね。

 

ただ声を大にして言いたいのは「私小説こそが文学!」なんて思ってた作家は文学史の中でも数えるほどしかいませんからね。自然主義者のほかには後期志賀直哉とそれに追随する一派ぐらいのもんなんで。なんか誤解してる人多いですけど。

 

ま、この辺の話って後の「自然主義」やあるいは芥川と谷崎が論争したと言われている(本当は論争でもなんでもないんだけれど)「筋なし論争」とかの時に話すとして……

 


おや、なんか話がだいぶずれてしまったぞ(汗)

 

あとこの作品が楽天的である理由としてよく言われているのは、時代的な問題です。逍遥にしろ三宅花圃にしろ硯友社の面々にしろ、やっぱり活躍した時代がよかったんですね。

 

「文明開化」とか言って近代化や西洋化することがただ素晴らしいみたいな風潮があったわけです。実際には世の中に何のリスクも犠牲もなく成し遂げられることなんてないのだけれど、まだそういうことが表面化する前の時代だったのです。

 

その意味でやっぱ漱石はすごいんですよね。日露戦争に勝ったはずなのにあれ? ってみんながなったところで「こゝろ」ですからね。

 

ま、こういうのを読んでいるとほんといつの時代も人間って変わらんなーと思いますよね。今はこの頃とは真逆で「うちこそが保守です! 高度経済成長をもう一度!」って言えば右も左も猫も杓子も拍手喝采ですからね。景気よかったことしか覚えていなくて、水俣病とかイタイイタイ病とか光化学スモッグとか、みんな忘れちゃったんでしょうね。そんなもんですね。

 

そういうわけで、本書は明治初期の社会の様子を上手に表現された作品ですが、同時にここに描かれていることはいつの時代も変わらない人間模様なのです。多分逍遥が「写実主義」を押し出したのも、そういうことを考えていたからなんじゃないかな、と思うわけです。


とまあ、なんか話があっち行ったりこっち行ったりでぐちゃぐちゃになりましたが、お馴染み三宅花圃著「藪の鶯」に関する素人講釈でございました。

 

 

藪の鶯

藪の鶯

 

 

ただのラノベでもファンタジーでもない、しっかり芯の通った話。

 

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

 

 
えー、相も変わりません。本日も眉唾物の講釈にお付き合いいただきたいのでございます。

 

本日ご紹介するのは、ケヴィン・ハーン著「鉄の魔道僧1 神々の秘剣」でございます。

 

物語の主人公の名前はアティカス・オサリバン。彼はアメリカのフロリダでオカルト本や怪しいハーブを売る店を経営しています。

 

一見ただのちょっと危ない若者に見えるこの男、年齢を尋ねられたら「21」と答えますが、この「21」とは実は21歳という意味ではありません。実は彼、2100年前から生き続けているドルイドケルト神話に出てくる魔法使い。「指輪物語」のガンダルフのようなもの)だったのです。

 

では一体なぜ2100歳のドルイドが現代まで生き続けていて、しかもケルト神話の舞台であるアイルランドではなく現代のアメリカにいるのか。それにはちょっとしたわけがあるのですね。

 

というのは彼、2世紀頃に実在したと言われているアイルランドの王「百戦のコン」の軍隊とゲール人とスペイン人からなるモー・ヌアダの軍隊との戦いである「マグ・レイナの戦い」に参加していたのですが、その戦いの中でコンが所有していた伝説の剣である「フラガラッハ」を入手したのです。

 

アティカスは考えます。そもそも一体この戦は何なのだろう。もしコンがこの伝説の剣を持っていなければ、彼はモー・ヌアダを攻撃しようとは思わなかったはずだ。そしてこの剣をコンに与えたのは、ダーナ神族の長腕であるルーだ。ダーナ神族はそうすることで間接的に人間社会に影響を与えようとしているのだろう。それが気に食わない。

 

その時、アティカスの頭の中で声がします。「剣を取れ、そして戦場を出ろ、お前は守られている」と。

 

その声の主こそが、ケルト神話に置いて破戒と戦さの女神であるモリガンだったのでした。

 

このモリガンの庇護を受けることで、アティカスはそれから決して死ぬことはなく、これまで2100年もの間生き続けることとなったのです。

 

しかしそのような神との契約は、いつどこの時代においてもそうであるのと同じように、ただ良いことだけではありませんでした。

 

そうして決して死ぬことなく生き続けるということは、同時にこのフラガナッハを取り返そうとするダーナ神族の追撃をひたすらかわし続けなければならない、ということでもあったのですから。

 

アティカスはヨーロッパの各地を渡り歩き、歴史の様々な事件にも遭遇してきました。そして恐らく最も神たちがその影響力を及ぼしにくい場所としてアメリカ大陸を選び、移住してきたのです。

 


ところが、そんな彼の元にモリガンがカラスの姿となって現れます。そこで彼女はついに彼の居場所がダーナ神族の長であるアンガス・オーグに見つかったと伝えるのです。

 

同じくダーナ神族の狩りの女神であるフリディッシュもまた彼の元を訪れ、どこかに別の場所に身を隠すよう忠告します。

 

しかしアティカスは正直もううんざりしていたのです。そうやってダーナ神族のいる常若の国から刺客が送られてくることに。そしてひたすら逃げ続けてこれから先また何千年と生き続けていくことに。

 

「決着をつけるにはそれだけでいいのかい? ただひとところにじっとしているだけで?」
「そうだと思うわ。彼はまずだれか代わりの者をよこすでしょう。でもあなたがそれを倒せば、結局彼が自分で来なければならなくなる。でないと臆病者と言われて、常若の国から追放されるもの」
「それらじっとしていることにしよう」おれはそう答え、彼女に微笑みかけた。「だがきみはじっとしていなくてもいいぞ。ゆっくり腰をゆらすのはどうだい?」

 

というわけで、この物語は現代のアメリカを舞台に、主人公が常若の国から送られてくるダーナ神族の神々を悉く返り討ちにしていく、そんな物語なのでございます。

 

彼の元には敵である神々だけでなく、なぜか敵でも味方でもない女神たちも現れて、まあそんな女神達と主人公は大抵ウッフ~ン♡なこととなります。それも見せ場の一つでしょう。

 


さてさて、私は本書を読みながら、最初に思ったのは、「ああ、これはラノベだな」ということだったのでした。2100歳だけど見た目は21歳のドルイドというチート(主人公が最初からルール破りなくらいに最強ということ)設定、次々女神がやってきてなぜか主人公といい関係になるハーレム展開、そして主人公が自分から動かなくても敵が向こうから続々やってきてくれる巻き込まれ型のストーリー。

 

で、そういういわゆるラノベ的なものってファンタジーの王道である「指輪物語」とか「ゲド戦記」なんかとは根本的に違うものだと思うんですよね。

 

まあ、ハーレム展開は別としても、例えば「指輪物語」なんかだと主人公のビルボは仲間の中で一番弱い存在で、そんな彼こそが冥王サウロンと対峙しなきゃいけないから面白いのだと思うのですよ。そして主人公たちは弱い存在であるからこそ、長い長い旅をしなきゃならんわけです。

 

つまり成長物語であり冒険物語であること、というのが、なんだろう、本質的なファンタジーというか、あるいは原理主義的なファンタジーだと思うのです。

 

別にだからと言ってラノベをダメだと言いたいわけではないんですよ。だってそもそもが「指輪物語」のような原初的なファンタジーだって、神話という物語構造を当時の現代風に焼き直してできたジャンルなんですから、それが今となってこういう風になってくるのはむしろ当然だと思うんです。

 

だから別にいいんですけど、個人的な趣味としてはあんまり好きではないな、という感じだったのです。

 

でもね、この作品、しばらく読んでいくとちょっとそれだけではないぞ、ということに気付きます。

 

例えばファンタジーの王道として「ゆきてかえりし物語」がありますよね。「ナルニア物語」とか「ハリー・ポッター」とか。で、この作品も実は「ゆきてかえりし物語」なんです。本当は。

 

といっても、決して主人公がそうだというわけではありません。「ゆきてかえりし」なのは、むしろ神々の方なんですよね。そして主人公というのはこの常若の国から突然訪れる神々に、ただ翻弄されているだけの存在なのです。エッチな展開になる場合も、大抵は女神側の意思に逆らえずにそうなるわけですから、まあこれ、言ってみれば逆レイプなんですよね。別に本人が喜んでるみたいだからいいんですけどw

 

で、「ゆきてかえりし物語」のポイントって、主人公が「現実」の知識や価値観を「異世界」に持ち込むことで主人公はその異世界を救う、ということになるのです。そう考えたら「ゆきてかえりし物語」って、「現実の世界による異世界の征服」なんですよね。

 

で、実は「ファンタジー」と「神話」の一番の違いってそこにあると思うんです。どちらの理屈に立つのか、「人間としての理屈」を正しいとするのか、あるいは「神の理屈」が正しいとするのか。

 

神話って、ケルト神話だけでなくギリシャ神話だろうが旧約聖書だろうが日本の神話だろうが、「ゆきてかえりし物語」とまったく逆の構造を持っているのです。言い換えるなら、「いかにしてこの現実は異世界から来た神々に征服されたか」という物語なのです。

 

「人間としての理屈」に立った場合には、何が善で何が悪で、何が得で何が損かははっきりするんですよね。でも、神話ってそうじゃないじゃないですか。神話の場合には、何が善で何が悪なのかがはっきりしていなくて、ただ神がやることが善なのです。それを認めるしかない。

 

そう考えるとこの作品って、実は根本的なところでこの「神話の理屈」みたいなのにちゃんと忠実なんですよね。そういうことを主人公は「極度の被害妄想」と呼んでいるのですが、うん、そうだと思うんですよ。神話を読んで楽しむというのは、結局のところこの「極度の被害妄想」のような気がするのです。

 

だからそう考えると、実はこの作品、一見ラノベのようであって全くラノベではない。むしろ真逆の考え方の作品なんです。

 

すごく分かりやすく言えばこの作品って「人間である主人公と神々との戦い」ということになっちゃうんだと思うんですけど、実は勝敗はもう始めから決まってるんです。神々の勝ちです。でも、どういうのが神々にとっての勝ちなのかは、人間には想像することすらできないわけですが。

 

こういうの、なんだろう、上手い言葉が見つからないのですが、「芯が通ってる」って感じがします。ただ神話からキャラクターを拝借しているだけじゃない。ちゃんとラノベ的要素もちゃんと押さえつつ、ケルト神話や様々な神話を上手にキャラクター化して登場させつつ、でもその元となる神話の外しちゃいけない部分はしっかり守ってる、というかリスペクトを感じる。そんな作品です。

 

まあ、こんな私みたいに小難しいことをごちゃごちゃ考えなくても、「イケメンドルイド、イェー!」「女神とエッチ、羨ますぃー!」と楽しんで読むのもありですし、あとはケルト神話に限らずヴァンパイアや人狼、あるいは別の神話の神々までオールスターで登場しますから、スーパーナチュラル系のオタクっぽく「おお、そいつをここで持ってくるとは、作者なかなか分かっとる!」みたいな楽しみ方もありでしょう。

 

そういう懐の深さのある作品ってなかなかないんじゃないかな、と思いました。面白いですよ。

 

おなじみ ケヴィン・ハーン著「鉄の魔道僧1 神々の秘剣」に関する素人講釈でございました。

 

 

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

 

 

キラキラした言葉でキラキラネームを語る話。~まずはちゃんと取材しろ。話はそれからだ編

 

キラキラネームの大研究 (新潮新書)

キラキラネームの大研究 (新潮新書)

 

 

えー、相も変わりません。本日ご紹介したい本は、伊藤ひとみ著「キラキラネームの大研究」でございます。


まあ、本書は一言で言うならば、「キラキラネームとは何か」について著者が語った本です。うん。別にそれ以上のことを知る必要はありません。

 

ほんとにひどい本だと思います。悪書とはこういう本のことを言うのですね。ネットに悪口書き込むとか褒められたことではないと思いますが、もしかしたら私と同じよう嫌な思いをしてる人も多いかもしれませんので残しておきます。

 

ということで、さっそく私の「キラキラネームの大研究の“大研究”」を述べていきましょう。

 

第一に、本書の批判されるべき点は、本書があまりにも「キラキラ」した言葉を用いすぎているという点です。「キラキラネーム」というものが、他人には意味は伝わらないが、その名前をつけた親だけが「世界に一つだけの花」だと勘違いしているイタイ名前であるとするのなら、この本にはそれと同じく、当のご本人はご満悦で使っているのか知らないが、読者には絶対伝わってねえぞという「キラキラした言葉」が頻繁に使われているのです。

 

一例を挙げましょう。本書の冒頭でこのようなタイトルの章があります。

 

「「光宙」くんとの“出合い”」

 

さて、これだけ読むと、皆さんは普通、こう思われるのではないでしょうか。「ああ、この著者は光宙と書いて「ぴかちゅう」と読む可愛そうなキラキラネームをつけられた人と、実際に出会ったのだな」と。

 

しかし本書を読むとそうではありません。実際に本書を読むとこの著者はネットをしていて2ちゃんねるか何かで「光宙」というDQNネームを付けられた子がいるらしいという話を見た。で、それについてネットで色々調べると、どうやら都市伝説らしいと分かった。なぜならそういうことを調べたサイトがあったから。以上。

 

……いやいや、これのどこが「出合い」なんだよ? そもそもこの著者は光宙くんと「出合って」なんていません。ただそういう子がいるかもしれないとネットで知っただけです。それを「出合い」と言うのなら、私なんか毎朝8時に有村架純と「出合って」るんだからな! こっちの方がもっとリアルな「出合い」なんだからな!(自分で言ってて空しいわ)

 

しかし私が気になるのは、そういうことではありません。ただ面白すぎるのでネタにしただけです。私が気になるのは、むしろ著者が知ってか知らずかわざと「キラキラネーム問題」を複雑にしようとしていることです。

 

著者は本書の序章でこう言っています。

 

「そして浮かび上がってきたのは、ネット住民から虐待との烙印を押されても仕方のないような奇矯な例は突出したケースだということだった。実態としては、珍しい漢字の読み方をしたり、これまでの日本語の名前にはなかったような音の響きをもっていたりする「読めない名前」がキラキラネームの多数派であることが知れた」

 

そしてさらに、著者はこう言います。

 

「こんなふうにイメージだけで「キラキラネーム=非常識な親がつける名前」と決めつけて、頭ごなしに非難したりする風潮が、ちょっと危うい気がするのだ」

 

そう、本書において著者は「キラキラネーム」には2種類あるとしています。仰るとおりだと思います。「光宙」のような、いわゆるDQNネームと、「普通はそう読まない名前」、本書にも例示されている、芦田愛菜などは決定的に異なりますし、「光宙」なんて子が仮に実在するとしても、それは「現代でも」(ここ重要!)少数派です。

 

しかしこの序章の最後に著者はこう言うのでした。

 

「なお、以下本書ではDQNネームではなく基本的に「キラキラネーム」という呼称で統一することとする」

 

……こらこら、なんでやねん。DQNネーム=キラキラネームにするのは危ういんちゃうんか! 統一したらあかんやろ!

 

まあ、本書はもう、こういうのばっかりなんですよね。言ってることがばらばらでまったく一貫性がない。

 

そういうわけで、せっかく著者自身が最初に序章で「すべてのキラキラネームをDQNネームだと思うのは良くない」と言っているにもかかわらず、本論ではただDQNネームについて語ることによってすべてのキラキラネームの謎を解明しようとする「旅」に出られることになります。なんじゃそら。なんのための序章だったんだ?

 


さて、本書ではこの後、ひたすら「現代の」キラキラネーム(と言いながら実際にはDQNネーム)の紹介が続きます。ずいぶんネットで探されたんですね。ご苦労様です。あと「たまひよ」とかから探してきたんですね。

 

……えーっと、実は「出合い」の時にも思ったんですけど、そもそもテーマが現代の事象なのだから、本やネットではなく実際に当事者に会うのが当たり前じゃないんですかね。「キラキラネームの大研究」なんてタイトルなのに、一度もキラキラネームをつけられた子どもやつけた親に会っていないのはなぜ? しかもこの著者って奈良新聞社の元記者なんですよね。奈良新聞の記事って、事件をネットで探して書いてんの? もしかして奈良新聞ってヤフーニュースのことですか?

 

ちなみにこうやってネットサーフィンしたり関連書を読むことを著者はこう表現しています。

 

「現象の向こうを見る“旅”」

 

また出ました! あのね、そんなものが「旅」と呼べるなら、私なんて毎日……(以下省略)

 

もうとにかくそんなキラキラした旅に出る前にまずはちゃんと取材しろよという話です。取材もせずに何が「大研究」だよ。笑わせんな。

 


さてさて、そして本書の内容は言葉の持つ「言霊」に至ります。著者によると日本語には「言霊」があるそうです。そして著者は言います。

 

「言葉には、悠遠な記憶が凝縮されている。古来受け継がれてきたそうした言葉の力を侮ることなく、名前そして言葉そのものに向き合わなければならないと切に思う」

 

お・ま・え・が・い・う・な!

 

さらに著者は言います。明治期にも珍名はたくさんあったと。例えば森鴎外が息子につけた「於菟」が良い例だと。しかしこの鴎外がつけた名前は、ただ単に巷間言われているような「オットー」だけではない。当時の知識人なら当然知っていた漢籍における「虎に育てられた男」に由来するのだ。現代の「心愛」なんかと一緒にするな! この教養の質量の違いを見よ! と。

 

よーし、みんなー、頑張って子どもに好きな名前つけるために森鴎外クラスの教養人になろうぜー! って、なれるかー!!

 

そして著者の「旅」はさらに続きます。どうやら現代にキラキラネームが氾濫している元凶は、国語改革にあるのだと。

 

この「国語改革」はまあ、一言でいうなれば「政府が言葉に首を突っ込んだ」ということです。そうですよね。ここも仰るとおりだと思います。政府が「あの漢字は使うな」だとか「あの漢字は省略しろ」などと首を突っ込んだせいで、「本来の」意味を失った漢字も多くあるのでしょう。まったくけしからん話です。

 

しかし著者は言うのでした。

 

「こうして国語改革が進められ、漢字は特権階級御用達の、裃をつけたような「ハイブロウな文字」から、国民の誰もが平易に使うことのできる「カジュアルな文字」へと改造されることになった」

 

つまり、昔は教養ある人しか漢字を使わなかったのに、政府が首を突っ込んで引っ掻き回したおかげで今はバカが漢字を使っている。そういうことですよね。いや、正確に言うとバカな政治家が首突っ込んでバカな漢字をバカに教え込んだからバカがバカな漢字を使ってる、そういうことですよね。

 

てことは、やっぱりこの著者は「バカが漢字を使うからキラキラネームが生まれる」って言いたいってことになるでしょう。そりゃそうなるよね。だって著者の頭の中では「キラキラネーム=DQNネーム」なんだもの。

 

「こんなふうにイメージだけで「キラキラネーム=非常識な親がつける名前」と決めつけて、頭ごなしに非難したりする風潮が、ちょっと危うい気がするのだ」

 

じゃなかったの? あ、「非常識」と「平易」と「バカ」は意味が違うって? そうだよねー。違うよねー。言葉ってほんと便利だよねーw あ、それとも「バカな人がバカなのはバカな人のせいじゃなくて政府のせいなんです」って仰ってるんでしょうか。あの、それ全然フォローになってないんですけどw

 

そして著者は言うのです。そうして漢字の教養のないバカで非常識な一般人は、例えば「人に愛される人になってほしい」という意味で「僾」を使いたがったり、「月と星できれいだから」と「腥」を使いたがると。ほらほら、岩波新書の「日本の漢字(笹原宏之著)」にも書いてあるよ! と。(ちなみに、その本読んだことないから実際はどうか知らないけど、多分アンケートそのものが恣意的だったと思います。ちゃんと「僾」や「腥」の意味を説明した上でその言葉を名前に使いたいかどうかは聞いてないよ)

 

でも、これはあくまでも「なにか名前に使用できるようにしてほしい漢字はありますか?」と聞かれて、そう答えた人が多いというだけのことです。実際にその漢字が多く名前として使用されたわけではありません。

 

そして実際、この著者が明治安田生命のホームページか何かからコピペした(おい、またネットかよ)「子どもの名前表記ランキング2012」の中にその漢字は含まれていません。当たり前でしょう、ただ聞かれただけの場合と実際につける場合では真剣さが違いますもの。

 

つまり仮に「僾」や「腥」を名前に使う親がいたとしても、そんな親はDQNネームと同じくらいレアなケースだということです。決して多数派ではありません。

 

にも関わらず著者はこのような事例から、こう結論づけるのです。

 

「漢字本来の規範と伝統とのつながりから隔絶した世代には、「漢字」はもはや、イメージやフィーリングで捉える「感字」になっているのかもしれない」 

 

はーい、両親にイメージやフィーリングで実名に「僾」や「腥」なんて漢字をつけられたって人、いらっしゃいますかー? もしいたら出てこいや!

 

ていうか、またまた登場、「感字」ですってw 一体そこにはどんな漢籍の教養があるのでしょう? 一般人にはもはや理解不能なんですがw まさかイメージやフィーリングで仰ってるわけじゃないですよね?

 


ということで、要するに本書は最後まで読むと、「まったく最近の世の中はバカが増えて困る」という本です。一所懸命どころかありとあらゆるところで「私はそんなことは言っていないです。ちゃんとフォローしてます。バカな人たちを」という防御線を張っておられますが、むしろそのために理屈がめちゃくちゃになっている一冊です。最初と最後で言っていることが全然違う。

 

少なくとも本書には「バカが増える」以外にキラキラネームの横行が「“言語の森”の枯渇」につながる理由はどこにも書いてありません。ただ本書を読んで分かるのは、DQNなレアケースがネット全盛のこの時代には手軽に手に入るよね、というその事実だけです。知ってるわ、そんなこと。あんたに教えてもらわなくてもな! そこまでバカじゃないんで!

 

そしてDQNなレアケースはいつの時代もあったのであって今だけではありません。昔の人が今より賢かったわけでも今より言葉に対して真摯だったわけでもありません。国語改革が行われようと行われまいと、DQNネームはなくなりません。バカな人はバカだし、変な人は変な人です。教養あふれるバカや教養あふれる変人は掃いて捨てるほどいます。森鴎外が良い例です。何の因果関係もありません。

 

はっきり言ってしまえば現代の名前に「読むのが難しい名前」が増えているのは、ただ単に今の若い人たちが名前に使える漢字の豊富さや読み方のバリエーションが豊富だということを「知っている」というだけでしょう。でも昔の人は「知らなかった」。それだけでしょう。

 

本書において著者は得意げに「キラキラネームの10の方程式」を披露しておられますが、そんなこと今の若者はみんな知っています。知らなかったのはキラキラネームに眉をひそめる大人だけ。だって大人の方々よりもgoogle先生の方がずっと賢いんだもの。そんなことネット大好きな本書の著者が一番ご存知でしょう。もう、本書を読みながら「こいつ、どんだけネットしてんだよ」と何度思ったことか。

 

そう考えたら、現代の若者は漢籍の教養はないかもしれませんが、昔の人よりも知識は豊富だと言えるでしょう。google先生がついてるからね。それとも、昔の人もそんなことは当然知っていたが、あえて「“言語の森”を枯渇」させないためにスタンダードな名前を選んでいたとでも? そんなはずないでしょう。昔の人どんだけすごいんだよ。ていうか、「“言語の森”を枯渇」ってなんだよ? イメージやフィーリングでなく具体的に説明してくれよ。

 

DQNネーム」と「読むのが難しい名前」は本質的に異なるものです。一緒にしてはいけません。本書にも書いてあるとおりです。だから本当にやめてあげてください。今の子育て世代がかわいそうなんで。

 

だけどキラキラネームの本当の悲劇は、そこをみんな一緒にしてしまうことにあるのではないでしょうか。DQNネームではなく「読むのが難しい名前」が問題だと言うのなら、そもそもDQNネームについて触れるべきではないでしょう。話がややこしくなるだけなのだから。

 

にも関わらず、なぜ本書はそうしようとしないのか。著者がバカなんでしょうか? だったら話はきっと単純なのだけれど、多分そうではないでしょう。要するに、問題は教養のないバカが増えていることではなく、むしろ教養のある(と自分で思ってる)人が自分の偏見に気づいていない、ということの方なんです。あるいは教養のある(と自分で思ってる)人が自分の偏見をわざとごまかしている(つもりでいる)ということの方です。本当はただ「DQNネームがむかつく」って言いたいだけなのだけれど、DQNネームが今だけの現象だけでなく昔からあるという事実を知っている程度には教養がおありだから、わざわざ「日本語の深い森」「旅」をしなきゃならんのでしょう。

 

ていうか、要するに「DQNネームが問題」だと言いたいがためにDQNじゃない現代風の名前も全部ひっくるめて「キラキラネーム」と呼んでるだけ。ほんとに、ただそれだけのこと。

 


「“言語の森”が枯渇している=(本当の意味は)世の中にバカが増えている」と言って同世代の共感を得たいがためにキラキラネーム=子育て世代や子どもたちをダシにするのはいかがなものかと私は思います。それが大人のやることかよ。

 

バカな親が言霊にこめられた呪いをうっかり子どもに与えてしまうことよりも、こういう大人の若者に対する怨念や侮蔑という呪いの方がよっぽど恐ろしいです。


あー、もう、ほんと日本の将来が心配。どうかキラキラネームの子どもたちが成人する頃にはこういう本を読んで溜飲を下げてるキラキラした大人が一人でも多く社会から退場していますように。

 

最後に大事なことなのでもう一回言います。

 

まずはちゃんと取材しろ。話はそれからだ。

 

おなじみ伊東ひとみ著「キラキラネームの大研究」に関する素人“大研究”でございました。

 

キラキラネームの大研究 (新潮新書)

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世界中のすべての女性にささげる話。

 

雪のひとひら (新潮文庫)

雪のひとひら (新潮文庫)

 

 

えー、相も変わりません。本日もまた、眉唾ものの素人講釈を一席お付き合いいただきたいわけでございます。

 

本日ご紹介したいのは、ポール・ギャリコの「雪のひとひら」でございます。

 

私はね、もう、この本が大好きで、何と4冊も持っているんですね。

 

え、何でそんなに持ってるかって? それはね、私の周りにいるかわいい雪のひとひらたちにプレゼントするためなのですよ。

 

ということでまずはこの物語のあらすじをぱぱっとご紹介いたしましょう。

 


ある冬の日に雲の中で生まれた雪のひとひらは、空から大地へと降りてきます。

 

そこでたくさんの仲間たちと共に降り積もった彼女は、春が訪れると水となり、川の流れに加わるのです。

 

川を流れていく雪のひとひらは、雨のしずくという男性と出会います。

 

そうして二人で助け合いながら流れてゆくうちに、子どもたちが生まれます。

 

流れてゆく間には、たくさんのことが起こります。

 

下水の中に紛れ込んでしまったり、消防車のタンクの中に紛れて炎と戦うことになったり。

 

やがて雨のしずくが死んでしまい、子どもたちが巣立っていきます。

 

再び一人になった雪のひとひらは川をずっと流れていき、海へと辿り着きます。

 

そしてこの海に漂いながら、雪のひとひらもまた天へと召されていくのでした。

 


そんなお話でございます。一人の女性の人生というものを、この物語は雪に例えているわけですね。

 

で、私はこの物語のとても重要なポイントは、作者のポール・ギャリコが男性であるということなのではないかと思うのです。

 

考えてみてください。なぜ雪のひとひらが女性なのか、ということを。なぜ、雪のひとひらが男性であってはいけないのでしょうか。

 

作者は女性は「雪」で男性は「雨」だと言っています。それはどういうことでしょう。

 

このことは、女性と男性の身体の違いを現しているのです。

 

要するに、女性はある年齢になると初潮が訪れ、それからは40年近くの間ずっと生理と付き合って生きていくという、そういうことを「雪」と表現しているわけですね。

 

だから雪のひとひらは、「春」が来ると「水」になるわけです。身体が子どもから大人へと変化するわけですね。

 

一方、雪のひとひらの夫である雨のしずくは、生まれた時から「水」なのです。男性には初潮も生理もありませんからね。

 

このことはすごく重要なことだと私は思うのです。というのは、男性が子どもから大人になるきっかけは何かと言えば、それは「社会的な要請」なわけです。

 

つまり、就職とか、結婚とか、子どもができるとか、そういうことなわけですよ。

 

で、そういうものは全部自分の身体に何か変化が起きるわけではなく、身の回りの環境が変わるわけです。

 

雪のひとひらと雨のしずくの間に子どもが生まれた時もね、雪のひとひらがそのことを雨のしずくに伝えると、雨のしずくは少しうろたえながら「あ、そ、そうなんだ」みたいな感じになるんですよね。まあ、そういうもんなんですよ、男というのは。

 

でも女性の場合、身の回りの環境が変化する前に否応なく自分の身体が変化することを実感するわけです。

 

まるで雪が雪のまま水へと変わるように。

 

その後で多くの女性は「社会的な要請」を受け入れるかどうかという課題が訪れるわけですね。

 

この物語の中で作者であるポール・ギャリコは、雪のひとひらが水へと変わることは「春」というとても詩的であり、また物語においても重要なシーンとして描いています。

 

一方で水となった雪のひとひらが「社会的な要請」を引き受けるシーンは、水車に巻き込まれてしまうシーンとして描かれています。ここで雪のひとひらは自分も川の流れという社会の一員だという自覚が芽生えるのです。

 

でもこの水車のシーンは非常にあっさりと描かれています。何と言うか、そんなことは大した問題ではないという感じです。

 

ここがね、私も男なのですごくよく分かるんです。水車のシーンとか、ほんとどうでもいいんですよ。大事なのは春が訪れるシーンなのです。

 

でもね、もしこの物語を女性が描いていたとしたら、恐らく逆になるのではないかと思うのです。

 

ジェンダー論とかフェミニズムとかそうじゃないですか。女性がいかに「社会の要請」を引き受けるのか、といったことの方がむしろテーマとなっているでしょう。

 

私はね、少年少女が社会人になることよりも、一人の少女が大人の女性に変わることの方がずっと神秘的だし、大切なことだと思うんです。

 

だって「社会の要請」って、曖昧ですよ。現代社会では大人であるかどうかってちゃんとお金が稼げるかどうかってことかもしれませんけど、今みたいに経済が価値観を支配していない時代や地域では、大人の意味も変わってしまうんです。

 

もし明日富士山が噴火したり南海トラフ地震が来て日本経済が壊滅してしまって、しかもその後に復興に失敗してしまったりしたら(多分10%位はそういう可能性あると思うんですけど)、今の世の中で上手くお金を稼げる能力とか何にも役に立たなくなるでしょう。むしろ健康で肉体的な強さを持った男性こそが「大人」になるでしょう。

 

「立派な大人」とか「立派な社会人」とかって所詮そういうものなんですよ。時代や環境によって変わるんです。

 

だからね、なんか「女性の経済的自立」みたいな話を聞くと、なんかもやっとするんですよね。別にそれが重要じゃないとは言いませんよ。大切なことなんですけど、でも、誤解を恐れずに言うならば、本当につまらない。せっかく女性に生まれついたのに、何を好き好んで「おっさん」になってるの? と私は思うんです。

 

それに男性の特性っていうのはね、危機的状況に対応できるように作られているわけですよ。「力が強い」とかね。「論理的」とか。

 

だから男性的論理が幅を利かせている時代っていうのは、要するに「人間の生きにくい」時代なのだから、さっさと終わった方がいいんです。

 

科学技術や社会環境が整っていって人間が暮らしやすくなっていけばいくほど、女性の感覚の方が重要になってくるんですよ。むしろそういうのを目指すべきじゃん、と私は思うんですよね。

 

 

……あれ、なんか話がずれてしまったぞ。何が言いたかったんだっけ。

 

えーっと、要するにですね、そうそう、「社会の要請」って時代や環境によって変わるという話です。でも女性が少女から女性に変わる変化って、もっと確実な話でしょう。1000年前だろうと1000年後だろうと、封建社会だろうと民主主義の社会だろうと、女性は10歳くらいになったら生理になるんです。こっちの方がよほど重要な問題ですよ。

 

そしてそういう身体で生まれてきているからこそ、女性は男性とは異なった思考ができるのだろうと私は思うんです。なんというか、矛盾に強いというか、不条理に強いというか。だって身体がもう、そうなってるんですからね。

 


多分ね、作者はそんなことを思いながらこの物語を書いたのだと私は思うんです。女性であるということは、ただそれだけでまるで雪のように美しいと。世界中の女性にそのことを伝えたくて。

 

それに、男性だけですからね、一人の女性に対して「あなたはただあなたが女性であるというだけで素晴らしい」と、そう言ってあげられるのは。そうでしょう?

 


ですからね、私はこの物語をすべての女性におすすめしたい。まだ読んだことがないなんて女性がいたら、もうそれは本当に、心の底から「なんてもったいない!」と思います。そんな人は9/4からブックポート大崎店で開催される#​棚​マ​ル​「​こ​の​本​に​惚​れ​ま​し​た​!​」​フ​ェ​ア​でこの本を買わなければなりません。いや、買いなさい。マジで。9月はなんと土曜日も特別営業するそうですから!行きなさい!お近くの人は!

 

そして私はポール・ギャリコにはなれないけれど、「ポール・ギャリコの『雪のひとひら』を知ってるおじさん」にはなれるので、この本をプレゼントしてあげようと、既にスタンバイしているわけですよ。

 

雪のひとひらたち、待っていなさいね。

 

おなじみポール・ギャリコ著「雪のひとひら」に関する素人講釈でございました。

 

雪のひとひら (新潮文庫)

雪のひとひら (新潮文庫)