文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

古今東西の口説きの名文句を集めた話。

 

 

えー、相も変わりません。本日も馬鹿馬鹿しい話を一席。

 

本日ご紹介したい本は、現代言語セミナーの「口説きの言葉辞典」でございます。これがどういう本かと申しますと、古今東西の小説や映画、歌謡曲などから様々な口説き言葉を集めた一冊なのでございますねえ。

 

で、愛の告白からベッドイン、プロポーズにいたる口説き言葉が本書には収められており、あと最後には小説などの中に登場したり、あるいは有名人が実際に送ったラブレターなんかも収められているわけでございます。

 

で、実際に読んでみると意外に思ったのが、結構女性の言葉が多いのですね。なんでしょう、私「口説く」と言えばなんか男性がするもののように思っていたのですが、意外とそうでもないようで。昨今は草食男子とか肉食女子とか言われていますが、実際のところは昔から草食系は草食系だし肉食系は肉食系だったんでしょうね、男女に関わらず。

 

まあ、でもあれなんですよね、私あんまり女性からグイグイ来られるのは苦手でして、そういう場合には気づかない振りして避けて生きてきたタイプなんですが、でも本書で見つけましたね、この言葉を女性に言われたら私はイチコロになるなって言葉。

 

それはこんな言葉でございます。

 

「本当に私の命のためにすべてを棄てることができて」

 

これは連城三紀彦「野辺の露」の一節だそうで。いいですねえ「できて?」という、この最後の「て」が好きですねえ、私は。

 

こんなのもありますねえ。大原富枝「鬼のくに」から。

 

「あたしがあなたを好きになったことを、悪いことだと思って?」

 

うん、やっぱり「て」がいいわ。


さて、男性側の言葉だと、私が一番いいなと思ったのは、三浦哲郎「忍ぶ川」のこれなんてどうでしょう。

 

「七時を六時にしてくれないか。待つ時間がたまらないのだ」

 

良くないですか、これ? なんか思いが伝わるでしょう。

 

あとはそうですねえ、まあ私の中でよく女性を口説いてそうな人と言えばやっぱり太宰治なんですが、そんな彼の代表作人間失格から。

 

「この野郎。キスしちゃうぞ」

 

……何を言っているんでしょうか、この人は。てか、「人間失格」って、そういう話でしたっけ。

 

それでは今度はお友達の檀一雄さん「火宅の人」から。

 

「老眼でも好いとるよ。頭がツルツルに禿げ上がっても、好いとるよ」

 

な、なんか重いわ。

 


まあ、後はやっぱり難しいのはベッドに誘うときの言葉ですよねえ。一体どんな言葉を言えばいいのか。

 

そこでまずはしょっちゅう女性をベッドに誘っていそうな吉行淳之介さんの「夕暮れまで」から。

 

「脱がしちゃうぞ」

 

いいですねえ、ストレートで。あんまりね、余計なこと言うと気持ちが冷めますからね。

 

もう一つ、吉行淳之介さんで今度は「街の底で」から。

 

「耳の穴をほじってくれないか」

 

いや、なんかもう、よく分からんです。よく分からんけど、なんかすごい気がする!

 


さてさて、そんなわけで、本書は私にはあんまり参考にならなさそうなのですが、でもそうだ、あれですよ、私も近年は正月に親戚のおじさんに会うたびに「結婚せんのか」「このままでいいと思っているのか」と説教されるのでありまして、まあこのままでいいわけないよなってことでいつかはちゃんとプロポーズしなきゃならんと思ってるわけです。

 

ということで、みんなどんなプロポーズをしているのかしらん、参考にしてみよう!

 

まずは福永武彦「夜の時間」から。

 

「いいかい、僕が神だ、運命なのだ」

 

あかん、こんなこと言ったら殺されるな。関白宣言のさらに上を行っている感じがさすがですねえ。でも私はとても言えないw

 

これはどうですかね。有名な堀辰雄風立ちぬから。なんかいいこと言ってそうでしょ。

 

「それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福――皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もう少し形をなしたものに置き換えたいのだ。分かるだろう?」

 

……いや、分からん! ていうか長い! 却下!!!

 


えー、というわけで、やっぱり私にはあんまり参考にならなかった一冊でしたが、あなたにはそうでもないかもしれない!

 

で、本書には最後に小説の中に登場したり、有名人達が書いたラブレターが収められているのですが、その中からオススメのものをご紹介しましょう。

 

まずはモーツァルトが恋人に送った手紙。

 

「一体全体お前は、ぼくがお前を忘れたなんて、ただ想像するだけにしろ、どうしてできるのか? そんなことが、ぼくにあって堪るものか。そんなことを想像した罰として、最初の晩も、お前のその可愛い、キッスをしたくなる尻っぺたを、したたか打ってやるからね。それを覚悟しておいて」

 

イヤーン(*/∇\*)。何を言ってるんでしょうかモーツァルトは。でもなんか、モーツァルトでよかったよ。これがバッハだったらなんかもう…。

 

あとはこの恋文が好きでしたね。ロシアの文豪ドストエフスキーが妻アンナに送った手紙から。

 

「わたしの大事な宝、しっかりとお前を抱きしめて、数限りなく接吻する。わたしを愛しておくれ、わたしの妻でいておくれ。ゆるしておくれ、悪いことはいつまでもおぼえていないでね。だってわたしたちは一生涯、いっしょに暮らすのじゃないか」

 

「悪いことはいつまでもおぼえていないでね」って、一体何をしでかしたんでしょうね、ドストエフスキーw でもなんか可愛いぞwww

 

というわけで、おなじみ現代言語セミナー編「口説きの言葉辞典」に関する素人講釈でございました。

 

 

 

鳥山明先生が、とにかくすごすぎる話。<うんちつんつくつん篇>

 

 

Dr.スランプ 完全版 1 (ジャンプ・コミックス)

Dr.スランプ 完全版 1 (ジャンプ・コミックス)

 

 

えー、相も変わりません。本日も一席、お付き合いいただければと思うわけでございます。前回に引き続き、鳥山明先生がとにかくすごすぎる、という話でございます。

 

前回の話の肝は、鳥山明先生は「目に見えないものを、いかにもそうであるかのように描いてみせた天才」というところにありました。

 

しかし、今回はまったく逆でございます。実は、鳥山先生は「目に見えるものを、(本当はそうでないにもかかわらず)いかにもそうであるかのように描いて見せる天才」でもあるのでございます。

 

そのことを証明している絵を、きっと誰もが見たことがあるでしょう。

 

その絵とは……


うんちです!!(お食事中の方ごめんなさいね)

 


断言いたしましょう。鳥山明先生の絵の神髄、それはうんちにあるのです。

 

このうんちは、「Dr.スランプ」においてアラレちゃんがつんつくつんするガジェットとして非常に重要なものであります。うんちなくして「Dr.スランプ」なし! と言っても過言ではないでしょう。

 

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しかしですよ、皆さんよく考えてみてください、こんなうんち、見たことがありますか?

 

これ、よく見たらうんちじゃないですよ。ソフトクリームですよ、これは。そうじゃありません? しかもなんでピンクなんだよ。どんな病気なんだよ、という話です。

 

こんなうんちをしようと思ったらですね、すっごい長いうんちをしながらお尻をぐるぐる回すとか、あるいは……いや、もうやめときましょうか(汗)

 

とにかくですね、この絵は本来うんちではないです。うんちとは似ても似つかないものなのです。私はこんなうんち、生まれてから一度もしたことがない!

 

にもかかわらず、今ではこのソフトクリームみたいな形こそ「ザ・うんち」になっている。これは明らかに「Dr.スランプ」以降のことです。

 

(正確に言うと、最初にとぐろ巻きうんちが描かれたのは17世紀のフランスの版画家ベルナール・ピカールによる「調香師」だそうです。で、マンガに描かれたのは1971年、とりいかずよしの『トイレット博士』だと言われています)

 

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フランスの版画家ベルナール・ピカールによる「調香師」

 

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とりいかずよしの『トイレット博士


で、問題はなぜこのピンクのソフトクリームがうんちに見えるのか、ということなんですよ。

 

それは、マンガの絵というものが、いわゆる絵画の絵とは別のものだからです。

 

マンガの絵というのは、実は本来「絵」ではないのですね。では何なのかというと、「記号」なのです。

 

分かりやすい例で言えば、肖像画と似顔絵の違いです。

 

絵の技術というのは、卓越していくと写真に近づいていきますよね。だから優れた肖像画と言うのは、まるで写真のような肖像画のことです。

 

でも優れた似顔絵というのはそうではありません。優れた似顔絵というのは、その人の顔のある部分を強調し、一方である部分を省略することによって描かれるわけです。

 

だからマンガというものは、例えば手塚治虫の絵なんかを見れば分かるように、本来情報量が少ないものなんですよね。強調と省略をするから。要するに、誰でも描けそうなシンプルな絵、と言いましょうか。

 

で、例えば大友克洋が出てきたときにみんながびっくりしたのは、この人があくまでもマンガのフィールド上にいながら絵画の技術を持っていたことにあるんです。

 

(ここ余談ですが、ちょっとだけ。手塚治虫が最初にマンガに映画的手法を取り入れたわけですが、彼はマンガを「紙で読める映画」にしたかったんですよね。そしてそれを後のマンガ家もみんな模倣したわけですが、残念ながら手塚治虫自身をはじめ、みなマンガの画力はあっても絵画の画力はあまり持ち合わせていなかった。だから、本来なら「紙で読める映画」を目指すなら風景などはマンガ的であるよりも絵画的であった方がいいのですが、それができなかったのです。ところが、そこにマンガの画力と絵画の画力を持ち合わせた大友克洋が現れた。で、みんな「ああ、そうか、これが手塚治虫が本当に描きたかったものなのか」となってびっくりした、ということなんですよね。だから大友克洋の登場に一番衝撃を受けたのは、実は手塚治虫だったのです。自分一番やりたかったことを、違う人間にやられちゃった。他人の作品を見て、「ああ、これを俺はやりたかったのか」と思い知らされた。あのマンガの神様がですよ。こんな屈辱はないですよね)

 

マンガ絵というのは強調と省略による記号ですから、ディテールをたくさん書き込んでいけばその分絵画に近づいていくわけです。シリアスなテーマを描こうとした劇画がその良い例と言えるでしょう。

 

そこでちょっと下の絵を参照していただきたいのですが、鳥山先生によるこの絵、恐ろしく細かいディテールが描かれていることにお気づきでしょうか。

 

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で、ここが重要なポイントなのですが、これだけ細かいディテールを描きこんでいるにもかかわらず、この絵はあくまでも「マンガ」なのです。

 

ではなぜこの絵は「マンガ」なのか。

 

それは、絵画の画力というものが技術的な問題であるのと違って、マンガの画力というのはセンスの問題だからなんです。

 

対象のどの部分を強調し、どこを省略するか、というセンスがマンガ絵の個性を決定しているわけです。

 

ですから、マンガ家というのはたいてい誰から影響を受けた、というのがすぐ分かりますよね。「あ、竹宮恵子手塚治虫が好きなんだな」とか、「井上雄彦北条司のアシスタントをやっていたな」とか、言われたら「あ、そうだね」って分かるでしょう。それはマンガ絵はセンスの問題だから、模写するときにそのセンスも一緒に吸収してしまうからなのです。

 

で、鳥山先生という人はこの「絵画の技術」と「マンガのセンス」をハイレベルで持ち合わせている人だということが、上の画像でよく分かるんじゃないかと思うのです。

 


ということで、最初のうんち問題に戻るわけですが、これがなぜうんちとは似ても似つかないにもかかわらず私たちにはうんちと認識できるのかというと、この絵はうんちの特徴を最もよく示した<記号>だからなんですよね。

 

そして前回の「かめはめ波」にしても、ここで「放出されるエネルギー」を描いたときにそれを最もリアルな表現、絵画的表現ではなく、最も記号的、マンガ的に正しい表現は何か、ということが分かってるということがすごいのです。

 

で、マンガ的に正しい表現であれば、後の人はもう、それがリアルではないことは百も承知の上で追随するしかないわけですよ。「気の放出」の新しいマンガ的表現を生み出すのは、多分鳥山明と同じレベルの才能の持ち主だけなんです。

 


ところで、マンガ家は技術ではなくセンスを受け継ぐ、と言いました。実際鳥山明以降、彼から影響を受けていることが明らかに分かるマンガ家というのはたくさん見かけますよね。

 

でも、鳥山明が一体誰に影響を受けたのか、分かります? 全然分からないんですよね。ディズニーらしいんですけど、少なくとも絵を見た限りではまったく伝わってこない。それって多分、この人は誰からもセンスを受け取る必要がなかったからなんじゃないかと思うんですよねえ。

 

だって、天才なのだから。

 


というわけで、二回にわたってお送りしました、「鳥山明先生が、とにかくすごすぎる話。」、おなじみ「Dr.スランプ」に関する素人講釈でございました。

 

 

Dr.スランプ 完全版 1 (ジャンプ・コミックス)

Dr.スランプ 完全版 1 (ジャンプ・コミックス)

 

 

鳥山明先生が、とにかくすごすぎる話。<かめはめ波篇>

 

ドラゴンボール 完全版 (1)   ジャンプコミックス

ドラゴンボール 完全版 (1) ジャンプコミックス

 

 

えー、相も変わりません。本日もまた一席お付き合いのほどをお願いしたいわけでございます。

 

本日は本の紹介というよりも、私はとにかくある一つの主張をしたいのでございます。それは何かと言うと、

 

とにかく鳥山明先生はすごすぎる!

 

ということ。

 

いや、そんなことはお前に言われるまでもなく知っているよ、と、そう仰るかもしれません。

 

しかしそれでも聞いていただきたい。敢えて言わせていただくならば、多くの人が考えている以上に鳥山明先生はすごいと、私は主張したいのでございます。

 


さて、この鳥山先生のすごさには、実は2種類あるのです。それが何かと言えば、

 

①絵がえげつないくらいに上手い

②マンガ的アイデアがえげつないくらいにすごい

 

という2点です。で、しかも日本のマンガ史全体を通して考えてみたとき、鳥山先生はこの2点において歴史を変えてしまったのです。どっちかで変えた人は多いんですけど、両方成し遂げた人は鳥山明手塚治虫ぐらいじゃないかと。

 

で、絵についての話はちょっと小難しくなりますので次回にするとして、今回は鳥山先生がそのマンガ的アイデアでマンガの表現そのものを変えてしまった話をしたいわけでございます。

 


では、鳥山先生がマンガの歴史を変えてしまったと言いましたが、それは一体いつのことでしょう。

 

実はこの時ははっきりと特定することができるのです。その時とは、週刊少年ジャンプ1985年14号が発売された時です。

 

この号のドラゴンボールのタイトルは「亀仙人かめはめ波!!」でした。

 

そうです。「かめはめ波」でございます。これがマンガの歴史を変えた。それが一体どういうことなのか、ちょっとご説明いたしましょう。

 

そもそも少年マンガにとって最も重要な要素のひとつといえるものに「必殺技」がございますね。

 

主人公が繰り出す必殺技の魅力は、イコールその作品の魅力と言い換えることもできましょう。

 

この必殺技の歴史というものはどういうものだったか。古くは仮面ライダーの「ライダーキック」や科学忍者隊ガッチャマンの「科学忍法火の鳥」などがありますね。

 

しかしこれらの必殺技というのは結局のところ、ライダーキックであれば実はただのキックと何も変わらないし、科学忍法火の鳥だってよく考えればただの体当たりでしかないわけです。そんなこと大人が言っちゃいけないことですが。

 

で、このドラゴンボールと同時代に連載していた他の少年ジャンプ作品においても、例えばキン肉マンの「キン肉バスター」や「キン肉ドライバー」があり、聖闘士星矢の「ペガサス流星拳」があり、北斗の拳の「北斗百裂拳」がありました。

 

でもこれも、それを言っちゃあおしまいですが、「キン肉バスター」や「キン肉ドライバー」というのは結局のところすごいプロレス技であり、「ペガサス流星拳」や「北斗百裂拳」に至っては、よくよく考えたら「ただすごいスピードで殴ってるだけ」なのです。(ごめんなさい、石投げないでね)

 

それに比べてかめはめ波ですよ。このかめはめ波とは一体何なのか。

 

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wikipediaによるとこのかめはめ波

 

「体内の潜在エネルギーを凝縮させて一気に放出させる技」

 

とあります。なんと言うか、多分「気」のようなものでありましょう。それをですね、手をおなじみのあの形にして、「かーめーはーめー波ーーー!!」と言って前に出したらですよ、その「気」というか「潜在エネルギー」がぶぉぉぉぉっとビームのように前に出るわけです。

 

すごいですねえ。もうこの技はですね、そもそも相手に自分の体を何らかの手段であてることすらしていないのですよ。そういう動作をすれば、体の潜在エネルギーとやらが勝手に相手を攻撃してくれるのです。

 

お分かりでしょうか、このアヴァンギャルドさ。もうね、それがありなんだったら、なんでもありになるんじゃないかと私は思うのですよ。

 

いやね、もちろんこの頃にも他の作品においてアヴァンギャルドな必殺技はあったのです。たとえば聖闘士星矢フェニックス一輝の必殺技「鳳翼天翔」。あるいは北斗神拳の秘孔もそうですね。でもこれらの必殺技は、あまりにアヴァンギャルドすぎたために、他の作品では見たことがありません。

 

ところが、この「かめはめ波」は違うのです。よく考えたら「あれなんなんだ?」というアヴァンギャルドな必殺技であるにもかかわらず、ドラゴンボール以降のマンガ作品において、かめはめ波的ないわゆる「体内の潜在エネルギーを凝縮させて一気に放出させる技」というのは割と定番になってゆくわけです。

 

そりゃそうですよ、だってこの技を繰り出すためには、本来ビーム的なものを発射するための武器とかも必要ないのです。自分の手とか足から出るわけですから。

 

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で、鳥山先生のなにがすごいって、そんな必殺技を「絵に描いた」ということなんですよね。

 

もし「体内の潜在エネルギーを凝縮させて一気に放出させる技」を他のマンガ家が描いたとしたら、どうなるでしょう。恐らく彼以前のマンガ家たちなら「何か見えないけど気が放出されて敵はダメージを受けてるんだぜ」という描写をしたでしょう。つまり、そのエネルギーを描かずに表現したはずなのです。

 

ヴィトゲンシュタインではありませんが、「認識できないものについては沈黙するしかない」わけですね。普通はそうするものなのです。分からないことについては語らない方が賢く見えるのと同じように、見えないものは描かない方がリアリティは増すわけです。

 

しかし鳥山先生はその見えるはずのない「体内の潜在エネルギー」をはっきり絵に描いて示したのでした。

 

そして、なにがすごいって、この作品以降私たち読者はどこかの作品で何らかのキャラクターがこの「体内の潜在エネルギーを凝縮させて一気に放出させる技」を繰り出しても、ちっとも不思議には思わなくなってしまったということです。(そしてその場合、みんな「鳥山明風」の「気の放出」表現であることは見逃してはいけない!)

 


これが、鳥山先生がこのドラゴンボールで成し遂げた「マンガを変えた瞬間」なのです。彼はこの作品において誰も見たことがなかったものを描写し、しかもその描写をあまりに当たり前なものにしてしまった。

 

とは言え、実はこのかめはめ波、多分元ネタはウルトラマンスペシウム光線なんですよね。あれをやろうとしたのだと思います。だからかめはめ波は、実は鳥山先生の完全なオリジナルではありません。

 

多分この頃鳥山先生は「ドラゴンボール」を「孫悟空ドラゴンボールを探し求める冒険物語」から、少年ジャンプの黄金律である「悟空の前に次々と強大な敵が現れる」というストーリーに変更せざるを得なかったのでしょう。で、そのために「ウルトラマン」などをかなり研究したのではないでしょうか。そこでこのスペシウム光線が使える、と気づいたのでしょうね。(あ、でもドクタースランプでも結構ウルトラマンネタ出てくるので、元々好きだったんですかね。まあこの辺何の根拠もないただの妄想です)

 

で、実は「かめはめ波」は「スペシウム光線」だと誰にも気づかれない形でそれを採用した。「スペシウム光線」はアヴァンギャルドな必殺技ですから、そのまま使えば「あ、それウルトラマンじゃん」と言われますからね。

 

ただ彼が「ドラゴンボール」で「ウルトラマン」のスペシウム光線を採用したことで、初めてあの必殺技がアヴァンギャルドな技からスタンダードな技になった、と言えるわけです。

 


さて、では、なぜ鳥山先生はアヴァンギャルドな必殺技であった「かめはめ波」をスタンダードなものにできたのでしょう?

 

その理由の一つが彼の「画力」にあるわけですが、その話はまた次回。

 

おなじみ鳥山明著「ドラゴンボール」に関する素人講釈でございました。

 

 

ドラゴンボール 完全版 (1)   ジャンプコミックス

ドラゴンボール 完全版 (1) ジャンプコミックス

 

 

尾崎紅葉はバカじゃない話。

 

二人比丘尼色懺悔 (岩波文庫)

二人比丘尼色懺悔 (岩波文庫)

 

 

えー、相も変わりません。本日もまた眉唾ものの素人講釈にお付き合いいただければと思うわけでございますが、本日ご紹介したい作品は、尾崎紅葉著「二人比丘尼色懺悔」でございます。

 

この「二人比丘尼色懺悔」が刊行されたのは明治22年のことで、尾崎紅葉はこの作品までにも自身が主催する硯友社の「我楽多文庫」という雑誌でいくつか作品を発表していたようですが、ちゃんと書籍の形で刊行されたのはこの作品が最初でございます。そういう意味ではまあ、処女作と言えるような言えないようなっていう感じですね。

 

で、本書が刊行された明治22年というのが、以前にもレビューした山田美妙の「胡蝶」と幸田露伴の「露団々」「風流仏」も刊行された年ということで、まあ、当たり年と呼んでも過言ではありますまい。

 

で、私が読んだ岩波文庫にはこの「二人比丘尼色懺悔」と、その翌年に出版された「新色懺悔」が入っているのですが、まずはいつもの通り、バババッとどんな話なのか、そのあらすじをご紹介しましょう。

 

「二人比丘尼色懺悔」は戦国時代かあるいはそのもう少し前の時代の物語です。

 

とある山の中のある尼寺に、深夜一人の旅をする尼が訪ねて来ます。もう夜も遅くなってしまったので、どうか一晩泊めてくれないか、というのです。

 

尼寺の尼は同じ尼僧でもあることから「それそれは大変でしょう、どうぞお上がりください」と言って旅の尼を招き入れます。

 

で、食事をご馳走になり、では休ませていただこうかという時、旅の尼僧は机の上に置かれたある置き書きを見つけるのです。

 

勝手に読んではいけないと思いつつ、つい気になって読んでしまったその置き書きには、こんなことが書かれていました。

 

それは尼僧のかつての夫が書き遺したもので、その夫は武士として戦に出陣することとなります。夫は、戦に出陣する以上、自分はその戦場で死ぬ覚悟である、と。だから貴方はもう私のことは死んだものと思いなさい。ついてはまだ私と貴方は結婚したばかりなのだから、もし私が戦場で死んでしまったとしても決して私を弔って出家するようなことはしてくれるな。またいい縁があればその人と結婚してくれ。そんなことが書かれてあったのですね。

 

そうして旅の尼が文を読んでいるところに主人の尼が戻ってきます。

 

ああ、申し訳ございません。読んではいけないと思いつつつい読んでしまいました、と旅の尼が言うと、主人の尼は「いえいえ、別に構いません」と言います。

 

「この文を読んだのなら、事情はお分かりでしょう。夫は私に出家するなと言いましたが、たとえまだ日が浅いとは言え、晴れて夫婦となったにもかかわらずなんという情けない言葉でしょうか。夫は戦場で命を落としたとのこと。戦場で命を落としたのだから、人の一人や二人は殺して果てたに違いありません。ならば夫の行き先は地獄でございましょう。その夫を私以外の一体誰が弔うと言うのです」

 

そんな言葉を聞いて旅の尼はなんて素晴らしい人なのだろう、とすっかり感心します。そこに主人の尼が言うのです。

 

「ところであなたも私と年齢も同じくらい、それにもかかわらずそのような旅の尼僧となっているからには、それなりの事情がおありなのでしょう。ここでであったのも何かの縁、お話してくださいませんか」

 

実はこの旅の尼僧も、主人の尼と同じく夫を戦場で喪い、彼を弔うために尼となったのですが実は……。

 

ということで、えーっと、ごめんなさい、ネタバレしてしまうと、実はこの主人の尼と旅の尼が弔っている男というのが、どちらも同じ男性であったという話なのですね。

 

まあ、今の作品であれば乾くるみの「イミテーション・ラブ」のような作品と言えるでしょうねえ。

 

で、この作品がよく売れたと言うことで、その翌年には「新色懺悔」が出版されます。こちらは今度は京都を舞台にした物語で、また違った登場人物たちの物語なのですが、こちらも最後にはあっと驚く仕掛けが施されているのでございます。

 


で、最初に本書が美妙の「胡蝶」と露伴の「風流仏」と同じ年に出版された、ということを述べましたが、こうして3つの作品を読み比べてみたとき、なるほど尾崎紅葉という人はこの時代に現れるべくして現れた人だったんだなと、そんなことを思うのでございます。

 

まあ、尾崎紅葉というと内田魯庵夏目漱石など、結構色んな人から「あいつはバカだった」と言われている話が伝えられているのですが、この辺、後世の人はあんまり真に受けちゃいかんのだろうと思うのですね。

 

というのは、ちょっとこの時代の「日本文学」なるものを改めておさらいしてみるとよく分かるのですが、まず明治19年、坪内逍遥が「小説神髄」と「当世書生気質」を世に出して、いわゆる「戯作」ではない「文学」なるものを提唱したわけですね。

 

で、その翌年の明治20年には早速二葉亭四迷のと「浮雲」と山田美妙のと「武蔵野」が発表されるわけです。

 

この四迷と美妙がなそうとしたことは、いわゆる「言文一致体」というやつですね。つまり新しい文学に必要なものは何か、それは新しい文体である、と、そういうわけです。

 

ところがです。その2年後の明治22年に登場するのが幸田露伴なわけです。この幸田露伴はそんな言文一致体なんぞにはまったく興味を示さず、それまで通りの文体のまま「新しい文学」を描いたのでした。これは、明治23年に「舞姫」を発表する森鴎外も同じ態度と言えるでしょう。

 

要するに、「言文一致」なんて小手先の技術でしかないじゃん、と。本当に大切なのは表面よりも中身でしょ、と言ったわけです。

 

これはこれで、もう確かに正論なわけですね。仰る通りなわけです。

 

で、この草創期の「日本文学」というものは「表面を新しくしてそっから新しいものを作っていこうぜ」という動きと、「や、文体がどうとか気にしなくても新しい文学は作れるぜ」という二派が生まれるわけですが、ここまで「小説神髄」からわずか3年ていうのは、すごいですね。今だったら分かりますけれど、この当時にそんな一気に話が進むのか、と思ってしまいます。

 

でも、実はそれだけではなかったのですねえ。

 

というのはですね、ここまで述べてきたこの二派、実はどちらもある共通した問題点を抱えていたのです。それが何かと言うと、「なんだかんだ言ってどっちもインテリの理屈だよね」ということ。

 

恐らくこの当時の多くの小説愛好者の本音はここにあったのでしょう。「ふん、文学なんて」と嘲笑われるのは確かにむかつく。むかつくけど、でもさ、だからと言って「文学は芸術だからすごいんだ!」っていうのも、それはそれでどうなのさ、と。んなことどっちでもいいんだよ、と。

 

実際のところそういう感覚を持っていた人が多数派だったのでしょう。でもそういう意見って、表にはなかなか出づらいものなんですよね。

 

そ・こ・に、尾崎紅葉なわけです。彼は正しくそういったサイレントマジョリティの代弁者として登場したのでした。

 

で、彼は四迷や美妙派に対しては「いやー、言文一致体とか、よく分かんねっす。俺バカなんで」と言い、一方の露伴や鴎外派にも「ややや、テーマとかも、よく分かんねっす。俺バカなんで」と言ったわけです。この態度がウケた。

 

だよなー! 俺も本当はそう思ってたんだ! 正直あいつらの難しい話とか、どうでもいいと思ってた! 紅葉さん、よくぞ言ってくれました!

 

と、なったわけであります。でも、ここに気づくのって、実はすごい賢いと思うんですよね。というか、知識はなくとも知恵がある感じですか。だから紅葉って、バカというキャラを演じてただけで、本当はそうじゃないんでしょうね。

 

で、さらにこの人がすごいなーと思うのが、本書「二人比丘尼色懺悔」ですよ。実はこの作品において、尾崎紅葉はバカのフリをしつつ「日本文学」の地平を切り拓く第3の視点を提示しているのです。

 

それが「構造」ですね。この「二人比丘尼色懺悔」というのはもう、明らかに「構造」だけを主点に描かれている作品です。

 

二人のまったく関係ないと思っていた尼さんが、実はつながっていた! えー! という、それだけの作品なんです。その意味では本当に、「イミテーション・ラブ」と同じですよね。「だから何なんだ」と言われれば、「や、それだけのことです」と言うしかない。でも、エンタメってそういうもんですよね。

 

その意味で、この尾崎紅葉っていう人、「すんません、俺バカなんで小説のことよく分かりませーん」とか言いつつ、しっかりまだ誰も手を付けていなかった戯作ではないエンタメとしての小説を初めて書いているあたり、恐るべしでございます。

 

そしてしつこいかもしれませんが、「小説神髄」からわずか3年で「文体」「テーマ」「構造」という小説の必要な3つの要素がバババッと出揃ってくるあたり、やっぱり日本近代文学恐るべしなのでございます。

 

ということで、おなじみ尾崎紅葉著「二人比丘尼色懺悔」に関する素人講釈でございました。

 

 

二人比丘尼色懺悔 (岩波文庫)

二人比丘尼色懺悔 (岩波文庫)

 

 

いやーもう、びっくらこいたうどんの話。

 

うどんのお化け

うどんのお化け

 

 

えー、相も変わりません。本日ご紹介したいのは、古川緑波の「うどんのお化け」でございます。

 

古川緑波と言えば昭和の名喜劇俳優ですが、青空文庫に入ってるんですね、びっくり!

 

で、本書を読んでさらにびっくり。ていうのは、ロッパさん、本書の中でこんなことを言ってるんです。

 

「おかめ、卵とじ、鴨南蛮、鍋焼――と、昔風なのからカレーうどん、きつねうどん(油揚げの入った奴。無論関西から来たもの)或いは、又、たぬきというのもある。」

 

エエー!嘘やーん!

 

きつねうどん、カレーうどんと同列なんですか! 昔風に含まれないんすか! マジか東京人(昔のね)! お前ら(昔のね)きつねうどん知らんのんか! 「きつねうどん(油揚げの入った奴。無論関西から来たもの)」とか、説明いるんか! 

 

うーーーそーーーやーーーーーん!!!

 

……すみません。つい興奮してしまいました。いや、江戸は蕎麦文化とは知っていましたが、はあ、ほんとにそうだったんですねえ。

 

ちなみに本書が含まれているエッセイ集「ロッパの悲食記」は1959年に初版が刊行されたとのこと。うーん、てことはですよ、ちょっと長めに見積もっても、中のエッセイがどこかの雑誌かなんかに前もって発表されていたとしても多分戦後じゃないですか。

 

えええ、そうなんだ。東京の人の多くは戦後まできつねうどんのこと知らなかったんだ。

 

はー。いやー。へええええ。

 


……あ、ごめんなさい、今回ほんとにそれだけが言いたかったんです。いやー、びっくりしたわ、もう。

 

あ、で、うどんのお化けってなんなんだって? まあ、それは本書をお読みください。多分数分で読めるエッセイなので。いやー、うどんのお化け、遠慮したいわ。

 

というわけで、おなじみ古川緑波著「うどんのお化け」に関する素人講釈でございました。

 

もう、ほんとびっくり。

 

……あれ、じゃあきつね蕎麦は一体いつから?

 

うどんのお化け

うどんのお化け

 

 

春琴抄を歌いながらレビューしてみる話。

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

 

 
えー、相も変わりません。本日は谷崎潤一郎著「春琴抄」をご紹介したく、とは言え普通にレビューするのもなんですから、今回はちょっと趣向を変えて、歌いながらレビューしたいと思うわけでございます。

 

というわけで、失礼して、あー、コホン、テステステス。

 

それでは、歌わせていただきます。新世紀エヴァンゲリオンの主題歌の替え歌で、「残酷な佐助のテーゼ」。


どうぞ!

 


ざーんーこーくな天使のように
しょーうーねーんよ、神話になーれー!

 


琴のバチがいま
顔のどこか叩いても
わたしだけをただ見つめて
微笑んでるあなた

 

そっとふれるもの
もとめることに夢中で
運命さえまだ知らない
いたいけな瞳

 

だけどいつか気付くでしょう
その手元には
遥か未来 突き刺すための
針があること

 

残酷な佐助のテーゼ
厠からやがて呼ばれる
ほとばしる熱いパトスを
その紙でふけるのなら
この宇宙(そら)に泣いて喜ぶ
少年よ しもべになれ!

 


マーリーヤー セーパーテーソー
マーリーヤー トゥーセー

 

「佐助!なんでこんなこともできへんの!」
こいさん、すんまへん!」
「佐助!あんさんなんかもう、出てお行き!」
「そんな、かんべんしとくれやす!」
「佐助!この阿呆!」
「こ、こいさん、やめとくなはれ!」
「佐助!」
ビシッ
「佐助!」
バシッ
「佐助!」
ドカッ
「佐助ーーー!!」
「逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ」

 


ずっと眠ってる
わたしのSの本能
あなただけが Mの使者に
呼ばれる朝がくる

 

細い首筋を
月あかりが映してる
稽古中の時を止めて
虐げたいけど

 

もしもふたり逢えたことに
意味があるなら
わたしはそう 自由縛る
ためのバイブル

 

残酷な佐助のテーゼ
悦びがそしてはじまる
繰り返すいじめのかたち
その意味に目覚めたとき
誰よりも光を放つ
少年よ しもべになれ!

 

人は愛をつむぎながら
歴史をつくる
夫婦なんてなれないまま
二人は生きる

 

残酷な佐助のテーゼ
その目からやがて血を吹く
ほとばしる熱いパトスで
思い出を裏切るなら
この宇宙(そら)を抱いて輝く
少年よ しもべになれ!

 


……お粗末さまでございました。おなじみ谷崎潤一郎著「春琴抄」に関する素人の替え歌でございました。

 

あ、ちなみに、春琴抄と新世紀エヴァンゲリオンは何の関係もありませんから。(いや分かっとるわ)

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

 

 

新しいものはいつだって、すべてファンタジィから生まれてくる。

 

無限の書 (創元海外SF叢書)

無限の書 (創元海外SF叢書)

 

 

*本書は書評投稿サイト「本が好き!」様からの献本で頂きました。ありがとうございます!

 

舞台は中東のとある専制国家<シティ>。この町で青年アリフはハッカーとして暮らしていました。

 

金持ちの王族と、そして政治に食い込んだイスラム教の宗派によって支配されたこの国で、電脳空間は多くの不満分子たちの拠り所だったのです。ところがシティでは少し前からサイバースペースにおける検閲が強化されていました。「ハンド」と呼ばれた何か、個人なのか、集団なのか、あるいはただのプログラムなのか――によって、この町で最初のブロガーであったニュークォーター01はネットの世界から姿を消し、そして多くのブロガーたちがテロリストの汚名を着せられて逮捕されるようになります。アリフの仕事は、そんなネットの世界で蠢いているクライアントたちを「ハンド」の手から守ること。

 

アリフにはインティサルという恋人がいて、彼女は庶民である彼とは本来釣り合わない貴族の娘でした。ネット上のフォーラムで出会った二人。しかしある日インティサルがアリフに対して別れを切り出したことから物語が始まります。結婚の話が持ち上がり、インティサルにはそれを止めることができなかったのです。

 

 

別れの最後に、彼女はアリフに言いました。

 

「アリフ、もう帰って」ふるえながらヴェールをつけなおし、「あなたの名前が二度とわたしの目に触れないようにしてちょうだい。お願いよ。ほんとうに――とても耐えられないわ」

 

アリフは彼女の言葉に従い、彼女のアカウントがどんなことがあってもネット上で彼と接触することができないよう、プログラムを組み立てます。ところがそのプログラムは、彼にも理解できない働きをし始めます。そのプログラムは、たった一行の文章から、その文章を書いたのがインティサルだと判別するようになったのです。

 

丁度その頃、二つの事件が起こります。一つ目は、アリフの元にインティサルからある本が届けられたということ。その本の名前は「千一日物語」。かなり古そうに見えるこの本が一体どうして自分に渡されたのか、アリフには分かりません。

 

そしてもう一つはアリフが作ったプログラムが原因で、彼のサーバーが「ハンド」にハッキングされてしまったことです。このことにより彼の身元は国家保安局に知られることになり、彼は追われる存在となるのです。

 

アリフは幼馴染のダイナと共に逃げ出し、ある男の元へ向かいます。その男の名は吸血鬼ヴァイラム。彼の本性は、幽精(ジン)でした。アラジンの魔法のランプなんかに出てくる、あれです。

 

アリフはヴァイラムに連れられて幽精の世界へ行くことになるのですが……おっと、この話はもうここまでにしましょう。

 


さてこのように、本書はインターネットとサイバースペースをモチーフとしたサイバーパンク小説でありながら、同時に「千一夜物語」のような魔法物語でもあります。

 

サイバーパンクと魔法物語、そう言うとまるでミスマッチのように思えるかもしれません。しかし本書を読めば、実はそうではないことに気付くでしょう。

 

現実世界は、常に魔法物語のようなファンタジーの世界とともにある、そんなことに気付くことでしょう。

 


人類の歴史を遡ってみると、人間はつねに現実世界とは別の幻想的な異世界というものを描いてきたことが分かります。

 

現代の私たちが古代と呼ぶ時代、この時代はいわゆる「神話の時代」でした。その頃は現代に生きる私たちよりもずっと人間と神は近い関係にあり、そして自然の現象一つ一つもまた精という別の存在としてあったのです。

 

その時代から少し経つと、「宗教の時代」が始まります。そこでは戒律が生まれ、そして信仰が生まれました。

 

宗教の力が弱まった時、新たに誕生したファンタジーの舞台が「異国」です。西洋におけるオリエンタリズムや、あるいは日本の場合は逆に西洋が「リアルな異世界」であったことでしょう。

 

様々な情報が行き渡り、異国ですらもはや「想像できない世界」ではなくなった時、人間が発見した異世界が「宇宙」です。

 

さて、そして現代。現代の私たちにとって最も「リアルな異世界」と呼べるものはなんでしょう。それは「サイバースペース」です。このサイバースペースは、確かにリアルではありません。でも、私が今このサイバースペースに書き込んでいる文章を、今、これまで出会ったことのないあなたが読んでいるわけです。サイバースペースは異世界でありながら、同時に現実でもある。

 

何でこんな話をしているかというと、この物語のテーマこそがそういった「現実の重層性」だからだと思うのです。

 

現実はあくまでも現実です。例えばいくら私が電脳空間が現実にリンクしていると言ったところで、あなたが現実の私に与えることができる影響はとても少ないものでしょう。

 

また、私がここでどれだけの主張をしたところで、それが一体何になるでしょう。

 

所詮は非リアルな世界。頭でっかちの現実を知らない自称軍師様が、素人のくせに評論家ぶって大きな顔でのさばっている世界。

 

そう、それも事実。それもサイバースペースの「現実」。

 


ちょっと「サイバースペース」という言葉について調べてみましょうか。

 

wikipediaでこの言葉を調べてみると、こんな風に出てきます。

 

サイバースペース (英:Cyber-space) は、コンピュータやネットワークの中に広がるデータ領域を、多数の利用者が自由に情報を流したり情報を得たりすることが出来る仮想的な空間のことを指す。
1980年代に、SF作家のウィリアム・ギブスンが自著『ニューロマンサー』や『クローム襲撃』の中で使用したサイバネティックス (cybernetics) と空間 (space) のかばん語で、黒丸尚により電脳空間と訳されている。
仮想空間や仮想環境もこれに近い意味をもつ。サイバー犯罪(Cybercrime)といった言葉もある。」

 

そう、確かにその通りなのでしょう。でも、そのように「サイバースペース」という言葉を厳密に定義した瞬間、サイバースペースという言葉が持つ魔法は失われてしまう。

 

私は思うのです。サイバースペースはある意味では中つ国であり、アリスが落ちるラビットホールでもあるのではないかと。そして今私が向かっているこのパソコンは、言うなれば私にとってのRX-78であり、キングズ・クロス駅の9と4分の3番線だったりするはずだ、と。

 

だからこそ現代に生きる私たちにとって、インターネットやサイバースペースは可能性でありうる。

 

もちろん、私は分かっています。そんな比喩は「正確」だとは言えない。

 

でも、はっきり言いましょう。論理的な人や現実的な人は、テストでは100点を取れるかもしれないけれど、決して何かを生み出すことはできないし、何かを変えることもできない。

 

それが、「論理」とか「現実」と呼ばれるものの罠。

 

なぜならそれは、この世界をたった一つのことに限定してしまうことだから。重層的なはずのこの世界を、0か1かのデジタルなものの見方の中に閉じ込めるということだから。

 

長老は一瞬考えた。
「殿下のおっしゃる通りかもしれませんね。新しいもののはじまりは、すべてファンタジィだったともいえます。その昔、イスラム法を学ぶ学生は想像力を自由にはばたかせるよう奨励されました。たとえば中世において、聖都巡礼の旅のあいだ礼拝に必要な洗浄をいつおこなうべきか、激しい議論が戦わされました。徒歩で旅する場合は? 船旅の場合は? ラクダを使う場合は? 地上の可能性をすべて語りつくしたとき、ひとりの学生が新たな問題を提起しました。空を飛んでいく場合はどうなるのか。そのケースにおける法の適用について、真剣な議論がおこなわれました。その結果わたしたちは、ジェット旅客機が発明される五百年も前に、空路による聖都巡礼に関する規則をつくりあげていたのです」

 

実用的知識を重んじ、自分が合理的だと思っている人は言います。フィクションなんて何の役にも立たない、と。

 

でも実際にはこの世界はフィクションと共に歩んできたし、これからも歩んでいくのです。

 

現実の力の方がいつも少しだけ強くて、だからあらゆるフィクションの世界はいつだって時間の経過とともにその力を弱めていってしまうけれど、でも、私たち人間はそのたびに新しいフィクションの異世界を作り上げてきたのです。

 


アリフが組み立てたプログラム、たった一行の文章だけでその文章を書いたのがインティサルだと特定できてしまう謎のプログラム「ティンサル」。それは、デジタルな思考の中に比喩を理解するという思考を組み込むことで生まれます。

 

つまり、私がさっき喩えたみたいに、「サイバースペース」は単なる電脳空間であるだけではなく、それはナルニア国であったり、リリパットだったり、あるいはメイちゃんが転がり落ちたトトロの穴だったりするという、そのことを理解できるプログラム。

 

そう、そんなプログラムは存在しません。現実的に。論理的に。

 

でもそんなプログラムを想像したこと、実はそれこそが本書における一番のファンタジィであり、一番の嘘だと思うのです。

 

幽精や魔法の世界なんかよりも、もっとずっと。

 


本書はサイバーパンクでありながらアラビアンナイト的な魔法物語である、このミスマッチが魅力だ、と多くの人は思うかもしれません。

 

でも本当はそうではないのかもしれない。

 

なぜなら、もしかしたら本当は、全てのサイバーパンクは最初から、魔法物語だったのかもしれないから。

 

うん、もちろん、それは決して「正確」な表現ではなく、ただの「比喩」でしかないのだけれど。

 

 

無限の書 (創元海外SF叢書)

無限の書 (創元海外SF叢書)