文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

ただのラノベでもファンタジーでもない、しっかり芯の通った話。

 

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

 

 
えー、相も変わりません。本日も眉唾物の講釈にお付き合いいただきたいのでございます。

 

本日ご紹介するのは、ケヴィン・ハーン著「鉄の魔道僧1 神々の秘剣」でございます。

 

物語の主人公の名前はアティカス・オサリバン。彼はアメリカのフロリダでオカルト本や怪しいハーブを売る店を経営しています。

 

一見ただのちょっと危ない若者に見えるこの男、年齢を尋ねられたら「21」と答えますが、この「21」とは実は21歳という意味ではありません。実は彼、2100年前から生き続けているドルイドケルト神話に出てくる魔法使い。「指輪物語」のガンダルフのようなもの)だったのです。

 

では一体なぜ2100歳のドルイドが現代まで生き続けていて、しかもケルト神話の舞台であるアイルランドではなく現代のアメリカにいるのか。それにはちょっとしたわけがあるのですね。

 

というのは彼、2世紀頃に実在したと言われているアイルランドの王「百戦のコン」の軍隊とゲール人とスペイン人からなるモー・ヌアダの軍隊との戦いである「マグ・レイナの戦い」に参加していたのですが、その戦いの中でコンが所有していた伝説の剣である「フラガラッハ」を入手したのです。

 

アティカスは考えます。そもそも一体この戦は何なのだろう。もしコンがこの伝説の剣を持っていなければ、彼はモー・ヌアダを攻撃しようとは思わなかったはずだ。そしてこの剣をコンに与えたのは、ダーナ神族の長腕であるルーだ。ダーナ神族はそうすることで間接的に人間社会に影響を与えようとしているのだろう。それが気に食わない。

 

その時、アティカスの頭の中で声がします。「剣を取れ、そして戦場を出ろ、お前は守られている」と。

 

その声の主こそが、ケルト神話に置いて破戒と戦さの女神であるモリガンだったのでした。

 

このモリガンの庇護を受けることで、アティカスはそれから決して死ぬことはなく、これまで2100年もの間生き続けることとなったのです。

 

しかしそのような神との契約は、いつどこの時代においてもそうであるのと同じように、ただ良いことだけではありませんでした。

 

そうして決して死ぬことなく生き続けるということは、同時にこのフラガナッハを取り返そうとするダーナ神族の追撃をひたすらかわし続けなければならない、ということでもあったのですから。

 

アティカスはヨーロッパの各地を渡り歩き、歴史の様々な事件にも遭遇してきました。そして恐らく最も神たちがその影響力を及ぼしにくい場所としてアメリカ大陸を選び、移住してきたのです。

 


ところが、そんな彼の元にモリガンがカラスの姿となって現れます。そこで彼女はついに彼の居場所がダーナ神族の長であるアンガス・オーグに見つかったと伝えるのです。

 

同じくダーナ神族の狩りの女神であるフリディッシュもまた彼の元を訪れ、どこかに別の場所に身を隠すよう忠告します。

 

しかしアティカスは正直もううんざりしていたのです。そうやってダーナ神族のいる常若の国から刺客が送られてくることに。そしてひたすら逃げ続けてこれから先また何千年と生き続けていくことに。

 

「決着をつけるにはそれだけでいいのかい? ただひとところにじっとしているだけで?」
「そうだと思うわ。彼はまずだれか代わりの者をよこすでしょう。でもあなたがそれを倒せば、結局彼が自分で来なければならなくなる。でないと臆病者と言われて、常若の国から追放されるもの」
「それらじっとしていることにしよう」おれはそう答え、彼女に微笑みかけた。「だがきみはじっとしていなくてもいいぞ。ゆっくり腰をゆらすのはどうだい?」

 

というわけで、この物語は現代のアメリカを舞台に、主人公が常若の国から送られてくるダーナ神族の神々を悉く返り討ちにしていく、そんな物語なのでございます。

 

彼の元には敵である神々だけでなく、なぜか敵でも味方でもない女神たちも現れて、まあそんな女神達と主人公は大抵ウッフ~ン♡なこととなります。それも見せ場の一つでしょう。

 


さてさて、私は本書を読みながら、最初に思ったのは、「ああ、これはラノベだな」ということだったのでした。2100歳だけど見た目は21歳のドルイドというチート(主人公が最初からルール破りなくらいに最強ということ)設定、次々女神がやってきてなぜか主人公といい関係になるハーレム展開、そして主人公が自分から動かなくても敵が向こうから続々やってきてくれる巻き込まれ型のストーリー。

 

で、そういういわゆるラノベ的なものってファンタジーの王道である「指輪物語」とか「ゲド戦記」なんかとは根本的に違うものだと思うんですよね。

 

まあ、ハーレム展開は別としても、例えば「指輪物語」なんかだと主人公のビルボは仲間の中で一番弱い存在で、そんな彼こそが冥王サウロンと対峙しなきゃいけないから面白いのだと思うのですよ。そして主人公たちは弱い存在であるからこそ、長い長い旅をしなきゃならんわけです。

 

つまり成長物語であり冒険物語であること、というのが、なんだろう、本質的なファンタジーというか、あるいは原理主義的なファンタジーだと思うのです。

 

別にだからと言ってラノベをダメだと言いたいわけではないんですよ。だってそもそもが「指輪物語」のような原初的なファンタジーだって、神話という物語構造を当時の現代風に焼き直してできたジャンルなんですから、それが今となってこういう風になってくるのはむしろ当然だと思うんです。

 

だから別にいいんですけど、個人的な趣味としてはあんまり好きではないな、という感じだったのです。

 

でもね、この作品、しばらく読んでいくとちょっとそれだけではないぞ、ということに気付きます。

 

例えばファンタジーの王道として「ゆきてかえりし物語」がありますよね。「ナルニア物語」とか「ハリー・ポッター」とか。で、この作品も実は「ゆきてかえりし物語」なんです。本当は。

 

といっても、決して主人公がそうだというわけではありません。「ゆきてかえりし」なのは、むしろ神々の方なんですよね。そして主人公というのはこの常若の国から突然訪れる神々に、ただ翻弄されているだけの存在なのです。エッチな展開になる場合も、大抵は女神側の意思に逆らえずにそうなるわけですから、まあこれ、言ってみれば逆レイプなんですよね。別に本人が喜んでるみたいだからいいんですけどw

 

で、「ゆきてかえりし物語」のポイントって、主人公が「現実」の知識や価値観を「異世界」に持ち込むことで主人公はその異世界を救う、ということになるのです。そう考えたら「ゆきてかえりし物語」って、「現実の世界による異世界の征服」なんですよね。

 

で、実は「ファンタジー」と「神話」の一番の違いってそこにあると思うんです。どちらの理屈に立つのか、「人間としての理屈」を正しいとするのか、あるいは「神の理屈」が正しいとするのか。

 

神話って、ケルト神話だけでなくギリシャ神話だろうが旧約聖書だろうが日本の神話だろうが、「ゆきてかえりし物語」とまったく逆の構造を持っているのです。言い換えるなら、「いかにしてこの現実は異世界から来た神々に征服されたか」という物語なのです。

 

「人間としての理屈」に立った場合には、何が善で何が悪で、何が得で何が損かははっきりするんですよね。でも、神話ってそうじゃないじゃないですか。神話の場合には、何が善で何が悪なのかがはっきりしていなくて、ただ神がやることが善なのです。それを認めるしかない。

 

そう考えるとこの作品って、実は根本的なところでこの「神話の理屈」みたいなのにちゃんと忠実なんですよね。そういうことを主人公は「極度の被害妄想」と呼んでいるのですが、うん、そうだと思うんですよ。神話を読んで楽しむというのは、結局のところこの「極度の被害妄想」のような気がするのです。

 

だからそう考えると、実はこの作品、一見ラノベのようであって全くラノベではない。むしろ真逆の考え方の作品なんです。

 

すごく分かりやすく言えばこの作品って「人間である主人公と神々との戦い」ということになっちゃうんだと思うんですけど、実は勝敗はもう始めから決まってるんです。神々の勝ちです。でも、どういうのが神々にとっての勝ちなのかは、人間には想像することすらできないわけですが。

 

こういうの、なんだろう、上手い言葉が見つからないのですが、「芯が通ってる」って感じがします。ただ神話からキャラクターを拝借しているだけじゃない。ちゃんとラノベ的要素もちゃんと押さえつつ、ケルト神話や様々な神話を上手にキャラクター化して登場させつつ、でもその元となる神話の外しちゃいけない部分はしっかり守ってる、というかリスペクトを感じる。そんな作品です。

 

まあ、こんな私みたいに小難しいことをごちゃごちゃ考えなくても、「イケメンドルイド、イェー!」「女神とエッチ、羨ますぃー!」と楽しんで読むのもありですし、あとはケルト神話に限らずヴァンパイアや人狼、あるいは別の神話の神々までオールスターで登場しますから、スーパーナチュラル系のオタクっぽく「おお、そいつをここで持ってくるとは、作者なかなか分かっとる!」みたいな楽しみ方もありでしょう。

 

そういう懐の深さのある作品ってなかなかないんじゃないかな、と思いました。面白いですよ。

 

おなじみ ケヴィン・ハーン著「鉄の魔道僧1 神々の秘剣」に関する素人講釈でございました。

 

 

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

 

 

キラキラした言葉でキラキラネームを語る話。~まずはちゃんと取材しろ。話はそれからだ編

 

キラキラネームの大研究 (新潮新書)

キラキラネームの大研究 (新潮新書)

 

 

えー、相も変わりません。本日ご紹介したい本は、伊藤ひとみ著「キラキラネームの大研究」でございます。


まあ、本書は一言で言うならば、「キラキラネームとは何か」について著者が語った本です。うん。別にそれ以上のことを知る必要はありません。

 

ほんとにひどい本だと思います。悪書とはこういう本のことを言うのですね。ネットに悪口書き込むとか褒められたことではないと思いますが、もしかしたら私と同じよう嫌な思いをしてる人も多いかもしれませんので残しておきます。

 

ということで、さっそく私の「キラキラネームの大研究の“大研究”」を述べていきましょう。

 

第一に、本書の批判されるべき点は、本書があまりにも「キラキラ」した言葉を用いすぎているという点です。「キラキラネーム」というものが、他人には意味は伝わらないが、その名前をつけた親だけが「世界に一つだけの花」だと勘違いしているイタイ名前であるとするのなら、この本にはそれと同じく、当のご本人はご満悦で使っているのか知らないが、読者には絶対伝わってねえぞという「キラキラした言葉」が頻繁に使われているのです。

 

一例を挙げましょう。本書の冒頭でこのようなタイトルの章があります。

 

「「光宙」くんとの“出合い”」

 

さて、これだけ読むと、皆さんは普通、こう思われるのではないでしょうか。「ああ、この著者は光宙と書いて「ぴかちゅう」と読む可愛そうなキラキラネームをつけられた人と、実際に出会ったのだな」と。

 

しかし本書を読むとそうではありません。実際に本書を読むとこの著者はネットをしていて2ちゃんねるか何かで「光宙」というDQNネームを付けられた子がいるらしいという話を見た。で、それについてネットで色々調べると、どうやら都市伝説らしいと分かった。なぜならそういうことを調べたサイトがあったから。以上。

 

……いやいや、これのどこが「出合い」なんだよ? そもそもこの著者は光宙くんと「出合って」なんていません。ただそういう子がいるかもしれないとネットで知っただけです。それを「出合い」と言うのなら、私なんか毎朝8時に有村架純と「出合って」るんだからな! こっちの方がもっとリアルな「出合い」なんだからな!(自分で言ってて空しいわ)

 

しかし私が気になるのは、そういうことではありません。ただ面白すぎるのでネタにしただけです。私が気になるのは、むしろ著者が知ってか知らずかわざと「キラキラネーム問題」を複雑にしようとしていることです。

 

著者は本書の序章でこう言っています。

 

「そして浮かび上がってきたのは、ネット住民から虐待との烙印を押されても仕方のないような奇矯な例は突出したケースだということだった。実態としては、珍しい漢字の読み方をしたり、これまでの日本語の名前にはなかったような音の響きをもっていたりする「読めない名前」がキラキラネームの多数派であることが知れた」

 

そしてさらに、著者はこう言います。

 

「こんなふうにイメージだけで「キラキラネーム=非常識な親がつける名前」と決めつけて、頭ごなしに非難したりする風潮が、ちょっと危うい気がするのだ」

 

そう、本書において著者は「キラキラネーム」には2種類あるとしています。仰るとおりだと思います。「光宙」のような、いわゆるDQNネームと、「普通はそう読まない名前」、本書にも例示されている、芦田愛菜などは決定的に異なりますし、「光宙」なんて子が仮に実在するとしても、それは「現代でも」(ここ重要!)少数派です。

 

しかしこの序章の最後に著者はこう言うのでした。

 

「なお、以下本書ではDQNネームではなく基本的に「キラキラネーム」という呼称で統一することとする」

 

……こらこら、なんでやねん。DQNネーム=キラキラネームにするのは危ういんちゃうんか! 統一したらあかんやろ!

 

まあ、本書はもう、こういうのばっかりなんですよね。言ってることがばらばらでまったく一貫性がない。

 

そういうわけで、せっかく著者自身が最初に序章で「すべてのキラキラネームをDQNネームだと思うのは良くない」と言っているにもかかわらず、本論ではただDQNネームについて語ることによってすべてのキラキラネームの謎を解明しようとする「旅」に出られることになります。なんじゃそら。なんのための序章だったんだ?

 


さて、本書ではこの後、ひたすら「現代の」キラキラネーム(と言いながら実際にはDQNネーム)の紹介が続きます。ずいぶんネットで探されたんですね。ご苦労様です。あと「たまひよ」とかから探してきたんですね。

 

……えーっと、実は「出合い」の時にも思ったんですけど、そもそもテーマが現代の事象なのだから、本やネットではなく実際に当事者に会うのが当たり前じゃないんですかね。「キラキラネームの大研究」なんてタイトルなのに、一度もキラキラネームをつけられた子どもやつけた親に会っていないのはなぜ? しかもこの著者って奈良新聞社の元記者なんですよね。奈良新聞の記事って、事件をネットで探して書いてんの? もしかして奈良新聞ってヤフーニュースのことですか?

 

ちなみにこうやってネットサーフィンしたり関連書を読むことを著者はこう表現しています。

 

「現象の向こうを見る“旅”」

 

また出ました! あのね、そんなものが「旅」と呼べるなら、私なんて毎日……(以下省略)

 

もうとにかくそんなキラキラした旅に出る前にまずはちゃんと取材しろよという話です。取材もせずに何が「大研究」だよ。笑わせんな。

 


さてさて、そして本書の内容は言葉の持つ「言霊」に至ります。著者によると日本語には「言霊」があるそうです。そして著者は言います。

 

「言葉には、悠遠な記憶が凝縮されている。古来受け継がれてきたそうした言葉の力を侮ることなく、名前そして言葉そのものに向き合わなければならないと切に思う」

 

お・ま・え・が・い・う・な!

 

さらに著者は言います。明治期にも珍名はたくさんあったと。例えば森鴎外が息子につけた「於菟」が良い例だと。しかしこの鴎外がつけた名前は、ただ単に巷間言われているような「オットー」だけではない。当時の知識人なら当然知っていた漢籍における「虎に育てられた男」に由来するのだ。現代の「心愛」なんかと一緒にするな! この教養の質量の違いを見よ! と。

 

よーし、みんなー、頑張って子どもに好きな名前つけるために森鴎外クラスの教養人になろうぜー! って、なれるかー!!

 

そして著者の「旅」はさらに続きます。どうやら現代にキラキラネームが氾濫している元凶は、国語改革にあるのだと。

 

この「国語改革」はまあ、一言でいうなれば「政府が言葉に首を突っ込んだ」ということです。そうですよね。ここも仰るとおりだと思います。政府が「あの漢字は使うな」だとか「あの漢字は省略しろ」などと首を突っ込んだせいで、「本来の」意味を失った漢字も多くあるのでしょう。まったくけしからん話です。

 

しかし著者は言うのでした。

 

「こうして国語改革が進められ、漢字は特権階級御用達の、裃をつけたような「ハイブロウな文字」から、国民の誰もが平易に使うことのできる「カジュアルな文字」へと改造されることになった」

 

つまり、昔は教養ある人しか漢字を使わなかったのに、政府が首を突っ込んで引っ掻き回したおかげで今はバカが漢字を使っている。そういうことですよね。いや、正確に言うとバカな政治家が首突っ込んでバカな漢字をバカに教え込んだからバカがバカな漢字を使ってる、そういうことですよね。

 

てことは、やっぱりこの著者は「バカが漢字を使うからキラキラネームが生まれる」って言いたいってことになるでしょう。そりゃそうなるよね。だって著者の頭の中では「キラキラネーム=DQNネーム」なんだもの。

 

「こんなふうにイメージだけで「キラキラネーム=非常識な親がつける名前」と決めつけて、頭ごなしに非難したりする風潮が、ちょっと危うい気がするのだ」

 

じゃなかったの? あ、「非常識」と「平易」と「バカ」は意味が違うって? そうだよねー。違うよねー。言葉ってほんと便利だよねーw あ、それとも「バカな人がバカなのはバカな人のせいじゃなくて政府のせいなんです」って仰ってるんでしょうか。あの、それ全然フォローになってないんですけどw

 

そして著者は言うのです。そうして漢字の教養のないバカで非常識な一般人は、例えば「人に愛される人になってほしい」という意味で「僾」を使いたがったり、「月と星できれいだから」と「腥」を使いたがると。ほらほら、岩波新書の「日本の漢字(笹原宏之著)」にも書いてあるよ! と。(ちなみに、その本読んだことないから実際はどうか知らないけど、多分アンケートそのものが恣意的だったと思います。ちゃんと「僾」や「腥」の意味を説明した上でその言葉を名前に使いたいかどうかは聞いてないよ)

 

でも、これはあくまでも「なにか名前に使用できるようにしてほしい漢字はありますか?」と聞かれて、そう答えた人が多いというだけのことです。実際にその漢字が多く名前として使用されたわけではありません。

 

そして実際、この著者が明治安田生命のホームページか何かからコピペした(おい、またネットかよ)「子どもの名前表記ランキング2012」の中にその漢字は含まれていません。当たり前でしょう、ただ聞かれただけの場合と実際につける場合では真剣さが違いますもの。

 

つまり仮に「僾」や「腥」を名前に使う親がいたとしても、そんな親はDQNネームと同じくらいレアなケースだということです。決して多数派ではありません。

 

にも関わらず著者はこのような事例から、こう結論づけるのです。

 

「漢字本来の規範と伝統とのつながりから隔絶した世代には、「漢字」はもはや、イメージやフィーリングで捉える「感字」になっているのかもしれない」 

 

はーい、両親にイメージやフィーリングで実名に「僾」や「腥」なんて漢字をつけられたって人、いらっしゃいますかー? もしいたら出てこいや!

 

ていうか、またまた登場、「感字」ですってw 一体そこにはどんな漢籍の教養があるのでしょう? 一般人にはもはや理解不能なんですがw まさかイメージやフィーリングで仰ってるわけじゃないですよね?

 


ということで、要するに本書は最後まで読むと、「まったく最近の世の中はバカが増えて困る」という本です。一所懸命どころかありとあらゆるところで「私はそんなことは言っていないです。ちゃんとフォローしてます。バカな人たちを」という防御線を張っておられますが、むしろそのために理屈がめちゃくちゃになっている一冊です。最初と最後で言っていることが全然違う。

 

少なくとも本書には「バカが増える」以外にキラキラネームの横行が「“言語の森”の枯渇」につながる理由はどこにも書いてありません。ただ本書を読んで分かるのは、DQNなレアケースがネット全盛のこの時代には手軽に手に入るよね、というその事実だけです。知ってるわ、そんなこと。あんたに教えてもらわなくてもな! そこまでバカじゃないんで!

 

そしてDQNなレアケースはいつの時代もあったのであって今だけではありません。昔の人が今より賢かったわけでも今より言葉に対して真摯だったわけでもありません。国語改革が行われようと行われまいと、DQNネームはなくなりません。バカな人はバカだし、変な人は変な人です。教養あふれるバカや教養あふれる変人は掃いて捨てるほどいます。森鴎外が良い例です。何の因果関係もありません。

 

はっきり言ってしまえば現代の名前に「読むのが難しい名前」が増えているのは、ただ単に今の若い人たちが名前に使える漢字の豊富さや読み方のバリエーションが豊富だということを「知っている」というだけでしょう。でも昔の人は「知らなかった」。それだけでしょう。

 

本書において著者は得意げに「キラキラネームの10の方程式」を披露しておられますが、そんなこと今の若者はみんな知っています。知らなかったのはキラキラネームに眉をひそめる大人だけ。だって大人の方々よりもgoogle先生の方がずっと賢いんだもの。そんなことネット大好きな本書の著者が一番ご存知でしょう。もう、本書を読みながら「こいつ、どんだけネットしてんだよ」と何度思ったことか。

 

そう考えたら、現代の若者は漢籍の教養はないかもしれませんが、昔の人よりも知識は豊富だと言えるでしょう。google先生がついてるからね。それとも、昔の人もそんなことは当然知っていたが、あえて「“言語の森”を枯渇」させないためにスタンダードな名前を選んでいたとでも? そんなはずないでしょう。昔の人どんだけすごいんだよ。ていうか、「“言語の森”を枯渇」ってなんだよ? イメージやフィーリングでなく具体的に説明してくれよ。

 

DQNネーム」と「読むのが難しい名前」は本質的に異なるものです。一緒にしてはいけません。本書にも書いてあるとおりです。だから本当にやめてあげてください。今の子育て世代がかわいそうなんで。

 

だけどキラキラネームの本当の悲劇は、そこをみんな一緒にしてしまうことにあるのではないでしょうか。DQNネームではなく「読むのが難しい名前」が問題だと言うのなら、そもそもDQNネームについて触れるべきではないでしょう。話がややこしくなるだけなのだから。

 

にも関わらず、なぜ本書はそうしようとしないのか。著者がバカなんでしょうか? だったら話はきっと単純なのだけれど、多分そうではないでしょう。要するに、問題は教養のないバカが増えていることではなく、むしろ教養のある(と自分で思ってる)人が自分の偏見に気づいていない、ということの方なんです。あるいは教養のある(と自分で思ってる)人が自分の偏見をわざとごまかしている(つもりでいる)ということの方です。本当はただ「DQNネームがむかつく」って言いたいだけなのだけれど、DQNネームが今だけの現象だけでなく昔からあるという事実を知っている程度には教養がおありだから、わざわざ「日本語の深い森」「旅」をしなきゃならんのでしょう。

 

ていうか、要するに「DQNネームが問題」だと言いたいがためにDQNじゃない現代風の名前も全部ひっくるめて「キラキラネーム」と呼んでるだけ。ほんとに、ただそれだけのこと。

 


「“言語の森”が枯渇している=(本当の意味は)世の中にバカが増えている」と言って同世代の共感を得たいがためにキラキラネーム=子育て世代や子どもたちをダシにするのはいかがなものかと私は思います。それが大人のやることかよ。

 

バカな親が言霊にこめられた呪いをうっかり子どもに与えてしまうことよりも、こういう大人の若者に対する怨念や侮蔑という呪いの方がよっぽど恐ろしいです。


あー、もう、ほんと日本の将来が心配。どうかキラキラネームの子どもたちが成人する頃にはこういう本を読んで溜飲を下げてるキラキラした大人が一人でも多く社会から退場していますように。

 

最後に大事なことなのでもう一回言います。

 

まずはちゃんと取材しろ。話はそれからだ。

 

おなじみ伊東ひとみ著「キラキラネームの大研究」に関する素人“大研究”でございました。

 

キラキラネームの大研究 (新潮新書)

キラキラネームの大研究 (新潮新書)

 

 

世界中のすべての女性にささげる話。

 

雪のひとひら (新潮文庫)

雪のひとひら (新潮文庫)

 

 

えー、相も変わりません。本日もまた、眉唾ものの素人講釈を一席お付き合いいただきたいわけでございます。

 

本日ご紹介したいのは、ポール・ギャリコの「雪のひとひら」でございます。

 

私はね、もう、この本が大好きで、何と4冊も持っているんですね。

 

え、何でそんなに持ってるかって? それはね、私の周りにいるかわいい雪のひとひらたちにプレゼントするためなのですよ。

 

ということでまずはこの物語のあらすじをぱぱっとご紹介いたしましょう。

 


ある冬の日に雲の中で生まれた雪のひとひらは、空から大地へと降りてきます。

 

そこでたくさんの仲間たちと共に降り積もった彼女は、春が訪れると水となり、川の流れに加わるのです。

 

川を流れていく雪のひとひらは、雨のしずくという男性と出会います。

 

そうして二人で助け合いながら流れてゆくうちに、子どもたちが生まれます。

 

流れてゆく間には、たくさんのことが起こります。

 

下水の中に紛れ込んでしまったり、消防車のタンクの中に紛れて炎と戦うことになったり。

 

やがて雨のしずくが死んでしまい、子どもたちが巣立っていきます。

 

再び一人になった雪のひとひらは川をずっと流れていき、海へと辿り着きます。

 

そしてこの海に漂いながら、雪のひとひらもまた天へと召されていくのでした。

 


そんなお話でございます。一人の女性の人生というものを、この物語は雪に例えているわけですね。

 

で、私はこの物語のとても重要なポイントは、作者のポール・ギャリコが男性であるということなのではないかと思うのです。

 

考えてみてください。なぜ雪のひとひらが女性なのか、ということを。なぜ、雪のひとひらが男性であってはいけないのでしょうか。

 

作者は女性は「雪」で男性は「雨」だと言っています。それはどういうことでしょう。

 

このことは、女性と男性の身体の違いを現しているのです。

 

要するに、女性はある年齢になると初潮が訪れ、それからは40年近くの間ずっと生理と付き合って生きていくという、そういうことを「雪」と表現しているわけですね。

 

だから雪のひとひらは、「春」が来ると「水」になるわけです。身体が子どもから大人へと変化するわけですね。

 

一方、雪のひとひらの夫である雨のしずくは、生まれた時から「水」なのです。男性には初潮も生理もありませんからね。

 

このことはすごく重要なことだと私は思うのです。というのは、男性が子どもから大人になるきっかけは何かと言えば、それは「社会的な要請」なわけです。

 

つまり、就職とか、結婚とか、子どもができるとか、そういうことなわけですよ。

 

で、そういうものは全部自分の身体に何か変化が起きるわけではなく、身の回りの環境が変わるわけです。

 

雪のひとひらと雨のしずくの間に子どもが生まれた時もね、雪のひとひらがそのことを雨のしずくに伝えると、雨のしずくは少しうろたえながら「あ、そ、そうなんだ」みたいな感じになるんですよね。まあ、そういうもんなんですよ、男というのは。

 

でも女性の場合、身の回りの環境が変化する前に否応なく自分の身体が変化することを実感するわけです。

 

まるで雪が雪のまま水へと変わるように。

 

その後で多くの女性は「社会的な要請」を受け入れるかどうかという課題が訪れるわけですね。

 

この物語の中で作者であるポール・ギャリコは、雪のひとひらが水へと変わることは「春」というとても詩的であり、また物語においても重要なシーンとして描いています。

 

一方で水となった雪のひとひらが「社会的な要請」を引き受けるシーンは、水車に巻き込まれてしまうシーンとして描かれています。ここで雪のひとひらは自分も川の流れという社会の一員だという自覚が芽生えるのです。

 

でもこの水車のシーンは非常にあっさりと描かれています。何と言うか、そんなことは大した問題ではないという感じです。

 

ここがね、私も男なのですごくよく分かるんです。水車のシーンとか、ほんとどうでもいいんですよ。大事なのは春が訪れるシーンなのです。

 

でもね、もしこの物語を女性が描いていたとしたら、恐らく逆になるのではないかと思うのです。

 

ジェンダー論とかフェミニズムとかそうじゃないですか。女性がいかに「社会の要請」を引き受けるのか、といったことの方がむしろテーマとなっているでしょう。

 

私はね、少年少女が社会人になることよりも、一人の少女が大人の女性に変わることの方がずっと神秘的だし、大切なことだと思うんです。

 

だって「社会の要請」って、曖昧ですよ。現代社会では大人であるかどうかってちゃんとお金が稼げるかどうかってことかもしれませんけど、今みたいに経済が価値観を支配していない時代や地域では、大人の意味も変わってしまうんです。

 

もし明日富士山が噴火したり南海トラフ地震が来て日本経済が壊滅してしまって、しかもその後に復興に失敗してしまったりしたら(多分10%位はそういう可能性あると思うんですけど)、今の世の中で上手くお金を稼げる能力とか何にも役に立たなくなるでしょう。むしろ健康で肉体的な強さを持った男性こそが「大人」になるでしょう。

 

「立派な大人」とか「立派な社会人」とかって所詮そういうものなんですよ。時代や環境によって変わるんです。

 

だからね、なんか「女性の経済的自立」みたいな話を聞くと、なんかもやっとするんですよね。別にそれが重要じゃないとは言いませんよ。大切なことなんですけど、でも、誤解を恐れずに言うならば、本当につまらない。せっかく女性に生まれついたのに、何を好き好んで「おっさん」になってるの? と私は思うんです。

 

それに男性の特性っていうのはね、危機的状況に対応できるように作られているわけですよ。「力が強い」とかね。「論理的」とか。

 

だから男性的論理が幅を利かせている時代っていうのは、要するに「人間の生きにくい」時代なのだから、さっさと終わった方がいいんです。

 

科学技術や社会環境が整っていって人間が暮らしやすくなっていけばいくほど、女性の感覚の方が重要になってくるんですよ。むしろそういうのを目指すべきじゃん、と私は思うんですよね。

 

 

……あれ、なんか話がずれてしまったぞ。何が言いたかったんだっけ。

 

えーっと、要するにですね、そうそう、「社会の要請」って時代や環境によって変わるという話です。でも女性が少女から女性に変わる変化って、もっと確実な話でしょう。1000年前だろうと1000年後だろうと、封建社会だろうと民主主義の社会だろうと、女性は10歳くらいになったら生理になるんです。こっちの方がよほど重要な問題ですよ。

 

そしてそういう身体で生まれてきているからこそ、女性は男性とは異なった思考ができるのだろうと私は思うんです。なんというか、矛盾に強いというか、不条理に強いというか。だって身体がもう、そうなってるんですからね。

 


多分ね、作者はそんなことを思いながらこの物語を書いたのだと私は思うんです。女性であるということは、ただそれだけでまるで雪のように美しいと。世界中の女性にそのことを伝えたくて。

 

それに、男性だけですからね、一人の女性に対して「あなたはただあなたが女性であるというだけで素晴らしい」と、そう言ってあげられるのは。そうでしょう?

 


ですからね、私はこの物語をすべての女性におすすめしたい。まだ読んだことがないなんて女性がいたら、もうそれは本当に、心の底から「なんてもったいない!」と思います。そんな人は9/4からブックポート大崎店で開催される#​棚​マ​ル​「​こ​の​本​に​惚​れ​ま​し​た​!​」​フ​ェ​ア​でこの本を買わなければなりません。いや、買いなさい。マジで。9月はなんと土曜日も特別営業するそうですから!行きなさい!お近くの人は!

 

そして私はポール・ギャリコにはなれないけれど、「ポール・ギャリコの『雪のひとひら』を知ってるおじさん」にはなれるので、この本をプレゼントしてあげようと、既にスタンバイしているわけですよ。

 

雪のひとひらたち、待っていなさいね。

 

おなじみポール・ギャリコ著「雪のひとひら」に関する素人講釈でございました。

 

雪のひとひら (新潮文庫)

雪のひとひら (新潮文庫)

 

 

不条理さを目の前したら、そこに正解なんてものはないという話。

 

夕凪の街 桜の国 (双葉文庫)

夕凪の街 桜の国 (双葉文庫)

 

 

えー、相も変わりません。本日ご紹介したいのは、こうの史代著「夕凪の街、桜の国」でございます。

 

本書の内容を一言で言えば、原爆が投下された広島の人々の物語です。

 

本書は「夕凪の街」と「桜の国」という2つの作品からなっており、「夕凪の街」は終戦直後に被爆した女性の物語、そして「桜の国」は舞台を現代に移し、その被爆した女性の姪っ子の物語となっています。

 

この作品の中で最も心を揺さぶられるポイントは、やはり「夕凪の街」における主人公の女の子の最後の台詞でしょう。

 

たくさんの家族や知人を原爆によって奪われた彼女は、それでも自分は生き残ったと思っていた。生き残ってしまったと思い、どこかそのことに対する罪悪感を抱えながら終戦後の日々を送っていたのです。

 

しかしやがて彼女自身も被爆していたことが明らかになります。そうして職場の男性からプロポーズを受けていたのですが、彼と幸せな日々を過ごせるようになる前に死んでしまうのです。

 

その死の間際、彼女は思います。

 

「嬉しい?
十年経ったけど、原爆を落とした人は、私を見て
「やった!また一人殺せた」と、ちゃんと思うてくれとる?
ひどいなぁ。
てっきり私は、死なずにすんだ人かと思ってたのに。」


この台詞の中には、本当に、たくさんの複雑な思いが込められていると思うのです。

 

まず最後に彼女は

 

「ひどいなぁ。
てっきり私は、死なずにすんだ人かと思ってたのに。」


と言っているけれど、果たしてそれは本心なのか。もちろん本心なのだけれど、多分そう言いながら、どこか罪悪感から解放されてほっとしてるような、そんな思いが込められているような気がするのです。

 

そして最初の方の台詞。

 

「嬉しい?
十年経ったけど、原爆を落とした人は、私を見て
「やった!また一人殺せた」と、ちゃんと思うてくれとる?」


というところ。これも、果たして本心なのでしょうか。

 

だって、そうではありませんか。はっきり言ってしまえば、「そんなわけないよ」ということです。広島や長崎に原爆が落ちました。ではその原爆を落とした兵士は、あるいはそれを指示したアメリカは、そしてそもそも原爆を開発した科学者は、広島や長崎を憎み、あいつらを一人でも多く殺してやると、そう思って投下したのでしょうか。

 

そんなわけはないですよね。原爆は、広島や長崎が、あるいは日本という国家が対戦国であるアメリカから「憎まれていたから」投下されたんじゃないんです。

 

むしろもっと単純に、「ただ戦争とはそういうものだから」投下されたのです。

 

極端に言えば、彼らは原爆を投下すればどうなるかということについて、ほとんど何も考えていなかった。いや、あるいはその時彼らが考えていたのは、自分の家族のことであったり、国家のことだったのです。たとえそれが「憎しみ」や「怒り」であったとしても、「相手」のことを考える余裕など誰にもなかったのです。

 

でも、そんなのは辛すぎるじゃないですか。そんなことで殺されるなんて、あんまりじゃないですか。

 

だからそうじゃないんだよね、あなたたちは私たちが憎かったんだよね、だからこんな目に遭わせるんだよね、そうだと言ってよ、っていう心の叫び。

 

私はそのことこそが、この原爆という事実における現実であると思います。

 


例えば、あなたの大切な人が誰かあるサイコパス(私はこの言葉嫌いなんですけど)によって殺されたとしましょう。

 

その犯人があなたの大切な人を殺したのは、別に恨みでも怒りでもないのです。多分その犯人の中の理屈の中で、そうするべきだったからそうしたのでしょう。

 

その時あなたはその犯人の理屈を受け入れることができるでしょうか。

 

できませんよね。

 

あなたはきっと、自分の怒りをその犯人に向かってぶつけるでしょう。

 

でもそのうち、あなたは段々と空しくなってしまう。

 

なぜならその怒りが決して相手には届かないことが分かるから。犯人はあなたにとってただただ不条理なだけの存在だからです。

 

でもあなたにとってできることは、決して相手には伝わるはずのない怒りを持ち続けることだけなのです。

 

「夕凪の街」で描かれていることも、そういうことだと思うんです。

 

主人公の女の子が死ぬ間際に発した台詞、それが間違っているということくらい、本当は彼女は分かっているんです。

 

でも、それでも、間違ってると分かっててもそう言わざるを得ないという現実。

 

現実というものの不条理さ。

 

 


時折戦争の話になると、ご自分は現実主義者だと自称する人が「戦争もまた一つの手段だ」というようなことを言ったりします。

 

そういう時私は、本当に心の底からその人の「現実」の薄っぺらさが愚かだと思うのです。

 

「戦争」が「不条理」であるという「現実」を知らないから、そのようなことが言えるのです。そして平和主義者を「現実逃避」と嘲笑う。

 

 たとえ戦争に巻き込まれても、その人は多分、ご自分の理性を保っていられると、そう思っておられるのでしょう。そのことがもう、ちゃんちゃらおかしい。戦争状態ではない今この時ですら、感情的な煽り文句に心動かされているくせに。

 

本当に「現実逃避」しているのは一体誰なのか。「現実」の不条理さに対する認識が甘いのか、あるいは直視するのが怖いから「たいしたことはない」と思い込もうとしているのは一体誰なのか。

 


私は兵隊になったことがあるわけではありませんが、でも別に兵隊になったことがなくったってこれだけははっきりと言えます。

 

もしもあなたが兵士となった時、あなたは敵の兵士かあるいは一般人を殺すことになるかもしれない。

 

 

でも、その時あなたは決して「憎しみ」や「怒り」の感情によって殺すのではない、と。

 

そんな風に思っているのだとしたら、それこそくだらないフィクションの見すぎであるか、あるいは戦争をスポーツか何かと勘違いしているのでしょう。

 

憎しみや怒りによって相手に危害を加えたり加えられたりしたのなら、人は誰でも自分で自分に納得することができます。

 

でももしそうではないとしたら?

 

 

ただ「戦争」という舞台を与えられただけで、私たちはいとも簡単に不条理なことをしてしまうのだとしたら?

 

あるいはその時、あなたやあなたの大切な人がそのような不条理さの犠牲者になってしまったとしたら?

 


本書に収められた2つの物語は、そういうことだと私は思うのです。

 

そしてこの物語に「答え」なんてものはありません。

 

不条理さを目の前にした私たちがどんなことを思おうと、どんなことをしようと、そこに正解なんてものはないのですから。

 

それが「現実」。

 

だからそんなことは二度と繰り返してはならない。

 

そういうことだと、私は思うのです。


おなじみこうの史代著「夕凪の街 桜の国」に関する素人講釈でございました。

 

 

 

夕凪の街 桜の国 (双葉文庫)

夕凪の街 桜の国 (双葉文庫)

 

 

地獄で神を見る話。

 

野火 (新潮文庫)

野火 (新潮文庫)

 

えー、相も変わりません。相も変わりませんが、本日はまじめな話を一席。 大岡昇平の「野火」をご紹介したいのでございます。

 

太平洋戦争時、フィリピンのレイテ島。主人公の田村一等兵は肺病を患ったため、わずかな食料を渡されて隊を追い出され、野戦病院へと向かいます。

 

しかしすでに敗色濃厚なこの時、病院でも手持ちの食料が尽きた病人を置いておく余裕はなく、彼は再び隊へと戻ります。

 

もちろんそこで迎え入れてもらえるはずもなく、分隊長は言うのでした。

 

「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰ってくる奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みたいな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら――死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それがいまじゃお前のたった一つの御奉公だ」

 

そうして彼は病院へ戻りますが、当然入れてもらえるはずもなく…。

 

病院のまわりには、同じように軍からも病院からも追い出されて周りでぶらついている兵士たちがいます。彼もその中に混じって、ただ「がんばって」坐りこんでいました。

 

その時、米軍が空から病院を爆撃、彼は命からがらその場を逃げだします。

 

やみくもに山のなかへ逃げ込みさまよっているうちに、彼は一軒の小屋を発見しました。

 

もはや空き家となったその家の周りには畑がありました。恐らく現地人がそこで暮していたものの、戦場となったために捨てて逃げだしたのでしょう。

 

畑には芋や豆がありました。この戦場の楽園のような小屋で彼は身を隠すのです。

 

ある日彼は山の頂に光るものを見つけます。それは十字架でした。

 

そこは恐らく教会で、周りには現地人たちの集落があるのでしょう。

 

その晩、彼は夢を見ます。それは、こんな夢なのでした。

 

彼がある村の中を歩いていると、目の前に大きな教会があります。

 

中に入ると、どうやら葬儀をしている様子。

 

彼は現地人の群れをかき分け棺桶に近づき、一体だれが弔われているのか、覗きこみます。

 

すると、そこに眠っていたのは彼自身なのでした。

 

では、一体俺は誰なのだろう? 彼はそう思います。そして気づくのでした。

 

そうか、今の俺は魂なのだ。俺はもう、死んでいるのだ、と。

 

その時、棺の中で死んでいるはずの彼の死体がふと口を開き、呟いたのです。

 

「De profundis clamavit――われ深き淵より汝を呼べり」と。

 

翌朝、目覚めた彼はその教会をめざし、小屋を出ます。

 

そうして彼が出会うのは、神なのか。

 

もちろん、そんなはずはないのです。

 

それは、この先も永遠に続く無間地獄の始まりに過ぎないのでした……

 


この作品は一般に「戦記文学」「戦争文学」と呼ばれています。

 

しかし本書の解説において、吉田健一はこう述べているのです。

 

「野火」では、大岡氏のそれまでのどの作品にも増してそういう、それこそ小説の本領である実験が行われていると。

 

つまりこの作品において、乱暴に言えば「戦争」というのは一つの舞台設定にすぎないということです。

 

作者が描こうとしたものはなにか。それは「戦争」すらも一つの条件でしかあり得ないような、より普遍的で、より形而上的な問いです。

 

すなわち「神」とは何か、ということ。

 


それは旧約聖書のテーマと通じるのかもしれません。なぜ人間はエデンを追放されなければならなかったのか。なぜ神は人間に過酷な試練を与えるのか。

 

人間は神を呼べば呼ぶほど、深い淵のなかへ落ちていく……なぜ?

 

なぜ平和のために戦争をしなければならないのか。なぜ己が生きるために人を殺さなければならないのか。なぜ人を喰ってでも人は生きたいと願うのか。もし生還できたとしても、残りの生涯を罪の意識を抱えて生きなければならないのに、それでも生き続けたいと願うのはなぜなのか。

 

なぜ? なぜこの世は地獄なのか。「神」を求めてしまうほどに。

 


野火、山の中から空へと昇ってゆく煙がそこにあるということは、すなわちその下には人間がいるということです。

 

そこに人間がいるということは、そこに地獄があるということです。

 

「われ深き淵より汝を呼べり」という旧約聖書の言葉は、次のように続きます。

 

「われ山にむかいて目をあぐ、わが助けはいずこより来るや」

 

もしも戦場という地獄に「神」がいたとして、そしてその「神」の一人子イエスが人間の姿となってその戦場に遣わされたとしたら、「彼」は飢えた兵士にこう言うかもしれません。

 

「俺を殺して、そして喰え」と。

 

その時、その言葉に従うのが信仰なのでしょうか。

それとも、その言葉に抗うこと、それが信仰なのでしょうか。

 


終戦後、生還した田村一等兵は狂人として精神病院に入ります。

 

そこでこの物語を書き始め、そしてこの物語は最後、こんな言葉で締めくくられるのです。

 

「神に栄えあれ」

 

それは戦争が過ぎてもなお、彼が「深い淵」にいることを示しているのでしょう。

 


「はじめに言葉ありき」と聖書は書いています。そして神は自分の姿に似せて人間をつくったのだ、と。「神」が人間をつくったのだ、と。

 

しかし戦場で「神」を問うこの物語は、私たち読者をある一つの答えへと導きます。

 

この物語が描き出す矛盾、「なぜ?」の答えはきっと、たった一つしかない。

それはつまり、こういうこと。

 

「この世界に「神」などいない。それは過酷な状況におかれた我々人間がつくりだすものだ。逆に言えば「神」が存在するということは、この世界が地獄であることの証明に他ならないのだ」

 

「神」はまた同時に、「お国のために死ね」と矛盾を突きつける「国家」でもあるのでしょう。

 


そしてこの結論は、さらに恐ろしい推論へと読者へ導くのです。

 

もし野で人が暮らすならば必ず火を起こす=野火を生むように、「神」や「国家」というものが人が生きていく上で絶対に必要なものであるとするならば……。

 

その先を敢えて言おうとは思いませんが、もしこの作品が描き出した結論が間違っているとするならば、そこにはまた「なぜ?」が生まれてしまうのです。

 

「なぜ、戦争はいつも「神」や「国家」の名目のもとに行われるのか」と。

 


その答えは結局、「神のみぞ知る」のかもしれない。

 

たとえ人間がその答えを知りえたとしても、この「深い淵」、地獄から抜け出せるわけではないのだから。

 

おなじみ大岡昇平「野火」に関する素人講釈でございました。

 

野火 (新潮文庫)

野火 (新潮文庫)

 

 

正しい理屈どうしでぶつかり合うのが世間な話。

 

五重塔 (岩波文庫)

五重塔 (岩波文庫)

 

 えー、相も変わりません。本日も一席バカバカしい話にお付き合いいただきたく。本日ご紹介する作品は、幸田露伴著「五重塔」でございます。

 

文豪幸田露伴の代表作にして、日本文学史上屈指の名作の一つとも言えるこの作品、まずはあらすじをご紹介しましょう。

 

時は江戸時代、谷中にある感応寺というお寺で五重塔建立の話が持ち上がりました。そうなると当然界隈で話題に持ち上がるのは、一体どの大工がそれを請け負うのかということ。

 

当時谷中で最も評判が高かった大工が川越の源太で、彼は感応寺改築の際にも仕事を請け負ったいきさつもあり、おそらく今回の五重塔も彼に言いつけられるだろうと誰もが思っていたのです。

 

ところがそこに「是非自分にやらせてほしい」と直接寺の上人様に願い出た者が現れました。その男の名は十兵衛、流れの大工であった彼は一昨年に源太に拾われた男。腕は立つものの小才が利かず、人付き合いも上手にできないため周囲からは「のっそり」と呼ばれて軽んじられていた男です。

 

十兵衛は上人様に訴えます。自分は大工の腕には自信があるが、人付き合いが上手にできないゆえうだつが上がらずにいる。それゆえ五重塔のような後世に残る仕事も、自分には回ってくることはないだろう。ただ自分の技術の証として、自分の作った模型を見てくれないか、と。

 

そうして十兵衛がこしらえた五重塔の模型を見て、上人様は驚き感嘆するのです。これほどの腕を持ちながら、ただ人と上手くやっていけないという理由でこの男が世に出ることもなく消えてしまうというのは、あまりに残念だと。

 

しかし一方で源太への義理もあります。また源太の方も、決して腕の劣った大工というわけではない。そして大工仕事にとってとても大切な人望もある。

 

困った上人様は十兵衛と源太の二人を呼びつけ、よくよく話し合って解決するようにと言い渡すのでした。

 


さて、ここからですね、十兵衛の無愛想、ぶっきらぼうぶりが炸裂するわけです。そりゃこいつはダメだわと。読んでいる人はもう、みんな十兵衛にいらいらすることでしょう。

 

まず、寺から帰った日に源太は家で十兵衛が来るのをずっと待つのですね。上人様はよくよく話し合えと言ったのだから、話し合うのならまあ十兵衛は自分のところに来るだろう、と。一応上司的な立場なわけですから。

 

ところがいつまで経っても十兵衛は来ない。仕方ないので源太はわざわざ十兵衛のところまで自らで向いていくのです。もうこの時点で源太は内心「キーッ」なわけですね。

 

そして源太は十兵衛のこともよく慮った上で、こう提案するのです。そういうことなら、二人で今回の仕事を分けようではないか、と。これも、彼的にはずいぶん譲歩した意見だったのですが、しかし十兵衛は言うのでした。

 

「十兵衛、それは嫌でございます」

 

これを聞いた源太はもう、また「キーッ」となるのです。十兵衛の妻も、必死に説得するのです。今までお前はどれだけ源太親方の世話になってきたと思っているんだ、どうか引き受けてくれないか、と。しかし十兵衛は聞きません。

 

そこで源太は「そうか、よし分かった」と。そこまで言うなら俺もさらに譲歩しよう、お前が親方になって俺がお前に従うならいいだろう、と。源太はそこまで言うのですが、しかしやはり十兵衛は嫌だの一点張りなのでした。

 

で、まあ多くの人はね、十兵衛はほんとに自己中の困ったやつだと、そう思うかもしれません。

 

しかし本当にそうなのか。

 

ここで十兵衛にとっての理屈を考えてみた場合、彼が最も重視しているのは何よりも「職人としての道理」なのですね。で、その道理に立って考えてみた場合、一つの仕事を二人で分け合うというのは、絶対に「なし」なのです。だから彼は源太の意見を受け入れないわけですが、果たしてそれは本当に自己中だと言えるのか。

 

私はね、もしかしたら、ある意味源太の方が自己中なのかもしれないと思うのですよ。「世間の理屈」というものを前に出すことで「職人の理屈」を押し曲げようとしている、と。で、源太自身そのことを分かっているから、やっぱり最終的には十兵衛に譲らざるを得ないのですね。

 

なんかそういうところがですね、この話の面白いところなのですねえ。世の中には色んな道理があって、それぞれがそれぞれにそれぞれの立場では正しいのです。にも関わらず、その正しい理屈がぶつかり合うのがこの世間だと。

 

で、十兵衛にしても源太にしても、どこかそこを分かっているのがこの二人の魅力的なところだと私は思うのですよ。これがね、よくいるじゃないですか、本当は自分のことしか考えてないくせにいかにももっともな理屈を並べ立てる人って。で、周りはなんとなくそのことに気付いているから正直心の奥では辟易してるんですけど、当のご本人だけなぜかそのことに対してだけは鈍感で「自分は賢い」と思って悦に入ってるっていう。ま、誰とは言いませんけど。いやですねえ、そういう人。

 

でもね、人間は結局そういった「自分の道理」というものから逸脱することはできないんですよね。職人は「職人の理屈」から抜け出せないし、誰かの奥さんは「妻としての理屈」から抜け出すことはできない。それが人間の悲しさであると同時に、面白さでもあるのでしょう。

 

そういった世間の不条理というもの、そういうものを否定するのではなくしっかりと受け止めて、それでも耐え抜くこと、そんな人間の姿に、露伴は「理想の人間像」を見たのだと思うのですね。

 

そしてそれこそが「五重塔」である、と。

 


ところで、本書は古文体で書かれていることに加え、その内容の深さ濃さから言っても、大人であっても読むのに苦労する作品だと思います。しかし私は今年甥っ子たちの読書感想文の課題図書として本書を推薦したのでした。

 

そして彼らは見事読みきって読書感想文も完成させた!! 中学生で幸田露伴なんて、たいしたものだとオジバカの私は一人喜んでおります。

 

甥っ子たちよ、おじさんは君たちを誇りに思うぞ!

 


おなじみ幸田露伴著「五重塔」に関する素人講釈とおじさんののろけでございました。

 

 

五重塔 (岩波文庫)

五重塔 (岩波文庫)

 

 

古今東西の口説きの名文句を集めた話。

 

 

えー、相も変わりません。本日も馬鹿馬鹿しい話を一席。

 

本日ご紹介したい本は、現代言語セミナーの「口説きの言葉辞典」でございます。これがどういう本かと申しますと、古今東西の小説や映画、歌謡曲などから様々な口説き言葉を集めた一冊なのでございますねえ。

 

で、愛の告白からベッドイン、プロポーズにいたる口説き言葉が本書には収められており、あと最後には小説などの中に登場したり、あるいは有名人が実際に送ったラブレターなんかも収められているわけでございます。

 

で、実際に読んでみると意外に思ったのが、結構女性の言葉が多いのですね。なんでしょう、私「口説く」と言えばなんか男性がするもののように思っていたのですが、意外とそうでもないようで。昨今は草食男子とか肉食女子とか言われていますが、実際のところは昔から草食系は草食系だし肉食系は肉食系だったんでしょうね、男女に関わらず。

 

まあ、でもあれなんですよね、私あんまり女性からグイグイ来られるのは苦手でして、そういう場合には気づかない振りして避けて生きてきたタイプなんですが、でも本書で見つけましたね、この言葉を女性に言われたら私はイチコロになるなって言葉。

 

それはこんな言葉でございます。

 

「本当に私の命のためにすべてを棄てることができて」

 

これは連城三紀彦「野辺の露」の一節だそうで。いいですねえ「できて?」という、この最後の「て」が好きですねえ、私は。

 

こんなのもありますねえ。大原富枝「鬼のくに」から。

 

「あたしがあなたを好きになったことを、悪いことだと思って?」

 

うん、やっぱり「て」がいいわ。


さて、男性側の言葉だと、私が一番いいなと思ったのは、三浦哲郎「忍ぶ川」のこれなんてどうでしょう。

 

「七時を六時にしてくれないか。待つ時間がたまらないのだ」

 

良くないですか、これ? なんか思いが伝わるでしょう。

 

あとはそうですねえ、まあ私の中でよく女性を口説いてそうな人と言えばやっぱり太宰治なんですが、そんな彼の代表作人間失格から。

 

「この野郎。キスしちゃうぞ」

 

……何を言っているんでしょうか、この人は。てか、「人間失格」って、そういう話でしたっけ。

 

それでは今度はお友達の檀一雄さん「火宅の人」から。

 

「老眼でも好いとるよ。頭がツルツルに禿げ上がっても、好いとるよ」

 

な、なんか重いわ。

 


まあ、後はやっぱり難しいのはベッドに誘うときの言葉ですよねえ。一体どんな言葉を言えばいいのか。

 

そこでまずはしょっちゅう女性をベッドに誘っていそうな吉行淳之介さんの「夕暮れまで」から。

 

「脱がしちゃうぞ」

 

いいですねえ、ストレートで。あんまりね、余計なこと言うと気持ちが冷めますからね。

 

もう一つ、吉行淳之介さんで今度は「街の底で」から。

 

「耳の穴をほじってくれないか」

 

いや、なんかもう、よく分からんです。よく分からんけど、なんかすごい気がする!

 


さてさて、そんなわけで、本書は私にはあんまり参考にならなさそうなのですが、でもそうだ、あれですよ、私も近年は正月に親戚のおじさんに会うたびに「結婚せんのか」「このままでいいと思っているのか」と説教されるのでありまして、まあこのままでいいわけないよなってことでいつかはちゃんとプロポーズしなきゃならんと思ってるわけです。

 

ということで、みんなどんなプロポーズをしているのかしらん、参考にしてみよう!

 

まずは福永武彦「夜の時間」から。

 

「いいかい、僕が神だ、運命なのだ」

 

あかん、こんなこと言ったら殺されるな。関白宣言のさらに上を行っている感じがさすがですねえ。でも私はとても言えないw

 

これはどうですかね。有名な堀辰雄風立ちぬから。なんかいいこと言ってそうでしょ。

 

「それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福――皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もう少し形をなしたものに置き換えたいのだ。分かるだろう?」

 

……いや、分からん! ていうか長い! 却下!!!

 


えー、というわけで、やっぱり私にはあんまり参考にならなかった一冊でしたが、あなたにはそうでもないかもしれない!

 

で、本書には最後に小説の中に登場したり、有名人達が書いたラブレターが収められているのですが、その中からオススメのものをご紹介しましょう。

 

まずはモーツァルトが恋人に送った手紙。

 

「一体全体お前は、ぼくがお前を忘れたなんて、ただ想像するだけにしろ、どうしてできるのか? そんなことが、ぼくにあって堪るものか。そんなことを想像した罰として、最初の晩も、お前のその可愛い、キッスをしたくなる尻っぺたを、したたか打ってやるからね。それを覚悟しておいて」

 

イヤーン(*/∇\*)。何を言ってるんでしょうかモーツァルトは。でもなんか、モーツァルトでよかったよ。これがバッハだったらなんかもう…。

 

あとはこの恋文が好きでしたね。ロシアの文豪ドストエフスキーが妻アンナに送った手紙から。

 

「わたしの大事な宝、しっかりとお前を抱きしめて、数限りなく接吻する。わたしを愛しておくれ、わたしの妻でいておくれ。ゆるしておくれ、悪いことはいつまでもおぼえていないでね。だってわたしたちは一生涯、いっしょに暮らすのじゃないか」

 

「悪いことはいつまでもおぼえていないでね」って、一体何をしでかしたんでしょうね、ドストエフスキーw でもなんか可愛いぞwww

 

というわけで、おなじみ現代言語セミナー編「口説きの言葉辞典」に関する素人講釈でございました。