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文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

鳥山明先生が、とにかくすごすぎる話。<うんちつんつくつん篇>

 

 

Dr.スランプ 完全版 1 (ジャンプ・コミックス)

Dr.スランプ 完全版 1 (ジャンプ・コミックス)

 

 

えー、相も変わりません。本日も一席、お付き合いいただければと思うわけでございます。前回に引き続き、鳥山明先生がとにかくすごすぎる、という話でございます。

 

前回の話の肝は、鳥山明先生は「目に見えないものを、いかにもそうであるかのように描いてみせた天才」というところにありました。

 

しかし、今回はまったく逆でございます。実は、鳥山先生は「目に見えるものを、(本当はそうでないにもかかわらず)いかにもそうであるかのように描いて見せる天才」でもあるのでございます。

 

そのことを証明している絵を、きっと誰もが見たことがあるでしょう。

 

その絵とは……


うんちです!!(お食事中の方ごめんなさいね)

 


断言いたしましょう。鳥山明先生の絵の神髄、それはうんちにあるのです。

 

このうんちは、「Dr.スランプ」においてアラレちゃんがつんつくつんするガジェットとして非常に重要なものであります。うんちなくして「Dr.スランプ」なし! と言っても過言ではないでしょう。

 

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しかしですよ、皆さんよく考えてみてください、こんなうんち、見たことがありますか?

 

これ、よく見たらうんちじゃないですよ。ソフトクリームですよ、これは。そうじゃありません? しかもなんでピンクなんだよ。どんな病気なんだよ、という話です。

 

こんなうんちをしようと思ったらですね、すっごい長いうんちをしながらお尻をぐるぐる回すとか、あるいは……いや、もうやめときましょうか(汗)

 

とにかくですね、この絵は本来うんちではないです。うんちとは似ても似つかないものなのです。私はこんなうんち、生まれてから一度もしたことがない!

 

にもかかわらず、今ではこのソフトクリームみたいな形こそ「ザ・うんち」になっている。これは明らかに「Dr.スランプ」以降のことです。

 

(正確に言うと、最初にとぐろ巻きうんちが描かれたのは17世紀のフランスの版画家ベルナール・ピカールによる「調香師」だそうです。で、マンガに描かれたのは1971年、とりいかずよしの『トイレット博士』だと言われています)

 

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フランスの版画家ベルナール・ピカールによる「調香師」

 

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とりいかずよしの『トイレット博士


で、問題はなぜこのピンクのソフトクリームがうんちに見えるのか、ということなんですよ。

 

それは、マンガの絵というものが、いわゆる絵画の絵とは別のものだからです。

 

マンガの絵というのは、実は本来「絵」ではないのですね。では何なのかというと、「記号」なのです。

 

分かりやすい例で言えば、肖像画と似顔絵の違いです。

 

絵の技術というのは、卓越していくと写真に近づいていきますよね。だから優れた肖像画と言うのは、まるで写真のような肖像画のことです。

 

でも優れた似顔絵というのはそうではありません。優れた似顔絵というのは、その人の顔のある部分を強調し、一方である部分を省略することによって描かれるわけです。

 

だからマンガというものは、例えば手塚治虫の絵なんかを見れば分かるように、本来情報量が少ないものなんですよね。強調と省略をするから。要するに、誰でも描けそうなシンプルな絵、と言いましょうか。

 

で、例えば大友克洋が出てきたときにみんながびっくりしたのは、この人があくまでもマンガのフィールド上にいながら絵画の技術を持っていたことにあるんです。

 

(ここ余談ですが、ちょっとだけ。手塚治虫が最初にマンガに映画的手法を取り入れたわけですが、彼はマンガを「紙で読める映画」にしたかったんですよね。そしてそれを後のマンガ家もみんな模倣したわけですが、残念ながら手塚治虫自身をはじめ、みなマンガの画力はあっても絵画の画力はあまり持ち合わせていなかった。だから、本来なら「紙で読める映画」を目指すなら風景などはマンガ的であるよりも絵画的であった方がいいのですが、それができなかったのです。ところが、そこにマンガの画力と絵画の画力を持ち合わせた大友克洋が現れた。で、みんな「ああ、そうか、これが手塚治虫が本当に描きたかったものなのか」となってびっくりした、ということなんですよね。だから大友克洋の登場に一番衝撃を受けたのは、実は手塚治虫だったのです。自分一番やりたかったことを、違う人間にやられちゃった。他人の作品を見て、「ああ、これを俺はやりたかったのか」と思い知らされた。あのマンガの神様がですよ。こんな屈辱はないですよね)

 

マンガ絵というのは強調と省略による記号ですから、ディテールをたくさん書き込んでいけばその分絵画に近づいていくわけです。シリアスなテーマを描こうとした劇画がその良い例と言えるでしょう。

 

そこでちょっと下の絵を参照していただきたいのですが、鳥山先生によるこの絵、恐ろしく細かいディテールが描かれていることにお気づきでしょうか。

 

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で、ここが重要なポイントなのですが、これだけ細かいディテールを描きこんでいるにもかかわらず、この絵はあくまでも「マンガ」なのです。

 

ではなぜこの絵は「マンガ」なのか。

 

それは、絵画の画力というものが技術的な問題であるのと違って、マンガの画力というのはセンスの問題だからなんです。

 

対象のどの部分を強調し、どこを省略するか、というセンスがマンガ絵の個性を決定しているわけです。

 

ですから、マンガ家というのはたいてい誰から影響を受けた、というのがすぐ分かりますよね。「あ、竹宮恵子手塚治虫が好きなんだな」とか、「井上雄彦北条司のアシスタントをやっていたな」とか、言われたら「あ、そうだね」って分かるでしょう。それはマンガ絵はセンスの問題だから、模写するときにそのセンスも一緒に吸収してしまうからなのです。

 

で、鳥山先生という人はこの「絵画の技術」と「マンガのセンス」をハイレベルで持ち合わせている人だということが、上の画像でよく分かるんじゃないかと思うのです。

 


ということで、最初のうんち問題に戻るわけですが、これがなぜうんちとは似ても似つかないにもかかわらず私たちにはうんちと認識できるのかというと、この絵はうんちの特徴を最もよく示した<記号>だからなんですよね。

 

そして前回の「かめはめ波」にしても、ここで「放出されるエネルギー」を描いたときにそれを最もリアルな表現、絵画的表現ではなく、最も記号的、マンガ的に正しい表現は何か、ということが分かってるということがすごいのです。

 

で、マンガ的に正しい表現であれば、後の人はもう、それがリアルではないことは百も承知の上で追随するしかないわけですよ。「気の放出」の新しいマンガ的表現を生み出すのは、多分鳥山明と同じレベルの才能の持ち主だけなんです。

 


ところで、マンガ家は技術ではなくセンスを受け継ぐ、と言いました。実際鳥山明以降、彼から影響を受けていることが明らかに分かるマンガ家というのはたくさん見かけますよね。

 

でも、鳥山明が一体誰に影響を受けたのか、分かります? 全然分からないんですよね。ディズニーらしいんですけど、少なくとも絵を見た限りではまったく伝わってこない。それって多分、この人は誰からもセンスを受け取る必要がなかったからなんじゃないかと思うんですよねえ。

 

だって、天才なのだから。

 


というわけで、二回にわたってお送りしました、「鳥山明先生が、とにかくすごすぎる話。」、おなじみ「Dr.スランプ」に関する素人講釈でございました。

 

 

Dr.スランプ 完全版 1 (ジャンプ・コミックス)

Dr.スランプ 完全版 1 (ジャンプ・コミックス)

 

 

鳥山明先生が、とにかくすごすぎる話。<かめはめ波篇>

 

ドラゴンボール 完全版 (1)   ジャンプコミックス

ドラゴンボール 完全版 (1) ジャンプコミックス

 

 

えー、相も変わりません。本日もまた一席お付き合いのほどをお願いしたいわけでございます。

 

本日は本の紹介というよりも、私はとにかくある一つの主張をしたいのでございます。それは何かと言うと、

 

とにかく鳥山明先生はすごすぎる!

 

ということ。

 

いや、そんなことはお前に言われるまでもなく知っているよ、と、そう仰るかもしれません。

 

しかしそれでも聞いていただきたい。敢えて言わせていただくならば、多くの人が考えている以上に鳥山明先生はすごいと、私は主張したいのでございます。

 


さて、この鳥山先生のすごさには、実は2種類あるのです。それが何かと言えば、

 

①絵がえげつないくらいに上手い

②マンガ的アイデアがえげつないくらいにすごい

 

という2点です。で、しかも日本のマンガ史全体を通して考えてみたとき、鳥山先生はこの2点において歴史を変えてしまったのです。どっちかで変えた人は多いんですけど、両方成し遂げた人は鳥山明手塚治虫ぐらいじゃないかと。

 

で、絵についての話はちょっと小難しくなりますので次回にするとして、今回は鳥山先生がそのマンガ的アイデアでマンガの表現そのものを変えてしまった話をしたいわけでございます。

 


では、鳥山先生がマンガの歴史を変えてしまったと言いましたが、それは一体いつのことでしょう。

 

実はこの時ははっきりと特定することができるのです。その時とは、週刊少年ジャンプ1985年14号が発売された時です。

 

この号のドラゴンボールのタイトルは「亀仙人かめはめ波!!」でした。

 

そうです。「かめはめ波」でございます。これがマンガの歴史を変えた。それが一体どういうことなのか、ちょっとご説明いたしましょう。

 

そもそも少年マンガにとって最も重要な要素のひとつといえるものに「必殺技」がございますね。

 

主人公が繰り出す必殺技の魅力は、イコールその作品の魅力と言い換えることもできましょう。

 

この必殺技の歴史というものはどういうものだったか。古くは仮面ライダーの「ライダーキック」や科学忍者隊ガッチャマンの「科学忍法火の鳥」などがありますね。

 

しかしこれらの必殺技というのは結局のところ、ライダーキックであれば実はただのキックと何も変わらないし、科学忍法火の鳥だってよく考えればただの体当たりでしかないわけです。そんなこと大人が言っちゃいけないことですが。

 

で、このドラゴンボールと同時代に連載していた他の少年ジャンプ作品においても、例えばキン肉マンの「キン肉バスター」や「キン肉ドライバー」があり、聖闘士星矢の「ペガサス流星拳」があり、北斗の拳の「北斗百裂拳」がありました。

 

でもこれも、それを言っちゃあおしまいですが、「キン肉バスター」や「キン肉ドライバー」というのは結局のところすごいプロレス技であり、「ペガサス流星拳」や「北斗百裂拳」に至っては、よくよく考えたら「ただすごいスピードで殴ってるだけ」なのです。(ごめんなさい、石投げないでね)

 

それに比べてかめはめ波ですよ。このかめはめ波とは一体何なのか。

 

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wikipediaによるとこのかめはめ波

 

「体内の潜在エネルギーを凝縮させて一気に放出させる技」

 

とあります。なんと言うか、多分「気」のようなものでありましょう。それをですね、手をおなじみのあの形にして、「かーめーはーめー波ーーー!!」と言って前に出したらですよ、その「気」というか「潜在エネルギー」がぶぉぉぉぉっとビームのように前に出るわけです。

 

すごいですねえ。もうこの技はですね、そもそも相手に自分の体を何らかの手段であてることすらしていないのですよ。そういう動作をすれば、体の潜在エネルギーとやらが勝手に相手を攻撃してくれるのです。

 

お分かりでしょうか、このアヴァンギャルドさ。もうね、それがありなんだったら、なんでもありになるんじゃないかと私は思うのですよ。

 

いやね、もちろんこの頃にも他の作品においてアヴァンギャルドな必殺技はあったのです。たとえば聖闘士星矢フェニックス一輝の必殺技「鳳翼天翔」。あるいは北斗神拳の秘孔もそうですね。でもこれらの必殺技は、あまりにアヴァンギャルドすぎたために、他の作品では見たことがありません。

 

ところが、この「かめはめ波」は違うのです。よく考えたら「あれなんなんだ?」というアヴァンギャルドな必殺技であるにもかかわらず、ドラゴンボール以降のマンガ作品において、かめはめ波的ないわゆる「体内の潜在エネルギーを凝縮させて一気に放出させる技」というのは割と定番になってゆくわけです。

 

そりゃそうですよ、だってこの技を繰り出すためには、本来ビーム的なものを発射するための武器とかも必要ないのです。自分の手とか足から出るわけですから。

 

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で、鳥山先生のなにがすごいって、そんな必殺技を「絵に描いた」ということなんですよね。

 

もし「体内の潜在エネルギーを凝縮させて一気に放出させる技」を他のマンガ家が描いたとしたら、どうなるでしょう。恐らく彼以前のマンガ家たちなら「何か見えないけど気が放出されて敵はダメージを受けてるんだぜ」という描写をしたでしょう。つまり、そのエネルギーを描かずに表現したはずなのです。

 

ヴィトゲンシュタインではありませんが、「認識できないものについては沈黙するしかない」わけですね。普通はそうするものなのです。分からないことについては語らない方が賢く見えるのと同じように、見えないものは描かない方がリアリティは増すわけです。

 

しかし鳥山先生はその見えるはずのない「体内の潜在エネルギー」をはっきり絵に描いて示したのでした。

 

そして、なにがすごいって、この作品以降私たち読者はどこかの作品で何らかのキャラクターがこの「体内の潜在エネルギーを凝縮させて一気に放出させる技」を繰り出しても、ちっとも不思議には思わなくなってしまったということです。(そしてその場合、みんな「鳥山明風」の「気の放出」表現であることは見逃してはいけない!)

 


これが、鳥山先生がこのドラゴンボールで成し遂げた「マンガを変えた瞬間」なのです。彼はこの作品において誰も見たことがなかったものを描写し、しかもその描写をあまりに当たり前なものにしてしまった。

 

とは言え、実はこのかめはめ波、多分元ネタはウルトラマンスペシウム光線なんですよね。あれをやろうとしたのだと思います。だからかめはめ波は、実は鳥山先生の完全なオリジナルではありません。

 

多分この頃鳥山先生は「ドラゴンボール」を「孫悟空ドラゴンボールを探し求める冒険物語」から、少年ジャンプの黄金律である「悟空の前に次々と強大な敵が現れる」というストーリーに変更せざるを得なかったのでしょう。で、そのために「ウルトラマン」などをかなり研究したのではないでしょうか。そこでこのスペシウム光線が使える、と気づいたのでしょうね。(あ、でもドクタースランプでも結構ウルトラマンネタ出てくるので、元々好きだったんですかね。まあこの辺何の根拠もないただの妄想です)

 

で、実は「かめはめ波」は「スペシウム光線」だと誰にも気づかれない形でそれを採用した。「スペシウム光線」はアヴァンギャルドな必殺技ですから、そのまま使えば「あ、それウルトラマンじゃん」と言われますからね。

 

ただ彼が「ドラゴンボール」で「ウルトラマン」のスペシウム光線を採用したことで、初めてあの必殺技がアヴァンギャルドな技からスタンダードな技になった、と言えるわけです。

 


さて、では、なぜ鳥山先生はアヴァンギャルドな必殺技であった「かめはめ波」をスタンダードなものにできたのでしょう?

 

その理由の一つが彼の「画力」にあるわけですが、その話はまた次回。

 

おなじみ鳥山明著「ドラゴンボール」に関する素人講釈でございました。

 

 

ドラゴンボール 完全版 (1)   ジャンプコミックス

ドラゴンボール 完全版 (1) ジャンプコミックス

 

 

尾崎紅葉はバカじゃない話。

 

二人比丘尼色懺悔 (岩波文庫)

二人比丘尼色懺悔 (岩波文庫)

 

 

えー、相も変わりません。本日もまた眉唾ものの素人講釈にお付き合いいただければと思うわけでございますが、本日ご紹介したい作品は、尾崎紅葉著「二人比丘尼色懺悔」でございます。

 

この「二人比丘尼色懺悔」が刊行されたのは明治22年のことで、尾崎紅葉はこの作品までにも自身が主催する硯友社の「我楽多文庫」という雑誌でいくつか作品を発表していたようですが、ちゃんと書籍の形で刊行されたのはこの作品が最初でございます。そういう意味ではまあ、処女作と言えるような言えないようなっていう感じですね。

 

で、本書が刊行された明治22年というのが、以前にもレビューした山田美妙の「胡蝶」と幸田露伴の「露団々」「風流仏」も刊行された年ということで、まあ、当たり年と呼んでも過言ではありますまい。

 

で、私が読んだ岩波文庫にはこの「二人比丘尼色懺悔」と、その翌年に出版された「新色懺悔」が入っているのですが、まずはいつもの通り、バババッとどんな話なのか、そのあらすじをご紹介しましょう。

 

「二人比丘尼色懺悔」は戦国時代かあるいはそのもう少し前の時代の物語です。

 

とある山の中のある尼寺に、深夜一人の旅をする尼が訪ねて来ます。もう夜も遅くなってしまったので、どうか一晩泊めてくれないか、というのです。

 

尼寺の尼は同じ尼僧でもあることから「それそれは大変でしょう、どうぞお上がりください」と言って旅の尼を招き入れます。

 

で、食事をご馳走になり、では休ませていただこうかという時、旅の尼僧は机の上に置かれたある置き書きを見つけるのです。

 

勝手に読んではいけないと思いつつ、つい気になって読んでしまったその置き書きには、こんなことが書かれていました。

 

それは尼僧のかつての夫が書き遺したもので、その夫は武士として戦に出陣することとなります。夫は、戦に出陣する以上、自分はその戦場で死ぬ覚悟である、と。だから貴方はもう私のことは死んだものと思いなさい。ついてはまだ私と貴方は結婚したばかりなのだから、もし私が戦場で死んでしまったとしても決して私を弔って出家するようなことはしてくれるな。またいい縁があればその人と結婚してくれ。そんなことが書かれてあったのですね。

 

そうして旅の尼が文を読んでいるところに主人の尼が戻ってきます。

 

ああ、申し訳ございません。読んではいけないと思いつつつい読んでしまいました、と旅の尼が言うと、主人の尼は「いえいえ、別に構いません」と言います。

 

「この文を読んだのなら、事情はお分かりでしょう。夫は私に出家するなと言いましたが、たとえまだ日が浅いとは言え、晴れて夫婦となったにもかかわらずなんという情けない言葉でしょうか。夫は戦場で命を落としたとのこと。戦場で命を落としたのだから、人の一人や二人は殺して果てたに違いありません。ならば夫の行き先は地獄でございましょう。その夫を私以外の一体誰が弔うと言うのです」

 

そんな言葉を聞いて旅の尼はなんて素晴らしい人なのだろう、とすっかり感心します。そこに主人の尼が言うのです。

 

「ところであなたも私と年齢も同じくらい、それにもかかわらずそのような旅の尼僧となっているからには、それなりの事情がおありなのでしょう。ここでであったのも何かの縁、お話してくださいませんか」

 

実はこの旅の尼僧も、主人の尼と同じく夫を戦場で喪い、彼を弔うために尼となったのですが実は……。

 

ということで、えーっと、ごめんなさい、ネタバレしてしまうと、実はこの主人の尼と旅の尼が弔っている男というのが、どちらも同じ男性であったという話なのですね。

 

まあ、今の作品であれば乾くるみの「イミテーション・ラブ」のような作品と言えるでしょうねえ。

 

で、この作品がよく売れたと言うことで、その翌年には「新色懺悔」が出版されます。こちらは今度は京都を舞台にした物語で、また違った登場人物たちの物語なのですが、こちらも最後にはあっと驚く仕掛けが施されているのでございます。

 


で、最初に本書が美妙の「胡蝶」と露伴の「風流仏」と同じ年に出版された、ということを述べましたが、こうして3つの作品を読み比べてみたとき、なるほど尾崎紅葉という人はこの時代に現れるべくして現れた人だったんだなと、そんなことを思うのでございます。

 

まあ、尾崎紅葉というと内田魯庵夏目漱石など、結構色んな人から「あいつはバカだった」と言われている話が伝えられているのですが、この辺、後世の人はあんまり真に受けちゃいかんのだろうと思うのですね。

 

というのは、ちょっとこの時代の「日本文学」なるものを改めておさらいしてみるとよく分かるのですが、まず明治19年、坪内逍遥が「小説神髄」と「当世書生気質」を世に出して、いわゆる「戯作」ではない「文学」なるものを提唱したわけですね。

 

で、その翌年の明治20年には早速二葉亭四迷のと「浮雲」と山田美妙のと「武蔵野」が発表されるわけです。

 

この四迷と美妙がなそうとしたことは、いわゆる「言文一致体」というやつですね。つまり新しい文学に必要なものは何か、それは新しい文体である、と、そういうわけです。

 

ところがです。その2年後の明治22年に登場するのが幸田露伴なわけです。この幸田露伴はそんな言文一致体なんぞにはまったく興味を示さず、それまで通りの文体のまま「新しい文学」を描いたのでした。これは、明治23年に「舞姫」を発表する森鴎外も同じ態度と言えるでしょう。

 

要するに、「言文一致」なんて小手先の技術でしかないじゃん、と。本当に大切なのは表面よりも中身でしょ、と言ったわけです。

 

これはこれで、もう確かに正論なわけですね。仰る通りなわけです。

 

で、この草創期の「日本文学」というものは「表面を新しくしてそっから新しいものを作っていこうぜ」という動きと、「や、文体がどうとか気にしなくても新しい文学は作れるぜ」という二派が生まれるわけですが、ここまで「小説神髄」からわずか3年ていうのは、すごいですね。今だったら分かりますけれど、この当時にそんな一気に話が進むのか、と思ってしまいます。

 

でも、実はそれだけではなかったのですねえ。

 

というのはですね、ここまで述べてきたこの二派、実はどちらもある共通した問題点を抱えていたのです。それが何かと言うと、「なんだかんだ言ってどっちもインテリの理屈だよね」ということ。

 

恐らくこの当時の多くの小説愛好者の本音はここにあったのでしょう。「ふん、文学なんて」と嘲笑われるのは確かにむかつく。むかつくけど、でもさ、だからと言って「文学は芸術だからすごいんだ!」っていうのも、それはそれでどうなのさ、と。んなことどっちでもいいんだよ、と。

 

実際のところそういう感覚を持っていた人が多数派だったのでしょう。でもそういう意見って、表にはなかなか出づらいものなんですよね。

 

そ・こ・に、尾崎紅葉なわけです。彼は正しくそういったサイレントマジョリティの代弁者として登場したのでした。

 

で、彼は四迷や美妙派に対しては「いやー、言文一致体とか、よく分かんねっす。俺バカなんで」と言い、一方の露伴や鴎外派にも「ややや、テーマとかも、よく分かんねっす。俺バカなんで」と言ったわけです。この態度がウケた。

 

だよなー! 俺も本当はそう思ってたんだ! 正直あいつらの難しい話とか、どうでもいいと思ってた! 紅葉さん、よくぞ言ってくれました!

 

と、なったわけであります。でも、ここに気づくのって、実はすごい賢いと思うんですよね。というか、知識はなくとも知恵がある感じですか。だから紅葉って、バカというキャラを演じてただけで、本当はそうじゃないんでしょうね。

 

で、さらにこの人がすごいなーと思うのが、本書「二人比丘尼色懺悔」ですよ。実はこの作品において、尾崎紅葉はバカのフリをしつつ「日本文学」の地平を切り拓く第3の視点を提示しているのです。

 

それが「構造」ですね。この「二人比丘尼色懺悔」というのはもう、明らかに「構造」だけを主点に描かれている作品です。

 

二人のまったく関係ないと思っていた尼さんが、実はつながっていた! えー! という、それだけの作品なんです。その意味では本当に、「イミテーション・ラブ」と同じですよね。「だから何なんだ」と言われれば、「や、それだけのことです」と言うしかない。でも、エンタメってそういうもんですよね。

 

その意味で、この尾崎紅葉っていう人、「すんません、俺バカなんで小説のことよく分かりませーん」とか言いつつ、しっかりまだ誰も手を付けていなかった戯作ではないエンタメとしての小説を初めて書いているあたり、恐るべしでございます。

 

そしてしつこいかもしれませんが、「小説神髄」からわずか3年で「文体」「テーマ」「構造」という小説の必要な3つの要素がバババッと出揃ってくるあたり、やっぱり日本近代文学恐るべしなのでございます。

 

ということで、おなじみ尾崎紅葉著「二人比丘尼色懺悔」に関する素人講釈でございました。

 

 

二人比丘尼色懺悔 (岩波文庫)

二人比丘尼色懺悔 (岩波文庫)

 

 

いやーもう、びっくらこいたうどんの話。

 

うどんのお化け

うどんのお化け

 

 

えー、相も変わりません。本日ご紹介したいのは、古川緑波の「うどんのお化け」でございます。

 

古川緑波と言えば昭和の名喜劇俳優ですが、青空文庫に入ってるんですね、びっくり!

 

で、本書を読んでさらにびっくり。ていうのは、ロッパさん、本書の中でこんなことを言ってるんです。

 

「おかめ、卵とじ、鴨南蛮、鍋焼――と、昔風なのからカレーうどん、きつねうどん(油揚げの入った奴。無論関西から来たもの)或いは、又、たぬきというのもある。」

 

エエー!嘘やーん!

 

きつねうどん、カレーうどんと同列なんですか! 昔風に含まれないんすか! マジか東京人(昔のね)! お前ら(昔のね)きつねうどん知らんのんか! 「きつねうどん(油揚げの入った奴。無論関西から来たもの)」とか、説明いるんか! 

 

うーーーそーーーやーーーーーん!!!

 

……すみません。つい興奮してしまいました。いや、江戸は蕎麦文化とは知っていましたが、はあ、ほんとにそうだったんですねえ。

 

ちなみに本書が含まれているエッセイ集「ロッパの悲食記」は1959年に初版が刊行されたとのこと。うーん、てことはですよ、ちょっと長めに見積もっても、中のエッセイがどこかの雑誌かなんかに前もって発表されていたとしても多分戦後じゃないですか。

 

えええ、そうなんだ。東京の人の多くは戦後まできつねうどんのこと知らなかったんだ。

 

はー。いやー。へええええ。

 


……あ、ごめんなさい、今回ほんとにそれだけが言いたかったんです。いやー、びっくりしたわ、もう。

 

あ、で、うどんのお化けってなんなんだって? まあ、それは本書をお読みください。多分数分で読めるエッセイなので。いやー、うどんのお化け、遠慮したいわ。

 

というわけで、おなじみ古川緑波著「うどんのお化け」に関する素人講釈でございました。

 

もう、ほんとびっくり。

 

……あれ、じゃあきつね蕎麦は一体いつから?

 

うどんのお化け

うどんのお化け

 

 

春琴抄を歌いながらレビューしてみる話。

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

 

 
えー、相も変わりません。本日は谷崎潤一郎著「春琴抄」をご紹介したく、とは言え普通にレビューするのもなんですから、今回はちょっと趣向を変えて、歌いながらレビューしたいと思うわけでございます。

 

というわけで、失礼して、あー、コホン、テステステス。

 

それでは、歌わせていただきます。新世紀エヴァンゲリオンの主題歌の替え歌で、「残酷な佐助のテーゼ」。


どうぞ!

 


ざーんーこーくな天使のように
しょーうーねーんよ、神話になーれー!

 


琴のバチがいま
顔のどこか叩いても
わたしだけをただ見つめて
微笑んでるあなた

 

そっとふれるもの
もとめることに夢中で
運命さえまだ知らない
いたいけな瞳

 

だけどいつか気付くでしょう
その手元には
遥か未来 突き刺すための
針があること

 

残酷な佐助のテーゼ
厠からやがて呼ばれる
ほとばしる熱いパトスを
その紙でふけるのなら
この宇宙(そら)に泣いて喜ぶ
少年よ しもべになれ!

 


マーリーヤー セーパーテーソー
マーリーヤー トゥーセー

 

「佐助!なんでこんなこともできへんの!」
こいさん、すんまへん!」
「佐助!あんさんなんかもう、出てお行き!」
「そんな、かんべんしとくれやす!」
「佐助!この阿呆!」
「こ、こいさん、やめとくなはれ!」
「佐助!」
ビシッ
「佐助!」
バシッ
「佐助!」
ドカッ
「佐助ーーー!!」
「逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ」

 


ずっと眠ってる
わたしのSの本能
あなただけが Mの使者に
呼ばれる朝がくる

 

細い首筋を
月あかりが映してる
稽古中の時を止めて
虐げたいけど

 

もしもふたり逢えたことに
意味があるなら
わたしはそう 自由縛る
ためのバイブル

 

残酷な佐助のテーゼ
悦びがそしてはじまる
繰り返すいじめのかたち
その意味に目覚めたとき
誰よりも光を放つ
少年よ しもべになれ!

 

人は愛をつむぎながら
歴史をつくる
夫婦なんてなれないまま
二人は生きる

 

残酷な佐助のテーゼ
その目からやがて血を吹く
ほとばしる熱いパトスで
思い出を裏切るなら
この宇宙(そら)を抱いて輝く
少年よ しもべになれ!

 


……お粗末さまでございました。おなじみ谷崎潤一郎著「春琴抄」に関する素人の替え歌でございました。

 

あ、ちなみに、春琴抄と新世紀エヴァンゲリオンは何の関係もありませんから。(いや分かっとるわ)

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

 

 

新しいものはいつだって、すべてファンタジィから生まれてくる。

 

無限の書 (創元海外SF叢書)

無限の書 (創元海外SF叢書)

 

 

*本書は書評投稿サイト「本が好き!」様からの献本で頂きました。ありがとうございます!

 

舞台は中東のとある専制国家<シティ>。この町で青年アリフはハッカーとして暮らしていました。

 

金持ちの王族と、そして政治に食い込んだイスラム教の宗派によって支配されたこの国で、電脳空間は多くの不満分子たちの拠り所だったのです。ところがシティでは少し前からサイバースペースにおける検閲が強化されていました。「ハンド」と呼ばれた何か、個人なのか、集団なのか、あるいはただのプログラムなのか――によって、この町で最初のブロガーであったニュークォーター01はネットの世界から姿を消し、そして多くのブロガーたちがテロリストの汚名を着せられて逮捕されるようになります。アリフの仕事は、そんなネットの世界で蠢いているクライアントたちを「ハンド」の手から守ること。

 

アリフにはインティサルという恋人がいて、彼女は庶民である彼とは本来釣り合わない貴族の娘でした。ネット上のフォーラムで出会った二人。しかしある日インティサルがアリフに対して別れを切り出したことから物語が始まります。結婚の話が持ち上がり、インティサルにはそれを止めることができなかったのです。

 

 

別れの最後に、彼女はアリフに言いました。

 

「アリフ、もう帰って」ふるえながらヴェールをつけなおし、「あなたの名前が二度とわたしの目に触れないようにしてちょうだい。お願いよ。ほんとうに――とても耐えられないわ」

 

アリフは彼女の言葉に従い、彼女のアカウントがどんなことがあってもネット上で彼と接触することができないよう、プログラムを組み立てます。ところがそのプログラムは、彼にも理解できない働きをし始めます。そのプログラムは、たった一行の文章から、その文章を書いたのがインティサルだと判別するようになったのです。

 

丁度その頃、二つの事件が起こります。一つ目は、アリフの元にインティサルからある本が届けられたということ。その本の名前は「千一日物語」。かなり古そうに見えるこの本が一体どうして自分に渡されたのか、アリフには分かりません。

 

そしてもう一つはアリフが作ったプログラムが原因で、彼のサーバーが「ハンド」にハッキングされてしまったことです。このことにより彼の身元は国家保安局に知られることになり、彼は追われる存在となるのです。

 

アリフは幼馴染のダイナと共に逃げ出し、ある男の元へ向かいます。その男の名は吸血鬼ヴァイラム。彼の本性は、幽精(ジン)でした。アラジンの魔法のランプなんかに出てくる、あれです。

 

アリフはヴァイラムに連れられて幽精の世界へ行くことになるのですが……おっと、この話はもうここまでにしましょう。

 


さてこのように、本書はインターネットとサイバースペースをモチーフとしたサイバーパンク小説でありながら、同時に「千一夜物語」のような魔法物語でもあります。

 

サイバーパンクと魔法物語、そう言うとまるでミスマッチのように思えるかもしれません。しかし本書を読めば、実はそうではないことに気付くでしょう。

 

現実世界は、常に魔法物語のようなファンタジーの世界とともにある、そんなことに気付くことでしょう。

 


人類の歴史を遡ってみると、人間はつねに現実世界とは別の幻想的な異世界というものを描いてきたことが分かります。

 

現代の私たちが古代と呼ぶ時代、この時代はいわゆる「神話の時代」でした。その頃は現代に生きる私たちよりもずっと人間と神は近い関係にあり、そして自然の現象一つ一つもまた精という別の存在としてあったのです。

 

その時代から少し経つと、「宗教の時代」が始まります。そこでは戒律が生まれ、そして信仰が生まれました。

 

宗教の力が弱まった時、新たに誕生したファンタジーの舞台が「異国」です。西洋におけるオリエンタリズムや、あるいは日本の場合は逆に西洋が「リアルな異世界」であったことでしょう。

 

様々な情報が行き渡り、異国ですらもはや「想像できない世界」ではなくなった時、人間が発見した異世界が「宇宙」です。

 

さて、そして現代。現代の私たちにとって最も「リアルな異世界」と呼べるものはなんでしょう。それは「サイバースペース」です。このサイバースペースは、確かにリアルではありません。でも、私が今このサイバースペースに書き込んでいる文章を、今、これまで出会ったことのないあなたが読んでいるわけです。サイバースペースは異世界でありながら、同時に現実でもある。

 

何でこんな話をしているかというと、この物語のテーマこそがそういった「現実の重層性」だからだと思うのです。

 

現実はあくまでも現実です。例えばいくら私が電脳空間が現実にリンクしていると言ったところで、あなたが現実の私に与えることができる影響はとても少ないものでしょう。

 

また、私がここでどれだけの主張をしたところで、それが一体何になるでしょう。

 

所詮は非リアルな世界。頭でっかちの現実を知らない自称軍師様が、素人のくせに評論家ぶって大きな顔でのさばっている世界。

 

そう、それも事実。それもサイバースペースの「現実」。

 


ちょっと「サイバースペース」という言葉について調べてみましょうか。

 

wikipediaでこの言葉を調べてみると、こんな風に出てきます。

 

サイバースペース (英:Cyber-space) は、コンピュータやネットワークの中に広がるデータ領域を、多数の利用者が自由に情報を流したり情報を得たりすることが出来る仮想的な空間のことを指す。
1980年代に、SF作家のウィリアム・ギブスンが自著『ニューロマンサー』や『クローム襲撃』の中で使用したサイバネティックス (cybernetics) と空間 (space) のかばん語で、黒丸尚により電脳空間と訳されている。
仮想空間や仮想環境もこれに近い意味をもつ。サイバー犯罪(Cybercrime)といった言葉もある。」

 

そう、確かにその通りなのでしょう。でも、そのように「サイバースペース」という言葉を厳密に定義した瞬間、サイバースペースという言葉が持つ魔法は失われてしまう。

 

私は思うのです。サイバースペースはある意味では中つ国であり、アリスが落ちるラビットホールでもあるのではないかと。そして今私が向かっているこのパソコンは、言うなれば私にとってのRX-78であり、キングズ・クロス駅の9と4分の3番線だったりするはずだ、と。

 

だからこそ現代に生きる私たちにとって、インターネットやサイバースペースは可能性でありうる。

 

もちろん、私は分かっています。そんな比喩は「正確」だとは言えない。

 

でも、はっきり言いましょう。論理的な人や現実的な人は、テストでは100点を取れるかもしれないけれど、決して何かを生み出すことはできないし、何かを変えることもできない。

 

それが、「論理」とか「現実」と呼ばれるものの罠。

 

なぜならそれは、この世界をたった一つのことに限定してしまうことだから。重層的なはずのこの世界を、0か1かのデジタルなものの見方の中に閉じ込めるということだから。

 

長老は一瞬考えた。
「殿下のおっしゃる通りかもしれませんね。新しいもののはじまりは、すべてファンタジィだったともいえます。その昔、イスラム法を学ぶ学生は想像力を自由にはばたかせるよう奨励されました。たとえば中世において、聖都巡礼の旅のあいだ礼拝に必要な洗浄をいつおこなうべきか、激しい議論が戦わされました。徒歩で旅する場合は? 船旅の場合は? ラクダを使う場合は? 地上の可能性をすべて語りつくしたとき、ひとりの学生が新たな問題を提起しました。空を飛んでいく場合はどうなるのか。そのケースにおける法の適用について、真剣な議論がおこなわれました。その結果わたしたちは、ジェット旅客機が発明される五百年も前に、空路による聖都巡礼に関する規則をつくりあげていたのです」

 

実用的知識を重んじ、自分が合理的だと思っている人は言います。フィクションなんて何の役にも立たない、と。

 

でも実際にはこの世界はフィクションと共に歩んできたし、これからも歩んでいくのです。

 

現実の力の方がいつも少しだけ強くて、だからあらゆるフィクションの世界はいつだって時間の経過とともにその力を弱めていってしまうけれど、でも、私たち人間はそのたびに新しいフィクションの異世界を作り上げてきたのです。

 


アリフが組み立てたプログラム、たった一行の文章だけでその文章を書いたのがインティサルだと特定できてしまう謎のプログラム「ティンサル」。それは、デジタルな思考の中に比喩を理解するという思考を組み込むことで生まれます。

 

つまり、私がさっき喩えたみたいに、「サイバースペース」は単なる電脳空間であるだけではなく、それはナルニア国であったり、リリパットだったり、あるいはメイちゃんが転がり落ちたトトロの穴だったりするという、そのことを理解できるプログラム。

 

そう、そんなプログラムは存在しません。現実的に。論理的に。

 

でもそんなプログラムを想像したこと、実はそれこそが本書における一番のファンタジィであり、一番の嘘だと思うのです。

 

幽精や魔法の世界なんかよりも、もっとずっと。

 


本書はサイバーパンクでありながらアラビアンナイト的な魔法物語である、このミスマッチが魅力だ、と多くの人は思うかもしれません。

 

でも本当はそうではないのかもしれない。

 

なぜなら、もしかしたら本当は、全てのサイバーパンクは最初から、魔法物語だったのかもしれないから。

 

うん、もちろん、それは決して「正確」な表現ではなく、ただの「比喩」でしかないのだけれど。

 

 

無限の書 (創元海外SF叢書)

無限の書 (創元海外SF叢書)

 

 

私たちの知っている「本」というものはきっとこの先、どんどんその姿形を変えていく。そして私たちが「本を読む」ということの行動や意味というものも。

 

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)

 

 *本書は書評投稿サイト「本が好き!」様からの献本で頂きました。ありがとうございます!

 

「賢さ」とはなんでしょう。

 

私たちは恐らく「賢い人」というのは、私たち一般人にはとても理解できないような問題を解決できる人だと思っています。

 

でも世の中にある「難解な問題」そのものに視点を当ててみると、そういった「難解な問題」の多くは実は「理解できない問題」ではなく、「解読するのに複雑な手続きが必要な問題」なのではないでしょうか。

 

言い換えるならば、私たちのような一般人であろうと、あるいはとんでもなくIQが高い人であろうと、問題を解決する能力そのものには大きな違いはないのです。なぜなら、人間の脳というものは大体みんな同じ形状で同じ質量なのだから、物理的に大した違いが生まれるはずがない。

 

つまり一般人の私たちは「複雑な問題」を「理解できない問題」とはき違えていることが多いのではないか、と。

 

とは言え現実の世の中には私たちのような一般人とそうでない賢い人たちがいるのは事実で、ではこの違いは何かというと、それは「スピード」なのです。500メートルを走ること自体は誰でもできるのだけれど、何秒でゴールまでたどり着けるか、という能力の差が「賢さ」なのですね。

 

さて、ここで少し話が変わりまして、一昔前に「ビーチボーイズ」というドラマがやっていたのです。反町隆史竹野内豊のW主演で、あとデビュー間もない頃の広末涼子が出ていました。

 

物語はあるさびれた港町に二人の若い青年がやってきて、サーファーの親父(マイク真木)が経営する民宿「ダイヤモンドヘッド」で働きながらこの二人の青年が成長していく、という物語です。

 

この物語の中で主人公の桜井広海(反町隆史)は泳げない、というキャラでした。ところがドラマが進むにつれ、彼は実は泳げないのではないということが明らかになってきます。いや、泳げないどころか、実は彼はオリンピックの代表候補にもなれるほどの水泳の選手だったのです。

 

じゃあ泳げるんじゃん、というとそうなのではなく、彼はプールでは泳げるのだけれど、海で泳ぐことができないのでした。プールという枠があり、スタートとゴールがあったら泳げるのだけれど、海のように何もないところではどうすればいいか分からなくなって泳げない、と。

 

……お前は一体何の話をしているんだ? と怒られそうなので、そろそろここで本書の話に戻しますと、本書「ペナンブラ氏の24時間書店」は先にお話しした二つの話と同じことを語っているような気がするのです。

 

主人公のジェイクはかつてベーグルの新興チェーン会社でネットを使ってマーケティングやデザインをしていました。ところが不況のあおりを受け会社が倒産、失業中の彼は偶然立ち寄った奇妙な書店「ペナンブラ氏の24時間書店」で働くことになります。

 

ここは一見普通の古書店のようでしたが、一つ違ったのは建物の奥に行くととんでもない数の蔵書があり、しかもこれらの蔵書はみんなネットで検索しても出てこないような本ばかり、そしてそれらの本はタイトルから内容まですべて暗号のような文字で描かれている、ということでした。

 

ジェイクの仕事は店番をすることと、この奥にある蔵書を借りに来る会員から本を受け取って希望する本を渡すということ。

 

ある日暇を持て余したジェイクは自分のノートパソコンの中にこれらの蔵書のデータと、そして誰がどの本を借りに来たか、というデータを入れて3D書店をパソコン内につくり、そのデータを解析します。

 

この頃知り合ったグーグル社員のガールフレンド、キャットに手伝ってもらい、グーグル社内の驚異的なシステムを利用した彼は、この謎の書店「ペナンブラ氏の24時間書店」に謎の本を借りに来る謎の会員たちが求めていた「答え」を、わずか一日で知ることになるのです。

 

と、いうのがこの物語の序盤です。ここからようやく、この物語は始まるのです。

 

これって、ちょっと不思議だと思いませんか? だって、もう、答えは出てしまってるんですよ。グーグルの力を使って。

 

でも、きっとそれこそがこの著者がこの物語で描こうとしたことだと思うのです。「答え」を見つけることではなく、もっとその前にある何か。

 

 

インターネットやコンピュータのすごいところ、それは私たちのような一般人でも、驚くべき「スピード」を手にすることができるということ。

 

でも、それは本当に「賢さ」なのでしょうか。

 

私には、IQが高い、という「賢さ」と、私たちが現在インターネットを駆使し、コンピューターのプログラミングによる解析をすることで享受できる「賢さ」は同じようなもののような気がするのです。

 

それは、あくまでも「スピード」にすぎない。

 

そしてこの「スピード」は結局のところ、測量するためのスタートとゴールがあらかじめ決まっているからこそ測ることができるもの。プログラマーがプログラミングできるのは、あくまでも具体的で明白に想像できる範囲内だけのこと。「これをこうしたい」というスタートとゴールがあらかじめ決まっているものだけだということ。

 

特異点を信じるには楽観的でなきゃだめなんだけど」キャットは言う。「それって意外とむずかしいのよね。最大幸福の想像(マキシマム・ハッピー・イマジネーション)ってやったことある?」

「日本のクイズ番組みたいに聞こえるね」

 キャットは胸を張った。「それじゃ、やってみましょ。初めに、未来を想像して。いい未来を。原子爆弾はなし。サイエンスフィクションの作家になったつもりで」

 オーケイ。「世界政府……ガン撲滅……ホバーボード」

「もっと遠い未来。そのあとはどんないい未来が待ってる?」

「宇宙船。火星でパーティ」

「もっと先」

「≪スター・トレック≫。瞬間移動装置。どこへでも行ける」

「もっと先」

 ぼくはちょっと口をつぐんでから気がついた。「もう想像できないよ」

 キャットが首を横に振った。「本当にむずかしいのよね。いまのでだいたい……千年ぐらい? そのあとに何が来るのか。そのあとにどんなことが起こりうるのか。想像が限界に達しちゃうわけ。でも、わかるわよね? あたしたちって、すでに知っていることに基づいて想像しているだけだから、三十一世紀のことになると類推できなくなっちゃうのよ」

 

千年後の未来がどうなっているかなんて、誰にも想像がつかないですよね。だって、そんな遠い未来を想像しようとしたって、一体どこにスタートとゴールを設定すればいいのか分からないから。そんな遠い未来は、まるで海のようなものだから。

 

ドラマ「ビーチボーイズ」のなかで、「ダイヤモンドヘッド」の親父さんであるマイク真木は夏の終わり、主人公の青年たちに向かって言います。

 

「ここは俺の海だ。お前たちにはお前たちの海があるだろう」

 

 

そう、これはジェイクにとっての「海」の物語。IQが高い人もそうでない人も、グーグルの社員も謎の古書店の店員も、みんな自分の中に持っている「海」で泳いでいく。そこにこそ、本当に大切なものがある。プールの中での「スピード」を競うことなんかではなく。

 

 

ジェイクがキャットとそれに友人のニールと共にニューヨークへ行った時のこと。

 

ニューヨークの人だかりを見てキャットは思います。この人の群れの行動を、コンピューターの中でモデル化することが可能だろう、と。

 

しかしそれに対してニールは言います。

 

「だめだね」ニールはそう言ってクイズ番組のブブーッという音を真似た。「できない。たとえルールがわかってもね――ところで、ルールなんて存在しないんだ――でも、たとえルールが存在したとしても、モデル化はできない。どうしてだかわかるかい?」

 シミュレーションをめぐってぼくの親友とガールフレンドが火花を散らしている。ぼくはただ傍観することしかできない。

 キャットが眉をひそめる。「どうして?」

「記憶力(メモリ)が足りないからさ」

「何言ってる――」

「いいや。すべてをメモリにとどめておくのは無理だ。どんなコンピュータもそこまで大きくない。きみたちのいわゆる――」

「ビッグボックス」

「そう、それでもだ。大きさが足りない。この箱のほうが」ニールは両手を広げ、歩道、公園、もっと先の通りを囲むように動かした。「大きい」

 

 私たちが千年後の未来なんて思い描くことができないのと同じように、千年前の人たちだって、現在のような未来を思い描くことはできなかったでしょう。

 

千年前の本を愛する人たちが、電子書籍で本を読んだり、こうやって書評をネット上に投稿したりすることになる、なんてまさか思いもしなかったに違いありません。

 

でもきっと、千年前の読書家と、今を生きる私たちの間は、同じ「本」という「海」でつながっている。私たちが想像もできない何かによって、論理的に答えを導くこともデータを解析することもできない「何か」によって

 

それこそ、「本」という名の「海」は、とてつもなく広いのです。多分、この地球上にある海よりも、もっと、ずっと、ずっと。グーグルのビッグボックスのメモリでも全然足りないくらいに。

 

 

私たちの知っている「本」というものはきっとこの先、どんどんその姿形を変えていく。そして私たちが「本を読む」ということの行動や意味というものも。今、私たちはその丁度分岐点に立っているのでしょう。

 

きっと、私たちはそうやって一歩ずつ、未来へと進んでいくのです。たとえその未来が現在私たちが思っていたような、あるいは願っているようなものと違っていたとしても。

 

かつて教会という閉ざされた空間で閉ざされた人たちにのみ受け継がれていた本が、印刷技術によって世界中の総ての人に広まっていった時、写本というものがだんだんと滅びていったように、今私たちにとって当たり前の「本」もまた、その姿を少しずつ消していくのでしょう。

 

 

千年後の未来は想像つかないから、逆に千年前の過去について想像してみましょう。

 

きっと千年前の本を愛する人たちは、現在の私たちの「本」を見て、こんな風に言うだろうと思うのです。

 

「こんなものは本とは言えない。こんな風に自動的に記述されて大量生産されているものなんて、俺たちの知っている本じゃない」

 

それと同じようなことを、今の私たちもまた、未来の「本」に対して感じるのかもしれない。

 

 

「賢く」なることでつまずいてしまうことがもう一つ。それは、目の前に広がる「海」すらも、自分の独善的な「プール」の枠にあてはめようとしてしまうこと、自分の「プール」が「海」なのだと、勘違いしてしまうこと……

 

千年後の未来で、人間たちは一体どんな風に本を読んでいることでしょう。そんなこと、誰にも分かるはずがないことです。たとえ世界中の人口の上位2%の知能指数を持っていたとしても。

 

地球の外周を計算しようと思ったら、まず最初に何をしたらいいんだろうと、夜道をひとりで歩きながら考えた。見当もつかない。ぼくだったら、たぶんググるだけだな。

 

あるいは、どれだけインターネットでググったとしても。

 

多分、本当に大切なことはどれだけググったところで分からない。本当に大切なことというのはネットの中には存在しないし、多分どの本の中にも存在しなくて、自分自身の中にだけあるものだから。

 

本書は主人公がある本の暗号を解いていく、という物語ですが、暗号解読、という意味では一つの作品について深く考えることもまた、ある種の暗号解読だと思うのです。

 

そして私は、私なりの答えをこの物語の中に見つけた気がします。

 

それは、ちょっと大げさに言えば「本とは何か」ということ。

 

多分、暗号解読のために必要なものは、高いIQでもなければ、ネットやコンピュータを使いこなすことでもない。

 

必要なのは「本」という「海」を泳いでみよう、という、ちょっとした勇気とか、アイデアとか、多分そういうもの。

 

そしてそれはどんな問題よりも「難しい」問題だったりする、ということ。

 

 

そんなことを考えながら、私は本書を読みながら、想像もしえない千年後の本好きに向かって、マイク真木の真似をしてこんなことを言ってみたくなるのでした。

 

「これは俺の本だ。お前たちにはお前たちの本があるだろう」

 

なんてね。

  

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)