文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

浪漫主義と自然主義がデッドヒートを繰り広げる話。

 

 

毎度ばかばかしい話を一席、本日もお付き合いいただければと思います。

 

いやはや、すっかり忘れていたことを思い出しました。私、そう言えば日本文学を刊行年代順に読んでいこうと思っていたのでした。

 

というわけでそろそろ再開したい日本文芸素人講釈でございますが、第二部で取り上げたいのは尾崎紅葉をはじめとした硯友社の面々と幸田露伴なのでございます。

 

そこで今回は第二部の予告編として、「そもそも硯友社て、なんでんねん?」という話をしたいわけでございまして。

 


日本文学の暁の時代に活躍したのが坪内逍遥森鴎外でしたが、実はこの二人、デビュー作を上梓して以降、作家というよりもむしろ評論家、翻訳家としての活動に重きを置き始め、創作の面ではあまり活躍しないんですよね。それは二葉亭四迷もまたそうなのですが。

 

で、夏目漱石の登場をネクストステージだとすると、「小説神髄」から「吾輩は猫である」までおよそ20年の開きがあるのでございます。

 

じゃあこの間一体何があったのか。逍遥や鴎外が新作を発表しない間に作家として活動し、創作の面で日本文学界を支えたのは誰だったのでしょう。

 

その人たちこそ、尾崎紅葉をはじめとする硯友社の面々や幸田露伴であり、その向こうを張ったのが国木田独歩らを中心とした自然主義者たちだったのでした。

 


逍遥と鴎外を「写実主義派」と「浪漫主義派」で敢えて二項対立させてみたように、この間の作家たちも敢えて二項対立としてみると、硯友社の面々はどちらかというと鴎外派、自然主義者たちは逍遥派、と言えるかもしれません。

 


そもそも硯友社とは、「小説神髄」が世に出た1886年、まだ学生であった尾崎紅葉と山田美妙、石橋思案の三人が創刊した「我楽多文庫」に始まります。

 

この三人を中心に創刊された文芸雑誌「我楽多文庫」に川上眉山や巌谷漣(後の小波)、広津柳浪らが集まります。この雑誌は小説はもちろんのこと、和歌や狂歌から俳句、漢文、さらには絵画までもあるといったものでした。いわば文芸サークルの走りのような存在ですね、

 

彼らは戯作者として有名な曲亭馬琴に縁のある地に社を構え、二つのモットーを掲げたのでした。

 

まず一つ目は、芸術至上主義。

 

当時の時代背景を考えると、「小説」なんてものは語るに足らないものだ、という風潮なわけですね。で、そんな「小説」を語るに足るものにするためには、政治や思想について述べるべきだ、と考える人たちがいたわけです。

 

でもそうじゃない、というのが彼らの考えなのでした。その点では彼らの主張は「小説神髄」における坪内逍遥の考えと一致していますね。

 

ただ面白いのは、この「芸術至上主義」のために、彼らは逍遥とは全く正反対の立場を主張したのでございます。

 

それがいわゆる「擬古典主義」と呼ばれる考え方。

 

逍遥は小説を芸術にするために戯作を否定したのでした。しかし硯友社の面々は小説が芸術であるために、むしろ江戸時代の戯作者たちを規範としたのでございます。

 

ノンポリであること、そして戯作者気質。

 

まあ要するに、難しい話はよそうじゃないか、という態度ですよね。理屈で芸術を考えるんじゃなく、「面白ければそれでいいじゃん」という、良く言えば若々しい、悪く言えば「ん? もしかしてお前ら、ただノリがいいだけのバカなんじゃないの?」と疑われかねない金持ちのお坊ちゃんの集まりだったのでございます。

 

で、彼らはみな、今で言うイケメン揃いだったのでございました。いかにも男らしい、兄貴! といった風貌の尾崎紅葉、繊細でキザな芸術家肌の山田美妙のほか、本書の著者である内田魯庵は川上眉山が一番男前だったと言っています。私は巌谷漣が一番男前だと思いますがねえ。まあその辺は興味のある方は画像を検索してみてくださいませ。

 

とまあ、そんな彼らですから、女性ファンも多かったそうで。料亭を借り切って文士劇なんかもやったそうで、その会場には「紅葉さ~ん♡」「漣さ~ん♡」なんて黄色い声も飛びかっていたのだとか。

 

もう、今で言うリア充のパリピですねえ。多分この人たちが現代に生きていたら、決して文学なんぞやらずにダンスでもしてEXILEに入ったに違いありません。そりゃまあ、真面目に「文学とは!」とか「芸術とは!」と考えていた人たちからしたら、ちょっとイラッとするでしょうね。

 


で、この硯友社の活動が同世代の書生たちの間でどんどん話題になり、彼らは一躍文壇のスターとなってゆくわけです。だってこっちの方がモテそうなんですから、仕方がない。

 

とりわけ一番先にスターとなったのが山田美妙でしたが、山田美妙はもう、この真面目な人々の「イラッと(あるいはただのルサンチマン)」の集中砲火を浴びるわけでして、ほんとに、男の嫉妬は女の嫉妬よりもよっぽど怖ろしいのでございます。ま、その話はまた後日することにいたしましょう。

 

美妙が去って後の硯友社は紅葉のワンマン体制となってゆき、親分肌の彼の元にはたくさんの若い人たちが集まってくるようになります。

 

紅葉、美妙、思案を第一世代とするならば、眉山、漣、柳浪が第二世代、で、第三世代が泉鏡花徳田秋声小栗風葉、柳川春葉で、この四人は紅門四天王と呼ばれるのでございます。

 

しかし紅門四天王ってのは、音だけ聞くとなんか強烈に効き目のある痔の薬のようですね。

 

そんな肛門……おっと失礼、紅門四天王というのは、まあ、言うなれば三代目なんちゃらですねえ。ランニングマンを踊っていたかどうかは知りませんが。

 

で、彼らの時代になると、いわゆる浪漫派に転機が訪れるのです。

 


これは他の芸術活動でもそうなのですが、芸術至上主義的な活動というのは、世代を経るにしたがってどんどん過激な方向に進んでいくのですね。

 

例えばウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツなんかは健全な芸術至上主義でしたが、それがアール・ヌーボーになり、そしてオーストリアに伝わってクリムトらに影響を与えるころになると芸術至上主義というよりは耽美主義とも呼べるような、退廃的なものになってゆくでしょう。

 

同じように硯友社の文学というものもどんどんその芸術性が過激になり、泉鏡花は妖美な世界を、徳田秋声は残酷な物語を描くようになっていきます。

 

で、面白いのがこの徳田秋声が得意とした「残酷小説」というところで、本来真逆の立場であったはずの自然主義の立場と鏡花以外の硯友社の面々の立場が見事に結合してしまうのですねえ。

 

これに硯友社のドンであった尾崎紅葉の死もあって、浪漫派的な文学を代表していた硯友社は徐々に衰退し始めます。というか自然主義派に吸収されていく。

 

硯友社系の雑誌から登場した田山花袋自然主義的なものを書くようになりますし、詩人時代は浪漫派と呼ばれた島崎藤村も小説家としては自然主義的な私小説を描くなど、一世を風靡した硯友社の時代は終わりを告げ、今度は逍遥派の自然主義文学が盛り上がり始めるのです。

 


と、本書の話は大体ここまでなんですが、なんだか気分が乗って来たのでこのままさらに話を続けていくと、そんな時代に反自然主義者として夏目漱石が登場し、森鴎外が執筆を再開するわけです。

 

ただ面白いのは漱石や後期の鴎外は反自然主義ではあったものの、浪漫主義でもなかったという点です。漱石や鴎外からすれば、硯友社の面々も自然主義者もどっちも同じだというわけです。どっちもなんか深刻な話ばかりしてうざいよ、と。「お前ら必死すぎてめっちゃウケるんですけどw」という超上から目線の態度ですね。イヤですねえ。

 

そうなると、かわいそうなのは泉鏡花です。漱石や鴎外という強力な助っ人が現れたと思ったらそうじゃなかったんですから。まあでも逆に考えれば孤高の存在でいられるのは作家としてむしろおいしいポジションかもしれませんけれど。

 

で、そういう漱石や鴎外という余裕派と泉鏡花のような浪漫主義や耽美主義を上手に融合させるのが芥川龍之介であり、谷崎潤一郎なのです。さらに同時期に登場する白樺派も最初は人道主義という健全な浪漫主義の立場で登場します。「まあ、確かに自然主義とかなんか貧乏臭くてやーね」と。こうなってくると自然主義はもう虫の息でございます。

 

ところがところが。この新浪漫主義者とも呼べる芥川たちも実は硯友社と同じような運命をたどるのでございます。芥川は自殺してしまうし、白樺派は理想からだんだん現実に目を向けるようになって自然主義的な私小説を書くようになってゆく。で、気がつくと谷崎一人がかつての泉鏡花と同じように耽美主義者として孤立している。

 

そうするとまた自然主義的な文学が盛り返してくるわけですねえ。「ほら、この虫の死骸を見てごらん。つまらんだろう? でもこのつまらなさこそが、私たち人間の人生なんじゃないか?」なんてね。適当に言ってますが。

 

ところがどっこい、浪漫派がまたまた復活してきます。今度は芥川門下から堀辰雄が現れますし、川端康成横光利一と言った新感覚派も登場します。「いや、やっぱ虫の死骸を見ているより軽井沢でセレブが恋愛するとか、そっちの方がいいんですけど」という時代です。

 


……あんまり先走ってもなんですね。

 


そんなわけで次回から再開する日本文芸素人講釈第二部では、そんな浪漫派と日本文学が生んだ最初のスターである山田美妙の話をしようかなと思っているところでございます。

 

なんだか半分以上本書とは関係ない話になってしまいましたが、おなじみ内田魯庵著「硯友社の勃興と道程 ――尾崎紅葉――」に関する素人講釈でございました。

 

 

 

漫画を「ありの~ままで~♪」語る話。

 

 


えー、本日も一席お付き合いいただきたいのでございますが、本日ご紹介したいのは、夏目房之介の「夏目房之介の漫画学」でございます。

 

この夏目房之介という人は、ご存じの方も多いでしょうが、夏目漱石の孫なのでございまして、実は日本の漫画史において彼はとても重要な人物の一人なのですね。今日はそんな話をしたいのでございます。

 


ところで、いきなりですが皆さん漫画は読めますよね。「いや、私、実は漫画は難しくて、どう読めばいいのか分からないのです」という方はいらっしゃらないでしょう。

 

よく子どもでも「字の本は難しいから嫌いだけど漫画なら読むよ」という子もいたりして、うちの甥っ子なんかもそうなのですが、小説のような字だけの本よりも漫画の方が簡単で分かりやすいと多くの人が思っているのではないでしょうか。

 

でもこれ、実は大きな間違いなのですね。なぜそれが間違いなのか、ご説明いたしましょう。

 

まず下の画像1をご覧ください。この画像は本書に掲載されている著者の夏目房之助さんによる「ドラえもんを少女漫画風に描いたらこうなる」というパロディです。

 

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皆さんこの漫画読めますよね。

 

まず最初のコマは雲の見える空が描かれています。それからのび太の家の屋根があり、そしてその家の下の部分が描かれています。

 

同時にこの3コマでは作者の言葉としてナレーションが書かれています。

 

で、「さわやか ドラえも~ん」というタイトルが続きます。

 

でも、ちょっと待ってくださいよ。そもそも私たちはなぜこの漫画を、上から順番に、しかも継続した時間軸で読むことができているのでしょう? どこにも番号なんて振ってないんですけど。

 

恐らくこのページを読んだ人の脳内では、こんな映像が流れているのではないかと思うのです。

 

まず青空があり、カメラがそこからどんどん下へと下降していき、のび太の家の全体像を映し出す。テレビドラマや映画の冒頭でよくあるパターンですよね。つまり、カメラの視点が上空からどんどん下へとゆっくり動いているわけです。

 

漫画というのはそんなカメラの動きを3つのコマを並べるだけで可能にしてしまうのですね。読者は3つのコマを見ただけです。でもその脳内には一つの連続した映像が浮かび上がる。実はすごく複雑なことが行われていることにお気づきでしょうか。

 

しかもこのページ、右側にコマをまたいで青年風のび太君が描かれていますよね。こののび太君は、まさか巨大サイズののび太君だとは、誰も思わないわけです。巨人となったのび太君が自分の家の横に立っている、と思う読者はいないわけですね。

 

でも、このページを正直に、そのまま見るならばそういう風にしか本来感じられないはずではないでしょうか? ところが、読者はそこはちゃんと理屈ではなく感覚的に「取捨選択」するわけですね。

 

さて、では画像2に移りましょう。

 

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このページを読者はこう読んでいくでしょう。

 

①とは思ったものの

②なにせこの背景

③せめて背景を

④たちきりの観葉植物にしてみてもこのキャラクター…

⑤(ポケットに手を入れるドラえもん

⑥ごちゃまぜペン!

⑦このペンを使えば

⑧たちまち――

⑨無重力

 

まずですね、この①のコマは、前のページの背景からつながっていることが分かりますよね。で、②のコマがあって、③ののび太の家の近所の背景へとシーンが移ったことを、私たち読者はこの3つのコマだけで理解するわけです。しかもこのコマの形と並び方で、何とかなく読者が物語の中に入り込んでいくような効果も促しているわけですね。

 

で、④で今度はいきなり室内の風景になりますが、このコマは③のコマと時間的に、あるいは空間的につながっていないことは、誰でも分かるわけです。そんなことどこにも書いていないのにもかかわらず。

 

さらにページの下段に行くとドラえもんが秘密道具のごちゃまぜペンを取り出しますが、ポイントはこの⑥のコマですよ。ドラえもんの手とごちゃまぜペンのまわりに引かれたたくさんの線。これは一体なんでしょうか?

 

でもこれも、この線がいわばスポットライトの役割を示していることは、みんな知っているわけですね。だから「この線何? 周りから針が突出してるの?」とか言う人はいないわけです。でも、そんなこと一体誰に教わったんですか?

 

そして最後の3つのコマですが、よくご覧ください。⑦のコマののび太君と⑧のコマののび太君と⑨のコマののび太君は全部髪の色が違うわけですね。でも、だからと言ってこの3人ののび太君が全部別人だと思う人はいないわけです。じゃあ読者はなんだと思っているのでしょうか。

 

それはこの3つのコマの間で、シーン全体の色彩がうっすらとぼやけていっている状態であることを読者は分かっているのですね。

 

しかもですね、よーく見てくださいよ。⑦のコマと⑨のコマ、よく見たらこれ繋がっていませんか? ということはですよ、上段の①から③のコマの例に沿えば、⑦のコマと⑨のコマは同じ空間、同じ場所でなければいけないことになりませんか?

 

でも、誰もそういう風には読まないわけですね。そんな風に読んでたら漫画は読めないのです。

 


なんていうことを考えていくとですよ、漫画というのは実はものすごい複雑な情報処理を脳内で行いながら読んでいるということが分かるのではないでしょうか。

 

小説は字を読むだけですし、絵画は絵を見るだけですが、それらと比べると漫画というのは様々な脳の機能を働かさないと読めないわけですね。論理だけでも、感覚だけでも漫画というのは読めない表現方法なのです。(漫画という表現が「簡単」で「単純」な「子ども向けの」ものと考えられているから敢えてこういう言い方をしているだけで、別に小説や絵画を乏しめたいわけではありませんのであしからず)

 

で、そういうことを最初に言い出したのが、何を隠そう、この夏目房之介さんなのでございます。

 


ではここで、この夏目房之介さんが登場する前の漫画評論を言うのはどういうものだったのか、ちょっとご説明いたしましょう。

 

漫画自体の起源は、北斎北斎漫画に遡ることもできますし、あるいは鳥獣戯画まで遡ることも可能でしょう、考えようによっては。とは言え現在の私たちにとっての漫画とほとんど同じような意味での漫画というのは、大正から昭和にかけてくらいのことだと思うのですね。

 

で、漫画というのはずっと学問の対象ではないもの、語るに足らないものであったのです。これは、明治以前の戯作が語るに足らないもの、文学ではないものだったのと同じですね。

 

そこに変化が訪れたのは、1970年代になってからでございます。この頃に学生運動をしていた人たちの中に漫画愛好家が多くいて、彼らが漫画を語り出したのですね。

 

とは言えこのから生まれだした「漫画を語る」という行為は、結局のところ大きく分けて2パターンしかありませんでした。

 

一つは、その作品の持つテーマの深遠さについて語るパターン。そしてもう一つは、社会現象、サブカルチャーとして見るパターンです。

 

これは別の言い方をすれば、漫画というのはそのテーマについて語る(文学的方法)か、サブカルチャーとして語る(社会学的方法)しかあり得なかったわけです。

 

でも、ここには漫画の技法とか、漫画という表現における記号の独自性とか、そういうのはまったく介在していないことにお気づきでしょう。

 

1970年代以降、いわゆる「漫画論」なるものは多く出版されており、現在でもそれなりに出版されていますが、はっきり言ってそのほとんどはこの「漫画文学論」か「漫画社会学論」のどっちかです。

 

でも、そうなのでしょうか。漫画は果たして文学なのでしょうか?

 

実際さっき漫画を私たちがどう読んでいるかということを示した時に感じられた方もいるかもしれませんが、実は漫画を読む行為というのは「小説を読む行為」よりもむしろ「映画を観る行為」に近いのですよね。

 

そのことに着目し、映画論の技法を使って漫画を語って見せたのが、確か四方田犬彦だったと思います。多分。ちょっとこの辺記憶があいまいですが。

 

でも、それでもまだ漫画論ではないわけです。映画論としての漫画論なわけで。

 

そんな時に登場したのが、本書の著者、夏目房之介さんだったわけであります。で、彼は様々な漫画作品を自分で実際に模写することによって、誰も語りえなかった漫画論を展開したのでありました。

 

漫画が漫画として、文学でも映画でもない独自の表現形式としてちゃんと語られ始めたのです。社会学的なアプローチが表現方法そのものの価値を表していないことは当たり前(ex.ベストセラーが必ずしも名著とは限らない)ですが、実は物語を語るという方法も、漫画を「漫画として」語ってるんじゃないよね、と。

 

そう考えると、私が著者の夏目房之介さんが日本漫画史において重要人物の一人である、という理由もお分かりいただけたのではないかと思います。

 

多分、漫画について語っている本は多々あれど、漫画を漫画として、映画でも文学でも社会学でも思想でもなく語りえているのは、この夏目房之介さんの著書とあと数冊あるかないかぐらいのものです。(もちろん、社会学的なアプローチや文学的なアプローチが「悪い」と言ってるんじゃないですよ。ただ違うよね、っていう。でも違うことに気付いてる人少ないよね、っていう、それだけの話です)

 


これはですね、いわば明治時代に「日本文学」なるものが「芸術とは何か」という観点からしか語られえなかったということと、実は同じなのですね。

 

で、そうすると日本文学は理論上どうしても「高踏な芸術」を目指す方向なってしまうわけでして、そんな流れに「いや、文学が芸術かどうかとか、そんなことどうだっていいよ。文学は文学だよ。ありのままでいいよ」と言ったのが夏目漱石なわけです。

 

そうするとですね、この漱石の孫である房之介さんも、実は漫画という世界においておじいさんと同じことをやってのけたわけでして、これが私は非常に興味深いと思うのですねえ。

 

で、しかも漱石は芸術から文学を解放したわけですが、房之介さんは文学から漫画を解放したわけです。これも非常に面白い。

 


というわけで、漫画好きなそこのあなた! 本書を読んで「漫画を漫画として」ありのままで考えてみてはいかがかと思う次第なのでございます。NHKで時々やってる 浦澤直樹の「漫勉」が好きな方とかね、楽しめると思いますよ。

 

おなじみ夏目房之介著「夏目房之介の漫画学」に関する素人講釈でございました。

 

 

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プロレスで 短歌を詠んでみたならば なんだか切なく なっちゃう話。

 

 

えー、本日も一席お付き合いいただきたく、ご紹介したい本は夢枕獏の「仰天・プロレス和歌集」でございます。

 

プロレスと和歌ですよ。もう、なんてミスマッチなのでございましょうか。本書はそんなプロレスにちなんだ和歌がたくさん収録されており、それに対する作者の夢枕獏さんの選評がついているのでございます。

 

そんな本書の魅力を十分にお伝えするには、やっぱり本書に収められた和歌をご紹介するのが一番のいいのでしょうが、まあ、それだけではあまりに芸がございませんので、本日はちょっと趣向を変えてお送りいたしましょう。

 


司会者「さあ、始まりましたメインイベント60分一本勝負、特別ルール「和歌デスマッチ」でございます! 司会は私、古たっち伊知郎、解説は山もっと小鉄さんでお送りいたします。小鉄さん、よろしくお願いいたします」

 

解説者「よろしくお願いします」

 

司会者「さあ本日のメインイベントであるこの勝負、特別ルール「和歌デスマッチ」というものなのですが、小鉄さん、これは一体……」

 

解説者「いやあ、私にもよく分かりませんねえ。聞いたこともありません」

 

司会者「そもそも本日は一体誰が登場するのかすら発表されていない、という異例の戦いなわけですが……、お、そんなことを言ってる間に会場が暗転しました! そして聞こえてくるのはアメリカの西部を思わせる音楽と、そこから一転してのサンライズ!! こ、これは、まさかまさかのスタン・ハンセン登場だ―!!」

 

解説者「スタン・ハンセンはアメリカ人ですが、そもそも和歌が何か知っているんでしょうか?」

 

司会者「分かりません! 分からないけれど会場はすでにヒートアップしております! そしてスタン・ハンセンに立ち向かうのは一体誰なのか?……この音楽は、「スパルタンX」です!! スパルタンXと言えばあの人しかいない! すでに会場からは三沢コールが鳴り響いているぞ!! そして小橋健太と川田利明を引き連れて、三沢光晴の登場だ―!」

 

解説者「これは、かつて全日本で繰り広げられた死闘がもう一度見れるかもしれませんねえ」

 

司会者「観客もまさにそれを待ち望んでいるところであります。さあ三沢がリングに上がりました! リング上で睨み合う両者、ここから一体どんな戦いが繰り広げられるのでありましょうか!」

 

解説者「まったく予想不可能ですね」

 

司会者「さあ、まずは三沢、スタン・ハンセンをロープへと投げて、そして……マイクを取った―!!」

 

「プロレスを八百長と言う評論家に 一度かけてやりたいアキレス腱固め」

 

司会者「こ、これは、なんてプロレスへの愛のこもった和歌でしょうか!! そしてレスラーの憤りも感じさせます! スタン・ハンセンも共感して相当ダメージを食らった様子です!」

 

解説者「スタン・ハンセンは日本語がちゃんと理解できたんですねえ」

 

司会者「ハンセンも負けてはいません! 三沢の後ろを取って、そしてそのまま……やっぱりマイクを取る!」

 

「しのぶれど色にいでにけりわが痛み ギブアップかとひとのとふまで」

 

司会者「こ、これは意外にも純和風だぞハンセン!! 三沢も予想外の展開に慌てふためいております!」

 

解説者「ハンセン、日本語の発音も上手ですねえ。そんな一面があるとは知りませんでした」

 

司会者「三沢も負けていません! マイクを取り返し……」

 

「横ざまに 歪んだ顔の透き間より もれいづるギブアップの声のさやけき」

 

司会者「三沢、まさかのハンセンに対する返歌です! これぞまさに一進一退の攻防!!


 おーっと、ここで会場が再び暗転! まだ誰か登場するのでしょうか? 鳴り響くのは、「スカイハイ」! そしてスカイハイと言えばこの人、ミル・マスカラスの登場だ―!!」

 

解説者「メキシコ人にも和歌が分かるんでしょうか」

 

司会者「そして反対サイドからもまた一人登場する様子! 今度現れたのはなんと、ジュニアの象徴、獣神サンダーライガーだ!!」

 

解説者「これは、ルチャ・リブレの世代を超えた戦いとなってきましたね」

 

司会者「さあ、リング上に現れた二人の伝説的なジュニア選手、一体どんな空中和歌を炸裂してくれるのでしょうか? まずはマスカラス、コーナーポストによじ登って……マイクを取った!」

 

「スイシーダ自爆したる友に 負けてやるきっかけ遠のきぬ」

 

司会者「おーっと、これは正にジュニアの選手ならではの和歌! アクロバットな技には失敗がつきものであります! しかしライガーも負けてはいません!! ライガーもマイクを取って……」

 

「このマスクよりも派手な技で 勝たねば許してくれない観客がおそろしい」

 

司会者「おーっと、しかしこれはマスカラスにしかダメージを与えていない! マスクマンの悲哀は他の選手たちにはあまり伝わらなかったようです! いや、しかしもう一人だけダメージを受けているぞ! 三沢だ! 三沢がダメージを受けています!」

 

解説者「タイガーマスクだった頃を思い出したのでしょうねえ。経験が仇となりました」

 

司会者「おーっと、ここでまたしても会場が暗転! 今度は誰が登場するのでしょうか? 会場内に響き渡るのは三味線と笛の音! そうです! 和歌と言えば日本の伝統の文芸! 東洋の神秘!! そして東洋の神秘と言えばこの人、ザ・グレート・カブキでございます!! さあカブキ、今回も般若の面に赤い獅子兜で登場してきました! 何やら不穏な空気が流れております!


 そして反対サイドから現れたのは……、おーっと、あれはグレート・ムタだー!! アメリカではカブキの弟子という設定で活躍していたムタ、地獄から甦ってまいりました! 今回もまた夢の競演であります!!」

 

解説者「二人には毒霧ならぬ毒のある和歌を期待したいところですねえ」

 

司会者「さあこの二人は一体どんな和歌を繰り出すのか! まずはカブキがマイクを取って……」

 

「チェーン振り回しても逃げぬガキが笑っている 次は本当にくらわしてやろうと思う」

 

司会者「おーっと、いるぞー、こういう子!! どうしたらいいかレスラーが困ってしまうこういう子、いるいるいるー!! これは強烈な一首であります! そしてもちろんムタも負けてはいません! ムタの別人格である武藤敬司はプロレスマスターと呼ばれていますが、果たしてムタは和歌マスターでもあるのしょうか? さあ、ムタ、マイクを取って……」

 

「マットに寝てきみを待っている フライングボディプレスという技のもどかしさ」

 

司会者「おーっと、これは言っちゃいけない! 言っちゃいけないぞムタ!! 待ってるんじゃありません! ダメージで動けないのであります! やはりヒールであります!! 痛いところを突いてきます!!」

 

解説者「ムタの決め技もフライングボディプレスなんですけどねえ」

 

司会者「さあ、まだまだ登場するようであります! 会場内に響き渡るパワーホール! 今度は長州力が、馳浩佐々木健介、そしてなぜか北斗晶も引き連れての入場です!!」

 

解説者「馳は元文部科学大臣ですからねえ。しっかりレクチャーを受けたんじゃないでしょうか」

 

司会者「そしてもう一方から登場したのは、天龍源一郎だ!!」

 

解説者「天龍は元力士ですからねえ。日本の伝統を感じさせる和歌を期待したいところです」

 

司会者「さあ、長州、あいさつ代わりに一首かましたいところですが、まずはマイクを奪い取って」

 

「狂器をば見つけられないわけではないが 知らぬふりの父をあはれに思ふなみちこ」

 

司会者「おーっと、これは、父の愛を感じる歌だ―! 長州力にも娘がいるようですが、こんな経験があるのでしょうか! そして長州の娘の名はみちこなのでしょうか!


 天龍も負けてはいません! すかさずマイクを奪い取って……」

 

「○◇#$≪ +*<>&%# G=~|$# 」

 

司会者「こ、これは、滑舌が悪くて何を言ってるのか分からない! 何を言ったんだ天龍! しかしなぜかリング上の選手たちはダメージを受けている様子です!」

 

解説者「まあ、それを言えばレスラーはたいてい滑舌が悪いですからねえ。むしろ今までちゃんと聞きとれていたのが不思議です」

 

司会者「さあ、全く予想不可能となってきましたこの試合、ここから一体何が起こるのでしょうか。


 おーっと、そんなことを言っているとまた会場が暗転! これ以上誰が登場するというのでしょうか?


 スクリーンに映し出されたのは選手の控室! 誰がいるのか! 虹色のガウンが見えるぞ! そしてそのガウンには闘魂の二文字が!! まさか、まさかあの人なのでしょうか!!


 会場内にはボンバイエが鳴り響きます! 観客たちもかなり盛り上がっています! 本物でしょうか! 春一番ではないでしょうか? いや、違う! 本物だ!! 本物のアントニオ猪木の登場だ―!!」

 

解説者「異種格闘技戦と言えば猪木ですからねえ。でも、これって異種格闘技戦なのでしょうか」

 

司会者「さあ、そしてリングに上がった猪木、一体どんな和歌を繰り出すのでしょうか? まずはマイクを手に取って……」

 

「少年よ 迷わず行けよ 行けば分かるさ」

 

司会者「おーっと、これは和歌じゃないぞ! これは有名な猪木のポエムだ!! しかしリング上の選手たちは全員ダウンした!! あまりの予想のつかない展開に、相当ダメージを受けた様子です!!」

 

解説者「いやあ、猪木VSモハメド・アリ戦を彷彿させますねえ」

 

司会者「そしてカウント10がコールされました! 勝者は猪木! 和歌を詠んでないのに猪木が勝者です!! これでいいのでしょうか? 分かりません! 猪木はまだマイクを手放さない!」

 

猪木「元気ですかー! 元気があれば何でもできる。元気があれば和歌も詠める。行くぞー! イーチ、ニー、サーン、ダーーーー!!」

 

司会者「もはや会場の興奮は収まりません! 一体何が起こっているのか、わけが分かりません!! しかしこれでいいのでしょう! これがプロレスだ! そしてこれがエンターテイメントだ!! 


 ということで、熱い戦いをお届けしてまいりましたが、ここでお時間となりました。テレビの前の皆さん、またお会いしましょう! さよーならー!!!」

 


……えーっと、そういうわけで、本書の魅力とそしてプロレスの魅力が伝わりましたでしょうか? 

 

おなじみ夢枕獏著「仰天・プロレス和歌集」に関する素人講釈でございました。

 

 

無限の集合論がヤバすぎる話。

 

「神」の証明―なぜ宗教は成り立つか (講談社現代新書)

「神」の証明―なぜ宗教は成り立つか (講談社現代新書)

 

 

えー。相も変わりません。本日もまた一席お付き合いいただければと思う次第でございますが、本日ご紹介したいのは落合仁司著の「<神>の証明―なぜ宗教は成り立つか」でございます。

 


で、いきなりなんですが、あなたは神を信じるでしょうか?

 

そう言われると恐らく多くの人は「うん、まあ、一応信じる」と答えるのではないかと思うのですね。よく「日本人は無宗教だ」と言われますが、無宗教と無神論は違うのでありまして、特定の宗教に帰依していないことは別に無神論ではないのですよね。この辺の感覚って外国の人にはうまく伝わらないのですが。

 

無神論の人というのは、よく宗教というものは、あるいは信仰というのは非合理なんだと仰います。それ故に私はそんなものは信じないのだ、と。

 

しかしですね、これは本書で述べられていることですが、論理的に何かを存在しないと証明することって、実はめっちゃ難しいんですよね。と言うかそんなことはほぼ不可能に近い。だから私は宗教や信仰は不合理だ、と言う人がいたら、「じゃあ、あなたは神の不在を論理的に証明できるんですか?」と、こう問いかけたいのであります。

 

そうすると多分できないのですよね。ということはその人は、「神の不在」という論理的に証明できないことを真実だと思っている、つまり信じているってことになるわけでありまして、そうするとですよ、実は「神だの宗教だのは論理的ではない」と言っている人の方が一見合理的であるように見えて実は非論理的だ、ということになると思いませんか? だってその人は「神は存在しない」という非合理を信じているのですから。

 

……うーん、もうなんか、早速わけのわからない話になりつつありますが。

 


多くの人が宗教と論理とは対極にある、と考えているかもしれません。でも、本当にそうでしょうか?

 

では本書に倣って、キリスト教を例に考えてみましょう。

 

キリスト教という宗教はイスラム教と同じくユダヤ教から派生したのですね。2000年ぐらい前に。

 

で、この2000年前の新興宗教であったキリスト教は、まず西へ西へと布教が広まってゆくわけです。

 

ところでここで気になることがあるのです。というのはですよ、2000年ぐらい前の西ヨーロッパと中東の間にあったのはギリシャを中心とした地中海文化圏でございます。

 

で、この辺にはそれこそプラトンアリストテレスから連綿と続くギリシャ哲学の論理体系ができあがっていたはずなんですよね。

 

そんなギリシャの影響下にあった地域がこの頃続々とキリスト教化していった、これって不思議なことだと思いませんか?

 

ギリシャと言えばこの時代のいわば都会ですよ。で、そこには知識人たちもたくさんいたでしょう。そんなところにですよ、ナザレだか何だかよく分からん田舎から一人の漁師(ヨハネ)が現れて言うのです。

 

「俺は神の子を知ってる」

 

「はあ?」でございますよ。普通に考えたら。「なんだこの田舎者は?」てな話でございます。しかもよく話を聞いたらその神の子とやらはどっかの大工の倅らしいぞ、と。「お前なめとんのか」ってことになるはずだと思うのですよねえ。

 

ところがなぜかそうはならなかったのでした。何でなのかはよく分かりませんが、歴史的事実としてキリスト教ギリシャに広まり、そしてさらに西へと広まってゆくのです。

 

しかもそのうちにキリスト教とその神学の方がギリシャの哲学よりも重要なものと考えられるようになり、ルネサンスの頃にヨーロッパで再発見されるまで、ソクラテスアリストテレスも皆忘れ去られてしまうのですよね。

 

とは言え、ヨーロッパの、とりわけギリシャ近辺のキリスト教父たちは彼らギリシャ哲学を研究している哲学者たちと対峙せざるをえなかったわけで、そんな中で生まれてくるのが、様々なキリスト教神学なのでございます。

 

この神学の中で有名なものは主に三つあります。それが神の受肉、三位一体論、そしてキリストの再生と神化の問題です。

 

当時の知識人たちの中でも、さすがに無神論者はいませんでした。でもですよ、それでもやはり気になるのは、神の存在を否定しようとは思わないが、なんでキリストが神の子なんだよ、というところでしょう。

 

すごく単純に言えば、偉いのは神でしょ、キリストじゃないでしょ、ってことですよね。あと神が人になったり、人が神になったり、そんなことってあるんですか? と。

 

で、私たちは通常、このことを受け入れることを「信仰」と呼んでいるんじゃないでしょうか。

 

ところが本書において著者は言うのです。「いや、実はそこは信仰の問題じゃないんだ」と。

 

つまりさっき挙げたキリスト教で言う神の受肉、三位一体、キリストが人でありながら同時に神でもある、というこの3点は「信じるか信じないか」という問題ではなく、論理的に証明が可能である、と、こう言うのです。

 

で、そのために著者が用いるのが、数学における集合論なのでございます。

 

この集合論とは、カントールというドイツの数学者が創始したある数字の集まりと別の数字の集まりとの関係を定式化する、という数学の理論でございまして、例えばAの中に1と2と3が含まれている場合、A={1,2,3}と表記し、1,2,3である要素aはa∈Aと表記します。

 

で、例えばBという集合がありそれがB={1,2,3,6}だとすると、AはBの部分集合であると言い、A⊂Bと表記するのですね。

 

で、ここに三位一体論、東方正教で言う三一論をあてはめると、キリスト教における「神」とは、「父(生まれざる者かつ発出されざるもの)」と「子(生まれる者)」と「精霊(発出されるもの)」によって成り立っています。しかし同時にこの三者は「父」である、と言うそういう話なのです。

 

これを数学的な表現に置き換えると、生まれる者であるキリストをA、発出されるものである精霊をB、父なる神は生まれざる者かつ発出されざるものだから¬Aかつ¬B(¬というのは~ではない、という記号です)なので、

 

x={A,B,¬Aかつ¬B}

 

が証明できればよい、という、そういう話になるのですね。

 


ところでこの集合論において無限ということを考えると、必ずパラドックスに陥ってしまいます。

 

例えばA={1,2,3,4,5,6,7,8,9,10}という集合があったとします。この時この集合に含まれる偶数の集合Bを考えると、B={2,4,6,8,10}になりますよね。ということは、Aという集合に含まれる部分集合Bの要素は5つですから、Aに含まれる要素の数10よりも少ない数字になります。というかそうならなくてはなりません。BはAの部分集合なんですから。

 

しかしこの集合Aが無限であったらどうなるでしょうか。Aの要素であるnがn+1,n+2,と無限に続いているとします。で、偶数は2nですから、仮にnの無限集合というものがあり得るとするならば、本来そのnの部分集合であるべきはずの2nから始まる部分集合Bもまた無限の要素を持つことになります。

 

集合Bは集合Aの部分集合であるはずなのだから、本来ならばBの要素は必ずAよりも少なくなければならないのに、Aの要素が無限であるとするならば、その部分集合であるBの要素もまた無限に存在することになる。つまりBの要素の数がAの要素の数よりも少なくならないのですね。

 

これはつまり無限の中に無限があるということになるわけで、そうするとですよ、その無限の中にもまた無限があり、さらにその無限の中にもまた無限があり……ということになってしまうわけです。

 

で、これもまた、実は神学上の問題と共通しているのですね。つまりキリストや精霊と父なる神が神という本質の元で同じでありながら別の存在だとすると、神が無限であるならばキリストや精霊は無限ではないはずじゃないの? ってことが神学上の「信仰」として受け入れなければならないところだったのです。

 

でも先に例を挙げたように無限の集合というものを想定した場合、実は神学におけるさっきの問題というのは論理的にどこかおかしいのではなく、むしろ無限の集合を想定した場合の論理をそのまま表現しているってことになるわけですね。

 


それどころか、実は無限の集合について考えるとさらに面白い結論が導かれるのです。というのは、集合Aの要素が無限だとした場合、その部分集合であるBの要素の数は、Aの数を超えてしまうのです。

 

とすると、この無限の部分集合がもたらす結論は、なぜキリストが神の子であるにもかかわらず、キリスト教は「神」ではなく「イエス・キリスト」を信仰の対象とするのか、という問題とつながってくるわけですね。

 


ということで、先に提示したキリスト教における三つの信仰の対象となるもの、「神の受肉」「三位一体」「キリストの神化」というのは実は信じるか信じないか、という話ではなく、論理的な問題である、ということがお分かりいただけたでしょうか。

 

論理を突き詰めると信仰は否定される、と通常私たちは思っていますよね。ところが、あら不思議。無限の集合論というものを考えた時、実は論理こそが信仰を裏付けちゃっているのです。

 

この無限集合の特質を証明した時、カントールはこう言ったそうです。

 

「私は見た。しかし信じられない」

 

そして彼の集合論は19世紀当時の数学界から猛反発を食らい、彼の師であるクローネッカーは彼の研究成果を出版を妨害し、ポアンカレに至っては「彼の証明した集合は集合ではない」とまで言い放ったのだとか。

 

ま、自分は無神論者だ、という方は、「信仰は非合理だ!」なんて非合理なことを言う前に、まずこの問題に真剣に取り組むべきなのでしょうねw

 


さて、それでは宗教というものは実は、完全に合理的なものだと言えるのでしょうか。つまり、宗教に信仰というものはそもそも必要のないものなのでしょうか。

 

そのことに対する本書の答えは「NO」なのですね。実はここまでの証明には一つだけ大きな穴があるのです。

 

それが何かと言うと、結局のところ、ここまでの論理はあくまでも「神が存在する」「神は無限である」という前提においてこそ成り立つ論理だ、ということです。

 

神がこの世界に存在するとするならば、そしてその神が無限であるとするならば、その神の存在も、その神がどのようにして私たち人間と関わることができるのかということも、そしてなぜ私たちが信仰によって神へと導かれることが可能なのかということも、証明する論理が成り立つわけです。

 

つまりここまで述べてきたことは、神という存在の内的世界においてのみ通用する論理である、ということ。

 

なのでもしも神というものがこの世界に存在しないのであれば、あるいは神が無限ではないとするならば、ここまで述べてきた論理の組み立てはすべて意味を失ってしまいます。

 

それは逆に言えば、こういうことです。

 

もしもあなたが神を信じるならば、ここまで述べてきた論理によってあなたは神を受け入れることができる。

 

と、そういう話なのですね。

 

著者は言います。

 

「何か騙されたような気がするであろうか。」

 

……うん、ちょっとね。

 

でもね、これもまた無限のパラドックスなのです。というのは、現状私たちは何かを理解するためには、無限であるものをとりあえず「信じる」しか論理的に乗り越える方法を持ってはいないのだから。「神」や、あるいは「論理」というものを、まず想定して受け入れなければならないのです。

 

「そもそも無限なんていう、存在しないものを考えるからそんなことになるんだ」と言う人もいるかもしれません。でもそれはそれで、「無限なんて存在しない」という論理的に証明できない信仰に基づいた論理の組み立てです。

 

つまり私たちはみんな、「神」を「信じる」か、あるいは「神以外の何か(科学とか数学とか)」をまず「信じる」ことによってしか、「考える」ことができないということ。

 


本書が描いていることは、私たちの認識能力には限界があるということを「宗教」と「数学」という一見かけ離れているように思える二つの分野が同時に証明している、ということです。

 

これは多分、「この世界は私たちが見た瞬間に生まれる」というゲーデル不完全性定理とか、量子力学におけるシュレーディンガーの猫の話と同じことでしょう。

 

もし私がある世界を信じないとするならば、私にとってそんな世界は存在しないし、あるいは存在していたとしてもそんな世界を認識することも解釈することもできないわけですから。

 


本書の最後を著者はこんな言葉でしめくくります。

「宗教とは語るものではなく、まず何よりも信じるものなのである」

あるいはそれは、私たち自身が決して「無限ではありえない」ということの証明なのかもしれませんね。

 


いやはや、実はいろんなところで「有限数の集合論はただの算数だけれど、無限の集合論はマジでヤバイよ」という話をちらほら聞いていたのですが、確かに無限の集合論はヤバイw 私は文系なので、多分ちゃんと理解したうえで話してるわけではありませんが、またこのことは別の類書も読んで改めて考えてみたいなと思うところでございます。

 

おなじみ落合仁司著「<神>の証明―なぜ宗教は成り立つか」に関する素人講釈でございました。

ソクラテス探偵の名推理!犯人はプラトニック・ラブじゃなかった話。

 

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 

 

講釈垂れさせていただきます。というよりも本日は、講釈と言うよりも世の中にまかり通っている誤った言説について、それは違うよと言わせていただきたいのでございます。

 

その言説が何かって、「プラトニック・ラブ」でございます。

 

「プラトニック・ラブ」という言葉を知らない人はいないでしょう。肉体的な愛よりも崇高な、精神的な結びつきの愛のことでございます。

 

その思想が描かれているのが本日ご紹介したいプラトンの「饗宴」なのだ、と多くの人が思っていることでございましょう。

 

でも、申し訳ありませんが、私は本日はっきりと言わせていただきます。

 

それ、間違ってますから!

 

ついでに言えば「饗宴」に出てくる話で有名なものに「人間球体説」があります。男と女はかつて一つの球体であった、それが神によって二つに分断されたために、人はお互いの欠けたもう一人の自分を求めて恋をするのだ、というそういう話ですね。

 

これも、申し訳ありませんが、はっきり言わせていただきます。

 

ソクラテスはそんな話してませんから!

 


というわけで、本書の内容をばばっとご紹介いたしましょう。

 

ある日、アガトンという青年の家で宴が催されました。で、ソクラテスもそこに招待されるのですが、「えー、まじでー、めんどくせー」と言うソクラテスがしぶしぶ家に到着すると、宴はどうやら前日から始まっていた様子。てことでもう客たちはみんなベロベロになっているのです。

 

そんな中、ひとりが言うのですねえ。「いやもう、酒は飲み飽きたわ。これ以上飲めんわ。それより、誰か面白い話してくんない?」

 

なかなかの無茶ぶりでございますが、それに一人がこう答えたのでありました。

 

「よし、じゃあみんなで愛について語るのはどうか」

 

「はあ?」でございますねえ。「それの何が面白いんだ?」と私は思いますが、ところが、なぜかその意見が採用されます。きっとその場にいた人たちは随分酔っていたんでしょうねえ。

 

ということで、みんなひとりずつ愛について演説していこうぜ、となぜかそんな話になるのでございます。

 

ま、そうやって順番にそこにいた者たちの愛についての演説があり、最後にソクラテスが登場するわけですが、ソクラテスにいたるまでのいろんな人の意見をまとめると、だいたいこんな感じになるのです。

 

① 愛=エロスとは、神である。それもとても偉大な神だ。

 

② 愛が神として優れている理由、それは愛が「自制」を促すからだ。(好きな人の前ではみんなかっこつけたいでしょ?)

 

③ ゆえに、自制をもたらさぬ愛、ぶっちゃけて言えば肉欲的な愛というものは愛の中でも一段レベルの低い愛である。

 

④ てことは、人が人を愛する場合においてとりわけ至上の愛とは何か、それは年長者の男性が美少年を愛する愛のことである。だって肉欲的になりようがないものね。

 

ということで、一般によく言われる「プラトニック・ラブ」というのは、実はプラトンがこの作品の前半で描き出した当時のギリシャ人たちの常識的な恋愛観だということがお分かりになるでしょう。

 

ついでに言えば、人間球体説もこの前半の部分において登場するアリストファネスの説でございます。ソクラテスの説ではありません。

 

さて、本書の前半の③ぐらいまでは「確かにそうだ」と思う方も多いのではないでしょうか。だから恐らく、多くの人がソクラテスが「プラトニック・ラブ」は崇高なものだと言った、と思っているのでございましょう。

 

でも、実はこの作品でソクラテスはこの当時のギリシャ人たちの恋愛観は「間違ってる」と言っているのです。だって、そうじゃなきゃ、みんなの話の後にソクラテスが満を持して登場する意味がないじゃないですか。

 


ちょっと話がずれますが、プラトン著作が2000年以上にわたって読まれ続けているその理由はなんでしょう?

 

もちろんソクラテスがすごい思想家である、ということが第一の条件でしょうが、私はそれだけではないと思うのですね。

 

私が思うプラトンが読まれ続けている理由、それは一言で言うならば、「面白いから」です。

 

…いや、お前は何を言っているんだ? とそう思われるかもしれませんが、もう少し話を聞いてください。

 

ではなぜ「面白い」のかというと、それはプラトン著作は押しなべてある物語の構造を備えているということです。

 

その物語の構造というのは、推理小説なのですね。

 

推理小説でよくあるパターンとして、こういうのがあるでしょう。

殺人事件が起こる。

 

   ↓

 

刑事やほかの誰かが推理をするが間違っている。そしてさらに連続殺人事件発生。

 

   ↓

 

みんながあたふたする中、名探偵登場。真犯人を暴き出す。

 

   ↓

 

めでたしめでたし。

 

こういう推理小説、読んだことあるでしょう?

 

実はプラトン著作はこれと同じ構造を持っています。

 

つまり、まず最初にいろいろな人が自説を述べてゆきます。これは当時のギリシャ人にとってはかなり常識的な説であるか、あるいは論理的に必然的に導かれる説です。

 

で、読者はこの前半を読みながら「なるほど、そうだそうだ」と思うのですが、最後にソクラテスが登場して、言うのです。

 

「いや、それは違うよ。事件の真相は……」

 

で、ここで読者にとっては認識の逆転が起こるので、プラトン著作というのは哲学書でありながら非常に「面白い」のです。まるで推理小説を読んでいるような感覚を味わうことができるのですから。

 


ということで本書「饗宴」もまた、そういうスタイルをとっています。本書では、至高の愛とは(後世で言う)「プラトニック・ラブ」だよね、とみんなの話がまとまりかけたところでソクラテスが登場、自説を語り始めるのです。

 

「プラトニック・ラブ」も「人間球体説」も、愛という事件の真相ではないと。

 


では、ソクラテス名探偵が述べた愛の真相とはどんなものなのでしょうか。まとめてみましょう。

 

ソクラテスは自説を述べるのではなく、女友達のディオティマから聞いた話をする。

 

まあ要するに、愛について何かを知っている者がもしいるとするなら、それはお前らみたいな(もちろん彼自身も含めた)酔っぱらいのオッサン連中なわけねーだろうがってソクラテスは言うのですね。人間には男と女がいるってこと忘れてんじゃないの? と。

 

で、オッサン連中が愛について語ったりすると、どうせ話はエロい話になるか、「女なんていらねー! 友情が大事だー!」みたいな話にしかならないだろうがと。ま、昔も今も男というのは大して変わらないってことですね(悲)。居酒屋で男同志集まってそんな話をしているそこのアナタ! 2000年以上前にすでにソクラテスに見透かされてますよw

 

② ディオティマによると、愛=エロスは神ではないらしい。

 

「神」か否かということは普遍的なものや絶対的なものであるか否かということです。で、当時は美は神だと思われていました。それは絶対的なものだと。しかしソクラテスは「美しい人っていうのは、美しくあろうとしなくても美しいでしょ。でも愛する人っていうのは愛そうとしなくても愛にあふれている人のことじゃないじゃん」と言うのです。だから愛を神としてまるで美のようなものとして語るのは間違ってるよ、と。

 

③ 愛とは「神」を求める心のことを言うらしい。

 

では愛とはなんなのか。ディオティマによると、愛=エロスというのは永続性への希求なのですね。

 

「神」が絶対的で普遍的なものであるならば、それは永続性のあるものです。そして愛とはそれを求める心だとディオティマは言うのです。ということは、愛し合う男女がいたら「セックスしたい」と思う方が普通なのですね。だって子孫を遺すことは永続性を求める行為ですから。だからセックスは別に卑しい行為でもなんでもないわけです。にもかかわらずそういう風に導かれる論理があれば、そっちの方がどこかおかしいのですね。永続性を希求しないわけですから。

 

で、愛=永続性への希求なのだとしたら、それは何も人と人の間のものだけではないだろう、とディオティマは言うのです。国家に対する愛とか、学問に対する愛というのもありえるよね、と。

 

では、そこに順序はあるでしょうか。「プラトニック・ラブ」は普通の愛より優れているとか、男女の愛より男同士の愛の方が崇高だとか、人間同士の愛よりも国家や学問への愛の方が素晴らしいとか、そういうことがありうるでしょうか?

 

ないですよね。どう考えたって。なぜなら、問題は希求する「対象」ではなく、希求するという「行為それ自体」なのですから。

 

「対象」が愛の優劣や順序を決めるとするならば、その「対象」の何によって優劣が決まるのでしょう?

 

「俺はお前よりたくさんの女と寝たことがあるから俺の方がお前より愛を知ってる」なんて言う人がいたらどうでしょうか。「はあ?」ですよね。数が大事なわけじゃない。

 

同じように「俺の方が賢いから俺の方がお前より智(ソフィア)を愛している」なんて言う人はどうでしょうか。あるいは「俺の方が国家の歴史をお前よりもよく知っているから、俺の方がお前より国家を愛している」なんて言う人は?

 

「愛」って、能力や知識の量が大事なんでしょうか。そうじゃないですよね。

 

永続性を希求するという「行為」よりもむしろその「対象」に注意を向けるから、「対象」の数や量や質が気になるのです。でも、それって要するに自分の欲を満たしたいだけで、愛じゃないだろ、って話です。「プラトニック・ラブ」だろうと何だろうと、愛に順序や優劣をつけるとするなら、そっちの方がよっぽど単なる肉欲なんじゃないですか? と。あんたたちそんなことも分からないの? 酔っぱらってんじゃないの? と。(酔っぱらってるんですが)

 


ということで、実は本書においてソクラテスは、「プラトニック・ラブ」をむしろ否定しているということがお分かりになるでしょう。少年愛を礼賛しているわけでもありません。一体どうしてそんなことになってるんですかね。

 

「プラトニック・ラブ」はおかしい、愛する「対象」に目を向けること自体が間違っている、というのが本書「饗宴」の趣旨なはずなのですが、なぜか本書によって「プラトニック・ラブ」は世界中に広まってゆくのでした。「プラトニック・ラブ」なんて、単なる酔っぱらいの戯言にすぎないんですけどね。まったく、ソクラテスプラトンも、草葉の陰で泣いているのではないでしょうか。それとも呆れているでしょうか。

 


と、まあ、鼻息荒く述べさせていただきましたが、プラトン著作の「面白さ」は実は、ソクラテスという人が当時の常識の範疇からしてかなり過激なことを言っているからだ、とも言えるのかもしれません。論理的な推理、そしてそこから導かれる意外な真相、これぞ推理小説の醍醐味とも言えましょう。プラトン著作をまだ読んだことがないという方は、ミステリーを読む感覚で、ソクラテス探偵の名推理を味わってみていただきたいのでございます。

 

最後にもう一度繰り返しますが、「プラトニック・ラブ」は言うなればワトソン君の推理です。でもシャーロック・ホームズの推理は違いますから! これはもう、声を大にして言いたいのです。

 


おなじみプラトン著「饗宴」に関する素人講釈でございました。

 

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 

 

まるで足つぼマッサージみたいな話

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 

えー、本日もお付き合いいただきたく、またぐだぐだと講釈垂れさせていただきたいわけでございますが、本日ご紹介したいのはショーペンハウアーの「読書について」でございます。

 

ショーペンハウアーと言えば、ニーチェにも影響を与えたと言われる偉い哲学者でありますが、本書はタイトル通り、そんなショーペンハウアーさんによる読書に関するエッセイなのでございます。

 

より正確に言えば晩年に出版された『余暇と補遺』というエッセイ集の中の読書に関するものを集めたのが本書でして、ほかにも「自殺について」や「幸福論」なんかも有名ですね。

 

このショーペンハウアーという人はまあ、なかなかアクの強い人なんでございまして、本書もタイトルが「読書について」なのだから読書の効用だとか、本はたくさん読んだ方がいいよーとか、そんなことが書いてあるのだろうと普通は思うでございましょう。

 

が、全然そんな話ではないのでございます。なぜならショーペンハウアーさん、本書の最初のエッセイである「自分の頭で考える」の冒頭でこんなことを言っちゃうのですから。


「どんなにたくさん蔵書があっても、整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ」

 

ええ、もう、いきなり「ギクッ」でございますねえ。ええと、ショーペンハウアーさん、もしかして私の本棚をご覧になりましたか?

 

そしてショーペンハウアーさんは言うのでした。「本なんか読むより、自分の頭で考える方がよっぽど大事だ」と。大体愛書家とかいう奴らはみんな自分の頭でものを考えようとせずに、どっかの本から誰かの言葉を引っ張ってきて知識をひけらかしてやがる。本ばっかり読んでるとそんなくだらない奴になっちゃうよ、と。

 

で、イギリスの詩人アレクサンダー・ポープの言葉を引用するのですが、この引用がまたひどい。


「頭の中は 本の山
 永遠に読み続ける 悟ることなく」

 

……嫌ですねえ。何なんでしょうか、この人は。

 


さらにショーペンハウアーさんの怒りは匿名の批評家たちにも向けられます。文句があるなら名乗ればいいものを、匿名の影に隠れて人の書いたものを批判するとは何事か、と。


「物書きの世界における匿名は、市民共同体における金銭詐欺にあたる。「名乗りでよ、ごろつき。さもなければ沈黙を守れ」が合言葉でなければならない。署名のない批評に対して、ただちに「詐欺師」という言葉を補ってかまわない」

 

……そこまで言わなくてもいいんじゃないかと思ったり。

 


で、二つ目のエッセイが「著述と文体について」なのですが、これもまたすごい。どうもショーペンハウアーさんは言葉の誤用が気になる方のようでございます。

 

とにかく最近のドイツ語の誤用は目に余る! と、そりゃもう読みながらこっちにまで唾が飛んでくるんじゃないかというくらいの剣幕で、正確なドイツ語を使うことのできないへぼ文士どもをこきおろすのでございます。

 

特に言葉の本当の意味を知らないくせに新語をでっち上げ、大したことを言っていないくせにまるで深遠なことを言っているように見せかけようとするクズがいる、と。


「痛ましいまでに脳みそが足りないのを埋め合わせようと、新語、新手の意味合いの語、あらゆる種類の言い回しや合成語を用いて、懸命に知者をよそおおうとする」

 

それが誰かと言うと、フィヒテでありシェリングでありヘーゲルだと。

 

……こらこら、名前を出しなさんな。

 


そして最後に収録されている「読書について」では、ショーペンハウアーさんの怒りはさらに高まります。

 

大体において現代に出版されている本の十中八九はクソであると。文学の世界で時代の波にもまれて生き残る名作なんて数十年に一冊出るかでないかなのだから、毎日大量に出版される本のほとんどは読むべき価値がない。

 

にもかかわらずこんなに毎日大量の本が出版されるのは、読者の多くがただ新しいだけで価値があると思い込んでいるからであり、出版社や書店や批評家がそうであるかのように触れ回っているからであり、それに乗っかって大量の三文文士が小金を稼いでいるからだ、と。

 

そしてショーペンハウアーさんはこう言い放つのでございます。


「したがって私たちが本を読む場合、最も大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大うけする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである」

 

もうショーペンハウアーさん、この世界の人間の大半のことが嫌いなんじゃないかと思うわけでございます。

 

一方でショーペンハウアーさんはこんなことも言っています。


「退屈には、客観的退屈と主観的退屈の二種類がある。(中略)主観的に退屈なのは、読者がそのテーマに関心がないせいで、読者側の関心になんらかの制約があるからだ。だからどんなにすばらしいものでも、主観的に退屈、つまり人によっては退屈なこともある。また逆に劣悪なものでも、人によってはそのテーマや著者に興味をおぼえ、主観的に気晴らしになることもある」

 

そう考えると、何が良書で何がそうでないかは結局人それぞれ、なのかもしれません。ていうか、そういうことにしとこうじゃありませんか。ね、ショーペンハウアーさん。

 


ま、よく本には多少の毒があった方がいい、なんてことを言いますが、本書はまさに猛毒でございます。心臓の弱い方は読むのを控えた方がよろしいかと。

 

とは言え実はショーペンハウアーさんはただ悪口や暴言を吐きまくる嫌な人なのではございません。いやむしろショーペンハウアーさんからすれば、彼の言葉は毒なんかではなく、その言葉で耳が痛いとすれば、それはこちらに問題があるのです。

 

足つぼマッサージを痛がる人は内臓のどこかが悪い、というのと同じですね。

 

そんなわけで本書を読むことは心の健康にも良い、かもしれません。良くないかもしれません。私は責任持ちません。

 

でも、どうです? ショーペンハウアー先生の足つぼマッサージならぬ耳つぼマッサージ、人によっては結構痛い(私はかなり痛かった(泣))ですが、あなたも一度試してみませんか?

 

おなじみショーペンハウアー著「読書について」に関する素人講釈でございました。

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 

鏡の国の漱石の話。

 

 

草枕 (岩波文庫)

草枕 (岩波文庫)

 

  

えー、相も変わりません。本日も眉唾物の素人講釈に一席お付き合いいただければと思います。

 

本日取り上げるのは夏目漱石の「草枕」でございます。「智に働けば角が立つ」の冒頭で有名なこの作品、名作だけに様々な切り口がございましょう。

 

一応あらすじをぱぱっとご紹介すると、画工である主人公が俗世である東京を離れて熊本の田舎へやってくるのですね。で、ここで様々な人と出会いながら自分にとっての芸術とは何か、ということをひたすら考える、そんな話でございます。ぱぱっとしすぎですか(汗)。

 


で、私はこの作品を「鏡」をキーワードに読み解いていこうと思うのでございます。

 

さてさて、まず「鏡」とはなんでございましょう? まあ、皆さん毎朝見ておりますよね。人によっちゃあもっとしょっちゅう見る人もいらっしゃるかもしれませんが。あの鏡でございます。

 

この作品において鏡がはっきりとした形で登場するのは、第五章の場面でございます。

 

主人公が床屋に行くのですね。で、髪を切ってもらうのだけれども、当然その時に主人公が鏡を見るのです。しかし主人公は鏡に映った自分の顔を見て、ああ嫌だ嫌だと思う。何だこの鏡は、と。ちょっと長くなりますがその場面を引用しましょう。

「右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで裂ける。仰向くと蟇蛙を前から見たように真平らに圧し潰され、少しこごむと福禄寿の祈誓児のように頭がせり出してくる。いやしくもこの鏡に対する間は一人でいろいろな化物を兼勤しなくてはならぬ。写るわが顔の美術的ならぬはまず我慢するとしても、鏡の構造やら、色合や、銀紙の剥げ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜体を極めている。小人から罵詈されるとき、罵詈それ自身は別に痛痒を感ぜぬが、その小人の面前に起臥しなければならぬとすれば、誰しも不愉快だろう。」

つまり自分の顔が美しいとは言わないけれども、ここまでひどく見えるのは鏡のせいだ、と主人公は思うのですね。言いがかりにもほどがありますが。

ところで、鏡という言葉には道具としての意味のほか、実はもう一つあるそうなのですね。

 

万葉集にこんな歌があるそうで

「見る人の、語り継ぎてて、聞く人の、鏡にせむを、惜(あたら)しき、清きその名ぞ、おぼろかに、心思ひて、空言(むなこと)も、祖(おや)の名絶つな、大伴(おほとも)の、氏(うぢ)と名に負へる、大夫(ますらを)の伴(とも)」

この歌の「聞く人の、鏡にせむを」というのは、「聞く人が手本とするだろうに」という意味だそうで、つまり鏡というものはただありのままを写すものであるだけでなく、それを見て手本とすべきもの、という意味があるのです。

 

このことに先ほど引用した部分を重ね合わせると、主人公自身が自分自身を手本としたいとは思っていないことがよく分かります。ではなぜ手本としたくないかというと、自分自身が俗な醜い存在だと思っているからでしょう。

 

ここにこの物語の重要なテーマである「芸術とは何か」ということが示されていると私は思うのですね。

 

主人公は思います。

「恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲まき込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。
 これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である」

つまり世の中から一歩離れたところに自分が立つことによって芸術は生まれてくるのだ、と。

 

でもそうやって世の中から一歩離れたところに立つ、とはどういうことでしょうか。

 

このことを示しているのが、「鏡が池」だと私は思うのでございます。

 

水面を覗き込むと、そこには自分の顔が見えますよね。まるで鏡のように。つまり「鏡が池」はその名の通り巨大な鏡とも言えると思うのですね。

 

さて、ここで第七章に着目していただきたいのですが、この章は主人公が温泉に入りながらあれやこれやと考えている場面でございます。

 

このシーンの中で主人公は、ミレーが描いた「オフェリヤ」に思いを馳せるのですね。この絵はご存じの方も多いでしょうが、ハムレットの登場人物であるオフィーリアが川に身を投げて死んでいる様を描いたものです。

 

オフィーリアは死んで水面に浮かんでいます。ということは、実はオフィーリアは鏡の向こうからこちらの世界を見つめているわけです。

 

主人公は俗世から逃れようとして芸術について考えます。芸術的ではない形で世の中を見るということは、つまりあの床屋の鏡で世界を見るようなものです。

 

そうではない、もっと美しい鏡がこの世界にはあるのではないか、そうやってたどり着く先が、「鏡が池」なのでございますねえ。

 

しかし主人公がそこで見るものは、「死の影」なのでございました。非人情や芸術を突き詰めていけばそこにあるのはもはや「生」ではない。美しすぎるものは、人情のないものは、もはや動いてはいない。主人公はようやくそのことに気付くのでございます。

 

観察も良い。非人情を貫き通して気狂いになるのも結構だ。でもそれではまだ自分が理想とする芸術とは言えない。鏡の向こうの世界がどれだけ美しかろうと、そこはもはや死んだ世界に他ならない。漱石のそんな声が聞こえてきそうでございます。

 

美は死へと向かいます。なぜなら理屈で考えられることはその時点ですでに「止まって」いることだからです。

 

しかし人は「止まって」いるわけではありません。様々な思惑を持って自分勝手に「動い」ているもの。理屈では測れないものなのです。

 


物語の最後、主人公は那美さんの従兄弟である久一さんを送って舟に乗ります。その舟からは、物語の冒頭の舞台となった山が見えるのでした。

 

これは主人公がこの時、鏡の向こうの世界にいることを示しています。天狗岩を境として、世界はこちら側と向こう側に別れているのです。しかし鏡の向こうの世界にいながらも、主人公は決して死んでいるわけではありません。鏡の向こうの世界をさらに観察することによって、主人公はあちら側でもこちら側でもない世界に自分の求める「美」を発見するのです。

 

それが、お那美さんがふと見せた「憐れ」の表情だったのでした。

 


なぜ人は、美しくあることができないのでしょう。そしてもし美しくあろうとすれば、なぜ人は死ななければならないのでしょう。

 

でも本当の美しさというものは、実はそのどちらにもないのかもしれません。「美しさ」と「醜さ」を併せ持った「鏡」、それこそが漱石が描こうとした至高の芸術だったのかもしれない、そんなことを思うのです。

 


おなじみ夏目漱石著「草枕」に関する素人講釈でございました。

 

草枕 (岩波文庫)

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