「浮雲」の何がそんなにすごいのさ、という話。
前回のレビューで「浮雲」の講釈を垂れさせていただきましたが、何度も申しますようにこの作品はすごかった。そりゃーもう、すごかった。
いやお前、すごいすごいって一体何がすごいのさ? と、そうお思いのことでございましょう。ということで、引き続き「浮雲」について講釈垂れさせていただきます。
この作品のあらすじは前回のレビューをご覧いただくこととして、本書を読んで坪内逍遥がおったまげ、白旗を揚げたその理由について考えてみましょう。
二葉亭四迷は本書を書く前に、ある雑誌に「小説総論」というエッセイを書いています。このエッセイは逍遥の「小説神髄」を踏まえたうえで四迷自身の小説観を表現したものなのですが、こんな文章で始まるのです。
「凡そ形(フホーム)あれば茲に意(アイデア)あり。意は形に依って見われ形は意に依って存す。物の生存の上よりいわば、意あっての形形あっての意なれば、孰れを重とし孰を軽ともしがたからん。されど其持前の上よりいわば意こそ大切なれ。意は内に在ればこそ外に形われもするなれば、形なくとも尚在りなん。されど形は意なくして片時も存すべきものにあらず。意は己の為に存し形は意の為に存するものゆえ、厳敷しくいわば形の意にはあらで意の形をいう可きなり。」
つまり、小説には形(フォーム)と意(アイデア)があると。形というのは、たとえば文体のことであり、表現方法のことでしょう。一方で意とは物語のテーマのようなものを言うのだと思うのですね。
で、四迷は「大事なのは形より意だ」と言っているのです。では意(アイデア)とは一体なんでしょう。
実はこの意の問題こそ、逍遥が「小説神髄」で語らなかったことだったのです。「小説を道徳から解放するべきだ」とは言うものの、そうやって描くべきものはなにか、ということについては逍遥は何も語らなかった。
だからこそ「当世書生気質」においても、逍遥は確かに書生の様子を緻密に描写して見せたけれども、意地悪な言い方をすれば、ただ描写しただけでその奥には何もなかった。(このことは後に森鴎外が逍遥を厳しく批判して論争となるのですが、今日はその話ではありません)
しかし四迷が描いて見せたこの「浮雲」は、むしろ最初に意(アイデア)があってこそ生まれた小説だったのです。
その意とはなにか。それはタイトルが示す「浮雲」でございます。
空に浮かんでいる雲はふわふわとあてどなく彷徨っているように見えます。雲をつなぎとめるもの、確信できるものがどこにもないということを表しているのです。
主人公の文三は学校を卒業したいわゆるインテリなのだけれども、ところが彼の自負する「学問」は、現実の社会生活においては実用性を持たないという事実。たとえ学問をしても、自分は社会の浮雲でしかないという現実。実はそういう本音と建前の狭間を描くことこそ「文学としての小説」であり、「勧善懲悪小説からの脱却」だと、四迷はこの作品において宣言したのです。
そしてそれこそが「当世書生気質」にはなくて、西洋の名作と言われる小説には必ずあるものなのですね。坪内逍遥、まずこの時点でおったまげた。
さらに、逍遥の「当世書生気質」よりも四迷の「浮雲」の方がより西洋小説に近かった理由がもう一つありました。それは、本書「浮雲」を読めば、読者は主人公である文三と自分自身を一体化させることができる、ということ。
本書で作者が描こうとしたものは文三という若者の苦悩や煩悶です。本書を読んだとき、逍遥は気づいたに違いありません。読んでいるうちに、まるで自分が文三と同じ気持ちになっていることに。
これもまた、逍遥が一年前に上梓した「当世書生気質」ではなしえなかったことなのでした。
逍遥は一年前、「当世書生気質」を「これぞ西洋風小説!」というつもりで書いたのでしょう。しかし、あの作品を読んで小山田に共感したり、彼の身に起こったことをまるで自分のことのように感じる読者はいなかったのです。「当世書生気質」を読んでも、読者は自分が書生になった気持ちにはならないのでございます。
しかし本書「浮雲」を読めば、読者の誰もがまるで自分が文三になったように苦悩し、煩悶するでしょう。自分が「浮雲」のような不安定さ、不安感を感じるのです。そして逍遥が耽溺した西洋小説の面白さというものは、まさにそこにあった。
小説の面白さとは、読んでいるうちにまるで自分がラスコーリニコフのような気分になって怯えたり苦悩したりしてしまうこと、ウェルテルの悲恋をさも自分の身に起こったことのように感じてしまうこと、グレゴール・ザムザの気持ちに共感してしまって「ああ、もし明日の朝、目が覚めたら虫になってたらどうしよう」とつい思い悩んでしまうこと、そうではありませんか?
本書「浮雲」は日本の小説で初めて、そういう西洋小説と同じ読み心地を読者に与えることに成功した小説だったのでした。
そしてそれこそが逍遥が「小説神髄」で提唱した、「人情を描くこと」に他ならなかったのでございます。これもまた、逍遥が自ら提唱しながらなしえなかったことだったのです。
ということで、逍遥ここでおったまげたうえに白旗を揚げた。もう完敗です。
アイデアが大事だということも、読者が小説の登場人物に感情移入するように書くということも、今では「え? 小説ってそういうもんでしょ?」って誰もが思うでしょうが、当時は二葉亭四迷による本書によって初めてみんなが「あ、そういうことだったんだ」と気づいたのです。
ということで、そりゃあ坪内逍遥、自分の書いていた「続当世書生気質」なんて引っ込めますよ。「当世書生気質」は西洋風小説です、なんて、恥ずかしくて言えませんよ。
というのが、私の考える本書「浮雲」のすごいところなのでございます。
いやはやこんなものがですよ、「当世書生気質」から僅か一年で出るなんて、明治の日本人、恐るべしでございますねえ。