文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

森鴎外が坪内逍遥にケンカを売った話。

 

柵草紙の山房論文

柵草紙の山房論文

 

 

講釈垂れさせていただいます。

本日講釈させていただきたい「柵草紙の山房論文」でございますが、本書はまあ、一言で言うならば「森鴎外による坪内逍遥への言いがかり」でございます。

事の起こりは明治24年、坪内逍遥は雑誌「早稲田文学」を創刊いたしました。この雑誌の創刊号で連載が始まったのが、逍遥による「シェークスピア脚本詳註」。逍遥はこの連載を始めるにおいて、自らの姿勢について

「自分の理想(理念や主義)から論評するのではなく、客観的な態度でシェークスピアを紹介したい」

というようなことを宣言したのですね。で、このことを「没理想」と呼んだのです。

批評をするにおいて理念や主義にとらわれないという逍遥の姿勢は、別におかしい所はどこにもないと私は思うのですが、この発言に森鴎外が咬みついた。

鴎外はその頃「しがらみ草紙」という同人誌を発行していたのですが、その誌上におおむね次のようなことを掲載したのでございます。

「ほお、逍遥先生は『没理想』とおっしゃるが、果たして先生のおっしゃる『理想』とは何ぞや? 私が存じております哲学上の意味における『理想』とは意味が違うようですが、どういう意味で『理想』とおっしゃっているのか、どうぞ教えていただけませんか?
 そもそも先生は『客観的』な態度を随分好まれておられるようですが、ならば先生はもちろん、名作と言われている文学作品は皆おしなべて『客観的』であると、そうおっしゃるのでしょうな。まさかご存じない筈がございませんが、西洋の文学には古来より抒情詩なるものがございまして、この抒情詩は読んで字の如く情を詠うわけですが、この詠われている情もまた『客観的』だと、そうおっしゃるわけですな?」

で、逍遥としては驚いたのでございます。というのはこの言いがかりをつけられた「没理想」という言葉は連載の前口上のような部分で使われた言葉ですから、そんな言葉にいきなり「その言葉の厳密な意味を説明しろ」と言われるとは思っても見なかったのでしょう。

とは言え無視するわけにもいかないので、逍遥も誌上で

「いや、私はあくまでも理念や主観をなるべく避けたいという態度の話をしているのであって、そういうものが作品の中に存在しないと言っているわけではありませんよ。抒情詩はもちろん主観的に詠われた文学でしょうが、その中でも名作と言われるものはやはり作者の主観を客観的にみる視点があるのではないですか?」

というようなことを反論したわけでございます。そうするとまた鴎外が、

「ほお、主観の客観、私にはそれが何なのかさっぱり分かりませんなあ。もちろん先生は哲学にも精通してらっしゃるのでしょうが、一体誰がそのようなことを言っているのですか? 烏有先生という方はその著書において先生の主張と全く違うことを言っていますが…え? 烏有先生をご存じない? 先生ほどの博識な方が、あのハルトマンをご存じない? それはそれは。ということはまさか先生、西洋の古来の哲学者が未だ述べていない意味において『理想』だの『主観』だのとおっしゃっているのでしょうか。ということは先生は哲学における自らの一大体系を築きなさったわけですか。これはすごい。まさか先生がハルトマンをしのぐ哲学の世界的権威であったとは知りませなんだ。それではどうか先生の築き上げたその体系を私に伝授してくださいませんか」

とまた誌上で挑発しながら反論。それにまた逍遥が応えて……、ということでこの論争、何と1年間も続いたそうでございます。

そんな二人のこの論争は「没理想論争」と呼ばれています。本書はその論争の中の鴎外の言い分のみを集めたもの。

ちなみにお断りしておきますが、上に述べたのは私が二人の言っていることを「まあ大体こういうことを言っているのだろう」という想像と妄想ででっち上げた創作でございます。

というのは私、本書を何とか読んではみたのですが、はっきり言ってその内容があまりに難解で、ちんぷんかんぷんだったのでございます。そのため、この「没理論論争」の具体的な内容を正確に知りたい方は、どうかご自身で本書を紐解いてくださいませ。

ただ私は本書を読んでその意味はさっぱり分からなかったものの、とにかく「森鴎外という人は、とんでもなくウザイ奴だ。絶対に関わってはいけない類の人だ」ということだけは、よくよく理解した次第なのでございます。

まあ恐らく逍遥も、最初は相手をしていたものの、だんだん面倒臭くなったのでございましょう。最終的には

「なるほど、確かに鴎外先生のおっしゃるように私はまだまだ学問が足りないようでございます。どうぞ先生はその広大な知識をもって文学の世界を牽引してくださいませ。私はまだ修行の身ゆえ、今後も精進を重ねる次第でございます」

と、ある意味鴎外に詫びを入れさせられた形でこの論争は終結したのでありました。


さて、そのことを踏まえたうえで、私はこの論争が果たして当時の文学界においてどんな意味があったのかということを考えてみたいのでございます。

逍遥は、まあ、とんだ災難ではございましたが、こう言ってはなんですがこの人はその前に二葉亭四迷の「小説総論」と「浮雲」」の時点で、もはや作者として文学で名を遺すことはあきらめていたでしょうから、大した痛手ではなかったでしょう。

むしろ問題はこの論争の「勝者」となったはずの森鴎外でございます。

というのは、この論争をまわりで見ていた人たちの反応としては、

「いやはや、鴎外大先生、それだけ大言壮語を吐かれるのですから、次に先生が書かれる小説はそれはそれはご立派なものになるのでございましょうね」

ということに、なりますよね。私だったらそう思いますよ。これだけ文学と芸術と哲学に精通しておられる森鴎外大明神が、まさか、まさか駄作としか思えない小説や手すさびの小説などにその御手を煩わせるようなことは断じてなさるまい、と。

そして鴎外本人もまた、自分はそういうものが書けるはずだ、と思っていたのではないでしょうか。

つまり鴎外はこの論争で逍遥を言い負かして溜飲を下げたものの、結果としては自分が小説を書く時に果てしなく高いハードルを自ら設置することになってしまったわけです。

まあ、ただ「ハードルを上げすぎた」というのは実は鴎外だけでなく、四迷もまたそうだったのでしょう。彼らは日本文学の開拓者であり、トップランナーだったのでした。それ故に彼らはまず「小説とは何か」ということを自ら宣言したうえで小説を書かざるを得なかったし、彼らの理想とする「小説」とはすなわち西洋の長い歴史における「名作」のことだったのですから、鴎外も四迷も、また逍遥でさえも、もし「小説」を発表するとならばそれは必ず「名作」でなければならなかった。

そして彼らは、一般の日本人、とりわけ今後作家となって文学を背負って立つ若い文学青年たちにとってはシェイクスピアゲーテに匹敵する存在である、と思われなければならなかったのだと思うのですね。

この状況で、果たして鴎外なり四迷が小説なんて書けますか? という話なのですね。彼等が書く小説というのは当然、シェークスピアなりゲーテなりドストエフスキーの傑作に相当する小説でなければなりません。本人たちはもちろんのこと、周りの人たちもそう思っていた。そうでなければ、「なんだ、結局日本人には文学なんて無理なんだよ」と言われてしまうのです。


以前「小説神髄」のレビューでも触れた水村美苗の「日本語が亡びるとき」の中に、こんなことが書かれていたのです。

「日本文学にとって幸福だったのは、鴎外や漱石がドイツ語や英語でなくて日本語で小説を書いてくれたことだった」と。

もしも彼らが「日本人」であるより先に「作家」であったなら、外国語を自在に操る彼らですから、英語やドイツ語やロシア語で小説を書くことだってできたでしょう。もし彼らがそうしていたら、100年前にカズオ・イシグロが誕生していた、かもしれません。しなかったかもしれませんが。

でも彼らは日本語に、日本文学にこだわったのです。そして、だからこそ「日本文学」という英語でもドイツ語でもフランス語でもスペイン語でも書かれていない、いわばマイナー言語でありながら主要な文学が誕生することになるのです。

その生まれたばかりの「日本文学」の象徴的存在であったし、そうあらざるを得なかった逍遥や四迷や、とりわけ鴎外が、この頃「すでに西洋小説を会得した者」として、一体どんな小説を書くことができたというのでしょう?

この三人がデビュー作に続く小説なんて書けたはずがない、と私は思うのでございます。


とは言え、こんなことを言うと、「いや、しかし鴎外や四迷は20年後に執筆を再開するではないか」と、こう反論される方もいるかもしれません。

そうなのです。鴎外と四迷は長い沈黙を破って再び執筆を再開するのですが、彼らがそうできた理由は、ある人物が登場したからだと私は思っているのでございます。

その人物というのは・・・と、ここでまた紙幅が尽きてしまいました。てことでその話はまた次回にて。

 

おなじみ森鴎外「柵草紙の山房論文」に関する素人講釈でございました。

 

 

柵草紙の山房論文

柵草紙の山房論文

 

 

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