文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

分かり合えない、っていうのは案外大事なことかもしれない話。

 

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

 

 

今日は私の大好きな一冊について、講釈垂れさせていただきたく、またお付き合いいただければと思います。

 


本書は作者の梨木香歩さんが学生時代に留学していたイギリスに再び訪れた時の思い出を語ったエッセイでございます。

 

半年間イギリスに滞在することになった作者は、20年前に下宿していたウェスト夫人の家へと向かいます。その道すがら思い出すのは、かつてその下宿で共に過ごした友人ジョーのこと。

 

教師をしていたジョーは小説よりもドラマティックな人生を歩んできた女性でした。そんな彼女の元に、ずっと消息不明だった恋人エイドリアンが訪れます。

 

しかしそのエイドリアンはインドで妻子を持っており、犯罪まがいのことを繰り返してここまでたどり着いたようでした。

 

エイドリアンはウェスト夫人の小切手帳を盗み、お金を引き落とそうとして失敗、再び行方知れずとなり、ジョーもまた、彼に付き添って下宿を出て行ったのでした。

 

そんなことを思いながら、作者は彼女に言いたくても言えなかった言葉を思い出します。

――ねえ、ジョー、私はもう、救世主願望は持たないことにしてる。

そう言うときっとジョーは、こう言うのだろう、と作者は思うのでした。

――そうね、それは賢いわ。けれど人間にはどこまでも巻き込まれていこう、と意志する権利もあるのよ。

その他、本書で語られるのはウェスト夫人の下宿で出会った人々の話。尊大でプライドがありすぎるナイジェリア人の家族やご近所の婦人方と引っ越して来たばかりの有名人夫婦、かつてウェスト夫人のナニーだった忠義者のドリス。

 


イギリス滞在の後、作者はカナダへ向かいます。モンゴメリの暮らしたプリンスエドワード島へ行き、ウェスト夫人の謀略で行きたくなかったニューヨークでクリスマスを過ごし、カナダのトロントに滞在します。

 

この時出会うのが、大家のジョン。彼は自閉的傾向のある人物でした。

 

トロントを去る時、作者は迎えに来てくれたジョンとこんな会話をするのです。

――言ってないことを察するのは難しいね。

――そうなんだよ、難しいんだ、化学の論文なんかよりずっと。

――ああ、化学の論文の方がそれは、遥かに論理的合理的だものね、でも私にはそっちがずっと難しい。

――僕たち、足して二で割れないもんだろうか。

――そうだねえ、全ての人間を足してその数で割ったら、みんな分かり合えるようになるかなあ。

――うーん、でもそれもどうかなあ。

――分かり合えない、っていうのは案外大事なことかもしれないねえ。

――うーん……。この間、不動産屋がアラブから来たばかりの人たち連れてきただろう、君、初めてだったんじゃないか。

――いや、初めてではなかったけど。

――そう。彼らのことをわからないと言う人がいるけど、自分の論理を押し付けてくるという点では、僕にはみんな同じだな。

 

このエッセイの根底にあるのは「分かり合えなさ」だと思うのです。私たちは誰も、絶対に分かり合うことなんてできない、というどうしようもなく残酷で、不条理にも思える現実。

 

例えば海外で暮らすことを「国際交流」だとか「相互理解」とか言うけれど、そんなものは嘘っぱちだと思うのですね。実際に海外で暮してみて分かる、理解できることというのは、「郷に入れば郷に従う」しかないってことで、「あ、やっぱり自分は日本人で、この国の人たちとは違うんだ」っていうことなんじゃないかと。

 

この「分かり合えない」という現実を前に、人それぞれ様々な反応をすることでしょう。

 

そのことに思い悩む人、自分が悪いと自分を責める人、他人を責める人、諦める人……

 

そうして「分かり合えなさ」を補うために、私たちはみな、何らかの暫定的な拠って立つ何かにすがるでしょう。

 

例えば国家や文化、例えばお金、例えば宗教、例えば科学的合理性。

 

もちろん、暫定的な拠って立つ何かを持つこともまた重要なのです。最初の話で作者がジョーにこう問いかけるように。

「……こういう嗜好は私たちの中に確かにある、けれど私たちはお互いの知らないそれぞれの思春期を通して、注意深くそれをコントロールしてきたよね、それがあくまでも趣味の領域をでないように、そうだったでしょう? こんなにも無防備に、それに――つまり無所属というようなことに――激しく感応するセンサーは、何か不吉な方向性をもっているのではない?」

でもそれらはあくまでも「暫定的」なものであって「絶対的」なものではないのに、私たちはついそれを忘れてしまい、そしてジョンが言うように「自分の論理を押し付け」てしまう。

 


このエッセイの最後はウェスト夫人から作者に送られた幾つかの手紙で締めくくられます。

 

それらの手紙が送られてきたのは、ちょうどニューヨークで連続自爆テロがあった頃。

 

ウェスト夫人は手紙の中で、こう言うのでした。

「ああ、こういうことがすべてうまく収まって、また一緒に庭でお茶が飲めたらどんなにいいでしょう。私は左肩にドリスを、右肩にはこの間亡くなったマーガレットを乗せてるわ。貴方の大好きなロビンも、きっと何代も前のロビンたちを引き連れてクッキングアップルの木の上で歌うでしょう。いつものように、ドライブにも行きましょう。春になったら、苺を摘みに。それから水仙やブルーベルが咲き乱れる、あの川べりに。きっとまた、カモの雛たちが走り回っているわ。私たちはまたパンくずを持って親になった去年の雛たちの子どもたちにあげるのよ。私たちは毎年そういうことを続けてきたのです。毎年続けていくのです……」

もしこの世界に「真実」というものがあるのなら、「私たちは決して分かり合うことなんてできない」ということもまた、「真実」の一つなのかもしれません。

 

もしかしたら私たちが「分かり合おう」とする限り、私たちは争い続けなければならないのかもしれない。私たちは分かり合えるはずだ、という思い、信念や理想のようなものが、「分かり合えない」と感じるものに憎悪を抱かせるのかもしれない。

 

「分かり合おう」という思いはもしかしたら、「分かり合えない」という現実から目をそらしているだけなのかもしれない。

 

でも、作者はこう言いたいんじゃないか、と私は思うのです。

 

大切なことは「分かり合おう」とすることではないし、お互いを理解することでもない。そんなことよりももっと大切なことは、一緒にお茶を飲むことや、一緒にドライブをすること、一緒に苺を摘みに行くことだ、と。「分かり合う」のではなく、経験を「共有」することなのだ、と。

 

そうして経験を「共有」することで、私たちは「分かり合え」ていなくても「通じ合う」ことができる。作者とウェスト夫人のように。


「春になったら苺を摘みに」。そんな風に誰かを誘うことができる、そういう人になりたいものでございますねえ。


おなじみ梨木香歩著「春になったら苺を摘みに」に関する素人講釈でございました。

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)