文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

愛と自由が両立する瞬間は奇跡だという話。

 

Xのアーチ (集英社文庫)

Xのアーチ (集英社文庫)

 

 

それでは本日も講釈垂れさせていただきたく、またお付き合いいただければと思う次第でございます。

本日ご紹介したい本書「Xのアーチ」でございますが、この物語は説明することがなかなか難しい。

後にアメリカ独立宣言の起草者となるトマス・ジェファーソン、彼は故郷のヴァージニアからパリを訪れていました。そんな彼の元に、奴隷の黒人少女サリーが娘の伴として赴くことから物語は始まるのでございます。

サリーの主人であるトマスは積極的に黒人の弁護を行っていた人物でもあり、奴隷制廃止論者でした。そのため彼の奴隷たちは彼のことを慕ってもいたのです。

さてそんな時、トマスやサリーたちが宿泊していたホテルでのこと。サリーは真夜中に自分のベッドに忍び寄る影に気づきます。

彼女を襲った人物、それはあろうことか彼女の主人であるトマスでした。

必死の抵抗にもかかわらず、トマスによって凌辱されてしまうサリー。でも、誰にもトマスをとがめることのできる者はいませんでした。なぜならサリーは奴隷であり、トマスの所有物だったのだから。

ここで、サリーには二つの選択肢が提示されるのでございます。

トマスとともにアメリカに帰れば、サリーは確かに奴隷のままだけれども、彼の愛人として、彼の館の女主人としての地位が確保されるでしょう。そして彼女自身、トマスのことを愛しているのです。

しかしここはパリ。自由・平等・博愛の街。だからもしここで逃げだせば、奴隷の身分から解放され、一人の人間として自由になることができる。たとえそうすることがより困難な状況をもたらすとしても、恐らく一人の人間としての尊厳は守られるでしょう。

さて、サリーはどちらを選択するべきなのでしょうか?


と、実はここまでは500ページあるこの物語の100ページ足らずでしかありません。いわばプロローグのようなもの。

ここから物語は永劫都市と呼ばれる宗教に支配されたパラレルワールドの未来の話になり、20世紀末のベルリンとアメリカの話になるのです。さらに登場人物たちがそれらのさまざまな世界の中でなぜか相関し合っていくという次第。


「愛」は大切だ、と言って反論する人はいないでしょう。「自由」が大切だと言って反論する人も。

そして私たちはみんな「愛」も「自由」もどちらも大切なものだと、当たり前のようにそう思っている。

でも、作者は言うのです。「この二つを結合させることはほぼ無理だ。奇跡でも起きない限り」と。


「愛」とは何か、ということと、「自由」とは何か、ということは別の話なのですね。言うなれば「愛」と「自由」はそれぞれ別にアーチを描いて動いているのです。

ある行動は「愛」という視点からは正しいかもしれない。でも、「自由」という視点からはそうではない。

なぜなら、「愛」というものは必然的に相手を支配したり、あるいは支配されることを積極的に受け入れることである半面、「自由」というものは必然的に人間関係そのものを否定するものだから。

だけど、私たちは誰もが「愛」と「自由」はどちらも大切だと思っているから、この二つのアーチが結合しなければならないと思っている。「愛」のアーチと「自由」のアーチが交差するXの中心点、これこそが「幸福」だと。

でもそんなことはきっと、ほとんど滅多に起きるものではないのです。それこそ「奇跡」でも起きない限り。


「愛」と「自由」の二律相反は男女のような個人間の関係性だけでなく、個人と社会や国家との関係においても、また国家と国家の関係においても言えることだと思うのですね。

本書では明らかにされていないのですが、私はおそらく「永劫都市」というパラレルワールドは「フランス革命に失敗した未来」なのだと思うのです。

そのパラレルワールドでは中世のヨーロッパがそうであったように、「宗教」が「奇跡」を保証している。

一方今私たちが生きているこの世界では「近代的な価値観」が「奇跡」を保証していますよね。

「宗教」や「近代的な価値観(資本主義とか、合理主義とか)」は言うのです。「愛」と「自由」が結合する「Xのアーチ」、つまり「幸福」は実現されるのだ、と。

この「幸福」を宗教では「解脱」と呼ぶのでしょうし、近代的な価値観では「成功」と呼ぶのでしょう。

でもね、「奇跡」というのはいつだって「一瞬」なのです。ということは、「奇跡」が起きるまでの間、私たちはずっと何かを我慢し、何かに不満を感じ、何かを足らないと感じ、何か間違っていると感じ続けなければならないということでもあるし、「奇跡」が起きた後もまた、もう一度「奇跡」が起きるまでその不幸を背負っていくということでもある。

それが「奇跡を信じる」ということ。

逆に言えば「奇跡を信じた」その時、私たちは「不幸」になることが確定するのかもしれません。もちろん、ほんの一瞬だけ訪れる「幸福」を除いて。

「宗教を信じる」こと、あるいは「近代的な価値観を受け入れる」ということは、実はそういうことなのかもしれません。

かと言って、宗教や近代を批判しても、別に何も解決はしないのです。そんなことをしたところで、その先に待っているのはただのニヒリズム

「人間なんて結局は動物か、あるいは機械にすぎないじゃないか。ごちゃごちゃ考えるのはやめて、実用的に、享楽的に生きようぜ。金と権力を手に入れて生きてる間にいい思いをした奴が勝ちだ。そうだろ?」なんてね。


「愛」「自由」「無」という三つのキーワードから歴史を考えると、最初は「無」のために人が生きた時代であったのでしょう。そこに宗教という名の「愛」という秩序が生まれた。そして人類はさらに「自由」というもう一つの大切なものを発見したのです。

ま、私は現代思想なんてさっぱり分かりませんが、ポストモダンってのは結局「愛」と「自由」と「無」の先にあるなにかについて深く考えていくことだったのでしょう。多分。

ところが時代はポストモダン=近代を超えるどころか、どうやら前近代、前中世に戻っているような気もしますねえ。「愛」も「自由」も結局は単なる建前、幻想にすぎなくて、ニヒリストが肩で風を切って歩くような、そんな世の中になりそうな気がいたします。

 

「いいか、よく聞けよ」とエッチャーは小声で言った。「人間は三つのもののためにしか死なない。愛か、自由か、無だ」

 

あなたは何のために生きますか? 愛? 自由? それとも、無? それとも……


おなじみスティーヴ・エリクソン著「Xのアーチ」に関する素人講釈でございました。

 

Xのアーチ (集英社文庫)

Xのアーチ (集英社文庫)