文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

どれだけ賢くなったところでねえ、という話。

 

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

 

 

 

それでは本日もばかばかしい話を一席。

ウクライナの作家ブルガーコフによる二編の中編が収められた本書。解説でも触れられていることでございますが、収められた二編はどちらもファウストフランケンシュタインに通ずる「創造主の実験に対する責任」がテーマなのでございます。

特に当時のソ連政府に対する風刺の厳しい「犬の心臓」は発禁処分となり、1980年代にペレストロイカが始まるまで世に出ることが許されなかったとのことです。

本日はそんな過激な本書について、講釈垂れさせていただきます。


ということで、最初の一編「犬の心臓」は、こんなお話。

ソビエト連邦成立直後のモスクワ。道端のゴミを漁ったり、町の人々に蹴られたりしながらなんとか生きていた一匹の犬に、思わぬ僥倖が訪れます。その犬を見つけた一人のブルジョワ紳士が彼を家へと連れ帰ってくれたのです。

僕はなんて幸運な犬なんだ! と喜ぶその犬は「コロ」と名付けられ、家の中でどんないたずらをしても怒られることなく、食事も十分に豪華なものを与えられて幸せに暮らしておりました。

ところがそんなコロに飼い主の紳士フィリップ・フィリパーノヴィチはあることを行うのでございます。

モスクワでも有名な外科医だった彼がコロに施したこと、それは人間の脳の下垂体と睾丸をコロに移植することなのでした。

さて、そうして脳と睾丸を移植されたコロは見る見るうちに人間のような姿に変化していくのでございます。果たしてコロは犬なのか、それとも人間なのか、はたまた犬人間? とにかく続きは読んでからのお楽しみでございます。


そしてもう一編「運命の卵」。

動物学者プルシコフはある日、とんでもない発見をしてしまいます。カエルの専門家である彼のその発見とは、ある光線を浴びせると動物の繁殖力が高まるというものでした。

おりしもその頃、モスクワでは鶏の間で原因不明の疫病が蔓延し、ほぼ絶滅状態となってしまいます。

この緊急事態を救うため、プルシコフ教授に白羽の矢が立てられます。国営の農場「赤い光線」の農場長に任命された男ロックはプルシコフの制作した光線の出る箱を使ってドイツから来た卵に光線を当て、鶏の大量繁殖を図るのです。

しかし農村の人々はみんな、噂していました。「機械で卵をかえすなんて、考えられない。そんなことは悪魔の仕業だ。あれは悪魔の卵だ」と。

さて、そうして鶏の卵だったはずのその卵から孵ったのは実は……。

いやはやこの続きもまた、ここでは申し上げられませぬ。是非ご自身で読んでいただきたいと、そう思うのでございます。


さて、これらの作品はソ連政府や彼らの社会主義に対する風刺、ということになっているようですが、実際のところこれらの作品は特定の政府とか思想に対する風刺だけではなく、資本主義に対する風刺でもあるし、それ以前に思想やあるいは科学のような「知性」そのものに対する風刺でもあるのでしょう。

私たち現代人はきっと過去の人たちよりずっと賢くて、しかも技術の発展でいろんな力も持っているはずなのに、この世界は別に良くなっているわけじゃないですよね。環境破壊は止められないし、テロの恐怖に脅かされるし、格差は解消されるどころかますます拡大している。

はてさて、それは私たち人類の「知性」がまだまだ足りないからなのでしょうか。


「知性」ってね、怖いと思うのですよ。何が怖いって、それって人を服従させる手段になりえるものだから。

法律とか、軍事力とか、お金とかと同じように、いわゆる科学的な自然法則や、究極的にはその自然法則に行きつく「論理」というものは私たちをある意味支配しています。

で、法律と軍事力とお金と自然法則と論理に共通することって、それらがみな「非情」なものだってことなんですよね。

何が言いたいかっていうと、「賢いかもしれないが人間としてクズ」みたいな人が生まれることを、「知性」は止めることができないということ。お金とか法律なんかが「金持ちかもしれないが人間としてクズ」とか、「権力者かもしれないが人間としてクズ」という人間が生まれることを止められないのと同じように。

そしてお金や法律が善人にも悪人にも平等に適用されるように、知性だって同じ。だから知性を使って人を殺すための理屈を考えつくことだってできてしまう。


「犬の心臓」で手術をされ、「人間」になってしまった犬のコロは、犬らしい行動をする一方、「人間」としての権利を主張し始めます。

しかし彼に手術を施した医師フィリパーノヴィチはそんなコロ、人間名コロフに強い不快感を覚えるのです。お前なんか犬のくせに、と。ブルジョワが「お前なんか労働者のくせに」と思うのと同じように。

そんな蔑視を感じたコロフは言います。「別に俺が人間にしてくれと頼んだわけじゃないぞ」と。そして犬ならばきっと怒った時は咬みつくのでしょうが、人間としての知能を持ったコロフはもっと別の手段でフィリパーノヴィチに攻撃をし始めるのでございます。


人間を人間と規定するもの、もしもそれが「知性」だというのなら、恐らく人間となったコロの物語「犬の心臓」はハッピーエンドとなったことでしょう。もしもコロフの「脳」が問題なのならば、もっと優れた脳を移植すれば問題は解決するはず。

でもこの作品はそういう風には終わらないのですねえ。それはきっと、作者ブルガーコフが言いたかったことがそういうことではないからでしょう。それはタイトルが「犬の心臓」であることからもうかがえます。

作者はフィリパーノヴィチを借りて役人や社会主義者たちを軽蔑していますが、実はそんなフィリパーノヴィチもまた、作者にとっては軽蔑の対象でしかないのです。

なぜなら人間に必要なもの、それは「知性」=「脳」よりも「心臓」なのだから。

例え犬が知性を持っても、そのハートが犬であるならば、結果は悲惨なものになるんだ、と。


もし作者が「知性」というものに楽観的であったならば、この作品はもっと別の結末を迎えたでしょうし、タイトルも「犬の心臓」ではなかったはず。

だとするならば、この作品を発禁処分にした者たちは気づいていたのかもしれません。自分たちが人間以下の心臓の持ち主であることに。

でも別に当時のソ連に限らずこの世界には、屁理屈ばっかり言って人の気持ちの分からない、そんな人間以下の心臓の持ち主がなんて多いことか。

いやはや、犬の心臓にはなりたくないものでございますねえ。とか言いつつ私自身、自分の心臓にはまったく自信がございませんが(汗)。ウー、ワン!

(実は人間よりも犬の方がずっと心が大きかったりするよね、とかいうのはまた別の話)


おなじみミハイル・ブルガーコフ著「犬の心臓・運命の卵」に関する素人講釈でございました。

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)