文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

満たされぬ征服欲に悶絶する話。

 

 

相も変わらず本日も、本当か嘘か分からない話を一席お付き合いいただきたいのでございます。

 

本日講釈垂れさせていただきたいのは、ドイツ文学者として有名な種村李弘さん翻訳のコレクションシリーズ「砂男 無気味なもの」。「砂男」は「くるみ割り人形」で有名なドイツのロマン主義文学者E.T.A.ホフマン作、そして「無気味なもの」はそのホフマンの「砂男」を中心としてフロイトが無気味さについて考察したものでございます。

そして最後に種村さんがホフマンとフロイトを通して「吸血鬼」や「人工美女」について述べた「ホフマンとフロイト」が収められているのです。

 

さてそれでは本書の中心であるホフマンの「砂男」について、少し長くなりますがあらすじをご紹介いたしましょう。

 


物語は主人公のナタナエルが故郷の友人ロータールに送った手紙から始まります。その手紙の中でナタナエルは、ある出来事について語るのです。

 

大学生のナタナエルは故郷を離れ大学都市で独り暮らしをしていましたが、そんな彼の下宿先に一人の男が現れるのです。イタリア人だというその男は彼に晴雨計を売りつけようとします。

 

怒ったナタナエルはその男に暴言を浴びせて追い返してしまいました。

 

いや、そこまでしなくてもいいんじゃないか、と思うかもしれません。しかしナタナエルによると彼がそうしたのにはあるわけがあるそうなのです。

 

そのわけというのは、彼がまだ幼かった頃にさかのぼります。当時ナタナエルの一家は夕食後、父親の書斎に集まって、円卓で会話を楽しむのが習慣となっていました。幼かったナタナエルはこの習慣をいつも楽しみにしていたのです。

 

ところがこうして夕食後に父の書斎に行った時、時折夜が更けてくると、母親が子どもたちにこう言うのですね。

 

「さあ、子どもたち! お寝みの時間よ! お寝みなさい! 砂男がきますよ、ほら、もう聞こえてるわ」

 

母親がそう言うと、確かにドアの向こうから何やら足音が聞こえるのです。

 

さてこの砂男とは、一体どんな恐ろしい怪物なのでしょう。ナタナエルはそのことを母親に尋ねますが、彼女は「砂男なんていないのよ、坊や」と取り合ってくれません。そこでナタナエルが乳母に尋ねると、乳母はこう言うのでした。

 

「おれはおそろしい男でな、子供たちがお寝んねしねえで駄々をこねていると、そこへやってきて目ン玉のなかさ砂を一つかみ投げ込んでくだ。そうして目ン玉が血だらけになってギョロリととび出すと、それを袋に入れて、半月の夜に自分の子供らの餌食に運んで行くだよ」

 

ああ、なんて恐ろしいことでしょう! しかしそのことを聞いたナタナエルは好奇心の虜になってしまいました。そうしてその姿を見てみたいと、こっそり父親の書斎に隠れていたのです。

 

そうしてナタナエルが隠れていると、父親の書斎に一人の人物が現れました。その人物とは、時折一家の昼食に招かれてくる弁護士のコッペリウスでした。

 

コッペリウスはとても醜い風貌をしており、しかも子供嫌いなこともあってナタナエルら子どもたちから嫌われている人物。

 

そんなコッペリウスとナタナエルの父親は、二人で何やら錬金術師めいた奇妙な行為を始めます。恐ろしくなったナタナエルはうっかり隠れていたカーテンの蔭から姿を見せてしまいます。

 

「見ーたーなー!」とばかりにナタナエルに襲いかかるコッペリウス。しかしそこは父親のお蔭で何とか助かったのですが・・・

 


さて、実は先日ナタナエルに晴雨計を売ろうとした男、この男はナタナエルによるとコッペリウスだったと言うのです。

 

そんなあらましを綴った手紙を誤ってロータールではなくその妹であり彼の恋人でもあるクララに送ってしまったナタナエル。クララは彼を心配して、そんなことはとても合理的でない話だと言います。そしてナタナエルもまた休暇を得て故郷に戻り、クララやロータールと過ごすうちに確かにそうかもしれないと思うようになるのでした。

 

そうして故郷から再び下宿先へ帰ると、下宿先は火事で焼けてしまっていました。偶然友人が彼の荷物を無事外に出し、新しい下宿先へと運んでくれていたので、ナタナエルは新しい家へと向かいます。その家は、彼が授業を取っている物理学の教授スパランツァーニの家の向かいでした。

 

さてこの家に、再びコッペリウスが現れるのです。そして彼は今度は眼鏡を買わないか、というのでした。ナタナエルもさすがに彼が幼少の頃に出会ったコッペリウスだというのは非現実的だと思い、前日の行為の後ろめたさから、望遠鏡を買うことにします。

 

そして望遠鏡で窓の向こうを見てみると、スパランツァーニ教授の家の窓にある若い女性がいるのでした。なんて美しい女性だろう、ナタナエルは一瞬にして恋に落ちてしまいます。

 

しかしこの女性、スパランツァーニ教授の娘オリンピアは実は、自動人形、ロボットだったのですねえ。

 


ああ、なんだかずいぶん話しすぎてしまいました。クララという恋人がいながら自動人形のオリンピアに恋をしてしまったナタナエルがどうなるのか、この先は読んでのお楽しみといたしましょう。

 


さて、フロイトはこの物語について、眼球喪失=去勢不安の物語だと解釈するのですが、正直私自身はこの解釈についてはあまりピンときませんでした。(まあ、そもそも私はフロイトに始まる物語の精神分析的解釈全般にピンとこないのですが)

 


で、何もフロイトにケンカを売るつもりはございませんが、私自身はこの物語を「男の征服欲の物語」だと読んだのでございます。

 


まあ男というのは、多かれ少なかれ理屈っぽい生き物でございます。なぜ理屈っぽいかと言えば、よく分からんのが耐え難いのでございましょう。

 

しかし現実の世の中にはよく分からんことにあふれているもの。そこで男は「分かりたいけれど分からない=征服したいけど征服できない」という葛藤を心に抱えて大人になってゆくのでございます。

 

そんな「分かりたいけれど分からない」ものの中で大きな要素を占めるのが「世の中=自然」と「女性」なのでございますねえ。

 

男にとって人生のテーマとも言えるのがこの「現実」と「女性」をどう「自分の思いのままに動かすか」なのです。そう言うと女性の方はイラッとされるかもしれませんが。

 

そう考えると、理系に男性が多いのも、あるいは「すごーい!」と女性から言われると大抵の男が鼻の下を伸ばすのも、これみな男の征服欲によるものではないかと私は思うのでございます。(あ、別に理系の男性がとりわけ征服欲が強いと言いたいわけじゃないですよ。男は征服欲が強いから理系になりやすいって話で、私のように文系でも征服欲の強い男はいくらでもいると思うので)

 


ナタナエルが砂男=コッペリウスを恐怖するのもまた、彼が理解できないものだからだと思うのです。近代的な合理性をもって理解しようとしてもそこから零れ落ちる不可解なもの、それが砂男なのだと。

 

そしてまたナタナエルの心理には、恋人クララへの恐怖もあるように感じるのです。だけど自動人形であるオリンピアには自我というものがないですから、男であるナタナエルは分かったつもりになりやすい、というか分からない苦悩を感じる必要がないのですね。まあフィギュア好きや二次元萌えなんていうのもこの類かもしれません。(ちなみに本書によるとデカルトも美少女の人形を持ち歩いていたとか! オタクの元祖はデカルトだったのか!!)

 


とまあ、話を広げすぎて収拾がつかなくなってしまいましたが、まあなんにせよこの物語はフロイトも指摘している通り、不気味で、奇怪な物語なのでございます。

 

しかしなんですな、こういう理解できないものを描いたものを理屈で語ろうとするこのレビューなんかは、これ私の征服欲の結果でありましょう。

 

そして私もまたナタナエル君のように、満たされぬ「征服欲」に悶絶するのでございます(涙)もっとうまく書けると思ったんだけどな・・・

 


おなじみ種村李弘コレクション「砂男 無気味なもの」に関する素人講釈でございました。