文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

知識よりもお金よりも大切なものの話。

 

八十日間世界一周 (岩波文庫)

八十日間世界一周 (岩波文庫)

 

それでは本日も一席、お付き合いいただければと思います。

 

本日講釈垂れさせていただきたいのは、ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」でございます。

 

時は19世紀の終わり。イギリスのとある社交クラブで、一人の紳士が賭けをしたのでございます。その賭けとは、「八十日で世界一周はできるのか?」ということ。

 

できる、と主張したのは本書の主人公である英国紳士フィリアス・フォッグ氏。そしてフォッグ氏はこの賭けに勝つために、召使のフランス人パスパルトゥーを連れて八十日間世界一周の旅に出たのでありました。

 

このフォッグ氏というのがクラブ内でも有名な変人で、とにかく金持ちであるのは間違いなのですが、その資産を一体どうやって手に入れたのかは誰も知りません。というのはこのフォッグ氏、極端なほど無口な人で、自分のことはおろかよほどのことがない限り自分から何か言葉を発することすらしないのです。

 

加えてこのフォッグ氏はとにかく几帳面というか、神経質な人で、時間は一分一秒すら狂わせたことがないし、前の召使いをクビにした理由なんて、髭剃りの温度を90℃に指定したにもかかわらず88℃で持ってきたからだ、というほど。

 

そしてフォッグ氏はどんなことが起こっても冷静沈着、ただ一言こう言うのでした。

 

「大丈夫、それも計算に入っていますから」


そんなフォッグ氏ですが、とにかく彼の頭にあるのは八十日間で世界を一周するという、いわば時間のことだけ。船室でも彼は予定表を広げて、今日は何日、あるいは何時間損失したか、あるいは利益となったかということばかり。

 

そして外の風景などには目もくれず、唯一の趣味とも言えるトランプゲームに熱中しているのでした。

 

そこで、読者としてはこう思うのではないでしょうか。そんな旅のどこが楽しいんだ? と。旅の醍醐味とは風景を楽しんだり、いつもならできない経験をすることにこそあるのではないか、と。しかしフォッグ氏はまるでそんなことには興味もない様子。

 

しかしそんな読者の期待に応えてくれるのが、召使のパスパルトゥーなのでございます。この陽気なフランス人は、むしろ我々一般の、ごく普通な読者の代表としてフォッグ氏の代わりに異国の旅を満喫してくれるわけですが、ところが、このパスパルトゥー君のおかげで、旅はいつも予定外の災難に遭うこととなるのです。

 

しかしそれでもフォッグ氏は、こう言うのでした。

 

「大丈夫、それも計算に入っていますから」

 

さらにこの物語を盛り上げてくれるのが、刑事フィックスでございます。ちょうどフォッグ氏が旅に出たころ、ロンドンではある事件が話題となっておりました。銀行から多額のお金が盗まれたというこの事件、犯人は立派な紳士の姿をしていたというのです。

 

その犯人の人相図を見て、この犯人こそフォッグ氏に違いないと確信したフィックスは、フォッグ氏を追いかけて、ともに世界を一周するのでございます。

 

はてさてフォッグ氏、果たして本当に八十日間で世界一周できるのでしょうか? そしてフォッグ氏とは一体何者なのでございましょう? それは、読んでみてのお楽しみなのでございます。

 


さて、そんな物語である本書が出版されたのは1873年でございます。

蒸気機関車が発明されたのが1804年、世界最初の商用鉄道ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通したのが1825年のこと。日本でも1年前の1872年に新橋―横浜間で鉄道が開通しました。

 

科学の発展によるこの交通革命は、事実上「地球を小さくした」ものでした。そして、もしも潤沢な資金さえ持っているならば、この巨大な世界をわずか八十日間で一周できるのだ、ということを、ヴェルヌはこの小説で証明して見せたのです。

 

さらに科学技術と経済の発展した21世紀の現在なら、もっと短期間で世界を一周することも可能でしょう。

 

しかし私は思うのです。この物語においてヴェルヌが本当に描きたかったものは一体なんなのだろう、と。

 

それは、鉄道を発明した科学技術の素晴らしさなのでしょうか。あるいは、お金さえあれば世界を一周することも可能なのだ、という、資本主義の素晴らしさだったのでしょうか。

 

私はどちらでもないのだと思うのですね。いやもちろん、科学技術も経済の発展も大事な要素ではあります。しかしそれよりも大切なものがある。

 

この旅において、作者はフォッグ氏が一体どれぐらいの時間を使い、あるいは浮かせたのかということと同時に、一体いくらのお金を使ったのかということも明記していきます。そして最終的にはこの世界一周という旅において、フォッグ氏が一銭の損もしなかったかわりに、一銭の得もしなかったことが示されるのです。

 

その代わりにフォッグ氏が得たもの、それは、一人の愛する女性と、そしてパスパルトゥーという誠実な召使だったのでした。

 


たとえどれだけ科学が発展したところで、たとえどれだけ世界が豊かになったところで、それだけでは何かが足りないのです。

 

その足りないもの、ヴェルヌがこの物語において本当に描きたかったもの、それはフォッグ氏の心の中の強い意志や勇気のようなものだったんじゃないか、と。

 

それは、科学やお金では決して手に入れられないもの。いやむしろ、科学の発展や資産を築くためにむしろ必要なもの。


21世紀を生きる私たちは、ヴェルヌが生きた時代よりもより賢く、より便利に、そしてより豊かになっています。

 

だけど私たちはそれらを利用して、この世界を本当に幸福に、楽しく、公平にしていると言えるのでしょうか。そうしようとする意志や、勇気をもっているでしょうか。

 

もしもヴェルヌが現在に甦ったら、やっぱり彼は人間に失望してしまうかもしれません。我々人類はもっとうまくやれるはずじゃないのか? なんて、そんな物語を描くのかもしれません。

 

だけど、それこそまさに空想の物語。その物語を描くのは、今を生きる私たちの仕事なのですから。

 

19世紀であれ21世紀であれ、本当に大切なものはなんでしょう。それは一人一人の人間の心の中にある何か。

 

もしかしたらそれを私たちは「センス・オブ・ワンダー」と呼ぶのかもしれない、そんなことを思うのでございます。

 


おなじみジュール・ヴェルヌ著「八十日間世界一周」に関する素人講釈でございました。

 

八十日間世界一周 (岩波文庫)

八十日間世界一周 (岩波文庫)