文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

無限の集合論がヤバすぎる話。

 

「神」の証明―なぜ宗教は成り立つか (講談社現代新書)

「神」の証明―なぜ宗教は成り立つか (講談社現代新書)

 

 

えー。相も変わりません。本日もまた一席お付き合いいただければと思う次第でございますが、本日ご紹介したいのは落合仁司著の「<神>の証明―なぜ宗教は成り立つか」でございます。

 


で、いきなりなんですが、あなたは神を信じるでしょうか?

 

そう言われると恐らく多くの人は「うん、まあ、一応信じる」と答えるのではないかと思うのですね。よく「日本人は無宗教だ」と言われますが、無宗教と無神論は違うのでありまして、特定の宗教に帰依していないことは別に無神論ではないのですよね。この辺の感覚って外国の人にはうまく伝わらないのですが。

 

無神論の人というのは、よく宗教というものは、あるいは信仰というのは非合理なんだと仰います。それ故に私はそんなものは信じないのだ、と。

 

しかしですね、これは本書で述べられていることですが、論理的に何かを存在しないと証明することって、実はめっちゃ難しいんですよね。と言うかそんなことはほぼ不可能に近い。だから私は宗教や信仰は不合理だ、と言う人がいたら、「じゃあ、あなたは神の不在を論理的に証明できるんですか?」と、こう問いかけたいのであります。

 

そうすると多分できないのですよね。ということはその人は、「神の不在」という論理的に証明できないことを真実だと思っている、つまり信じているってことになるわけでありまして、そうするとですよ、実は「神だの宗教だのは論理的ではない」と言っている人の方が一見合理的であるように見えて実は非論理的だ、ということになると思いませんか? だってその人は「神は存在しない」という非合理を信じているのですから。

 

……うーん、もうなんか、早速わけのわからない話になりつつありますが。

 


多くの人が宗教と論理とは対極にある、と考えているかもしれません。でも、本当にそうでしょうか?

 

では本書に倣って、キリスト教を例に考えてみましょう。

 

キリスト教という宗教はイスラム教と同じくユダヤ教から派生したのですね。2000年ぐらい前に。

 

で、この2000年前の新興宗教であったキリスト教は、まず西へ西へと布教が広まってゆくわけです。

 

ところでここで気になることがあるのです。というのはですよ、2000年ぐらい前の西ヨーロッパと中東の間にあったのはギリシャを中心とした地中海文化圏でございます。

 

で、この辺にはそれこそプラトンアリストテレスから連綿と続くギリシャ哲学の論理体系ができあがっていたはずなんですよね。

 

そんなギリシャの影響下にあった地域がこの頃続々とキリスト教化していった、これって不思議なことだと思いませんか?

 

ギリシャと言えばこの時代のいわば都会ですよ。で、そこには知識人たちもたくさんいたでしょう。そんなところにですよ、ナザレだか何だかよく分からん田舎から一人の漁師(ヨハネ)が現れて言うのです。

 

「俺は神の子を知ってる」

 

「はあ?」でございますよ。普通に考えたら。「なんだこの田舎者は?」てな話でございます。しかもよく話を聞いたらその神の子とやらはどっかの大工の倅らしいぞ、と。「お前なめとんのか」ってことになるはずだと思うのですよねえ。

 

ところがなぜかそうはならなかったのでした。何でなのかはよく分かりませんが、歴史的事実としてキリスト教ギリシャに広まり、そしてさらに西へと広まってゆくのです。

 

しかもそのうちにキリスト教とその神学の方がギリシャの哲学よりも重要なものと考えられるようになり、ルネサンスの頃にヨーロッパで再発見されるまで、ソクラテスアリストテレスも皆忘れ去られてしまうのですよね。

 

とは言え、ヨーロッパの、とりわけギリシャ近辺のキリスト教父たちは彼らギリシャ哲学を研究している哲学者たちと対峙せざるをえなかったわけで、そんな中で生まれてくるのが、様々なキリスト教神学なのでございます。

 

この神学の中で有名なものは主に三つあります。それが神の受肉、三位一体論、そしてキリストの再生と神化の問題です。

 

当時の知識人たちの中でも、さすがに無神論者はいませんでした。でもですよ、それでもやはり気になるのは、神の存在を否定しようとは思わないが、なんでキリストが神の子なんだよ、というところでしょう。

 

すごく単純に言えば、偉いのは神でしょ、キリストじゃないでしょ、ってことですよね。あと神が人になったり、人が神になったり、そんなことってあるんですか? と。

 

で、私たちは通常、このことを受け入れることを「信仰」と呼んでいるんじゃないでしょうか。

 

ところが本書において著者は言うのです。「いや、実はそこは信仰の問題じゃないんだ」と。

 

つまりさっき挙げたキリスト教で言う神の受肉、三位一体、キリストが人でありながら同時に神でもある、というこの3点は「信じるか信じないか」という問題ではなく、論理的に証明が可能である、と、こう言うのです。

 

で、そのために著者が用いるのが、数学における集合論なのでございます。

 

この集合論とは、カントールというドイツの数学者が創始したある数字の集まりと別の数字の集まりとの関係を定式化する、という数学の理論でございまして、例えばAの中に1と2と3が含まれている場合、A={1,2,3}と表記し、1,2,3である要素aはa∈Aと表記します。

 

で、例えばBという集合がありそれがB={1,2,3,6}だとすると、AはBの部分集合であると言い、A⊂Bと表記するのですね。

 

で、ここに三位一体論、東方正教で言う三一論をあてはめると、キリスト教における「神」とは、「父(生まれざる者かつ発出されざるもの)」と「子(生まれる者)」と「精霊(発出されるもの)」によって成り立っています。しかし同時にこの三者は「父」である、と言うそういう話なのです。

 

これを数学的な表現に置き換えると、生まれる者であるキリストをA、発出されるものである精霊をB、父なる神は生まれざる者かつ発出されざるものだから¬Aかつ¬B(¬というのは~ではない、という記号です)なので、

 

x={A,B,¬Aかつ¬B}

 

が証明できればよい、という、そういう話になるのですね。

 


ところでこの集合論において無限ということを考えると、必ずパラドックスに陥ってしまいます。

 

例えばA={1,2,3,4,5,6,7,8,9,10}という集合があったとします。この時この集合に含まれる偶数の集合Bを考えると、B={2,4,6,8,10}になりますよね。ということは、Aという集合に含まれる部分集合Bの要素は5つですから、Aに含まれる要素の数10よりも少ない数字になります。というかそうならなくてはなりません。BはAの部分集合なんですから。

 

しかしこの集合Aが無限であったらどうなるでしょうか。Aの要素であるnがn+1,n+2,と無限に続いているとします。で、偶数は2nですから、仮にnの無限集合というものがあり得るとするならば、本来そのnの部分集合であるべきはずの2nから始まる部分集合Bもまた無限の要素を持つことになります。

 

集合Bは集合Aの部分集合であるはずなのだから、本来ならばBの要素は必ずAよりも少なくなければならないのに、Aの要素が無限であるとするならば、その部分集合であるBの要素もまた無限に存在することになる。つまりBの要素の数がAの要素の数よりも少なくならないのですね。

 

これはつまり無限の中に無限があるということになるわけで、そうするとですよ、その無限の中にもまた無限があり、さらにその無限の中にもまた無限があり……ということになってしまうわけです。

 

で、これもまた、実は神学上の問題と共通しているのですね。つまりキリストや精霊と父なる神が神という本質の元で同じでありながら別の存在だとすると、神が無限であるならばキリストや精霊は無限ではないはずじゃないの? ってことが神学上の「信仰」として受け入れなければならないところだったのです。

 

でも先に例を挙げたように無限の集合というものを想定した場合、実は神学におけるさっきの問題というのは論理的にどこかおかしいのではなく、むしろ無限の集合を想定した場合の論理をそのまま表現しているってことになるわけですね。

 


それどころか、実は無限の集合について考えるとさらに面白い結論が導かれるのです。というのは、集合Aの要素が無限だとした場合、その部分集合であるBの要素の数は、Aの数を超えてしまうのです。

 

とすると、この無限の部分集合がもたらす結論は、なぜキリストが神の子であるにもかかわらず、キリスト教は「神」ではなく「イエス・キリスト」を信仰の対象とするのか、という問題とつながってくるわけですね。

 


ということで、先に提示したキリスト教における三つの信仰の対象となるもの、「神の受肉」「三位一体」「キリストの神化」というのは実は信じるか信じないか、という話ではなく、論理的な問題である、ということがお分かりいただけたでしょうか。

 

論理を突き詰めると信仰は否定される、と通常私たちは思っていますよね。ところが、あら不思議。無限の集合論というものを考えた時、実は論理こそが信仰を裏付けちゃっているのです。

 

この無限集合の特質を証明した時、カントールはこう言ったそうです。

 

「私は見た。しかし信じられない」

 

そして彼の集合論は19世紀当時の数学界から猛反発を食らい、彼の師であるクローネッカーは彼の研究成果を出版を妨害し、ポアンカレに至っては「彼の証明した集合は集合ではない」とまで言い放ったのだとか。

 

ま、自分は無神論者だ、という方は、「信仰は非合理だ!」なんて非合理なことを言う前に、まずこの問題に真剣に取り組むべきなのでしょうねw

 


さて、それでは宗教というものは実は、完全に合理的なものだと言えるのでしょうか。つまり、宗教に信仰というものはそもそも必要のないものなのでしょうか。

 

そのことに対する本書の答えは「NO」なのですね。実はここまでの証明には一つだけ大きな穴があるのです。

 

それが何かと言うと、結局のところ、ここまでの論理はあくまでも「神が存在する」「神は無限である」という前提においてこそ成り立つ論理だ、ということです。

 

神がこの世界に存在するとするならば、そしてその神が無限であるとするならば、その神の存在も、その神がどのようにして私たち人間と関わることができるのかということも、そしてなぜ私たちが信仰によって神へと導かれることが可能なのかということも、証明する論理が成り立つわけです。

 

つまりここまで述べてきたことは、神という存在の内的世界においてのみ通用する論理である、ということ。

 

なのでもしも神というものがこの世界に存在しないのであれば、あるいは神が無限ではないとするならば、ここまで述べてきた論理の組み立てはすべて意味を失ってしまいます。

 

それは逆に言えば、こういうことです。

 

もしもあなたが神を信じるならば、ここまで述べてきた論理によってあなたは神を受け入れることができる。

 

と、そういう話なのですね。

 

著者は言います。

 

「何か騙されたような気がするであろうか。」

 

……うん、ちょっとね。

 

でもね、これもまた無限のパラドックスなのです。というのは、現状私たちは何かを理解するためには、無限であるものをとりあえず「信じる」しか論理的に乗り越える方法を持ってはいないのだから。「神」や、あるいは「論理」というものを、まず想定して受け入れなければならないのです。

 

「そもそも無限なんていう、存在しないものを考えるからそんなことになるんだ」と言う人もいるかもしれません。でもそれはそれで、「無限なんて存在しない」という論理的に証明できない信仰に基づいた論理の組み立てです。

 

つまり私たちはみんな、「神」を「信じる」か、あるいは「神以外の何か(科学とか数学とか)」をまず「信じる」ことによってしか、「考える」ことができないということ。

 


本書が描いていることは、私たちの認識能力には限界があるということを「宗教」と「数学」という一見かけ離れているように思える二つの分野が同時に証明している、ということです。

 

これは多分、「この世界は私たちが見た瞬間に生まれる」というゲーデル不完全性定理とか、量子力学におけるシュレーディンガーの猫の話と同じことでしょう。

 

もし私がある世界を信じないとするならば、私にとってそんな世界は存在しないし、あるいは存在していたとしてもそんな世界を認識することも解釈することもできないわけですから。

 


本書の最後を著者はこんな言葉でしめくくります。

「宗教とは語るものではなく、まず何よりも信じるものなのである」

あるいはそれは、私たち自身が決して「無限ではありえない」ということの証明なのかもしれませんね。

 


いやはや、実はいろんなところで「有限数の集合論はただの算数だけれど、無限の集合論はマジでヤバイよ」という話をちらほら聞いていたのですが、確かに無限の集合論はヤバイw 私は文系なので、多分ちゃんと理解したうえで話してるわけではありませんが、またこのことは別の類書も読んで改めて考えてみたいなと思うところでございます。

 

おなじみ落合仁司著「<神>の証明―なぜ宗教は成り立つか」に関する素人講釈でございました。