文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

漫画を「ありの~ままで~♪」語る話。

 

 


えー、本日も一席お付き合いいただきたいのでございますが、本日ご紹介したいのは、夏目房之介の「夏目房之介の漫画学」でございます。

 

この夏目房之介という人は、ご存じの方も多いでしょうが、夏目漱石の孫なのでございまして、実は日本の漫画史において彼はとても重要な人物の一人なのですね。今日はそんな話をしたいのでございます。

 


ところで、いきなりですが皆さん漫画は読めますよね。「いや、私、実は漫画は難しくて、どう読めばいいのか分からないのです」という方はいらっしゃらないでしょう。

 

よく子どもでも「字の本は難しいから嫌いだけど漫画なら読むよ」という子もいたりして、うちの甥っ子なんかもそうなのですが、小説のような字だけの本よりも漫画の方が簡単で分かりやすいと多くの人が思っているのではないでしょうか。

 

でもこれ、実は大きな間違いなのですね。なぜそれが間違いなのか、ご説明いたしましょう。

 

まず下の画像1をご覧ください。この画像は本書に掲載されている著者の夏目房之助さんによる「ドラえもんを少女漫画風に描いたらこうなる」というパロディです。

 

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皆さんこの漫画読めますよね。

 

まず最初のコマは雲の見える空が描かれています。それからのび太の家の屋根があり、そしてその家の下の部分が描かれています。

 

同時にこの3コマでは作者の言葉としてナレーションが書かれています。

 

で、「さわやか ドラえも~ん」というタイトルが続きます。

 

でも、ちょっと待ってくださいよ。そもそも私たちはなぜこの漫画を、上から順番に、しかも継続した時間軸で読むことができているのでしょう? どこにも番号なんて振ってないんですけど。

 

恐らくこのページを読んだ人の脳内では、こんな映像が流れているのではないかと思うのです。

 

まず青空があり、カメラがそこからどんどん下へと下降していき、のび太の家の全体像を映し出す。テレビドラマや映画の冒頭でよくあるパターンですよね。つまり、カメラの視点が上空からどんどん下へとゆっくり動いているわけです。

 

漫画というのはそんなカメラの動きを3つのコマを並べるだけで可能にしてしまうのですね。読者は3つのコマを見ただけです。でもその脳内には一つの連続した映像が浮かび上がる。実はすごく複雑なことが行われていることにお気づきでしょうか。

 

しかもこのページ、右側にコマをまたいで青年風のび太君が描かれていますよね。こののび太君は、まさか巨大サイズののび太君だとは、誰も思わないわけです。巨人となったのび太君が自分の家の横に立っている、と思う読者はいないわけですね。

 

でも、このページを正直に、そのまま見るならばそういう風にしか本来感じられないはずではないでしょうか? ところが、読者はそこはちゃんと理屈ではなく感覚的に「取捨選択」するわけですね。

 

さて、では画像2に移りましょう。

 

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このページを読者はこう読んでいくでしょう。

 

①とは思ったものの

②なにせこの背景

③せめて背景を

④たちきりの観葉植物にしてみてもこのキャラクター…

⑤(ポケットに手を入れるドラえもん

⑥ごちゃまぜペン!

⑦このペンを使えば

⑧たちまち――

⑨無重力

 

まずですね、この①のコマは、前のページの背景からつながっていることが分かりますよね。で、②のコマがあって、③ののび太の家の近所の背景へとシーンが移ったことを、私たち読者はこの3つのコマだけで理解するわけです。しかもこのコマの形と並び方で、何とかなく読者が物語の中に入り込んでいくような効果も促しているわけですね。

 

で、④で今度はいきなり室内の風景になりますが、このコマは③のコマと時間的に、あるいは空間的につながっていないことは、誰でも分かるわけです。そんなことどこにも書いていないのにもかかわらず。

 

さらにページの下段に行くとドラえもんが秘密道具のごちゃまぜペンを取り出しますが、ポイントはこの⑥のコマですよ。ドラえもんの手とごちゃまぜペンのまわりに引かれたたくさんの線。これは一体なんでしょうか?

 

でもこれも、この線がいわばスポットライトの役割を示していることは、みんな知っているわけですね。だから「この線何? 周りから針が突出してるの?」とか言う人はいないわけです。でも、そんなこと一体誰に教わったんですか?

 

そして最後の3つのコマですが、よくご覧ください。⑦のコマののび太君と⑧のコマののび太君と⑨のコマののび太君は全部髪の色が違うわけですね。でも、だからと言ってこの3人ののび太君が全部別人だと思う人はいないわけです。じゃあ読者はなんだと思っているのでしょうか。

 

それはこの3つのコマの間で、シーン全体の色彩がうっすらとぼやけていっている状態であることを読者は分かっているのですね。

 

しかもですね、よーく見てくださいよ。⑦のコマと⑨のコマ、よく見たらこれ繋がっていませんか? ということはですよ、上段の①から③のコマの例に沿えば、⑦のコマと⑨のコマは同じ空間、同じ場所でなければいけないことになりませんか?

 

でも、誰もそういう風には読まないわけですね。そんな風に読んでたら漫画は読めないのです。

 


なんていうことを考えていくとですよ、漫画というのは実はものすごい複雑な情報処理を脳内で行いながら読んでいるということが分かるのではないでしょうか。

 

小説は字を読むだけですし、絵画は絵を見るだけですが、それらと比べると漫画というのは様々な脳の機能を働かさないと読めないわけですね。論理だけでも、感覚だけでも漫画というのは読めない表現方法なのです。(漫画という表現が「簡単」で「単純」な「子ども向けの」ものと考えられているから敢えてこういう言い方をしているだけで、別に小説や絵画を乏しめたいわけではありませんのであしからず)

 

で、そういうことを最初に言い出したのが、何を隠そう、この夏目房之介さんなのでございます。

 


ではここで、この夏目房之介さんが登場する前の漫画評論を言うのはどういうものだったのか、ちょっとご説明いたしましょう。

 

漫画自体の起源は、北斎北斎漫画に遡ることもできますし、あるいは鳥獣戯画まで遡ることも可能でしょう、考えようによっては。とは言え現在の私たちにとっての漫画とほとんど同じような意味での漫画というのは、大正から昭和にかけてくらいのことだと思うのですね。

 

で、漫画というのはずっと学問の対象ではないもの、語るに足らないものであったのです。これは、明治以前の戯作が語るに足らないもの、文学ではないものだったのと同じですね。

 

そこに変化が訪れたのは、1970年代になってからでございます。この頃に学生運動をしていた人たちの中に漫画愛好家が多くいて、彼らが漫画を語り出したのですね。

 

とは言えこのから生まれだした「漫画を語る」という行為は、結局のところ大きく分けて2パターンしかありませんでした。

 

一つは、その作品の持つテーマの深遠さについて語るパターン。そしてもう一つは、社会現象、サブカルチャーとして見るパターンです。

 

これは別の言い方をすれば、漫画というのはそのテーマについて語る(文学的方法)か、サブカルチャーとして語る(社会学的方法)しかあり得なかったわけです。

 

でも、ここには漫画の技法とか、漫画という表現における記号の独自性とか、そういうのはまったく介在していないことにお気づきでしょう。

 

1970年代以降、いわゆる「漫画論」なるものは多く出版されており、現在でもそれなりに出版されていますが、はっきり言ってそのほとんどはこの「漫画文学論」か「漫画社会学論」のどっちかです。

 

でも、そうなのでしょうか。漫画は果たして文学なのでしょうか?

 

実際さっき漫画を私たちがどう読んでいるかということを示した時に感じられた方もいるかもしれませんが、実は漫画を読む行為というのは「小説を読む行為」よりもむしろ「映画を観る行為」に近いのですよね。

 

そのことに着目し、映画論の技法を使って漫画を語って見せたのが、確か四方田犬彦だったと思います。多分。ちょっとこの辺記憶があいまいですが。

 

でも、それでもまだ漫画論ではないわけです。映画論としての漫画論なわけで。

 

そんな時に登場したのが、本書の著者、夏目房之介さんだったわけであります。で、彼は様々な漫画作品を自分で実際に模写することによって、誰も語りえなかった漫画論を展開したのでありました。

 

漫画が漫画として、文学でも映画でもない独自の表現形式としてちゃんと語られ始めたのです。社会学的なアプローチが表現方法そのものの価値を表していないことは当たり前(ex.ベストセラーが必ずしも名著とは限らない)ですが、実は物語を語るという方法も、漫画を「漫画として」語ってるんじゃないよね、と。

 

そう考えると、私が著者の夏目房之介さんが日本漫画史において重要人物の一人である、という理由もお分かりいただけたのではないかと思います。

 

多分、漫画について語っている本は多々あれど、漫画を漫画として、映画でも文学でも社会学でも思想でもなく語りえているのは、この夏目房之介さんの著書とあと数冊あるかないかぐらいのものです。(もちろん、社会学的なアプローチや文学的なアプローチが「悪い」と言ってるんじゃないですよ。ただ違うよね、っていう。でも違うことに気付いてる人少ないよね、っていう、それだけの話です)

 


これはですね、いわば明治時代に「日本文学」なるものが「芸術とは何か」という観点からしか語られえなかったということと、実は同じなのですね。

 

で、そうすると日本文学は理論上どうしても「高踏な芸術」を目指す方向なってしまうわけでして、そんな流れに「いや、文学が芸術かどうかとか、そんなことどうだっていいよ。文学は文学だよ。ありのままでいいよ」と言ったのが夏目漱石なわけです。

 

そうするとですね、この漱石の孫である房之介さんも、実は漫画という世界においておじいさんと同じことをやってのけたわけでして、これが私は非常に興味深いと思うのですねえ。

 

で、しかも漱石は芸術から文学を解放したわけですが、房之介さんは文学から漫画を解放したわけです。これも非常に面白い。

 


というわけで、漫画好きなそこのあなた! 本書を読んで「漫画を漫画として」ありのままで考えてみてはいかがかと思う次第なのでございます。NHKで時々やってる 浦澤直樹の「漫勉」が好きな方とかね、楽しめると思いますよ。

 

おなじみ夏目房之介著「夏目房之介の漫画学」に関する素人講釈でございました。

 

 

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