文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

美妙と春樹とフランケンシュタインの話。

 

いちご姫・蝴蝶 他二篇 (岩波文庫)

いちご姫・蝴蝶 他二篇 (岩波文庫)

 

 

えー、本日も講釈垂れさせていただきたく、またお付き合いのほどをお願いしたいわけでありますが、本日ご紹介するのは岩波文庫の山田美妙著「いちご姫・胡蝶 その他二篇」でございます。

 

この本はですね、初版が2011年となっております。まじですか、ですよ。山田美妙の作品が21世紀まで文庫で読めなかったとか、これはもう、出版社の怠慢と申すほかありません!

 

なんつって、ほんとは岩波文庫、1940年ごろに一度ちゃんと山田美妙の作品を文庫化していたようなのですね。ところが長らく絶版・品切れの状態が続き、2011年にやっと新たな版として再版されたわけです。だからちゃんと仕事してたんだね。ごめんね岩波文庫

 

しかも本書において、岩波文庫はとてもいい仕事をしています。と言うのはですね、本書には美妙の4作品だけでなく、前回も少しお話した「国民之友」の付録として発表された「胡蝶」に関する内田魯庵をはじめとした批評家たちの批評も掲載されているのです。

 

これを読めばですね、美妙がいかにくだらない批評で潰されたかがもう一目瞭然なわけですよ。岩波文庫、グッジョブ!

 

というわけで今回はその「胡蝶」のご紹介と、この作品がどのように受容されたかという話をしたいわけでございます。

 


「胡蝶」はですね、前回ご紹介した「武蔵野」と同じく時代小説でございます。舞台は壇ノ浦、源平合戦ですね。この時、安徳帝が本当は入水しなかった、という稗史が後に多く生まれるわけで(豊臣秀頼真田幸村は本当は死んでいなかった、みたいなやつですね)、そんな稗史の一つをベースとした物語なのでございます。

 

で、今回もまた「武蔵野」に引き続き、地の文は言文一致体で、セリフは古文調で書かれています。

 


さて、ではこの作品に対して批評家たちはどのような批評をしたのでしょうか。

 

まず内田魯庵。彼の批評は三つ掲載されていますが、「女学雑誌」に投稿された批評はこんな文章から始まります。

 

「「いらつめ」創業の功臣硯友社一方の旗頭山田美妙斎大人に奉る一流独特の言文一致体誰かは大人が矢表にたつべき誰かは大人に弓をひくべき」

 

もう、この時点でまずは内田魯庵がなんか勘違いしているのが分かりますね。そもそも批評とは作家と批評家の戦いなのか、別に弓をひかなくてもいいんじゃないかと私は思いますが。「人気者の山田美妙にケンカを吹っかける俺って、超カッコよくね?」みたいな自意識がドバドバ出てるように見えるのは私だけでしょうか。

 

そうやってまず魯庵は最初にとにかく美妙をおだてまくるのです。「いやあなた、ほんとにすごいですよね。飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことで、まるで源義経豊臣秀吉のようですよね」というような感じで。

 

これもなんでしょうね、ご自分はそんな義経や秀吉にたった一人で立ち向かう勇猛果敢な野武士のつもりなんですかね。ケッ

 

ま、いいやそんなことは。問題はどんな批評をしているかです。

 

魯庵は言うのです。「美妙、あんた世間をバカにしてんじゃないのか?」と。なぜそう思うかというと、

 

①短編小説しか書いていない。
②なんで現代をテーマにしないんだよ。

 

ということだそうです。もうなんか、どう考えても言いがかりにしか思えません。魯庵からしたら、「お前が短篇の歴史小説しか書かないのは、歴史からパパッと適当に素材を選んでちょちょっと書いてるだけだからだよね」ってことなんでしょう。ほんと、美妙が世間をバカにしてるんじゃなくて魯庵が美妙をバカにしてるとしか思えないんですけど。

 

で、魯庵はこの後に美妙の主宰する雑誌「いらつめ」にも呼ばれて批評を書いてるんですが、ここでもまた

 

「胡蝶を評せよとお望がありましたが、抜群の趣向、出色の文字。看板に偽なく、精一杯の作と慥かに見へます。が、敵に背を見するも卑怯。お望が有て筆を投るも何とやら……。そこで書て見ましたが、是でも批評の積りです」

 

という一文から始まり、私はもう、「だからなんで敵なんだよ」と言いたくなるわけですが、ここでもまた魯庵は「胡蝶」を「一夜漬けである」と断定したのでした。つまり「中身が薄い」と。

 

ではなぜそう断定するのかについて、魯庵はこう述べています。

 

①これって正史じゃないよね。なんで稗史を選んだの? ちゃんと歴史を調べたの?
②言葉の使い方おかしくない? 助動詞使いすぎなんだよ。

 

もう、これもひどいなと。そもそも美妙は前置きでこの作品が稗史をモチーフにしたものであることを明らかにしているのにもかかわらず、「なんで稗史をモチーフにするんだよ」ときたもんだ。どうしたらいいんでしょうね、こういう場合。

 

で、助動詞使いすぎ、っていうのも、なんていうかそれは言葉のセンスの問題ですよね。そこを言われても、と私は思うのですが。ていうか魯庵にとって小説の本質って言葉の使い方みたいな、そんな表面的なものなのか? と逆に問いかけたくなる批評です。

 

というわけで、他にも石橋忍月や依田学海の批評ものっているのですが、こっちもなんかおかしくてですね、要するにセリフ部分の古語の使い方がおかしい、という話で、いや、それは山田美妙からしたら「そこはどうでもいいんですけど」という話です。

 

もうね、何がおかしいって、じゃあ山田美妙が彼らの意見を受け入れて小説を書いたら、作品がより良いものになるって、批評家連中が本当にそう思って言ってるんですか? ってところなんですよね。ただ文句つけたいだけじゃないのか、と。

 


美妙からすればですよ、そもそも彼がしたかったのは言文一致体の新しい小説を書くことなわけです。で、坪内逍遥は「小説神髄」で言文一致体の導入と同時にこれまでの戯作が描いてきたテーマ、日本的な「もののあはれ」からの脱却を唱えたわけですが、本当にそうなの? と。言文一致体だけど内容は今まで通りの小説でもいいんじゃないの? ってのが、彼の関心ごとなわけです。でも、誰もそんな話はしてくれないわけですね。

 

で、彼らが何を言うかと思えば、やれ「お前みたいな人気作家が稗史をモチーフにしたら、後世の人が勘違いするだろ」とか(しねえよ!)、「昔の人はお前の小説みたいに語尾に「おじゃる」とかつけてない」とか(知らねえよ!)、もう本当に「どうでもいいじゃないか、そんなことは!」ですよ。

 

山田美妙からすれば、お前ら一体どうしたいんだよと。お前ら言文一致体の新しい小説が読みたいんじゃないのか、と。だからこうして書いてるんじゃないか、という話ですよ。

 

……まあね、日本文学自体がまだ誕生したばかりのこの時代にまともな文芸評論を期待する方が間違ってるのかもしれませんけれど、でもねえ、誰か分かってあげられる人がいなかったのかと、心からそう思うのでございます。

 

内田魯庵は美妙が世間に媚びていた、なんてことを言っていますが、むしろまったく逆なんですよね。美妙が媚びていたのは世間ではなく魯庵たち批評家連中なんです。だって、「言文一致体の新しい小説が世に出るべきだ!」と言っていたのは世間じゃなくて文壇の作家や批評家連中なんですから。

 


で、ここでまたちょっと話がずれますけど、前の話の続きでまた村上春樹の話をしたいわけですが、春樹もまた美妙と同じなんですよね。

 

よく春樹作品の批判として挙げられるのが、「話に構造だけしかなくて内容がない」というのと、「翻訳調の文体がクサい」という二点です。

 

でもね、そもそも近代日本文学というのは海外文学の模倣から始まっているわけです。で、当たり前ですが海外文学を模倣する際にその表現を模倣することはできませんよね。だって言葉が違うんですから。となると何を模倣とするかと言えば、海外文学の「構造」を模倣してきたのが近代日本文学の歴史なんですよ。

 

だから春樹からすれば、自分はド直球で「近代日本文学」をやったつもりだったのだと思うのですね。「構造しかない」というのは、春樹作品の欠点ではなくて近代日本文学すべてにおいて言えることなんです。近代日本文学って、結局のところ「どうやったら日本語で海外文学の構造の小説を書けるか」ってことなんですから。

 

ついでに翻訳調の文体に関しても、じゃあその翻訳調の文体をこれまで量産してきたのは一体誰なんだよ、という話なんですよ。それは小説家として飯を食えない作家たちや、海外文学を日本に紹介することで糊口をしのいできた文学者たちじゃないのか、と。そのあんたらが、なんで春樹の翻訳調を批判できるんだ、ということなんですよね。

 


まあ、そう考えるとですよ、実は山田美妙も村上春樹も世間に媚びているのではなく、むしろかなり批評家や学者たちを意識しているわけです。ところが不思議なことに、そんな彼らの方が批評家や学者から嫌われるわけですねえ。

 

これはね、あれですよ。好きな男性の色に染まったら「お前はつまらない女だ」と言われて浮気される女性みたいなもんですよ。ひどい話ですよ。

 


で、これって結局どういうことなんだろうな、と考えていたら、ある作品を思い浮かべたのです。それがメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」なのですねえ。

 

要するにですね、山田美妙や村上春樹というのは怪物なわけです。で、フランケンシュタインが誰かと言ったら、それは「近代日本文学」なのです。美妙も春樹も、近代日本文学が作り出したモンスターみたいなものなんですよ。

 

モンスターである美妙や春樹は、なんとかして人間である「近代日本文学」になりたくて、「近代日本文学」を模倣しようとするわけですが、もう、それをすればするほど「近代日本文学」側から「なんか不自然だ」「キモイ」と言われてしまう。

 

山田美妙の作品によって、彼らが目指していた「言文一致体の小説」が持つ不自然さや奇怪さがあらわになるのを直視するのが嫌なんですね。村上春樹で言えば、日本の近代小説はずっと構造の話をしてたんだよ、とはっきり言われるのが嫌なんでしょう。自分たちが好きなものを直視するのが怖いんです。

 

まあ、分からないこともないですよ。そういう耳の痛いことは誰も言ってほしくないでしょうから。だから美妙のように「ほら、どうです。言文一致体の小説書きましたよ」という人よりも、二葉亭四迷のように「言文一致体の小説を書きたいけれど、難しいよね。どうしたらいいんだろう」と悩んでるふりをしてくれる人の方が、みんな(この場合の「みんな」は「世間」ではなくて作家や批評家のことです)好きなんですね。

 


でもなあ、私はそういうことを直視することこそが未来へつながると思うですけどね。一体明治20年代に「私たちはどこまで海外のものを取り入れるべきなの? 考え方まで西洋風になることが本当に正しいことなの?」という問題を問いかけた作家が、山田美妙以外にいたんですか? と私は問いかけたいのです。

 

で、この頃にそういうことをちゃんと考えてこなかったから、今みたいにわけの分からん「保守思想」なんかがはびこるんじゃないですかね。自分で自分に自信が持てないから、外国から褒められて喜ぶんでしょう。十数年前まで「春樹なんか文学じゃない」と言ってた連中が、春樹が海外で読まれててノーベル賞候補にもなってる、とか言われたらもうシュンとして何も言えなくなるんですよ。凛として「世界中の人やノーベル賞の選考委員は日本文学が何たるかを分かっていない!」って言えばいいんですよ。でも、言えるの? そんなこと。言えないですよねえ。そんなこと言ったら「じゃあ坪内逍遥の「小説神髄」は一体なんなんですか?」って話になりますもの。

 


ま、だからこそ近代日本文学にとって最初に山田美妙のような人が現れたことは、とても幸運なことだったと、私は思うのですけどね。でもまあ、私みたいな素人でも一応彼の作品に触れることができているのだから、山田美妙も完全に忘れ去られたわけじゃないのでしょうけれど。

 

って、なんだか本書の内容よりも内田魯庵の批評の批評みたいになってしまいましたが(汗)、おなじみ山田美妙著「いちご姫・蝴蝶 他二篇」に関する素人講釈でございました。

 

 

いちご姫・蝴蝶 他二篇 (岩波文庫)

いちご姫・蝴蝶 他二篇 (岩波文庫)

 

 

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