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文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

「フランケンシュタイン」が生まれる源泉となった二つの詩の話。

 

コウルリヂ詩選 (岩波文庫 赤 221-1)

コウルリヂ詩選 (岩波文庫 赤 221-1)

 

 

1816年、スイスのレマン湖畔にバイロン卿が借りていた別荘にメアリー・シェリーら5人の男女が集まり、それぞれ怪談を披露し合いました。これが後に『ディオダディ荘の怪奇談義』と呼ばれるものであり、「フランケンシュタイン」はこの時の着想を元に生まれたと言われております。

 

この別荘でバイロン卿がある詩を朗読していたところ、メアリーが冷や汗をかき、大声を出して気絶してしまったというエピソードが伝わっているのですが、このメアリーを気絶させた詩こそ、本日ご紹介したい「コウルリヂ詩選」に収められている「クリスタベル姫」なのでございます。

 

サミュエル・テイラー・コールリッジは1772年生まれのイギリスのロマン派詩人であり、詩のほかにも批評や哲学の分野でも大きな功績を遺しています。

 

詩人としては1798年にワーズワースとの共著として刊行された「抒情民謡集」が有名です。コールリッジはワーズワースと比べると、よりロマン派的と言いますか、どこか死の影や退廃的な香りのする作風が多いように思われます。

 

この「抒情民謡集」はコールリッジの「老水夫行」という長詩から始まり、この「老水夫行」もまた、「フランケンシュタイン」と深く関わりのある詩なのでございます。

 

本書にはその「老水夫行」と「クリスタベル姫」のほか短詩が三編おさめられていますが、今回はメアリーを気絶させた「クリスタベル姫」と「フランケンシュタイン」にも登場する「老水夫行」についてご紹介いたしましょう。

 


「クリスタルベル姫」

 

裕福な男爵リオライン卿の屋敷に、一人の姫君が暮らしていました。彼女の名前はクリスタベル。美しい娘へと成長した彼女は未来を誓った騎士が無事に帰ってきますようにと、真夜中に城を抜けだして、そっと祈りに向かうのでした。

 

そんな彼女はある夜のこと、一人の美しい女性と出会います。しかしこの女は髪も乱れて外なのに裸足、しかも服は破れ放題。一体何があったのかと問いかけてみると、女は言うのでした。

 

「わらはの父は貴族にて
 わが名はジェラルダインなり、
 昨の朝けに五人の戦士どもが吾を捉へ、
 このよるべなき乙女を捉へ、
 力づくにておびやかし 我が叫びごゑ押しとどめ、
 白馬の上にわを縛りぬ。」

 

どうやらこの女性、ジェラルダインは由緒ある貴族の娘だったものの、父が部下たちに裏切られ、命からがら逃げてきたとのこと。

 

憐れに思ったクリスタベルは彼女を城へと招き入れます。ところがこの女ジェラルダイン、実は魔女だったのでございます。

 

「わがこの胸に觸るるとき呪縛の力はたらきて
 そなたの言葉を支配せん、クリスタベルよ!
 今宵知り、明日もそなたは忘るまじ、
 わが恥の、はた悲しみのこれの證跡(しるし)を。」

 

さて、呪いをかけられたことに気付かないクリスタベル姫は、父の元へとジェラルダインを誘います。そして父に彼女の仇を取ってくれるよう頼むのです。

 

父のリオライン卿はこの話を聞いて驚きます。というのもリオライン卿とジェラルダインの父はかつて友人であったものの、ふとしたことから互いにいがみ合うようになり、今では音信不通となっていたからなのです。

 

リオライン卿は娘の頼みを聞き入れ、このジェラルダインの保護を約束します。そしてジェラルダインの父トランド卿に娘を迎えに来るようにとの伝言を、吟遊詩人のプレイシイに命じました。

 

しかしプレイシイはこの命令を断ります。そして言うのでした。

 

「夢の中にてわれ行きて
 探したるかに思はれぬ、何かあたりにあらざるか、
 地上に落ちて羽ばたける
 美しき鳥の苦しみは何の故ぞと探りみぬ。
 かくして行きてみたれども
 苦しき叫の原因(もと)となる何ものもわれ認め得ず、
 されどもやさしの姫ゆゑに
 われはかがみてその鳩を 手に取りみれば、
 見よ! そこにかがやく緑の蛇一つ、
 鳩の翼と頸(うなじ)とに捲きつきゐたるをわれは見ぬ。」

 

怒ったリオライン卿はプレイシイを追い出してしまいます。

 

さあ、そうして魔女のジェラルダインはまんまと城の中にもぐりこむのですが、ジェラルダインの目的は一体なんでしょうか。そして、果たして心優しき乙女のクリスタベル姫は一体どうなってしまうのでしょうか?

 


……ということなのですが、実はこの詩、ここまでなのでございます。この物語の続きは述べられていないのですねえ。

 

うーん、確かにこんなところで終わられたら、聞いている方は発狂してしまうかもしれません。なんか、嫌な予感だけが心に残る一編なのでございます。

 


「老水夫行」

 

ある婚礼会場のパーティに、一人の老人が現れます。この老水夫は自分は花婿の血縁近いものだから中に入れろ、と客の一人に言うのです。

 

「誰だ、このジジイは?」と皆が注目する中、老水夫は婚礼会場の中に入り、そして語り始めるのです。

 

それは彼が現役の水夫だった頃のこと。船は朝日を浴びて港を出ます。これから冒険が始まるのです。

 

最初は訝しがっていた客たちも口笛を吹き、その物語に耳を傾けます。

 

老人は話し続けます。

 

「その時暴風襲い來りて、
 したたかに暴威をふるひ、
 追ひつき來る翼もて撃ち、
 我らを驅りて南にやりぬ。」

 

船は嵐に襲われて、南極へと漂流してしまうのでした。

 

「やがて雪降り、霧立ちこめて、
 驚くばかり寒くなりたり。
 帆檣(はしら)と高く、綠玉(たま)と靑き、
 氷の山は浮び來れり。」

 

氷に囲まれた世界の中で、船員たちは精神的に追い詰められていきます。

 

そんな時、氷の透き間から、一羽のあほうどりが飛び立ったのでした。

 

この鳥は吉兆でした。この鳥を追って船を進めることで船は無事に南極から脱出し、無事北方へと向かうことができたのです。

 

しかし、そうして無事に危機を脱出すると、老水夫はこのあほうどりを撃ち殺してしまいます。

 

「諸人いはずや、そよ風吹かせし、
 鳥殺ししはわれなりと。
 彼等は曰く、そよ風吹かせし、
 鳥殺ししは何たる罪人(つみ)ぞと。」

 

このことから、船はまた苦難が続くこととなりました。

 

風がぴたりと止んで、大海原にどこへも動けずに何日も漂流してしまいます。

 

やがて船の中の水も尽きてしまいました。しかし一向に雨が降る気配はありません。周りに水はたくさんありますが、もちろん海水だから飲めるわけがありません。

 

「悲しや、老いしも若きもなべて
 まことに凄くわれを見つめき。
 十字架に代えてあほうどりは
 この頸筋に打ち懸けられぬ。」

 

食べるものも水もなく、どこへ行くこともできずただ漂流するだけの毎日が続きます。やがて幽霊船の幻覚を見るようになり、そして船員たちが一人、また一人と命を失ってゆくのです。

 

婚礼に集まった客たちは言います。「じいさん、ちょっとあんたの話はこの場にはそぐわないんじゃないか?」

 

しかし老水夫はそんな言葉には構わずに、まだ話し続けるのでございます。

 

漂流を続ける老水夫に、空から二つの声が聞こえてきます。

 

「一つの聲いふ、「これなりや彼、
 十字架に死せる主に誓ふ――
 むごき弓もて彼射落とせり、
 罪もあらざるあはうどり
 
 霧と雪との國にただひとり、
 住みわぶる南極精は、
 弓をもて己れを射たる
 人を愛せし鳥を愛せり。」

 他なる聲は更にやさしく
 甘露の如くやさしく言へり。
 「かの者今や苦患(くげん)を遂げて、
 更に再び苦患を爲さむ」と。」

 

そうして老水夫は何とか故郷に帰りつきます。その船の中のたくさんの彼の同僚たちの死骸と共に。

 

老水夫は助けられ、故郷の国の隠者に自らにかけられた呪いを解いてくれるように頼みます。

 

「「聖者よ、乞ふ、わが悔いを聞け。」
 隠者は額に十字架切りぬ。
 彼いふ、「疾く言へ、言へとぞ命ず――
 そもそも汝は如何なる者ぞ。」」

 

自らの罪を告白することにより、この老水夫は救われることとなりました。しかし一方でこの老水夫はそれからの人生を、この罪を語り続けなければならなくなったのです。

 

老水夫は話を終え、その場を立ち去ります。

 

しかし老水夫の物語を聞いた客たちはみな茫然として、その婚礼の場に立ち尽くすのでありました。

 


フランケンシュタイン」においてこの「老水夫行」はこのように登場します。

 

「僕は、先人未踏の地へ、「霧と雪の国」へ行こうとしていますが、信天翁(アホウドリ)は殺しません。したがって、僕の安否を気づかったり、コールリッジの「老水夫」のように痩せさらばえたみじめな姿で戻って来はしないかと心配なさったりはしないでくれませんか。」

 

これは物語の冒頭に登場するウォルトンという青年の手紙の一部分です。

 

そう、確かにウォルトンは老水夫ではないのかもしれない。しかし彼はこの後「彼にとっての老水夫」と出会うことになることを、この部分はあらかじめ提示していると言えましょう。ヴィクター・フランケンシュタインという、老水夫と。

 

そして面白いのは「フランケンシュタイン」という物語が、この「老水夫行」と同じように、「呪いを受けた者の物語」ではなく、「呪いを受けた者の物語を聞いた者の物語」となっている点です。

 

問題は、老水夫の行為そのものではなく、その話を聞いた読者が何を感じ、どう判断するかの方にある、と。

 

メアリー・シェリーはそのことを感じ取っていたからこそ、あえて同じ物語の構成を採用し、そしてそのことをこの冒頭の部分で明らかにしているのかもしれません。

 

「老水夫行」も、そして「フランケンシュタイン」も、もしこれらの物語に何か「答え」と呼ぶべきものがあるとするならば、それは私たち読者自身の中にあるのかもしれませんね。

 


おなじみサミュエル・テイラー・コールリッジ著「コウルリヂ詩選」に関する素人講釈でございました。


と、いうわけで、私には私の、そしてあなたにはあなたの「フランケンシュタイン」があることでしょう。私、哀愁亭味楽は本が好き!というサイトにて、現在

「フランケンシュタイン」をみんなでゆっくり読んでいく会【本が好き!】

という掲示板を開催しています。毎週日曜日に青空文庫の「フランケンシュタイン」から4000字(大体このレビューと同じくらいの分量です)ほどのテキストを投稿し、1年ほどかけてゆっくりとこの作品を読んでいこうという企画です。

 

フランケンシュタイン」を読んだことがないというあなたはもちろん、もう読んだ、という方も一緒にこの作品を1年かけてゆっくり読んでいきませんか? まだ現在3週目、始まったばかりでございます。皆様のご参加を心よりお待ちしております。

 

 

コウルリヂ詩選 (岩波文庫 赤 221-1)

コウルリヂ詩選 (岩波文庫 赤 221-1)