文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

「気」の力を体得する方法の話。

 

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)

 

 

えー、本日もまた一席お付き合いいただきたく、本日ご紹介いたします書籍は幸田露伴著「努力論」でございます。

 

努力ですよ、努力。もうタイトルからして汗臭い感じがしますね。まあ本書の内容を一言で言うなら、「努力は大事だよ」ってことで、そう言っちゃえば身もふたもないんですが、皆さん努力してますか? まあ、しなきゃならんのだろうなあとは思っていても、なかなかできないのが努力ですよねえ。

 

露伴先生は言うのです。「努力すればなんとかなるもんだ」と。そんなことを言うとですね、「や、努力しても叶わないことだってあるだろう」と、そうおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。

 

まず最初に露伴先生は言うのですね、努力には二種類ある、と。一つが直接的努力であり、もう一つが間接的努力です。

 

直接的努力というのは、今この瞬間頑張ることですね。で、たいていの人は努力、と言った時にこの直接的努力を思い浮かべるわけです。だから「努力だけでは叶わないこともある」と。確かに、この直接的努力だけではどうにもならないことっていうのが世の中にはたくさんあるわけですね。

 

例えばもし私が「よし、俺は今から大作家となり、傑作をものにするのだ!」と決意したとして、机の前に座ってうんうん必死に頭を絞ったからと言っていわゆる傑作と呼べる小説が書けるか、と言ったら、そうじゃない。

 

というのは、小説を書くために必要な努力というのは「机の前に座ってうんうん必死に頭を絞る」という直接的努力ではないからですね。

 

では小説を書くために必要なことは何かと言えば、それは普段から色んなものやことを見て、聞いて、考えることなわけです。そういう日頃からの習慣としての努力、これが間接的努力なのですね。

 

ということで、日頃から間接的努力をこつこつと行い、そしていざという時にはしっかり直接的努力をすることができれば、まあ大概のことは成し遂げられるよ、と。そういう話なわけです。それで出来なかったら多分それは努力の方向性が間違ってるんだよ、と。

 

まあ、そうなんでしょうねえ。でもそれが私のような凡人には難しいわけですが。

 

しかし露伴先生、ここで言うのです。ここまで述べてきたいわゆる「努力家」は確かに努力家ではあるけれども、二流の努力家にすぎない、と。というのは、「努力」という言葉にはどこか「いやいややってる」「無理矢理やってる」感があって美しくない。露伴先生に言わせれば、「俺、頑張ってるぜ」という自意識があるうちはまだまだ二流の「努力家」なのです。

 

実はもっとすごい一流の「努力家」というのがあってですね、それはどんな人なのかと言うと「努力をしているつもりなく努力している人」なのです。

 

なんかもう禅問答みたいになってきましたね。

 

まあ、言うなれば「好きこそものの上手なれ」というやつですね。こういう一流の努力家はですね、「やるな」と言われてもやるのですね。むしろ人から「ちょっと休みなさい」と言われるような、そういう人が真の努力家なわけです。そういう境地に達したいものですねえ。

 


さて、努力は大事、と言われても、なかなかやる気が出ないのが凡人でございます。一流の努力家の話をされても、ああそんなすごい人もいるのですね、と他人ごとになってしまうものでございましょう。

 

努力をするために必要なことはなんでしょうか。努力、というのは、結局のところ「やる気」の問題なわけですね。つまり「気」なのです。

 

気、気功というとなんだか怪しげな話のように思えますが、なかなかそう捨てたものではないのかもしれません。私たちは普段何気なく「気」という言葉を使っていますが、この「気」とはなんでしょう?

 

「気」というのは、「気が張る」こともあれば「気が弛(ゆる)む」こともあるものです。確かに努力は大切なのだけれど、「気が張り」っぱなしだと精神上よろしくないでしょう。そのことをみんな知っているから、「努力は大事」と言われると、「うげっ」という気分になるわけです。「ずっと気を張っていられるか」という「気分」になるわけですね。

 

そう考えると、上手に努力できる人、というのは、言い換えればこの「気」を上手に扱うことのできる人、ということができるでしょう。

 

この「気」を上手に扱うために必要なこと、それは何よりも健康であることだ、と露伴先生は説きます。「元来心は気を率い、気は血を率い、血は身体を率いる」と。つまり血行を良くすることで気力というものは充実してくるものなのですね。

 

私たちの「気」というのは血行の循環が良ければ自然と張ったり弛んだりするものなのですが、生きていると「今ここで張らねばならない!」という状況が訪れたりもするわけです。で、出来ればそういう時にちゃんと「気を張れる」人になりたいものですよね。そのためにも自分自身にとってちょうどいい「気」の弛緩の具合というものを感じておく必要があるわけです。

 

さて、とは言え実はこの「気」というもの、ただ張ればよいというものではないと露伴先生は言います。というよりも、上手に張ることができればいいのですが、大概の人はそれができない、と。

 

で、多くの人は気を張った時に「散る気」、「凝る気」、「昂る気」、「暴れる気」のどれかになってしまう。

 

「散る気」というのは、「よっしゃー、やるぞー!」と気合を入れたはいいものの、すぐに興味があっちこっちに行ってしまう傾向のことですね。まあ、私なんかがそのモデルケースみたいなものです(汗)

 

逆に「凝る気」というのは、あることのみにこだわりすぎてしまって周りが見えなくなってしまうことです。そういうのもあまり良くない、と。

 

「昂る気」と「暴れる気」も同じようなことで、自分が「気を張る」のはいいのだけれど、それで独善的になってしまう感じですね。誰かを見返してやりたいとか、そういうルサンチマンを原動力にして気を張ると陥りがちなのだとか。

 


まあ、「気」なんて言うと、まるでオカルトのように感じるかもしれません。西洋では精神と身体、という二元論的な考え方が主流ですが、どうなんでしょうね、私はあまり好きじゃないんです。そういういわゆる心理学的な考え方だと、例えば「努力ができない」という人がいたとしたら、もうその人の人格を否定する感じになっちゃうじゃないですか。人間はみんな正直で誠実でまじめ、清廉潔白なのがスタンダードになってしまって、全ての人を均質にしてしまうじゃないですか。

 

でも、精神と身体の間に「気」というわけ分からんものをワンクッション入れて、本書のように「や、それは気の使い方が下手なんでしょうなあ」と言えばですよ、なんとなく努力できない私のような人も救われるわけです。「そっかー、じゃあ仕方ねえな」と思えるじゃないですか。「ああ、俺は気の使い方が下手なんだなあ」と思えばですね、まあ世の中たいていの人は気の使い方が下手なわけですから、変に落ち込むこともないわけですよ。で、改善したいと思うなら改善すればいいわけで。これ、西洋の人が学ぶべき東洋の知だと思うのですよね。

 


最初に述べたように、本書は別に「努力しなくてもいいよ」と言ってる本ではないのです。いわゆる自分が賢いと思っている人によくある「努力とかしなくていいでしょ。効率でしょ。コスパでしょ」という本ではないです。むしろそういう奴はクソだよ、と。豆腐の角に頭ぶつけて死ねばいいのに、と(嘘です。そこまでは言ってません)。

 

でも、だからと言って「お前ら努力しろ! 俺ができるんだからお前にもできる!」みたいなうざい、暑苦しい本でもないです。その辺ちゃんとなんで努力した方がいいのか、どうやったら努力できるのか、懇切丁寧に理屈で説明してくれます。

 

なんていうか、「感情」と「理性」って相反したもののように思えますが、露伴先生に言わせればどっちも大切だよ、と。感情が勝ちすぎる人は熱心なのだけれど筋の通らないことを言うものだし、理性が勝ちすぎる人は合理的であるがゆえに冷淡になる。でもそのどちらにも陥ることなく「努力」という熱い汗臭いテーマを冷静に合理的に語りきった露伴先生という人はやっぱすごいなと思うわけです。

 


ま、とりあえず私が今年に入って最初にした「努力」は、本書を読むことでしたとさ。(難しかったー!)

 

おなじみ幸田露伴著「努力論」に関する素人講釈でございました。

 

 

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)