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文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

私たちの知っている「本」というものはきっとこの先、どんどんその姿形を変えていく。そして私たちが「本を読む」ということの行動や意味というものも。

 

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)

 

 *本書は書評投稿サイト「本が好き!」様からの献本で頂きました。ありがとうございます!

 

「賢さ」とはなんでしょう。

 

私たちは恐らく「賢い人」というのは、私たち一般人にはとても理解できないような問題を解決できる人だと思っています。

 

でも世の中にある「難解な問題」そのものに視点を当ててみると、そういった「難解な問題」の多くは実は「理解できない問題」ではなく、「解読するのに複雑な手続きが必要な問題」なのではないでしょうか。

 

言い換えるならば、私たちのような一般人であろうと、あるいはとんでもなくIQが高い人であろうと、問題を解決する能力そのものには大きな違いはないのです。なぜなら、人間の脳というものは大体みんな同じ形状で同じ質量なのだから、物理的に大した違いが生まれるはずがない。

 

つまり一般人の私たちは「複雑な問題」を「理解できない問題」とはき違えていることが多いのではないか、と。

 

とは言え現実の世の中には私たちのような一般人とそうでない賢い人たちがいるのは事実で、ではこの違いは何かというと、それは「スピード」なのです。500メートルを走ること自体は誰でもできるのだけれど、何秒でゴールまでたどり着けるか、という能力の差が「賢さ」なのですね。

 

さて、ここで少し話が変わりまして、一昔前に「ビーチボーイズ」というドラマがやっていたのです。反町隆史竹野内豊のW主演で、あとデビュー間もない頃の広末涼子が出ていました。

 

物語はあるさびれた港町に二人の若い青年がやってきて、サーファーの親父(マイク真木)が経営する民宿「ダイヤモンドヘッド」で働きながらこの二人の青年が成長していく、という物語です。

 

この物語の中で主人公の桜井広海(反町隆史)は泳げない、というキャラでした。ところがドラマが進むにつれ、彼は実は泳げないのではないということが明らかになってきます。いや、泳げないどころか、実は彼はオリンピックの代表候補にもなれるほどの水泳の選手だったのです。

 

じゃあ泳げるんじゃん、というとそうなのではなく、彼はプールでは泳げるのだけれど、海で泳ぐことができないのでした。プールという枠があり、スタートとゴールがあったら泳げるのだけれど、海のように何もないところではどうすればいいか分からなくなって泳げない、と。

 

……お前は一体何の話をしているんだ? と怒られそうなので、そろそろここで本書の話に戻しますと、本書「ペナンブラ氏の24時間書店」は先にお話しした二つの話と同じことを語っているような気がするのです。

 

主人公のジェイクはかつてベーグルの新興チェーン会社でネットを使ってマーケティングやデザインをしていました。ところが不況のあおりを受け会社が倒産、失業中の彼は偶然立ち寄った奇妙な書店「ペナンブラ氏の24時間書店」で働くことになります。

 

ここは一見普通の古書店のようでしたが、一つ違ったのは建物の奥に行くととんでもない数の蔵書があり、しかもこれらの蔵書はみんなネットで検索しても出てこないような本ばかり、そしてそれらの本はタイトルから内容まですべて暗号のような文字で描かれている、ということでした。

 

ジェイクの仕事は店番をすることと、この奥にある蔵書を借りに来る会員から本を受け取って希望する本を渡すということ。

 

ある日暇を持て余したジェイクは自分のノートパソコンの中にこれらの蔵書のデータと、そして誰がどの本を借りに来たか、というデータを入れて3D書店をパソコン内につくり、そのデータを解析します。

 

この頃知り合ったグーグル社員のガールフレンド、キャットに手伝ってもらい、グーグル社内の驚異的なシステムを利用した彼は、この謎の書店「ペナンブラ氏の24時間書店」に謎の本を借りに来る謎の会員たちが求めていた「答え」を、わずか一日で知ることになるのです。

 

と、いうのがこの物語の序盤です。ここからようやく、この物語は始まるのです。

 

これって、ちょっと不思議だと思いませんか? だって、もう、答えは出てしまってるんですよ。グーグルの力を使って。

 

でも、きっとそれこそがこの著者がこの物語で描こうとしたことだと思うのです。「答え」を見つけることではなく、もっとその前にある何か。

 

 

インターネットやコンピュータのすごいところ、それは私たちのような一般人でも、驚くべき「スピード」を手にすることができるということ。

 

でも、それは本当に「賢さ」なのでしょうか。

 

私には、IQが高い、という「賢さ」と、私たちが現在インターネットを駆使し、コンピューターのプログラミングによる解析をすることで享受できる「賢さ」は同じようなもののような気がするのです。

 

それは、あくまでも「スピード」にすぎない。

 

そしてこの「スピード」は結局のところ、測量するためのスタートとゴールがあらかじめ決まっているからこそ測ることができるもの。プログラマーがプログラミングできるのは、あくまでも具体的で明白に想像できる範囲内だけのこと。「これをこうしたい」というスタートとゴールがあらかじめ決まっているものだけだということ。

 

特異点を信じるには楽観的でなきゃだめなんだけど」キャットは言う。「それって意外とむずかしいのよね。最大幸福の想像(マキシマム・ハッピー・イマジネーション)ってやったことある?」

「日本のクイズ番組みたいに聞こえるね」

 キャットは胸を張った。「それじゃ、やってみましょ。初めに、未来を想像して。いい未来を。原子爆弾はなし。サイエンスフィクションの作家になったつもりで」

 オーケイ。「世界政府……ガン撲滅……ホバーボード」

「もっと遠い未来。そのあとはどんないい未来が待ってる?」

「宇宙船。火星でパーティ」

「もっと先」

「≪スター・トレック≫。瞬間移動装置。どこへでも行ける」

「もっと先」

 ぼくはちょっと口をつぐんでから気がついた。「もう想像できないよ」

 キャットが首を横に振った。「本当にむずかしいのよね。いまのでだいたい……千年ぐらい? そのあとに何が来るのか。そのあとにどんなことが起こりうるのか。想像が限界に達しちゃうわけ。でも、わかるわよね? あたしたちって、すでに知っていることに基づいて想像しているだけだから、三十一世紀のことになると類推できなくなっちゃうのよ」

 

千年後の未来がどうなっているかなんて、誰にも想像がつかないですよね。だって、そんな遠い未来を想像しようとしたって、一体どこにスタートとゴールを設定すればいいのか分からないから。そんな遠い未来は、まるで海のようなものだから。

 

ドラマ「ビーチボーイズ」のなかで、「ダイヤモンドヘッド」の親父さんであるマイク真木は夏の終わり、主人公の青年たちに向かって言います。

 

「ここは俺の海だ。お前たちにはお前たちの海があるだろう」

 

 

そう、これはジェイクにとっての「海」の物語。IQが高い人もそうでない人も、グーグルの社員も謎の古書店の店員も、みんな自分の中に持っている「海」で泳いでいく。そこにこそ、本当に大切なものがある。プールの中での「スピード」を競うことなんかではなく。

 

 

ジェイクがキャットとそれに友人のニールと共にニューヨークへ行った時のこと。

 

ニューヨークの人だかりを見てキャットは思います。この人の群れの行動を、コンピューターの中でモデル化することが可能だろう、と。

 

しかしそれに対してニールは言います。

 

「だめだね」ニールはそう言ってクイズ番組のブブーッという音を真似た。「できない。たとえルールがわかってもね――ところで、ルールなんて存在しないんだ――でも、たとえルールが存在したとしても、モデル化はできない。どうしてだかわかるかい?」

 シミュレーションをめぐってぼくの親友とガールフレンドが火花を散らしている。ぼくはただ傍観することしかできない。

 キャットが眉をひそめる。「どうして?」

「記憶力(メモリ)が足りないからさ」

「何言ってる――」

「いいや。すべてをメモリにとどめておくのは無理だ。どんなコンピュータもそこまで大きくない。きみたちのいわゆる――」

「ビッグボックス」

「そう、それでもだ。大きさが足りない。この箱のほうが」ニールは両手を広げ、歩道、公園、もっと先の通りを囲むように動かした。「大きい」

 

 私たちが千年後の未来なんて思い描くことができないのと同じように、千年前の人たちだって、現在のような未来を思い描くことはできなかったでしょう。

 

千年前の本を愛する人たちが、電子書籍で本を読んだり、こうやって書評をネット上に投稿したりすることになる、なんてまさか思いもしなかったに違いありません。

 

でもきっと、千年前の読書家と、今を生きる私たちの間は、同じ「本」という「海」でつながっている。私たちが想像もできない何かによって、論理的に答えを導くこともデータを解析することもできない「何か」によって

 

それこそ、「本」という名の「海」は、とてつもなく広いのです。多分、この地球上にある海よりも、もっと、ずっと、ずっと。グーグルのビッグボックスのメモリでも全然足りないくらいに。

 

 

私たちの知っている「本」というものはきっとこの先、どんどんその姿形を変えていく。そして私たちが「本を読む」ということの行動や意味というものも。今、私たちはその丁度分岐点に立っているのでしょう。

 

きっと、私たちはそうやって一歩ずつ、未来へと進んでいくのです。たとえその未来が現在私たちが思っていたような、あるいは願っているようなものと違っていたとしても。

 

かつて教会という閉ざされた空間で閉ざされた人たちにのみ受け継がれていた本が、印刷技術によって世界中の総ての人に広まっていった時、写本というものがだんだんと滅びていったように、今私たちにとって当たり前の「本」もまた、その姿を少しずつ消していくのでしょう。

 

 

千年後の未来は想像つかないから、逆に千年前の過去について想像してみましょう。

 

きっと千年前の本を愛する人たちは、現在の私たちの「本」を見て、こんな風に言うだろうと思うのです。

 

「こんなものは本とは言えない。こんな風に自動的に記述されて大量生産されているものなんて、俺たちの知っている本じゃない」

 

それと同じようなことを、今の私たちもまた、未来の「本」に対して感じるのかもしれない。

 

 

「賢く」なることでつまずいてしまうことがもう一つ。それは、目の前に広がる「海」すらも、自分の独善的な「プール」の枠にあてはめようとしてしまうこと、自分の「プール」が「海」なのだと、勘違いしてしまうこと……

 

千年後の未来で、人間たちは一体どんな風に本を読んでいることでしょう。そんなこと、誰にも分かるはずがないことです。たとえ世界中の人口の上位2%の知能指数を持っていたとしても。

 

地球の外周を計算しようと思ったら、まず最初に何をしたらいいんだろうと、夜道をひとりで歩きながら考えた。見当もつかない。ぼくだったら、たぶんググるだけだな。

 

あるいは、どれだけインターネットでググったとしても。

 

多分、本当に大切なことはどれだけググったところで分からない。本当に大切なことというのはネットの中には存在しないし、多分どの本の中にも存在しなくて、自分自身の中にだけあるものだから。

 

本書は主人公がある本の暗号を解いていく、という物語ですが、暗号解読、という意味では一つの作品について深く考えることもまた、ある種の暗号解読だと思うのです。

 

そして私は、私なりの答えをこの物語の中に見つけた気がします。

 

それは、ちょっと大げさに言えば「本とは何か」ということ。

 

多分、暗号解読のために必要なものは、高いIQでもなければ、ネットやコンピュータを使いこなすことでもない。

 

必要なのは「本」という「海」を泳いでみよう、という、ちょっとした勇気とか、アイデアとか、多分そういうもの。

 

そしてそれはどんな問題よりも「難しい」問題だったりする、ということ。

 

 

そんなことを考えながら、私は本書を読みながら、想像もしえない千年後の本好きに向かって、マイク真木の真似をしてこんなことを言ってみたくなるのでした。

 

「これは俺の本だ。お前たちにはお前たちの本があるだろう」

 

なんてね。

  

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)

ペナンブラ氏の24時間書店 (創元推理文庫)