鳥山明先生が、とにかくすごすぎる話。<うんちつんつくつん篇>
えー、相も変わりません。本日も一席、お付き合いいただければと思うわけでございます。前回に引き続き、鳥山明先生がとにかくすごすぎる、という話でございます。
前回の話の肝は、鳥山明先生は「目に見えないものを、いかにもそうであるかのように描いてみせた天才」というところにありました。
しかし、今回はまったく逆でございます。実は、鳥山先生は「目に見えるものを、(本当はそうでないにもかかわらず)いかにもそうであるかのように描いて見せる天才」でもあるのでございます。
そのことを証明している絵を、きっと誰もが見たことがあるでしょう。
その絵とは……
うんちです!!(お食事中の方ごめんなさいね)
断言いたしましょう。鳥山明先生の絵の神髄、それはうんちにあるのです。
このうんちは、「Dr.スランプ」においてアラレちゃんがつんつくつんするガジェットとして非常に重要なものであります。うんちなくして「Dr.スランプ」なし! と言っても過言ではないでしょう。
しかしですよ、皆さんよく考えてみてください、こんなうんち、見たことがありますか?
これ、よく見たらうんちじゃないですよ。ソフトクリームですよ、これは。そうじゃありません? しかもなんでピンクなんだよ。どんな病気なんだよ、という話です。
こんなうんちをしようと思ったらですね、すっごい長いうんちをしながらお尻をぐるぐる回すとか、あるいは……いや、もうやめときましょうか(汗)
とにかくですね、この絵は本来うんちではないです。うんちとは似ても似つかないものなのです。私はこんなうんち、生まれてから一度もしたことがない!
にもかかわらず、今ではこのソフトクリームみたいな形こそ「ザ・うんち」になっている。これは明らかに「Dr.スランプ」以降のことです。
(正確に言うと、最初にとぐろ巻きうんちが描かれたのは17世紀のフランスの版画家ベルナール・ピカールによる「調香師」だそうです。で、マンガに描かれたのは1971年、とりいかずよしの『トイレット博士』だと言われています)
フランスの版画家ベルナール・ピカールによる「調香師」
で、問題はなぜこのピンクのソフトクリームがうんちに見えるのか、ということなんですよ。
それは、マンガの絵というものが、いわゆる絵画の絵とは別のものだからです。
マンガの絵というのは、実は本来「絵」ではないのですね。では何なのかというと、「記号」なのです。
分かりやすい例で言えば、肖像画と似顔絵の違いです。
絵の技術というのは、卓越していくと写真に近づいていきますよね。だから優れた肖像画と言うのは、まるで写真のような肖像画のことです。
でも優れた似顔絵というのはそうではありません。優れた似顔絵というのは、その人の顔のある部分を強調し、一方である部分を省略することによって描かれるわけです。
だからマンガというものは、例えば手塚治虫の絵なんかを見れば分かるように、本来情報量が少ないものなんですよね。強調と省略をするから。要するに、誰でも描けそうなシンプルな絵、と言いましょうか。
で、例えば大友克洋が出てきたときにみんながびっくりしたのは、この人があくまでもマンガのフィールド上にいながら絵画の技術を持っていたことにあるんです。
(ここ余談ですが、ちょっとだけ。手塚治虫が最初にマンガに映画的手法を取り入れたわけですが、彼はマンガを「紙で読める映画」にしたかったんですよね。そしてそれを後のマンガ家もみんな模倣したわけですが、残念ながら手塚治虫自身をはじめ、みなマンガの画力はあっても絵画の画力はあまり持ち合わせていなかった。だから、本来なら「紙で読める映画」を目指すなら風景などはマンガ的であるよりも絵画的であった方がいいのですが、それができなかったのです。ところが、そこにマンガの画力と絵画の画力を持ち合わせた大友克洋が現れた。で、みんな「ああ、そうか、これが手塚治虫が本当に描きたかったものなのか」となってびっくりした、ということなんですよね。だから大友克洋の登場に一番衝撃を受けたのは、実は手塚治虫だったのです。自分一番やりたかったことを、違う人間にやられちゃった。他人の作品を見て、「ああ、これを俺はやりたかったのか」と思い知らされた。あのマンガの神様がですよ。こんな屈辱はないですよね)
マンガ絵というのは強調と省略による記号ですから、ディテールをたくさん書き込んでいけばその分絵画に近づいていくわけです。シリアスなテーマを描こうとした劇画がその良い例と言えるでしょう。
そこでちょっと下の絵を参照していただきたいのですが、鳥山先生によるこの絵、恐ろしく細かいディテールが描かれていることにお気づきでしょうか。
で、ここが重要なポイントなのですが、これだけ細かいディテールを描きこんでいるにもかかわらず、この絵はあくまでも「マンガ」なのです。
ではなぜこの絵は「マンガ」なのか。
それは、絵画の画力というものが技術的な問題であるのと違って、マンガの画力というのはセンスの問題だからなんです。
対象のどの部分を強調し、どこを省略するか、というセンスがマンガ絵の個性を決定しているわけです。
ですから、マンガ家というのはたいてい誰から影響を受けた、というのがすぐ分かりますよね。「あ、竹宮恵子は手塚治虫が好きなんだな」とか、「井上雄彦は北条司のアシスタントをやっていたな」とか、言われたら「あ、そうだね」って分かるでしょう。それはマンガ絵はセンスの問題だから、模写するときにそのセンスも一緒に吸収してしまうからなのです。
で、鳥山先生という人はこの「絵画の技術」と「マンガのセンス」をハイレベルで持ち合わせている人だということが、上の画像でよく分かるんじゃないかと思うのです。
ということで、最初のうんち問題に戻るわけですが、これがなぜうんちとは似ても似つかないにもかかわらず私たちにはうんちと認識できるのかというと、この絵はうんちの特徴を最もよく示した<記号>だからなんですよね。
そして前回の「かめはめ波」にしても、ここで「放出されるエネルギー」を描いたときにそれを最もリアルな表現、絵画的表現ではなく、最も記号的、マンガ的に正しい表現は何か、ということが分かってるということがすごいのです。
で、マンガ的に正しい表現であれば、後の人はもう、それがリアルではないことは百も承知の上で追随するしかないわけですよ。「気の放出」の新しいマンガ的表現を生み出すのは、多分鳥山明と同じレベルの才能の持ち主だけなんです。
ところで、マンガ家は技術ではなくセンスを受け継ぐ、と言いました。実際鳥山明以降、彼から影響を受けていることが明らかに分かるマンガ家というのはたくさん見かけますよね。
でも、鳥山明が一体誰に影響を受けたのか、分かります? 全然分からないんですよね。ディズニーらしいんですけど、少なくとも絵を見た限りではまったく伝わってこない。それって多分、この人は誰からもセンスを受け取る必要がなかったからなんじゃないかと思うんですよねえ。
だって、天才なのだから。
というわけで、二回にわたってお送りしました、「鳥山明先生が、とにかくすごすぎる話。」、おなじみ「Dr.スランプ」に関する素人講釈でございました。