文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

尾崎紅葉と幸田露伴をまとめてぶった斬った若手評論家の話。

 

「伽羅枕」及び「新葉末集」

「伽羅枕」及び「新葉末集」

 

えー、相も変わりません。本日もまた馬鹿馬鹿しい話を一席。

 

本日ご紹介したいのは、北村透谷著「「伽羅枕」及び「新葉末集」」でございます。

 

本書が一体どういうものか、一言で言えば、尾崎紅葉が上梓した「伽羅枕」と幸田露伴が上梓した「新葉末集」についての北村透谷の批評でございます(当時25歳)。で、この2作品を取り上げながら尾崎紅葉幸田露伴という当時絶大な人気を誇っていた2作家の作家性を浮き彫りにし、しかも、その上でこの二人をぶった斬るというものなのでございます。

 

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北村透谷

 

いいですねー。わくわくしますねー。まあ、今で言うならば若手の評論家が伊坂幸太郎米澤穂信をぶった斬るみたいな感じでしょうか。誰かやらないですかねー、そういうこと。やらないだろうなあ。

 

というわけで、また例によって具体的な内容を紹介していきましょう。

 

まず透谷は言うのですね。「伽羅枕」と「新葉末集」を読んでみたのだけれど、この2作品はどうも似ている、と。

 

で、彼は言うのです。そもそも尾崎紅葉という作家の魅力は何か。それは美辞麗句を用いた情景描写の巧みさであり、また物語の構成力だ(写実性)、と。一方幸田露伴のすごいところはどこかと言えば、それはアイデアの奇抜さとその状況下で揺れ動く人間の心情を巧みに描いていることだ、と(理想性)。

 

つまり写実性が持ち味の紅葉と理想性が持ち味の露伴は、ともに擬古典主義として江戸時代の戯作からの大衆文学の流れを引き継いでいるということと、売れっ子作家であるという共通点はあるものの、作家性という面から見ると全く違う特質を持っているのです。

 

映画に例えれば、アクション映画が得意な紅葉と、ヒューマンドラマが得意な露伴といった感じでしょうか。

 

まあね、ここまでは透谷は別にこの二人をまだぶった斬ってはおりません。むしろこの二人を褒めているとも言えます。

 

しかーし! この後でございます。

 

この二人の作風がなぜか似通ってきている。それはなぜか?

 

透谷は言うのでした。

 

ああ、なるほど。その理由が分かったぞ。その理由とは……


お前ら二人とも、古臭いんじゃーーー!!


バサッ! ウギャーッッッ!!

 


なーんて、ま、それは冗談としても、透谷は二人の作風が似てきている原因は、どうもこの二人の女性の描き方、あるいは女性観というものが似ているからではないかというのですね。紅葉にしろ露伴にしろ、小説の中に登場する女性はみなどこか前時代的で、因習に従う女性なのです。

 

しかし北村透谷という人はもう、バリバリの浪漫主義者なのですね。「厭世詩家と女性」という恋愛至上主義を表明した評論を雑誌に投稿しているほどなのです。人生に必要なものとは何か、それは愛だ! とか、本気で思っている人なのです。ゆえに人生の目的とは何かと尋ねられれば、それは恋愛の成就であると、本気でそう思っている人なわけです。

 

そしてこれからはもうそういう時代になると。男はもちろんのこと、これからは女性だって自由恋愛をするようになる。

 

まあ実際、前回ご紹介した「藪の鶯」でもそういった女性が描かれていたわけで、これはあながち透谷の妄想や願望に過ぎないとも言い切れない部分があると思います。最初にそのように変わりつつある時代があり、透谷はそれをポジティブに受け入れる立場だった、ということでしょう。

 

とは言ってもね、別に透谷は自らが自由恋愛至上主義者だから紅葉と露伴を批判したわけではないのです。だとしたら本当につまらない。

 

そうではなく、透谷が本論で主張しているのは、紅葉と露伴が実際にどのような女性観を持っていたとしても、彼らのスタイルというものが時代に即した女性像を描くことを不可能にしている、という話なのです。

 

透谷は言うのです。なあ、紅葉さんよ。あんたの魅力は物語の展開を重視することにあるんじゃないのか。それが「伽羅枕」ではどうだ。大どんでん返しの展開がしたいばっかりに、主人公の女性のキャラが前半と後半で変わってしまってるじゃないか、と。

 

一方で露伴にはこう言うのです。なあ、露伴さんよ。あんたの持ち味は奇抜な状況の中で生きる人間の悩みや苦しみ、それに負けない根性を描き出すところにあるんじゃないのか。「風流仏」なんて正にそうだったじゃないか。それが今はどうだ。写実的に描こうとするばっかりにキャラクターが類型化してしまってちっとも感情移入できやしない、と。

 

なんで二人ともこうなってしまったのか、それは二人とも自分たちのスタイルに捕らわれすぎていて、今現在の時代を生きる人間を描写できていないからだ、と。紅葉は物語の展開を重視するがゆえに、露伴は状況の奇抜さを重視するがゆえに、本来描かれるべきである登場人物がかつて江戸時代の戯作で描かれていたような類型的な人物になっているんだ、と。

 

違うだろう、あんたたちが「擬古典主義」なのはあくまでもそのスタイルであって、その物語の中に登場する人物たちは「現代的」でなきゃ、現代で「擬古典主義」をやる意味がないじゃないか、と。

 

この時代に求められていたもの、それはなんと言っても「新しい小説」なわけです。「新しい時代」を小説という形に描写することが大切なのだと、そういう通念があった時代です。

 

しかし彼らは自らの得意とするそれぞれのスタイルによって、そしてそれが受け入れられたことに安住することによってむしろ時代から取り残される運命にある、と透谷は指摘したのでした。それは主観の押し付けなんかではなく、両作家の作風や特質をしっかりと分析し、同時に時代というものもしっかり見据えた上での結論だったのです。

 

まあそうでなくても紅葉と露伴は今で言う大衆作家なわけですから、時代に逆らったものを書くことはできないでしょう。時代が変わろうとしていて、人々の認識も変化しようとしているのに作家がそれに対応できないとしたら……大変なことですね。

 

紅葉さんに露伴さん、あんたらは確かに今は時代の寵児かもしれない。でもあんたたち、今のお得意のスタイルにあぐらかいてると次第に時代から見捨てられるぜ、と、売れっ子の人気作家二人に対して警告しているのですねえ、若干25歳の若造が。やるじゃない。

 

まあ実際この北村透谷の登場を皮切りに、数年後には島崎藤村の「若菜集」や与謝野晶子の「みだれ髪」などを筆頭とした浪漫主義ブームというのが訪れるわけです。

 

だからほんとにこの指摘は的外れではなかった。

 

もしかしたら紅葉も露伴も、この批評を読んで「うわ、痛いところを突かれたな」と思ったかもしれません。

 

特にこの後、尾崎紅葉は代表作となる「金色夜叉」を発表しますが、これは正に当時の現代女性の心理を描写した作品となるわけですからねえ。しっかり指摘を受け止めている証ではないかと。

 


やー、ほんとね、この北村透谷という人はいいんですよねえ。もっとメジャーになってもいい人だと思うのですが。

 

というわけで、そんな新進気鋭の若手評論家北村透谷の話、もうしばらく続きます。

 


おなじみ北村透谷著「「伽羅枕」及び「新葉末集」」に関する素人講釈でございました。

 

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尾崎紅葉

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幸田露伴

 

 

「伽羅枕」及び「新葉末集」

「伽羅枕」及び「新葉末集」