文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

「走れメロス」がすごい、という当たり前すぎて申し訳ない話。

 

走れメロス (新潮文庫)

走れメロス (新潮文庫)

 

 

えー、相も変わりません。本日もまたくだらない講釈にお付き合いいただきたいわけでございます。

本日ご紹介したいのは、太宰治の「走れメロス」でございます。すでに名作の誉れ高い「走れメロス」の良いところを褒めるとか、ベタすぎてほんとすみませんという感じですが、まあよろしければお付き合いくださいませ。


というわけで、まずこの作品の構造の話をしたいと思います。この作品がいかに構造上美しく設計されているかということです。

まず、冒頭はこんな言葉から始まります。ここはすごく有名ですよね。

「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」


で、この後こう続きます。

「メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった」


もうこの作品、この冒頭からしてすごいんですよね。というのは、この冒頭の「決意した」と「メロスには」の間には何も書かれていませんが、映画だったらここでシーンが移り変わるところなのです。まず最初にメロスの怒りに震えた顔がクローズアップされ、「王、許せん!」みたいな台詞があってですね、その後にのどかな村が遠景で映し出されるみたいな、そんな感じです。

これのなにがすごいかというと、小説とはそもそもなんなのかといえば、それは登場人物の感情の動きなんですよね。音楽でいうサビだったりかっこいいリフの部分が、主人公が最も悲しんだり、最も怒ったり、最も喜んだりするシーンなわけです。

そのサビというかリフをね、この作品は一行目にいきなり持ってきてるんです。そうすることで読者は、「え? なになに?」となるわけです。だって一行目でメロスはいきなり怒ってるんですからね。「何で怒ってるの?」と気になるでしょう。

これがですね、あまり上手でない作家だと、この「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」という部分を書かずに、いきなり「メロスには政治がわからぬ。~」から始めちゃうんですよね。そうすると、読者を物語の中に引き込むのが難しくなってしまう。もちろん、あえてそうしてじわじわと読者を物語の中に導いていくという方法もありますけどね。でも、そういう手法はこの作品には合いません。なぜなら、この作品でそんな悠長なことをすると物語を殺しちゃうからですね。

まあ、なんでしょうね、音楽で例えるならば、ビートルズの「Hard Days Night」みたいな感じですよ。あの曲ってイントロが「ジャ~ン♪」しかないでしょう。で、いきなり「It's been a Hard Days Night~」と始まる。それがあの曲のかっこ良さのひとつなわけですが、この作品は文章でそれをやってるんですね。「メロスは激怒した」というたった8文字で読者を一気に作品世界の中に引き入れることに成功してるわけです。もう、太宰の上手さ、ここにありですよ。

さて、メロスというのは小さな村に住む牧人なのですね。で、妹の結婚式の準備のためと、長年の友人である石工のセリヌンティウスに会うためにシラクスという街にやってくるわけです。そしたらそこで王が民を苦しんでいるという話を聞いた、と。

ここで一行目の

「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」


に戻ってくるわけですね。たまに勘違いしてる人がいるんですけど、メロスが最初からシラクスの王が非道であることに怒っていたにもかかわらず、妹の結婚式準備やセリヌンティウスに会うためにシラクスにのこのこやってきたわけではありません。

ここで義憤に駆られたメロスは色んな予定を投げ打って王の元へ向かうわけですね。

ところで、この作品って原稿用紙に換算するとどれくらいになるかご存知でしょうか。実は、およそ25枚なんですね。で、シナリオを書いたことがある人は分かると思うんですけど、シナリオって原稿用紙1枚をおよそ2分として計算するんです。つまり、60分ドラマの場合、シナリオの原稿用紙枚数はおよそ30枚になるわけですね。まあ、実際にはCMとか入るんで、大体25枚程度になるわけです。

映画って大体どの作品も2時間程度ですが、あれがなぜそうなのかというと、人間の集中力って限界でもそれくらいしか持たないからなんですよね。あと、大学の講義とか大体45分から1時間くらいなのもそういう理由です。映画の場合は大学の講義ほど集中する必要がないから2時間ぐらいまではなんとかなりますが、ちゃんと話を聞いてノートもとって、みたいな講義を受ける場合には人間って45分から1時間くらいしか集中力が持たないんです。

だからこの作品って、およそ1時間で読めるようになってるんですね。もちろん、読むのが早い人はもっと早く読むでしょうけど。

まあ、そんなこというと、「いやいや、それって、たまたまでしょ?」と思うかもしれませんが、実はそうじゃないんですね。

そのことを証明するために、この物語を起承転結に分けてみましょう。するとこうなります。

起では、メロスはシラクスにやってきて、王と対面します。承ではメロスが村に帰り、妹に結婚式を挙げさせてあげます。転ではそこからメロスが走ってシラクスに向かいます。で、結で見事到着ですね。

このそれぞれのパートをどれくらいの分量で描いているかというと、起が原稿用紙およそ7枚、承が原稿用紙およそ4枚、転が原稿用紙およそ12枚、で、結が原稿用紙およそ2枚となります。

そうすると、メロスが走り出すまでの前半と走り出してからの後半(結はおまけなので除く)がそれぞれ原稿用紙11枚と12枚できれいに2つに分けられるようになっているのです。しかも、転の部分は濁流に邪魔されるパートと山賊に邪魔されるパート、それから自分に打ち勝つパートの3つに分けられるんですが、この3つのパートそれぞれもおよそ原稿用紙4枚になってるんですね。

つまり、作者である太宰はまず最初に物語の大筋を作り、それを細かく分けていった。そのうえでそれぞれの各パートを原稿用紙およそ3~4枚と決めていったということです。そのため読者が大体7~8分、読むのが早い人で5分くらいすると場面が変わるか、あるいは物語が展開するように書かれているんです。だから、物語の前半と後半をきれいに分けることができるんです。

これはほんとね、びっくりしますよ、調べてみたら。ハリウッド映画の脚本とかって、2時間の間に何分でイントロで何分で物語が展開してクライマックスは何分から何分で、みたいなことが全部事細かに決められてるんですけど、太宰がこの作品でやってるのは正しくそれなんです。今だったらそういうのって本も出てますし学校で習うこともできますけど、太宰が生きた時代にそんなことを知っていた人なんていませんからね。この辺の感覚って天性のものなのか、あるいはちゃんと意識してたのかは分かりませんけど、とにかくそうなってるんです。

しかも、そのそれぞれのパートでずっとメロスが「動き」続けているので、読者は飽きることなくどんどん読み進むことができるんですね。物語的に「だれる」場所がひとつもないんです。(ここもうちょっと正確に言うと、ただ動き続けてるだけではそれもまた「だれる」原因になるんですよね。だからこの作品ではそれを避けるために、パートごとにメロスの感情が上がったり下がったりするようになってるんです。メロスの実際の動きと感情の動きを巧みに組み合わせることで、物語が常に「動いて」いる状態にしてるんですね。ほんと、「なんでそんなこと知ってるの?」って感じですよ)

もうね、シナリオのセオリー的にやるべきことがしっかりやられてる作品なんですよ、これ。だから誰でも簡単に読めるんです。なぜなら、そうなるようにあらかじめ設計されてるから。

でもね、ここがまた、勘違いされちゃうところなんですよねえ。なんだろう、作劇だけでなく作曲もそうだし、あと楽器演奏する人とかスポーツやってる人は分かると思うんですけど、一番単純なことを簡単そうにやるのが一番難しいんですよね。音楽に詳しい人ほどビートルズのすごさがちゃんと分かってるみたいな、そんな感じです。知らない人ほど「あんな曲俺でも作れそう」とか言うんですよね。でも、ああいう曲を作ったり、ああいう曲を演奏するのが一番難しいんです。下手なのがばれるから。


と、いうのがまずしたかった話です。太宰治がプロの小説家としていかにすごいのか、そしてこの作品がいかに造形的に美しく仕上げられているか、という技術的な話でした。

で、ここまでがいわば前半戦、ここからは作品の構造ではなく内容そのものについての話です。でもここから先の話は、もしかしたら読んで気に触る人がいるかもしれません。多分、すでにこの作品を読んで「つまらなかった」と感じた人はこの先読んでも益になることはないし、不快に感じることの方が多いでしょう。だから、そういう人はここから先は読まないでくださいね。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。


ということで、後半戦です。後半戦でしたいのは、本書「走れメロス」って実は政治の話をしているんだよねーって話です。もうね、本書を読んでどんな感想を持つかということで、その人が大体どれくらい政治の問題について思慮深い行動や決断ができるかが明らかになるというわけなんですよ。それがこの作品のすごいところ。

たとえば、冒頭でメロスが王に会いに行くシーンがありますね。メロスはそもそも王に会うためにシラクスに来たわけではなかったのですが、この街で人々の話を聞いて「いてもたってもいられず」に王の元へ向かうわけです。

で、ここで「おいおい、メロス浅はかすぎw」とか言う人がいるんですけど、果たしてそうなのでしょうか。これってどういうことかというのを、ちょっと身近な例で説明しましょう。

たとえば、あなたが寝坊したとします。もちろん、急いで家を出ますよね。次の電車に乗り遅れたら、遅刻してしまうのです。しかもあなたの勤めている会社は厳しくて、一度でも遅刻したら即クビです。絶対遅刻するわけにはいきません。で、あなたが大急ぎで駅まで走っていると、ふと道端に病気で倒れてる人を見かけたとしましょう。このときどうしますか?

この場合、二つの選択肢があるわけですね。ひとつは気になるけれど「ごめんなさい、それどころじゃないんで」と言ってそのまま通り過ぎるパターン。私は恥ずかしながらそっちのタイプです。でも世の中には、ここで「いてもたってもいられず」立ち止まって「大丈夫ですか?」と声をかけたり、救急車を呼んだりということをしてあげる人もいるでしょう。例えそのことで会社をクビになったとしても、人の命には代えられない、と。

メロスがしたのはこの後者の行動なわけですね。で、作者である太宰は「正義」とはそういうものだ、「いてもたってもいられず」行ってしまう行動のことだ、と思っているのです。私は恥ずかしながらそういう行動を取れる自信がありません。でも私は「正義」とは何かについてある程度分かっているつもりでいますから、そういう自分を恥ずかしいと感じます。一方でメロスを愚かだとか浅はかだとか計画性がないとか言う人は、多分心の中に正義を持ち合わせていないだけでなく、自分が正義の感覚を持ち合わせていないことの恥ずかしさについての自覚すらないんでしょう。「いてもたってもいられず」の意味が分からないんですから。

先日、日本の総理が杉原千畝という字を読めなかったと問題になりましたが、この人もまたそうでしょう。彼はユダヤ人ではないにもかかわらず国を裏切って多くのユダヤ人を救った人ですが、その時、彼もまた日本大使館の前に集まったユダヤ人達を見て「いてもたってもいられず」にパスポートを発行したのです。あらかじめ計画なんてしていません。メロスの美徳を理解できないという人は、恐らく彼のことも「短慮なテロリスト」と呼ぶのでしょうね。言葉の意味的には間違いではありませんが。

で、メロスは王に会おうとするのですが、城の警備兵に捕まってしまいます。なぜならメロスは村でのんびり暮らしていた田舎者で外国人ですから、面会の際のルールとか、そういうことは知らないわけですね。

そして彼は王の前に連れ出されます。で、ここでメロスは死刑を宣告されるわけですが、このときに友人のセリヌンティウスを人質にして三日間の猶予を得るわけです。

ちょっとメロスと王の会話を見てみましょう。

「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」

(中略)

「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」

(中略)

「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」


王は「人を信じない」と言うのですね。で、そういう態度についてメロスは「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」と言います。これがなにかというと、「王の賢さ」と「メロスの賢さ」の対比なのですね。

メロスは王に向かって言います。「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい」と。また、王は自分でこう言っていますね。「わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ」と。

この王の賢さというのは、例えば要領のよさだったり、ずる賢さだったりするわけです。王はそういうものが「知恵」だと思っている。あるいは王宮でどのように振舞うべきかを知っている、ということもまた、王の考える「知恵」だといえるでしょう。

一方、メロスはそういった「知恵」は持ち合わせていません。ではメロスが「愚か」なのかというと、そうではないのです。

メロスもまた、王と同じくらいの賢さを持っています。というか、人間というものがよく分かっているのです。ただ、メロスが王と違うのは、王は人間がよく分かっているからこそ、それを利用することで相手を出し抜くことが「知恵」だと思っている。しかしメロスは、人間がよく分かっているからこそ、そういうことは決してしてはいけないと思っているのですね。

で、メロスはこう提案するのです。自分の友人であるセリヌンティウスを人質にすることで猶予をくれ、と。というのは、もしもここで自分の命と引き換えに猶予をくれ、だったら、それはそもそも交渉にならないわけです。仮に約束を守ったとしても、王からしたらそんなのは当たり前です。誰だって自分の命が大切なのですから。でも、それが友人の命だった場合はどうでしょうか。王は人を信じていないので、友人の命と引き換えに自分の命を差し出すようなことはしないと思っていますが、メロスはそれをすると言っている、だからここで交渉が成立するわけですね。

そういう提案ができるくらい、メロスは「知恵」があるわけです。でもこの知恵は、王の「知恵」とは真逆の「知恵」なのです。なぜなら、メロスは別に王を出し抜くためにこういう提案をしているわけじゃないですから。

このことが分からないという人は、恐らく王と同じ「ずる賢さ」しか身につけていない人なんでしょう。ちなみに、もしもそういう「ずる賢さ」しか身につけていない人たちが選挙権という政治的な力を持っていたら、どうなるでしょうか。その人たちは本当に「他人のため」や「公共のため」に政治的な判断を下すことができるでしょうか。

そして最後に述べたい本書のテーマは、「責任」の問題です。よくこの作品に関して「セリヌンティウスを身代わりにするメロスはひどい奴w」とか、「身代わりになるセリヌンティウスはお人よしすぎw」とかいう意見を見かけるのですが、果たしてそうでしょうか。

まず、メロスはそもそもこのシラクスの街とは何の関係もない外国人だということが重要なポイントです。でもその一方でセリヌンティウスはこの街の住人なんです。で、そのセリヌンティウスが暮らしているシラクスの街を救うには、王が人を信頼できるようになるしかない。王は平気で人を殺すような人なので、その気持ちを変えるには命を賭ける以外にない。しかしメロスが自分の命を賭けても交渉は成立しない。

あの、普通に考えてですよ、本来ならば王と談判して命を賭けるべきなのは外国人であるメロスではなく、シラクス人であるセリヌンティウスやその他の面々ですよね。でも彼らが何も行動をしないから、メロスが行動したわけです。しかも、物語のこの段階では、三日後にメロスが帰ってきたら、結局はこの街と縁もゆかりもないメロスが殺されることになっている。だから、そうですね、もしも自分の身を犠牲にして人を助けようとする行為が浅はかだとするのなら、確かにメロスは浅はかでしょうが、セリヌンティウスはどうなんですかね。もしも私がセリヌンティウスだったら、メロスに対してまず思うことは「ごめん、本当は俺が立ち上がるべきなのに」ですけどね。「おいおい、俺を身代わりにするなよ」とは思わないでしょう。だって自分の国の話なんですから。

もしも自分が国家なり会社なり何らかの共同体の一員であるという自覚があるなら、その人は当然それに伴う「責任感」というのも持っているはずでしょう。で、そういう責任感を持っていたら、外部の人間が自分の共同体のために力をつくそうというときは協力しようと思うんじゃないでしょうか。「メロスは身勝手w」とか「セリヌンティウスかわいそうw」とか、そういう話にはならないはずだという私は思うんですけどね。

だからメロスやセリヌンティウスを批判する人って、多分ご自分が共同体の一員だという自覚がない人ってことなんでしょうね。で、それにもかかわらずご自分の権利だけはしっかり主張するっていう、そういうタイプの人なんでしょう。

というわけで、本書に対する感想を読めば、大体その人がどういう政治的な考えを持っているのかが分かるのですね。どれくらい正義感があって、どれくらいずる賢くて、どれくらい責任感があるのかということが分かっちゃうんです。怖いですねー。そう考えるとネット上にはこの作品に対するまともな評価が全く見当たらない理由もよく分かりますよね。ネットでアクセス稼いでる記事って、極端な意見ばっかりですから。

なんでそうなってるかというと、それはこの作品がなにか奇をてらったことを言おうとして書かれているのではなく、もっとも当たり前のことをもっとも当たり前に書いてるからなんですね。だから、ちょっと人と違った考えをしているという人は、そのことがあぶりだされちゃうわけです。

ま、私は別に本書を読んで「面白くない」という人がいても、それはそれでひとつの知見だと思うんですよ。人それぞれ好みもありますし。でもね、本書を読んでメロスの行動やセリヌンティウスの行動の意味が分からずにバカにしている人は、なんか違うんじゃないのかと思います。分かった上であえてボケてるんならいいんですけど。多分そうなのでしょうけど。でも、誰もそのボケがパロディだと気づかなくなってしまったら、本当に恐ろしいことですね。そう思って、野暮は承知でこの記事を書いたわけです。


そんなわけでですね、「走れメロス」は本当にすごい作品なんです。そんじょそこらのエンタメ小説よりもずっとエンタメに作られているだけでなく、人が社会人として生きていくためにとても重要なことが描かれています。多分、通常のコモンセンスが理解できる人であれば普通に楽しめるはずです。なので「実はこの作品読んだことない」という人はね、是非読んだ方がよいですよ。もう、ほんとに完璧な作品なんで。

ごめんなさい、ほんと、今更「走れメロス」はすごいとか言ったところで面白くもなんともないと思うんですけど、なんか言いたくなってしまいました。おなじみ太宰治著「走れメロス」に関する素人講釈でございました。

 

 

走れメロス (新潮文庫)

走れメロス (新潮文庫)