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文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

まるで肉じゃがのような話。

 

当世書生気質 (岩波文庫)

当世書生気質 (岩波文庫)

 

講釈垂れさせていただきます。

小説の才と小説の眼と相異なるがためなるのみ。眼あるもの必ず才あるにあらず、才あるもの必ずしも眼あらざるなり。 

先日お話しさせていただきました「小説神髄」において、これまでの戯作を否定し、文学という大風呂敷を広げた坪内逍遥でございましたが、まあ世によく言われるように、「言うは易し、行うは難し」でございます。

ならばその文学なるもの、一丁書いて見せようかいと上梓されたのが、本書「当世書生気質」でございました。

 

当世書生気質」なんて漢字を六つも並べられると、もうそれだけなんとも難しそうにも思える方もいらっしゃるかもしれませんが、決してそんな難しい話ではございません。

要するに「まったく、最近の(当世)若い(書生)もんは(気質)」ってことでございまして、当世風に言えば「ナウなヤングのなんでそ~なるの!」ってところでしょうか。

え? ちっとも当世風でない? お呼びでない? ア、こりゃまた失礼いたしました。ズコッ

 

さてさて、江戸の時代ももはや過去、名を改めた東京はてんやわんやの大賑わい。中でも最近多いのは、人力車夫と書生とか。

小町田という書生がおりまして、この青年、ある日町中で偶然一人の娘と出会うのでございます。

芸妓をやっているその娘はどうやら小町田を古いころから知っているらしく、是非今度、茶の屋に呼んでくださいなと、そう言うのでございますね。

それがきっかけに青年はお茶屋へ通うようになりますが、その様子は学内でも噂になり始めてしまいまして

「彼の小町田を見イ。この頃は放蕩を、はじめたといふ事ぢゃぞ」

「ほんたうにか。あの勉強家が」

「ほんたうとも。大事実ぢゃ。何でも数寄屋町辺の芸妓で、田の次たらいふ女に、迷ふちょるという事ぢゃが」

この小町田には守山という親友がおりまして、彼が小町田のことを心配して問いただすと、どうも二人の間には、まるで小説のような縁があるようなのですね。

 

というのは、芸妓の田の次はもともとお芳という名でして、三歳の時に親に捨てられ孤児となったところをある老女に拾われたのです。それから数年、老女にまるで孫のようにかわいがられたものの、この老女もまた死んでしまって再び身寄りを失ってしまいます。

そこで偶然散歩をしていた小町田親子と出会い、不憫に思った小町田の父は彼女を引き取り養子として育てることになったのでした。

そのことがきっかけで、小町田少年とお芳はまるで本当の兄妹のように仲良く育ったのです。

ところが小町田の父が失職したことから家計が苦しくなり、小町田はお芳を、彼女をまるで妹のように可愛がっていた妾のお常の元にやり、もともと器量の良かったお芳はお常の元で芸妓となって、名を田の次と改めたのでした。

そうして離れ離れになった親の異なる兄妹が互いに成長し、都会の片隅で再び出会うことになったのですね。

最初は実の兄妹のような懐かしさから逢瀬を重ねた二人でしたが、そこは若い二人でございます。やがて恋へと発展してゆくのでございました。

しかし田の次は芸妓でございますから、彼女に想いを寄せる者は他にもおりまして‥

そんな話を中心に、その他青年連中の、酒と女と屁理屈と、若気の至りな数多の振る舞い。憤るか呆れるか、はたまた拍手喝采送るのか、どう思うかは読者次第。

 

というのが、本書「当世書生気質」の大まかなあらすじでございますが、内田魯庵によると本書は「恰も鬼ケ島の宝物を満載して帰る桃太郎の舟の如く歓迎された」とのこと。まさに本書は著者坪内逍遥が「小説神髄」で提示した新しい小説だったのでございます。

 

とは言え、現在の私たちがこれを読むと、そこにはいささかの違和感を感じることでしょう。本書は確かに、当時は「当世風」だったのかもしれません。しかし、決して「西洋風」ではなかった。

そのことを指摘し、より「西洋風」に味付けした小説をものにして登場するのが、二葉亭四迷であり、森鴎外なのでございます。

 

まあ言うなれば、この作品は肉じゃがのようなものだと思うのですね。

肉じゃがという料理は、ご存じの方も多いでしょうが、かつて海軍総督であった山本五十六が留学先のイギリスで食べたシチューを懐かしんで作らせたのがその始まりだと言われております。

ところがレシピを渡された料理人は困ってしまったのですね。というのも、まだ洋食というものがあまり広まっていない時代ですから、料理人はデミグラスソースなるものがなんなのか、知らなかったのです。デミグラスだかヴェネチアングラスだか知らねえが、まあともかく味付けをしなきゃならん、ということで醤油を使ったのでございましょう。

肉じゃがは肉じゃがでおいしいものではございますが、これは洋食とは言えませんね。

 

実は逍遥自身、後に「『書生気質』も『小説神髄』も、学芸的には、全く無価値の著述なのだが、時代が幼稚であったが為に、多少の反響があって」と語っているとか。

本書を書きながら誰よりももどかしく思っていたのは、多くの西洋小説を読み、翻訳もしていた逍遥その人であったでしょう。

 

まあ、とは言うものの、本書を皮切りとして、時代は「俺はやっぱりシチューが食べたいっす!」というシチュー派(二葉亭四迷森鴎外)と、「や、肉じゃがは肉じゃがでうまいっす!」という肉じゃが派(硯友社)に別れてゆくのでございます。

 

まあ、そうですねえ。私はシチューも肉じゃがも好きですが、どちらかと言えばポトフ派ですかねえ。ええ、なんと言ってもあたくし、おフランス帰りざんすから‥

え? 聞いてない? お呼びでない? ア、こりゃまた失礼いたしました。ズコッ

 

おなじみ坪内逍遥当世書生気質』に関する素人講釈でございました。

 

当世書生気質 (岩波文庫)

当世書生気質 (岩波文庫)

 

 

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