文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

尾崎紅葉と幸田露伴をまとめてぶった斬った若手評論家の話。

 

「伽羅枕」及び「新葉末集」

「伽羅枕」及び「新葉末集」

 

えー、相も変わりません。本日もまた馬鹿馬鹿しい話を一席。

 

本日ご紹介したいのは、北村透谷著「「伽羅枕」及び「新葉末集」」でございます。

 

本書が一体どういうものか、一言で言えば、尾崎紅葉が上梓した「伽羅枕」と幸田露伴が上梓した「新葉末集」についての北村透谷の批評でございます(当時25歳)。で、この2作品を取り上げながら尾崎紅葉幸田露伴という当時絶大な人気を誇っていた2作家の作家性を浮き彫りにし、しかも、その上でこの二人をぶった斬るというものなのでございます。

 

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北村透谷

 

いいですねー。わくわくしますねー。まあ、今で言うならば若手の評論家が伊坂幸太郎米澤穂信をぶった斬るみたいな感じでしょうか。誰かやらないですかねー、そういうこと。やらないだろうなあ。

 

というわけで、また例によって具体的な内容を紹介していきましょう。

 

まず透谷は言うのですね。「伽羅枕」と「新葉末集」を読んでみたのだけれど、この2作品はどうも似ている、と。

 

で、彼は言うのです。そもそも尾崎紅葉という作家の魅力は何か。それは美辞麗句を用いた情景描写の巧みさであり、また物語の構成力だ(写実性)、と。一方幸田露伴のすごいところはどこかと言えば、それはアイデアの奇抜さとその状況下で揺れ動く人間の心情を巧みに描いていることだ、と(理想性)。

 

つまり写実性が持ち味の紅葉と理想性が持ち味の露伴は、ともに擬古典主義として江戸時代の戯作からの大衆文学の流れを引き継いでいるということと、売れっ子作家であるという共通点はあるものの、作家性という面から見ると全く違う特質を持っているのです。

 

映画に例えれば、アクション映画が得意な紅葉と、ヒューマンドラマが得意な露伴といった感じでしょうか。

 

まあね、ここまでは透谷は別にこの二人をまだぶった斬ってはおりません。むしろこの二人を褒めているとも言えます。

 

しかーし! この後でございます。

 

この二人の作風がなぜか似通ってきている。それはなぜか?

 

透谷は言うのでした。

 

ああ、なるほど。その理由が分かったぞ。その理由とは……


お前ら二人とも、古臭いんじゃーーー!!


バサッ! ウギャーッッッ!!

 


なーんて、ま、それは冗談としても、透谷は二人の作風が似てきている原因は、どうもこの二人の女性の描き方、あるいは女性観というものが似ているからではないかというのですね。紅葉にしろ露伴にしろ、小説の中に登場する女性はみなどこか前時代的で、因習に従う女性なのです。

 

しかし北村透谷という人はもう、バリバリの浪漫主義者なのですね。「厭世詩家と女性」という恋愛至上主義を表明した評論を雑誌に投稿しているほどなのです。人生に必要なものとは何か、それは愛だ! とか、本気で思っている人なのです。ゆえに人生の目的とは何かと尋ねられれば、それは恋愛の成就であると、本気でそう思っている人なわけです。

 

そしてこれからはもうそういう時代になると。男はもちろんのこと、これからは女性だって自由恋愛をするようになる。

 

まあ実際、前回ご紹介した「藪の鶯」でもそういった女性が描かれていたわけで、これはあながち透谷の妄想や願望に過ぎないとも言い切れない部分があると思います。最初にそのように変わりつつある時代があり、透谷はそれをポジティブに受け入れる立場だった、ということでしょう。

 

とは言ってもね、別に透谷は自らが自由恋愛至上主義者だから紅葉と露伴を批判したわけではないのです。だとしたら本当につまらない。

 

そうではなく、透谷が本論で主張しているのは、紅葉と露伴が実際にどのような女性観を持っていたとしても、彼らのスタイルというものが時代に即した女性像を描くことを不可能にしている、という話なのです。

 

透谷は言うのです。なあ、紅葉さんよ。あんたの魅力は物語の展開を重視することにあるんじゃないのか。それが「伽羅枕」ではどうだ。大どんでん返しの展開がしたいばっかりに、主人公の女性のキャラが前半と後半で変わってしまってるじゃないか、と。

 

一方で露伴にはこう言うのです。なあ、露伴さんよ。あんたの持ち味は奇抜な状況の中で生きる人間の悩みや苦しみ、それに負けない根性を描き出すところにあるんじゃないのか。「風流仏」なんて正にそうだったじゃないか。それが今はどうだ。写実的に描こうとするばっかりにキャラクターが類型化してしまってちっとも感情移入できやしない、と。

 

なんで二人ともこうなってしまったのか、それは二人とも自分たちのスタイルに捕らわれすぎていて、今現在の時代を生きる人間を描写できていないからだ、と。紅葉は物語の展開を重視するがゆえに、露伴は状況の奇抜さを重視するがゆえに、本来描かれるべきである登場人物がかつて江戸時代の戯作で描かれていたような類型的な人物になっているんだ、と。

 

違うだろう、あんたたちが「擬古典主義」なのはあくまでもそのスタイルであって、その物語の中に登場する人物たちは「現代的」でなきゃ、現代で「擬古典主義」をやる意味がないじゃないか、と。

 

この時代に求められていたもの、それはなんと言っても「新しい小説」なわけです。「新しい時代」を小説という形に描写することが大切なのだと、そういう通念があった時代です。

 

しかし彼らは自らの得意とするそれぞれのスタイルによって、そしてそれが受け入れられたことに安住することによってむしろ時代から取り残される運命にある、と透谷は指摘したのでした。それは主観の押し付けなんかではなく、両作家の作風や特質をしっかりと分析し、同時に時代というものもしっかり見据えた上での結論だったのです。

 

まあそうでなくても紅葉と露伴は今で言う大衆作家なわけですから、時代に逆らったものを書くことはできないでしょう。時代が変わろうとしていて、人々の認識も変化しようとしているのに作家がそれに対応できないとしたら……大変なことですね。

 

紅葉さんに露伴さん、あんたらは確かに今は時代の寵児かもしれない。でもあんたたち、今のお得意のスタイルにあぐらかいてると次第に時代から見捨てられるぜ、と、売れっ子の人気作家二人に対して警告しているのですねえ、若干25歳の若造が。やるじゃない。

 

まあ実際この北村透谷の登場を皮切りに、数年後には島崎藤村の「若菜集」や与謝野晶子の「みだれ髪」などを筆頭とした浪漫主義ブームというのが訪れるわけです。

 

だからほんとにこの指摘は的外れではなかった。

 

もしかしたら紅葉も露伴も、この批評を読んで「うわ、痛いところを突かれたな」と思ったかもしれません。

 

特にこの後、尾崎紅葉は代表作となる「金色夜叉」を発表しますが、これは正に当時の現代女性の心理を描写した作品となるわけですからねえ。しっかり指摘を受け止めている証ではないかと。

 


やー、ほんとね、この北村透谷という人はいいんですよねえ。もっとメジャーになってもいい人だと思うのですが。

 

というわけで、そんな新進気鋭の若手評論家北村透谷の話、もうしばらく続きます。

 


おなじみ北村透谷著「「伽羅枕」及び「新葉末集」」に関する素人講釈でございました。

 

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尾崎紅葉

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幸田露伴

 

 

「伽羅枕」及び「新葉末集」

「伽羅枕」及び「新葉末集」

 

 

伝統と誇りある我らがニッポンは、アメリカ様の支配下にある話。

 

アメリカ様 (ちくま学芸文庫)

アメリカ様 (ちくま学芸文庫)

 

 

えー。相も変わりません。本日もまたくだらない話にお付き合いいただきたいわけでございます。

 

本日ご紹介するのは、宮武外骨著「アメリカ様」でございます。この本がどういう本かと申しますと、「ザ・自虐史観☆(キラーン)」とも呼ぶべき一冊。気骨のジャーナリストであった著者が敗戦の翌年に戦前の日本を支配していた軍閥やそれを後押ししていた官僚、マスコミ連中をとにかく曝しあげ、そして代わりに支配者となったアメリカ様を褒めまくることで当時の世相もまた馬鹿にしまくったという一冊なのでございます。

 

というわけでどのような内容なのか、ちょっと引用してみましょう。

 

「戦争が終わり、日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました。皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は未来へと命をつなぐことができました。
そして米国は、日本が戦後再び、国際社会へと復帰する道を開いてくれた。米国のリーダーシップの下、自由世界の一員として、私たちは平和と繁栄を享受することができました。」

 

……あ、間違えました。これは本書の内容ではなく、2016年、真珠湾での安倍晋三総理大臣のスピーチでございました。いやー、びっくりした。あんまりアメリカ様を礼賛しているものだからつい間違えちゃった。

 

早く押し付け憲法を排して自主憲法を制定し、戦後レジームから脱却しなきゃいけないところ、けしからん間違いを犯してしまって本当に申し訳ございません。

 

えー、気を取り直して、改めて

 

「誠に奇な因縁と感ずるのは、我が日本と阿米利加国との関係である。封建制度徳川幕府が倒れて明治維新の政府が建設されるに到ったのは、その前嘉永年間にアメリカより使節ペルリが浦賀へ来たのがモトで、鎖国攘夷が開港に変じた結果、西洋諸国の文明を輸入しておおいに開化ぶることになったのである。それが近頃さらにアメリカよりマックァーサー元帥が我が国に押込んで来たのが、破天荒の無血革命、軍閥の全滅、官僚の没落、財閥の屛息、やがて民主的平和政府、開闢以来の最大御維新、勿怪の国勢となったのである。これ思えば、アメリカ様は日本国民一同が揃って感謝礼拝すべき大恩恵国ではないか。南無アメリカ様。」

 

というわけで、ほら、どうせ大して変わらないから別にいいじゃん。(いいのか)

 

ちなみに本書において著者は自らを「半米人」であると申しております。あ、でもこれは半アメリカ人というわけではございません。著者は本書執筆時80歳であり、米寿である88歳まであと「八」足りないと。そういうわけで米が半分足らないので「半米人」でございます。

 

とにかくこの宮武外骨という人は、言いたいことを言う人であり、戦前から多くの雑誌や新聞を発行しては発禁をくらうということを繰り返していたのでございました。

 

とりわけ有名なのは大日本帝国憲法が発布された明治22年、「頓智協会雑誌」に掲載した「頓智研法発布式」でございましょう。大日本帝国憲法の発布を受けて世間で絵葉書が出回るなど大人気だったため、それをパロディにした記事を雑誌に掲載したのでありました。

 

内容は「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」をもじって「第一條、大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」としたなどで、骸骨が憲法を発布している絵を雑誌に載せたところ、これが不敬罪にあたるとして禁固3年の刑を受けたのでございます。

 

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明治天皇を骸骨になぞらえるとはけしからん! というわけですね。しかしこの戦前に存在した「不敬罪」なるもの、本当におかしな法律でございます。そもそも天皇ご自身がこの絵を見て「こ奴はけしからん。不敬である。捕縛せよ」などとおっしゃったわけでもございますまい。当時の警察なり裁判官が勝手に天皇陛下のご意向を「忖度」し、著者に罪をおっかぶせたわけでございます。

 

まあこの宮武外骨なる人、もしも現在に生きていてTwitterなんぞやっていたら何度も大炎上しているに違いありません。

 

しかし私は思うのですが、戦前の「不敬罪」にあたるようなもの、現在にもあるようで。何かと言うと「正論」をふりかざして「けしからん!」と怒る人、あれは一体何なのでしょうか。一体誰の気持ちを「忖度」しておられるのか。

 

とりわけ最近では「政治」や「マスコミ」に対して、何か高邁な理想を抱いている人が多いような気がするわけです。

 

でも政治家なんて本来欲にまみれた人しかなろうとは思わんもんですし、マスコミなんて本来単なる野次馬根性の表れでしかないでしょう。

 

それをなんだか「政治家とはこうあるべき!」「マスコミはこうあるべき!」なんて思い込んでいる人は、その生真面目な性分を振り回してそのうち「国民はこうあるべき!」なんてことも言い出すんじゃないかと。もう、そうなると「不敬罪」まであと一歩です。

 

そう考えると戦前であれ戦後であれ、日本人というものは実は何も変わってなどいないのでしょう。それこそ著者が暗に指摘しているように、「天皇陛下」が「アメリカ様」に変わっただけで、いやもっとその前にさかのぼれば、そもそも「将軍様」が「天皇陛下」になり、今は「アメリカ様」になっているだけでございます。

 

で、「虎の威を借るなんとやら」どもが勝手に支配者様のご意向を忖度してデカイ面してのさばっているのが有史以来の伝統と誇りある我らがニッポンの姿でございましょう。

 

まあこういうことを言うと、どこかのお稲荷様から「自虐史観だ!」などと言われたり、あるいは逆に別のお稲荷様から「封建主義者だ!」などと言われたりするのでしょうか。あるいは「アナーキスト」?

 

……まあいいや。そんなことどうでも。

 


で、そんなアメリカ様を礼賛した本書なのですが、ここまでアメリカ様を持ち上げているにもかかわらず、本書は発行時にGHQによる検閲を受けて一部削除を命ぜられてしまいました。

 

それはこんな部分でございます。

 

「世相の反映で近頃は盗人が多くなり、小ドロボウは無数に殖え、人間の過半が盗人になったらしいが、その中で前例にもなく多いのは、持兇器強盗である。単独ではやり得ないのか三人組、八人組、十人組など集団式の強盗が続出である。どうして斯様に強盗が多いのか。こればかりはアメリカ様のお陰だとも云えないが、進駐軍人が来て以来のことだから、何らかの刺戟によるものらしいと思う。それは兎に角、昔の強盗は三十歳以上、四十歳、五十歳の者であり、体躯も頑丈で、いわゆる雲突くばかりの大男というのが強盗の本格であった、しかるに近頃の強盗は、新聞紙の記事によると概ね二十二、三歳、中には十幾歳の者もあり、若い女が集団に加わっているのもあった。その写真を見ると、いずれも可憐の青少年ばかり。変れば変る世の中だなあと半米人の老人は只々嘆息のほかなしである。
 この事象の原因は色々であり、要は戦時の政治経済教育の頽廃に帰するが、主な点は食糧の欠乏。米は不足、酒なく菓子なし、料理屋へも行けずであるのに、一方では贅沢にくらす者がある。そこで若盛りの者が「エヘ、ままよ、太く短く」という悪念を起す結果である」

 

というわけで、これの一体どこがアメリカ様のお気に触ったのか、恐らく「進駐軍人が来て以来のことだから」という一文なのでございましょう。たったそれだけで引用した文章全部削除でございます。

 

いやはや恐ろしいかな権力。戦前の日本であれアメリカ様であれ、あまり大差ないのかもしれません。実際著者もこのとき、「なんだ、自由の国といっても(戦前の日本と)変らないじゃないか」と落胆したそうです。

 

まあそういうわけで、現在では特に「自尊自立」とか「凛とした態度」なんていうのが一部の人の間でとても人気があるようですが、自虐史観に染まった私などが見ると、「本当にそんなことできるんですかね、私たち日本人が」と思うわけでございます。

 

梶井基次郎丸善檸檬ではありませんが、「日本礼賛本」にあふれ返った書店の棚に本書をこっそり置いていってやろうか……なーんてね。

 

ま、そんな小さなテロですら、とても怖くてできない小市民の私でございますよ。あなかしこ。


お馴染み宮武外骨著「アメリカ様」に関する素人講釈でございました。

 

アメリカ様 (ちくま学芸文庫)

アメリカ様 (ちくま学芸文庫)

 

 

日本初の女性近代文学作家の話。

 

藪の鶯

藪の鶯

 

 

講釈垂れさせていただきます。

 

いきなりですが皆様、三宅花圃という女性をご存知でしょうか? 何を隠そうこの人、日本女性初の近代文学作家なのでございます。

 

今回ご紹介する作品「藪の鶯」が出版されたのは明治21年のこと、坪内逍遥の「小説神髄」「当世書生気質」から2年後、二葉亭四迷の「浮雲」、山田美妙の「武蔵野」の翌年になります。

 

近代文学の中でも明治期になると女性作家って樋口一葉ぐらいしか思い浮かばないという人も多いかもしれませんが、やー、日本の女性はすごいですよね。女性解放運動なんかのずっと以前にもう女性作家が誕生しているわけです。

 

で、本書がどのような物語なのかというと、4人の女学生の物語でございます。内容は、ほとんどあってないようなもので、ある意味今で言う「日常系」ですかね、明治の時代に現れた4人の若くて新しい女性の模様を、坪内逍遥の「当世書生気質」と同じように写実的に描いています。

 

それもそのはず、そもそも著者の三宅花圃さんは「当世書生気質」を読んで「あ、これなら私にも書ける」と思って書いたのだそうです。で、出版の際にはなんと坪内逍遥本人が校正してくれたとのこと。ほんとこの頃の逍遥は若手の発掘に力を発揮してますよね。

 

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三宅花圃

 

関係ないですがちょうどこの頃同じく「当世書生気質」を読んで「あ、これは俺にはとても書けない」と思ったのが尾崎紅葉だったわけです。そういうこと素直に言っちゃうところ、嫌いじゃないんですけどね。(あれ、「浮雲」だったかも。どっちか忘れました)

 

で、せっかくなので著者の三宅花圃という人がどういう女性だったのかと言うと、本名は田辺竜子、元々父親江戸幕府幕臣という名門士族で、10歳の頃から中島歌子の元に通って和歌を学ぶといった才女だったそうです。(中島歌子と言えば知っている方も多いでしょうが、同門に樋口一葉がいるわけですね。彼女は三宅花圃の後輩にあたるわけで、彼女がデビューする際には三宅花圃がずいぶん力を尽くしたと言われています。)

 

ところがまあ、こういう時期ですから、両親が没落してしまったと。で、亡き兄の法要をするお金すらない、ということで「じゃ、いっちょ小説書いて儲けますか」ってことで書かれたのがこの作品です。なんかすごいですね。

 


というわけで作品の内容に話を戻しますと、主な登場人物は二人の女性で、一人は篠原浜子という薩摩藩父親の元に生まれた娘。この人の父親は江戸時代には「尊皇攘夷だ!」と声高に叫んでいたにもかかわらず時代が変わるところっと態度を豹変し、暮らし方から何から西洋至上主義になったのです。で、その娘である浜子もその影響を大いに受けて毎夜鹿鳴館へ繰り出してはダンスを踊ったりして気楽にすごしています。文明開化を満喫しているんですね。

 

もう一人の重要人物が松島秀子という女性。この人も生まれは士族なのですが両親が相次いで他界してしまったため、暮らしが貧しくなってしまいます。元々は浜子と同級生で真面目な女性だったのですが、今では学校を辞めて内職をしながら弟を学校に通わせているのです。

 

で、まあそういう時代ですから、士族や家族の息子たちと言うのは学校を卒業すると西洋に洋行するわけです。そうして帰ってくると彼らには政府の要職たる官人のポストが用意されている。上手に時勢に乗るような輩というのは学校に行ってもろくに勉強するわけでもなく、毎日遊び呆けて学校を卒業したらまんまと官人のポストに滑り込み、高い給料を得ていると。そんな様子が描かれています。いつの時代もそんなものですね。

 

そんな世渡りの上手い男の一人が山中という男で、学内での評判は良くなかったのだけれど同輩の誰よりも出世している。

 

で、浜子には勤という許婚がいまして、この勤も学校を卒業して西洋に留学したのですが、多くの人と違い彼は西洋主義になることなくむしろ西洋には優れたところもあればそうでないところもあると、そんな風なしっかりした考えを持っているんですね。

 

勤は帰国後浜子と結婚するはずだったのだけれど、嫌だと。浜子の方も自分と意見が合わないから嫌だと。

 

そこに折も折浜子と山中の結婚話が浮上して、ああよかったよかったと思ったのも束の間、浜子は山中に裏切られて逃げられてしまうのです。

 

で、勤の方は浜子よりもずっと堅実な考え方を持った秀子と結婚することになりましたとさ、という、そんなお話なんですね。

 

まあ、西洋気取りの新しい女が痛い目にあって、昔ながらのしっかりしたお嬢さん(実はどう考えてもモデルは著者)が幸せになって読者もみんな「やっぱそうでなきゃいけないよな!」と拍手喝采、みたいな感じですね。

 


この小説は一般的に「楽天的な写実主義」だと言われています。確かに、実際読んでみるとこの小説には「煩悶」する様子がどこにもないのですね。登場人物がみんなとてもあっけらかんとしている。

 

で、このことに注目してみると、実はそれって「当世書生気質」も同じなんですよね。あの作品にも「煩悶」はない。

 

じゃあ文学作品に「煩悶」が描かれたのはいつからかと言うと、それは二葉亭四迷の「浮雲」になるわけです。

 

ここでちょっと面白いのが、以前私は坪内逍遥の話をした際に彼が「小説神髄」で打ち出したのは「芸術主義」と「写実主義」だと申しました。

 

坪内逍遥のこの頃すごかったところって実はこのことで、もし彼が「小説神髄」で打ち出したのがどっちか一つであったなら、多分「近代文学」なるものは誕生していなかったと思うんですよね。

 

ここで彼が「芸術主義」と「写実主義」の両方を打ち出したからこそ、その後の作家たちは「文学とは何か」というテーマを考えることができたのです。

 

例えば二葉亭四迷という人は、「浮雲」を書いて逍遥を乗り越えたわけですが、彼がなぜ小説家として逍遥よりも優れているかと言えば、それは彼が「浮雲」において主人公の心の内面を描写したからなんです。そしてその流れを森鴎外も受け継ぐことになる。

 

小説神髄」で「芸術主義」と「写実主義」を打ち出した逍遥の中では「芸術であること」と「写実的であること」は不可分なものだったのですね。それをそのまま受け継いだのが山田美妙であり、また本書の作者である三宅花圃だったわけです。あとは尾崎紅葉らの硯友社も実はそうです。

 

でもその一方で「や、芸術的であるためには写実的でなくてもいいんじゃね?」と言い出したのが二葉亭四迷であり、森鴎外だったわけですね。

 

まあそう考えるとですよ、以前私は「逍遥派」と「鴎外派」を無理やり分けてこの頃の文学を語りましたが、実際にはもっとぐちゃっとしてるんですよね。

 

前は「自然主義」と「浪漫主義」で分けましたけど、「心情描写は是か非か」という視点でもう一回捉えなおしたら、逍遥の一派につながるのは三宅花圃、山田美妙、尾崎紅葉の次は永井荷風谷崎潤一郎横光利一川端康成と続き、坂口安吾太宰治なんかに至るわけです。この人たちは、ちょっと極端に言えば「登場人物の心理とかどうでもいいんだよ、話が面白ければそれでいいんだよ」という人たちです。だから文学嫌いな人もこういう人たちの作品は楽しく読めると思うんですよね。

 

一方で「いや、心情を描くことが大事だ。ここがリアルだったらぶっちゃけ話の筋とかどうでもいいし!」というのが二葉亭四迷に始まり田山花袋とか島崎藤村といった自然主義につながり、私小説へと発展してゆくわけです。面白い面白くないというのは主観や嗜好の問題なのであれですけど、まあ理屈的にはこういう人たちが出てくるのも道理に適ってるんですよね。

 

ただ声を大にして言いたいのは「私小説こそが文学!」なんて思ってた作家は文学史の中でも数えるほどしかいませんからね。自然主義者のほかには後期志賀直哉とそれに追随する一派ぐらいのもんなんで。なんか誤解してる人多いですけど。

 

ま、この辺の話って後の「自然主義」やあるいは芥川と谷崎が論争したと言われている(本当は論争でもなんでもないんだけれど)「筋なし論争」とかの時に話すとして……

 


おや、なんか話がだいぶずれてしまったぞ(汗)

 

あとこの作品が楽天的である理由としてよく言われているのは、時代的な問題です。逍遥にしろ三宅花圃にしろ硯友社の面々にしろ、やっぱり活躍した時代がよかったんですね。

 

「文明開化」とか言って近代化や西洋化することがただ素晴らしいみたいな風潮があったわけです。実際には世の中に何のリスクも犠牲もなく成し遂げられることなんてないのだけれど、まだそういうことが表面化する前の時代だったのです。

 

その意味でやっぱ漱石はすごいんですよね。日露戦争に勝ったはずなのにあれ? ってみんながなったところで「こゝろ」ですからね。

 

ま、こういうのを読んでいるとほんといつの時代も人間って変わらんなーと思いますよね。今はこの頃とは真逆で「うちこそが保守です! 高度経済成長をもう一度!」って言えば右も左も猫も杓子も拍手喝采ですからね。景気よかったことしか覚えていなくて、水俣病とかイタイイタイ病とか光化学スモッグとか、みんな忘れちゃったんでしょうね。そんなもんですね。

 

そういうわけで、本書は明治初期の社会の様子を上手に表現された作品ですが、同時にここに描かれていることはいつの時代も変わらない人間模様なのです。多分逍遥が「写実主義」を押し出したのも、そういうことを考えていたからなんじゃないかな、と思うわけです。


とまあ、なんか話があっち行ったりこっち行ったりでぐちゃぐちゃになりましたが、お馴染み三宅花圃著「藪の鶯」に関する素人講釈でございました。

 

 

藪の鶯

藪の鶯

 

 

ただのラノベでもファンタジーでもない、しっかり芯の通った話。

 

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

 

 
えー、相も変わりません。本日も眉唾物の講釈にお付き合いいただきたいのでございます。

 

本日ご紹介するのは、ケヴィン・ハーン著「鉄の魔道僧1 神々の秘剣」でございます。

 

物語の主人公の名前はアティカス・オサリバン。彼はアメリカのフロリダでオカルト本や怪しいハーブを売る店を経営しています。

 

一見ただのちょっと危ない若者に見えるこの男、年齢を尋ねられたら「21」と答えますが、この「21」とは実は21歳という意味ではありません。実は彼、2100年前から生き続けているドルイドケルト神話に出てくる魔法使い。「指輪物語」のガンダルフのようなもの)だったのです。

 

では一体なぜ2100歳のドルイドが現代まで生き続けていて、しかもケルト神話の舞台であるアイルランドではなく現代のアメリカにいるのか。それにはちょっとしたわけがあるのですね。

 

というのは彼、2世紀頃に実在したと言われているアイルランドの王「百戦のコン」の軍隊とゲール人とスペイン人からなるモー・ヌアダの軍隊との戦いである「マグ・レイナの戦い」に参加していたのですが、その戦いの中でコンが所有していた伝説の剣である「フラガラッハ」を入手したのです。

 

アティカスは考えます。そもそも一体この戦は何なのだろう。もしコンがこの伝説の剣を持っていなければ、彼はモー・ヌアダを攻撃しようとは思わなかったはずだ。そしてこの剣をコンに与えたのは、ダーナ神族の長腕であるルーだ。ダーナ神族はそうすることで間接的に人間社会に影響を与えようとしているのだろう。それが気に食わない。

 

その時、アティカスの頭の中で声がします。「剣を取れ、そして戦場を出ろ、お前は守られている」と。

 

その声の主こそが、ケルト神話に置いて破戒と戦さの女神であるモリガンだったのでした。

 

このモリガンの庇護を受けることで、アティカスはそれから決して死ぬことはなく、これまで2100年もの間生き続けることとなったのです。

 

しかしそのような神との契約は、いつどこの時代においてもそうであるのと同じように、ただ良いことだけではありませんでした。

 

そうして決して死ぬことなく生き続けるということは、同時にこのフラガナッハを取り返そうとするダーナ神族の追撃をひたすらかわし続けなければならない、ということでもあったのですから。

 

アティカスはヨーロッパの各地を渡り歩き、歴史の様々な事件にも遭遇してきました。そして恐らく最も神たちがその影響力を及ぼしにくい場所としてアメリカ大陸を選び、移住してきたのです。

 


ところが、そんな彼の元にモリガンがカラスの姿となって現れます。そこで彼女はついに彼の居場所がダーナ神族の長であるアンガス・オーグに見つかったと伝えるのです。

 

同じくダーナ神族の狩りの女神であるフリディッシュもまた彼の元を訪れ、どこかに別の場所に身を隠すよう忠告します。

 

しかしアティカスは正直もううんざりしていたのです。そうやってダーナ神族のいる常若の国から刺客が送られてくることに。そしてひたすら逃げ続けてこれから先また何千年と生き続けていくことに。

 

「決着をつけるにはそれだけでいいのかい? ただひとところにじっとしているだけで?」
「そうだと思うわ。彼はまずだれか代わりの者をよこすでしょう。でもあなたがそれを倒せば、結局彼が自分で来なければならなくなる。でないと臆病者と言われて、常若の国から追放されるもの」
「それらじっとしていることにしよう」おれはそう答え、彼女に微笑みかけた。「だがきみはじっとしていなくてもいいぞ。ゆっくり腰をゆらすのはどうだい?」

 

というわけで、この物語は現代のアメリカを舞台に、主人公が常若の国から送られてくるダーナ神族の神々を悉く返り討ちにしていく、そんな物語なのでございます。

 

彼の元には敵である神々だけでなく、なぜか敵でも味方でもない女神たちも現れて、まあそんな女神達と主人公は大抵ウッフ~ン♡なこととなります。それも見せ場の一つでしょう。

 


さてさて、私は本書を読みながら、最初に思ったのは、「ああ、これはラノベだな」ということだったのでした。2100歳だけど見た目は21歳のドルイドというチート(主人公が最初からルール破りなくらいに最強ということ)設定、次々女神がやってきてなぜか主人公といい関係になるハーレム展開、そして主人公が自分から動かなくても敵が向こうから続々やってきてくれる巻き込まれ型のストーリー。

 

で、そういういわゆるラノベ的なものってファンタジーの王道である「指輪物語」とか「ゲド戦記」なんかとは根本的に違うものだと思うんですよね。

 

まあ、ハーレム展開は別としても、例えば「指輪物語」なんかだと主人公のビルボは仲間の中で一番弱い存在で、そんな彼こそが冥王サウロンと対峙しなきゃいけないから面白いのだと思うのですよ。そして主人公たちは弱い存在であるからこそ、長い長い旅をしなきゃならんわけです。

 

つまり成長物語であり冒険物語であること、というのが、なんだろう、本質的なファンタジーというか、あるいは原理主義的なファンタジーだと思うのです。

 

別にだからと言ってラノベをダメだと言いたいわけではないんですよ。だってそもそもが「指輪物語」のような原初的なファンタジーだって、神話という物語構造を当時の現代風に焼き直してできたジャンルなんですから、それが今となってこういう風になってくるのはむしろ当然だと思うんです。

 

だから別にいいんですけど、個人的な趣味としてはあんまり好きではないな、という感じだったのです。

 

でもね、この作品、しばらく読んでいくとちょっとそれだけではないぞ、ということに気付きます。

 

例えばファンタジーの王道として「ゆきてかえりし物語」がありますよね。「ナルニア物語」とか「ハリー・ポッター」とか。で、この作品も実は「ゆきてかえりし物語」なんです。本当は。

 

といっても、決して主人公がそうだというわけではありません。「ゆきてかえりし」なのは、むしろ神々の方なんですよね。そして主人公というのはこの常若の国から突然訪れる神々に、ただ翻弄されているだけの存在なのです。エッチな展開になる場合も、大抵は女神側の意思に逆らえずにそうなるわけですから、まあこれ、言ってみれば逆レイプなんですよね。別に本人が喜んでるみたいだからいいんですけどw

 

で、「ゆきてかえりし物語」のポイントって、主人公が「現実」の知識や価値観を「異世界」に持ち込むことで主人公はその異世界を救う、ということになるのです。そう考えたら「ゆきてかえりし物語」って、「現実の世界による異世界の征服」なんですよね。

 

で、実は「ファンタジー」と「神話」の一番の違いってそこにあると思うんです。どちらの理屈に立つのか、「人間としての理屈」を正しいとするのか、あるいは「神の理屈」が正しいとするのか。

 

神話って、ケルト神話だけでなくギリシャ神話だろうが旧約聖書だろうが日本の神話だろうが、「ゆきてかえりし物語」とまったく逆の構造を持っているのです。言い換えるなら、「いかにしてこの現実は異世界から来た神々に征服されたか」という物語なのです。

 

「人間としての理屈」に立った場合には、何が善で何が悪で、何が得で何が損かははっきりするんですよね。でも、神話ってそうじゃないじゃないですか。神話の場合には、何が善で何が悪なのかがはっきりしていなくて、ただ神がやることが善なのです。それを認めるしかない。

 

そう考えるとこの作品って、実は根本的なところでこの「神話の理屈」みたいなのにちゃんと忠実なんですよね。そういうことを主人公は「極度の被害妄想」と呼んでいるのですが、うん、そうだと思うんですよ。神話を読んで楽しむというのは、結局のところこの「極度の被害妄想」のような気がするのです。

 

だからそう考えると、実はこの作品、一見ラノベのようであって全くラノベではない。むしろ真逆の考え方の作品なんです。

 

すごく分かりやすく言えばこの作品って「人間である主人公と神々との戦い」ということになっちゃうんだと思うんですけど、実は勝敗はもう始めから決まってるんです。神々の勝ちです。でも、どういうのが神々にとっての勝ちなのかは、人間には想像することすらできないわけですが。

 

こういうの、なんだろう、上手い言葉が見つからないのですが、「芯が通ってる」って感じがします。ただ神話からキャラクターを拝借しているだけじゃない。ちゃんとラノベ的要素もちゃんと押さえつつ、ケルト神話や様々な神話を上手にキャラクター化して登場させつつ、でもその元となる神話の外しちゃいけない部分はしっかり守ってる、というかリスペクトを感じる。そんな作品です。

 

まあ、こんな私みたいに小難しいことをごちゃごちゃ考えなくても、「イケメンドルイド、イェー!」「女神とエッチ、羨ますぃー!」と楽しんで読むのもありですし、あとはケルト神話に限らずヴァンパイアや人狼、あるいは別の神話の神々までオールスターで登場しますから、スーパーナチュラル系のオタクっぽく「おお、そいつをここで持ってくるとは、作者なかなか分かっとる!」みたいな楽しみ方もありでしょう。

 

そういう懐の深さのある作品ってなかなかないんじゃないかな、と思いました。面白いですよ。

 

おなじみ ケヴィン・ハーン著「鉄の魔道僧1 神々の秘剣」に関する素人講釈でございました。

 

 

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

鉄の魔道僧 1 神々の秘剣

 

 

世界中のすべての女性にささげる話。

 

雪のひとひら (新潮文庫)

雪のひとひら (新潮文庫)

 

 

えー、相も変わりません。本日もまた、眉唾ものの素人講釈を一席お付き合いいただきたいわけでございます。

 

本日ご紹介したいのは、ポール・ギャリコの「雪のひとひら」でございます。

 

私はね、もう、この本が大好きで、何と4冊も持っているんですね。

 

え、何でそんなに持ってるかって? それはね、私の周りにいるかわいい雪のひとひらたちにプレゼントするためなのですよ。

 

ということでまずはこの物語のあらすじをぱぱっとご紹介いたしましょう。

 


ある冬の日に雲の中で生まれた雪のひとひらは、空から大地へと降りてきます。

 

そこでたくさんの仲間たちと共に降り積もった彼女は、春が訪れると水となり、川の流れに加わるのです。

 

川を流れていく雪のひとひらは、雨のしずくという男性と出会います。

 

そうして二人で助け合いながら流れてゆくうちに、子どもたちが生まれます。

 

流れてゆく間には、たくさんのことが起こります。

 

下水の中に紛れ込んでしまったり、消防車のタンクの中に紛れて炎と戦うことになったり。

 

やがて雨のしずくが死んでしまい、子どもたちが巣立っていきます。

 

再び一人になった雪のひとひらは川をずっと流れていき、海へと辿り着きます。

 

そしてこの海に漂いながら、雪のひとひらもまた天へと召されていくのでした。

 


そんなお話でございます。一人の女性の人生というものを、この物語は雪に例えているわけですね。

 

で、私はこの物語のとても重要なポイントは、作者のポール・ギャリコが男性であるということなのではないかと思うのです。

 

考えてみてください。なぜ雪のひとひらが女性なのか、ということを。なぜ、雪のひとひらが男性であってはいけないのでしょうか。

 

作者は女性は「雪」で男性は「雨」だと言っています。それはどういうことでしょう。

 

このことは、女性と男性の身体の違いを現しているのです。

 

要するに、女性はある年齢になると初潮が訪れ、それからは40年近くの間ずっと生理と付き合って生きていくという、そういうことを「雪」と表現しているわけですね。

 

だから雪のひとひらは、「春」が来ると「水」になるわけです。身体が子どもから大人へと変化するわけですね。

 

一方、雪のひとひらの夫である雨のしずくは、生まれた時から「水」なのです。男性には初潮も生理もありませんからね。

 

このことはすごく重要なことだと私は思うのです。というのは、男性が子どもから大人になるきっかけは何かと言えば、それは「社会的な要請」なわけです。

 

つまり、就職とか、結婚とか、子どもができるとか、そういうことなわけですよ。

 

で、そういうものは全部自分の身体に何か変化が起きるわけではなく、身の回りの環境が変わるわけです。

 

雪のひとひらと雨のしずくの間に子どもが生まれた時もね、雪のひとひらがそのことを雨のしずくに伝えると、雨のしずくは少しうろたえながら「あ、そ、そうなんだ」みたいな感じになるんですよね。まあ、そういうもんなんですよ、男というのは。

 

でも女性の場合、身の回りの環境が変化する前に否応なく自分の身体が変化することを実感するわけです。

 

まるで雪が雪のまま水へと変わるように。

 

その後で多くの女性は「社会的な要請」を受け入れるかどうかという課題が訪れるわけですね。

 

この物語の中で作者であるポール・ギャリコは、雪のひとひらが水へと変わることは「春」というとても詩的であり、また物語においても重要なシーンとして描いています。

 

一方で水となった雪のひとひらが「社会的な要請」を引き受けるシーンは、水車に巻き込まれてしまうシーンとして描かれています。ここで雪のひとひらは自分も川の流れという社会の一員だという自覚が芽生えるのです。

 

でもこの水車のシーンは非常にあっさりと描かれています。何と言うか、そんなことは大した問題ではないという感じです。

 

ここがね、私も男なのですごくよく分かるんです。水車のシーンとか、ほんとどうでもいいんですよ。大事なのは春が訪れるシーンなのです。

 

でもね、もしこの物語を女性が描いていたとしたら、恐らく逆になるのではないかと思うのです。

 

ジェンダー論とかフェミニズムとかそうじゃないですか。女性がいかに「社会の要請」を引き受けるのか、といったことの方がむしろテーマとなっているでしょう。

 

私はね、少年少女が社会人になることよりも、一人の少女が大人の女性に変わることの方がずっと神秘的だし、大切なことだと思うんです。

 

だって「社会の要請」って、曖昧ですよ。現代社会では大人であるかどうかってちゃんとお金が稼げるかどうかってことかもしれませんけど、今みたいに経済が価値観を支配していない時代や地域では、大人の意味も変わってしまうんです。

 

もし明日富士山が噴火したり南海トラフ地震が来て日本経済が壊滅してしまって、しかもその後に復興に失敗してしまったりしたら(多分10%位はそういう可能性あると思うんですけど)、今の世の中で上手くお金を稼げる能力とか何にも役に立たなくなるでしょう。むしろ健康で肉体的な強さを持った男性こそが「大人」になるでしょう。

 

「立派な大人」とか「立派な社会人」とかって所詮そういうものなんですよ。時代や環境によって変わるんです。

 

だからね、なんか「女性の経済的自立」みたいな話を聞くと、なんかもやっとするんですよね。別にそれが重要じゃないとは言いませんよ。大切なことなんですけど、でも、誤解を恐れずに言うならば、本当につまらない。せっかく女性に生まれついたのに、何を好き好んで「おっさん」になってるの? と私は思うんです。

 

それに男性の特性っていうのはね、危機的状況に対応できるように作られているわけですよ。「力が強い」とかね。「論理的」とか。

 

だから男性的論理が幅を利かせている時代っていうのは、要するに「人間の生きにくい」時代なのだから、さっさと終わった方がいいんです。

 

科学技術や社会環境が整っていって人間が暮らしやすくなっていけばいくほど、女性の感覚の方が重要になってくるんですよ。むしろそういうのを目指すべきじゃん、と私は思うんですよね。

 

 

……あれ、なんか話がずれてしまったぞ。何が言いたかったんだっけ。

 

えーっと、要するにですね、そうそう、「社会の要請」って時代や環境によって変わるという話です。でも女性が少女から女性に変わる変化って、もっと確実な話でしょう。1000年前だろうと1000年後だろうと、封建社会だろうと民主主義の社会だろうと、女性は10歳くらいになったら生理になるんです。こっちの方がよほど重要な問題ですよ。

 

そしてそういう身体で生まれてきているからこそ、女性は男性とは異なった思考ができるのだろうと私は思うんです。なんというか、矛盾に強いというか、不条理に強いというか。だって身体がもう、そうなってるんですからね。

 


多分ね、作者はそんなことを思いながらこの物語を書いたのだと私は思うんです。女性であるということは、ただそれだけでまるで雪のように美しいと。世界中の女性にそのことを伝えたくて。

 

それに、男性だけですからね、一人の女性に対して「あなたはただあなたが女性であるというだけで素晴らしい」と、そう言ってあげられるのは。そうでしょう?

 


ですからね、私はこの物語をすべての女性におすすめしたい。まだ読んだことがないなんて女性がいたら、もうそれは本当に、心の底から「なんてもったいない!」と思います。そんな人は9/4からブックポート大崎店で開催される#​棚​マ​ル​「​こ​の​本​に​惚​れ​ま​し​た​!​」​フ​ェ​ア​でこの本を買わなければなりません。いや、買いなさい。マジで。9月はなんと土曜日も特別営業するそうですから!行きなさい!お近くの人は!

 

そして私はポール・ギャリコにはなれないけれど、「ポール・ギャリコの『雪のひとひら』を知ってるおじさん」にはなれるので、この本をプレゼントしてあげようと、既にスタンバイしているわけですよ。

 

雪のひとひらたち、待っていなさいね。

 

おなじみポール・ギャリコ著「雪のひとひら」に関する素人講釈でございました。

 

雪のひとひら (新潮文庫)

雪のひとひら (新潮文庫)

 

 

不条理さを目の前したら、そこに正解なんてものはないという話。

 

夕凪の街 桜の国 (双葉文庫)

夕凪の街 桜の国 (双葉文庫)

 

 

えー、相も変わりません。本日ご紹介したいのは、こうの史代著「夕凪の街、桜の国」でございます。

 

本書の内容を一言で言えば、原爆が投下された広島の人々の物語です。

 

本書は「夕凪の街」と「桜の国」という2つの作品からなっており、「夕凪の街」は終戦直後に被爆した女性の物語、そして「桜の国」は舞台を現代に移し、その被爆した女性の姪っ子の物語となっています。

 

この作品の中で最も心を揺さぶられるポイントは、やはり「夕凪の街」における主人公の女の子の最後の台詞でしょう。

 

たくさんの家族や知人を原爆によって奪われた彼女は、それでも自分は生き残ったと思っていた。生き残ってしまったと思い、どこかそのことに対する罪悪感を抱えながら終戦後の日々を送っていたのです。

 

しかしやがて彼女自身も被爆していたことが明らかになります。そうして職場の男性からプロポーズを受けていたのですが、彼と幸せな日々を過ごせるようになる前に死んでしまうのです。

 

その死の間際、彼女は思います。

 

「嬉しい?
十年経ったけど、原爆を落とした人は、私を見て
「やった!また一人殺せた」と、ちゃんと思うてくれとる?
ひどいなぁ。
てっきり私は、死なずにすんだ人かと思ってたのに。」


この台詞の中には、本当に、たくさんの複雑な思いが込められていると思うのです。

 

まず最後に彼女は

 

「ひどいなぁ。
てっきり私は、死なずにすんだ人かと思ってたのに。」


と言っているけれど、果たしてそれは本心なのか。もちろん本心なのだけれど、多分そう言いながら、どこか罪悪感から解放されてほっとしてるような、そんな思いが込められているような気がするのです。

 

そして最初の方の台詞。

 

「嬉しい?
十年経ったけど、原爆を落とした人は、私を見て
「やった!また一人殺せた」と、ちゃんと思うてくれとる?」


というところ。これも、果たして本心なのでしょうか。

 

だって、そうではありませんか。はっきり言ってしまえば、「そんなわけないよ」ということです。広島や長崎に原爆が落ちました。ではその原爆を落とした兵士は、あるいはそれを指示したアメリカは、そしてそもそも原爆を開発した科学者は、広島や長崎を憎み、あいつらを一人でも多く殺してやると、そう思って投下したのでしょうか。

 

そんなわけはないですよね。原爆は、広島や長崎が、あるいは日本という国家が対戦国であるアメリカから「憎まれていたから」投下されたんじゃないんです。

 

むしろもっと単純に、「ただ戦争とはそういうものだから」投下されたのです。

 

極端に言えば、彼らは原爆を投下すればどうなるかということについて、ほとんど何も考えていなかった。いや、あるいはその時彼らが考えていたのは、自分の家族のことであったり、国家のことだったのです。たとえそれが「憎しみ」や「怒り」であったとしても、「相手」のことを考える余裕など誰にもなかったのです。

 

でも、そんなのは辛すぎるじゃないですか。そんなことで殺されるなんて、あんまりじゃないですか。

 

だからそうじゃないんだよね、あなたたちは私たちが憎かったんだよね、だからこんな目に遭わせるんだよね、そうだと言ってよ、っていう心の叫び。

 

私はそのことこそが、この原爆という事実における現実であると思います。

 


例えば、あなたの大切な人が誰かあるサイコパス(私はこの言葉嫌いなんですけど)によって殺されたとしましょう。

 

その犯人があなたの大切な人を殺したのは、別に恨みでも怒りでもないのです。多分その犯人の中の理屈の中で、そうするべきだったからそうしたのでしょう。

 

その時あなたはその犯人の理屈を受け入れることができるでしょうか。

 

できませんよね。

 

あなたはきっと、自分の怒りをその犯人に向かってぶつけるでしょう。

 

でもそのうち、あなたは段々と空しくなってしまう。

 

なぜならその怒りが決して相手には届かないことが分かるから。犯人はあなたにとってただただ不条理なだけの存在だからです。

 

でもあなたにとってできることは、決して相手には伝わるはずのない怒りを持ち続けることだけなのです。

 

「夕凪の街」で描かれていることも、そういうことだと思うんです。

 

主人公の女の子が死ぬ間際に発した台詞、それが間違っているということくらい、本当は彼女は分かっているんです。

 

でも、それでも、間違ってると分かっててもそう言わざるを得ないという現実。

 

現実というものの不条理さ。

 

 


時折戦争の話になると、ご自分は現実主義者だと自称する人が「戦争もまた一つの手段だ」というようなことを言ったりします。

 

そういう時私は、本当に心の底からその人の「現実」の薄っぺらさが愚かだと思うのです。

 

「戦争」が「不条理」であるという「現実」を知らないから、そのようなことが言えるのです。そして平和主義者を「現実逃避」と嘲笑う。

 

 たとえ戦争に巻き込まれても、その人は多分、ご自分の理性を保っていられると、そう思っておられるのでしょう。そのことがもう、ちゃんちゃらおかしい。戦争状態ではない今この時ですら、感情的な煽り文句に心動かされているくせに。

 

本当に「現実逃避」しているのは一体誰なのか。「現実」の不条理さに対する認識が甘いのか、あるいは直視するのが怖いから「たいしたことはない」と思い込もうとしているのは一体誰なのか。

 


私は兵隊になったことがあるわけではありませんが、でも別に兵隊になったことがなくったってこれだけははっきりと言えます。

 

もしもあなたが兵士となった時、あなたは敵の兵士かあるいは一般人を殺すことになるかもしれない。

 

 

でも、その時あなたは決して「憎しみ」や「怒り」の感情によって殺すのではない、と。

 

そんな風に思っているのだとしたら、それこそくだらないフィクションの見すぎであるか、あるいは戦争をスポーツか何かと勘違いしているのでしょう。

 

憎しみや怒りによって相手に危害を加えたり加えられたりしたのなら、人は誰でも自分で自分に納得することができます。

 

でももしそうではないとしたら?

 

 

ただ「戦争」という舞台を与えられただけで、私たちはいとも簡単に不条理なことをしてしまうのだとしたら?

 

あるいはその時、あなたやあなたの大切な人がそのような不条理さの犠牲者になってしまったとしたら?

 


本書に収められた2つの物語は、そういうことだと私は思うのです。

 

そしてこの物語に「答え」なんてものはありません。

 

不条理さを目の前にした私たちがどんなことを思おうと、どんなことをしようと、そこに正解なんてものはないのですから。

 

それが「現実」。

 

だからそんなことは二度と繰り返してはならない。

 

そういうことだと、私は思うのです。


おなじみこうの史代著「夕凪の街 桜の国」に関する素人講釈でございました。

 

 

 

夕凪の街 桜の国 (双葉文庫)

夕凪の街 桜の国 (双葉文庫)

 

 

地獄で神を見る話。

 

野火 (新潮文庫)

野火 (新潮文庫)

 

えー、相も変わりません。相も変わりませんが、本日はまじめな話を一席。 大岡昇平の「野火」をご紹介したいのでございます。

 

太平洋戦争時、フィリピンのレイテ島。主人公の田村一等兵は肺病を患ったため、わずかな食料を渡されて隊を追い出され、野戦病院へと向かいます。

 

しかしすでに敗色濃厚なこの時、病院でも手持ちの食料が尽きた病人を置いておく余裕はなく、彼は再び隊へと戻ります。

 

もちろんそこで迎え入れてもらえるはずもなく、分隊長は言うのでした。

 

「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰ってくる奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みたいな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら――死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それがいまじゃお前のたった一つの御奉公だ」

 

そうして彼は病院へ戻りますが、当然入れてもらえるはずもなく…。

 

病院のまわりには、同じように軍からも病院からも追い出されて周りでぶらついている兵士たちがいます。彼もその中に混じって、ただ「がんばって」坐りこんでいました。

 

その時、米軍が空から病院を爆撃、彼は命からがらその場を逃げだします。

 

やみくもに山のなかへ逃げ込みさまよっているうちに、彼は一軒の小屋を発見しました。

 

もはや空き家となったその家の周りには畑がありました。恐らく現地人がそこで暮していたものの、戦場となったために捨てて逃げだしたのでしょう。

 

畑には芋や豆がありました。この戦場の楽園のような小屋で彼は身を隠すのです。

 

ある日彼は山の頂に光るものを見つけます。それは十字架でした。

 

そこは恐らく教会で、周りには現地人たちの集落があるのでしょう。

 

その晩、彼は夢を見ます。それは、こんな夢なのでした。

 

彼がある村の中を歩いていると、目の前に大きな教会があります。

 

中に入ると、どうやら葬儀をしている様子。

 

彼は現地人の群れをかき分け棺桶に近づき、一体だれが弔われているのか、覗きこみます。

 

すると、そこに眠っていたのは彼自身なのでした。

 

では、一体俺は誰なのだろう? 彼はそう思います。そして気づくのでした。

 

そうか、今の俺は魂なのだ。俺はもう、死んでいるのだ、と。

 

その時、棺の中で死んでいるはずの彼の死体がふと口を開き、呟いたのです。

 

「De profundis clamavit――われ深き淵より汝を呼べり」と。

 

翌朝、目覚めた彼はその教会をめざし、小屋を出ます。

 

そうして彼が出会うのは、神なのか。

 

もちろん、そんなはずはないのです。

 

それは、この先も永遠に続く無間地獄の始まりに過ぎないのでした……

 


この作品は一般に「戦記文学」「戦争文学」と呼ばれています。

 

しかし本書の解説において、吉田健一はこう述べているのです。

 

「野火」では、大岡氏のそれまでのどの作品にも増してそういう、それこそ小説の本領である実験が行われていると。

 

つまりこの作品において、乱暴に言えば「戦争」というのは一つの舞台設定にすぎないということです。

 

作者が描こうとしたものはなにか。それは「戦争」すらも一つの条件でしかあり得ないような、より普遍的で、より形而上的な問いです。

 

すなわち「神」とは何か、ということ。

 


それは旧約聖書のテーマと通じるのかもしれません。なぜ人間はエデンを追放されなければならなかったのか。なぜ神は人間に過酷な試練を与えるのか。

 

人間は神を呼べば呼ぶほど、深い淵のなかへ落ちていく……なぜ?

 

なぜ平和のために戦争をしなければならないのか。なぜ己が生きるために人を殺さなければならないのか。なぜ人を喰ってでも人は生きたいと願うのか。もし生還できたとしても、残りの生涯を罪の意識を抱えて生きなければならないのに、それでも生き続けたいと願うのはなぜなのか。

 

なぜ? なぜこの世は地獄なのか。「神」を求めてしまうほどに。

 


野火、山の中から空へと昇ってゆく煙がそこにあるということは、すなわちその下には人間がいるということです。

 

そこに人間がいるということは、そこに地獄があるということです。

 

「われ深き淵より汝を呼べり」という旧約聖書の言葉は、次のように続きます。

 

「われ山にむかいて目をあぐ、わが助けはいずこより来るや」

 

もしも戦場という地獄に「神」がいたとして、そしてその「神」の一人子イエスが人間の姿となってその戦場に遣わされたとしたら、「彼」は飢えた兵士にこう言うかもしれません。

 

「俺を殺して、そして喰え」と。

 

その時、その言葉に従うのが信仰なのでしょうか。

それとも、その言葉に抗うこと、それが信仰なのでしょうか。

 


終戦後、生還した田村一等兵は狂人として精神病院に入ります。

 

そこでこの物語を書き始め、そしてこの物語は最後、こんな言葉で締めくくられるのです。

 

「神に栄えあれ」

 

それは戦争が過ぎてもなお、彼が「深い淵」にいることを示しているのでしょう。

 


「はじめに言葉ありき」と聖書は書いています。そして神は自分の姿に似せて人間をつくったのだ、と。「神」が人間をつくったのだ、と。

 

しかし戦場で「神」を問うこの物語は、私たち読者をある一つの答えへと導きます。

 

この物語が描き出す矛盾、「なぜ?」の答えはきっと、たった一つしかない。

それはつまり、こういうこと。

 

「この世界に「神」などいない。それは過酷な状況におかれた我々人間がつくりだすものだ。逆に言えば「神」が存在するということは、この世界が地獄であることの証明に他ならないのだ」

 

「神」はまた同時に、「お国のために死ね」と矛盾を突きつける「国家」でもあるのでしょう。

 


そしてこの結論は、さらに恐ろしい推論へと読者へ導くのです。

 

もし野で人が暮らすならば必ず火を起こす=野火を生むように、「神」や「国家」というものが人が生きていく上で絶対に必要なものであるとするならば……。

 

その先を敢えて言おうとは思いませんが、もしこの作品が描き出した結論が間違っているとするならば、そこにはまた「なぜ?」が生まれてしまうのです。

 

「なぜ、戦争はいつも「神」や「国家」の名目のもとに行われるのか」と。

 


その答えは結局、「神のみぞ知る」のかもしれない。

 

たとえ人間がその答えを知りえたとしても、この「深い淵」、地獄から抜け出せるわけではないのだから。

 

おなじみ大岡昇平「野火」に関する素人講釈でございました。

 

野火 (新潮文庫)

野火 (新潮文庫)