文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

日本文学史上で一番いい人の話。

 

浮雲 (岩波文庫)

浮雲 (岩波文庫)

 

 

講釈垂れさせていただきます。

明治19年、読書界を大いに沸かせた「小説神髄」と「当世書生気質」でございましたが、早くもその翌年、一冊の書物が小説好きの心をわしづかみにしたのでございます。その書物こそ何を隠そう、本日ご紹介する「浮雲」でありました。

それではまず、物語のあらすじをざっとご紹介いたしましょう。

主人公は文三という若者。幼き頃に父を失い、母の手一つで育てられた彼は、いつか出世して母に楽な暮らしをさせてやりたいと勉学に励み、無事東京の学校に入学、晴れて書生となってっからも遊蕩なぞには目もくれず、真面目一辺倒の学生でございました。

この文三は東京で親戚の家に居候しているのですが、この家の叔母というのがちょっと癖のある人物で。

というのはこの叔母お政、表だって邪険にするわけではないのですが、腹の底では文三のことを嫌っているようで、チクリチクリと文三に厭味を言ったりするのでございます。

文三としても正直居づらい家ではあるのですが、とは言え書生の間は先立つものもなし、ひたすらぐっと我慢をしていたわけで。

さてこの家にはお政と文三のほかにお政の娘、文三の従妹にあたるお勢という娘もおりまして、この娘が非常に美しい。加えて学問の好きな女子でございまして、文三に対しても親しみと尊敬をこめて接してくれるのです。文三がお政に我慢してでも居候している理由には、このお勢の存在も大きかったのでございました。

さてそんな文三も無事卒業し、就職することとなりまして。そうして録を食むようになると、お政はまるで掌を返したように文三をほめそやしてくれます。また文三も給料をかせげる身になったからには故郷の母を東京に呼んで共に暮らそうかと、そんなことも考えておりました。

そういうことなら是非とも嫁を貰った方がいい、お政は暗にお勢をやってもいいということで。お勢もまた、まんざら悪い気持でもない様子。文三の人生は順風満帆のように思われたのでした。

ところがここで青天の霹靂。文三はある日会社の上司の癇に触れてしまったのか、クビになってしまうのでございます。

そうなるとお政はまた態度豹変。文三に向かってろくでなしだの意気地なしだなどと言いたい放題。もはや以前のような遠慮もありません。

それに加えて文三にはさらに悩みの種がございまして。この家の近所に住む本田昇という男、文三の同僚でもあったこの男は文三とは違って随分世渡りの上手い男で。

口が上手くておだて上手なこの昇という男のことをお政も気に入っているようですし、加えて会社ではクビになった文三と引き換え、昇は昇級をしたのだとか。

この昇が、用もないのに文三を心配してと言いながら度々この家に遊びに来るその本当の目的は、どうやらお勢にあるらしく。

さあ気が気でない文三でございます。お勢のことも気になるが、いやそれ以前に自分の将来のことも心配だ。あああどうしたらいいものか…。


実は坪内逍遥は「当世書生気質」の最後にこんなことを述べております。

「作者幸ひに間暇を得なば、再び管城子をやとひいれて、他日『続当世書生気質』を綴らんとす。」

続編書くよ。どうぞご期待あれ! と逍遥は意気高々に宣言して「当世書生気質」を閉じたのでございます。

そんなこともありましたから、この「浮雲」が刊行された時には「遂に来たか!」と急ぎ買い求めた者もさぞ多かったことでございましょう。

ところが頁をめくってびっくり、そこにはこう書かれていたのでした。

「合作の名はあれどもその実四迷大人の筆になりぬ 文章の巧なる所趣向の面白き所は総て四迷大人の骨折なり」

そう、本書は表紙には春廻舎朧、二葉亭四迷の合作と銘打ってあったものの、その実二葉亭四迷という当時誰も聞いたことのなかった若者の単著であったのでございます。

まあ、軽い詐欺ではございますが、版元からすれば仕方のないこと。確かに前年に刊行された「小説神髄」「当世書生気質」はよく売れたものの、未だ逍遥の提唱する「文学としての小説」なんぞ海のものとも山のものとも知れぬわけでございます。「当世書生気質」が売れたのは、それを書いたのが文学士坪内雄蔵、春廻舎朧であったからだと考えるのが普通でございましょう。

そこで逍遥は本書を世に出すために、いわば自分の名をまだ名もなき新人二葉亭四迷に貸してやったのでございます。これは何よりも四迷のことを思ってのこと、実際本書もまたベストセラーとなり、二葉亭四迷個人にはこの「浮雲」の続編の依頼が来るのでございます。

ちょっと想像してみましょう。逍遥が「当世書生気質」に続編を書く旨宣言していたということは、普通に考えればそのころすでに頭の中で構想が練られていたと考えるのが妥当です。もしかしたら書き始めていたかもしれません。

ところがそんな折、彼はまだデビューしていない若者の原稿を読むことになるのです。そしてその原稿は、自分が構想していた、あるいはすでに執筆し始めていたかもしれない「続当世書生気質」よりも優れた作品だった。

さあ、この時もしも坪内逍遥が自分の立身出世のみを考えるような精神の卑しい人物であったならば、何やかやと因縁をつけて本書を闇に葬ったことでしょう。あるいはそこまでしなくても、「ヤバイ、あの原稿が世に出る前に続編を書き終えなければ!」と急ぎ執筆に取り掛かったことでございましょう。

しかし逍遥はそうはしなかったのでした。彼はその原稿「浮雲」を、むしろ世に出すために尽力したのでございます。そして自分は「続当世書生気質」を書くこと自体をやめてしまった。

言うなれば坪内逍遥は本書を「続当世書生気質」と認めたと言っても過言ではございません。

自分のライバル、あるいはもしかしたら自分よりも上かもしれない人物を潰すことなく無関心を装うこともなくあえて推挙する、そんなことができるのは、並大抵の人物ではございません。人が良すぎるとも言いますが。

まあ文学界広し、大作家多しと言えども、いい意味では個性が強い、悪い意味では……コホン、まあ、色んな人がいるわけで。


というわけで、坪内逍遥が立派な人だという話をしていたら、肝心の本書の内容に触れる紙幅が無くなってしまいました。

坪内逍遥が認めざるを得なかったほど、この作品はすごかった。「当世書生気質」を、まさに発展させた物語だったのでございますが、どこがどうすごかったのかというその話はまた後日。

おなじみ二葉亭四迷浮雲」の素人講釈でございました。

 

浮雲 (岩波文庫)

浮雲 (岩波文庫)