文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

吾輩が猫であらねばならぬ話。

 

吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)

 

 

講釈垂れさせていただきます。

 

鴎外と逍遥の大ゲンカ、「没理想論争」は二人の芸術観、文学観の違いを浮き彫りにいたしました。この流れはまた自然主義と浪漫主義に発展することなるのでございますが、実は逍遥にしろ鴎外にしろ、あるいは自然主義にしろ浪漫主義にしろ、ある共通点があったのでございます。

 

それはどちらの考え方も、「美は崇高である」ということを金科玉条にしていたということ。

 

「美は崇高である」とはいかなることでございましょう。この「美」とはすなわち、「優れた芸術」であり、「優れた文学作品」のことでございます。

 

例えば私たちが美しい自然を見て「わあ、きれいね」と言ったとしましょう。これは表面的な「美」にすぎません。しかしもし私たちが美しい自然を見て、そこに偉大なる神の御業を感じたり、あるいはそこに深い人生の意義のようなものを感じたとしたら、これこそが哲学や芸術の世界で語られる「真実の美」なのでございます。

 

そう考えると「真実の美」とはそれが現実であろうとフィクションであろうと描き出すことができることに気付くでしょう。小説というものが例えフィクションであったとしても、本当に優れたものならばそれは「真実の美」を描き出すことができましょう。

 

逍遥も鴎外も実はこのことについては意見が一致していたのです。ただ、そのために逍遥は「写実主義」を唱え、鴎外は「理想主義」を唱えたのでございました。

 

言い換えるならば二人ともどうやったら小説を「真実の美」という「神の領域」に持っていけるのか、という話をしていたわけで、だからこそ作家、芸術家も「神の領域」にたどり着こうとしなければならない、という考え方だったわけです。世に言う「啓蒙主義全盛の時代」というやつでございます。

 

でもまあ、こういう話はしんどいですよね。肩が凝るじゃありませんか。今でもこういう啓蒙的な人、独善的な求道者が時々いて、そういう人の「啓蒙」や「求道」は結局のところ単なる上から目線にすぎないのですが、まあそういう人とはあまり関わりたくないものでございます。

 

文学や小説について興味はあるけれど、その世界に足を踏み入れてみると、「神の領域への道はこっちだ!」「いや、あっちだ!」とやっている。カトリックプロテスタント大乗仏教小乗仏教のようなもの。どうせ同じ宗教なんだから、お前らもっと仲良くせえ、とそう思っている人も、多かったことでございましょう。

 

そんな時でございました。明治37年、雑誌「ホトトギス」に連載されたある作品が一世を風靡したのでございます。

 

その作品こそ何を隠そう、本日取り上げる「吾輩は猫である」なのです。


ではこの作品は、一体どこがどうすごかったのでしょうか。

しかしその前に、この作品が世に出た時の人々の反応をちょっと想像してみようではありませんか。

 

想像してみてください。みんながみんな「神の領域」へ至るために頑張らなければならないと思っている、その時にある男が現れて、こう言うのです。

 

吾輩は猫である

 

……お前、なめとんのか、と。空気読まんかい、と。そう思うでございましょう。まったく、これだからゆとりは、なんて、現代だったら言われるところでございます。

 

しかし幸いにも漱石が生まれた時代は現代ではなかったし、漱石ゆとり世代ではなかった! 人々は半ば呆れながら本書を読み始め……そして、この作品に恐れおののいたのでありました。


では一体どこに恐れおののいたのでありましょうか。

 

まず最初にこの作品は皆様ご存じの通り、ある名もなき猫が自分の飼い主やその周りの人々を「観察」している様子を描いたものなのでございます。

 

はい皆様ご注目。「観察」でございます。これこそかつて坪内逍遥が「小説神髄」で提唱し、「当世書生気質」で表そうとした、文学が文学たる最も重要な要素でございます。

 

しかもこの作品における猫の観察眼たるや、類まれなるものなのでございます。苦沙弥先生や迷亭さんの、なんと生き生きと描かれていることでございましょうか。これぞ逍遥の言う「写実主義」の極北と言っても過言ではございますまい。


それではこの作品はいわゆる逍遥の系譜に置くべき作品なのでしょうか。実は、そうではないのです。

 

逍遥の向こうを張る鴎外の説、それは「たとえ主観的であっても、その狂気のような主観に読者を引きずり込める作品」であったのでございました。

 

ならばもちろん鴎外派は本書をこそ賞賛すべきでありましょう。私たち読者は本書を読んで、この主人公の猫と一体化してともに喜び、ともに悔しがり、「まったく人間というものは」なんて思うのでございます。主人公は「猫」なのにも関わらず! 本書はわれわれ読者を猫にしてしまうのですよ。これを狂気と言わず何と言いましょう。これほどの狂気を成し遂げた作品がほかにございましょうか。

 

逍遥の文学観がリアリズムを重視しているのに対し、この作品はまさにその逆、アンチリアリズムでございます。だって主人公、猫なんですから。おや、誰ですか、「私の前世は猫だからこの物語はリアルだ」とかおっしゃっている人は?

 

そう考えると、まさにこの作品こそ鴎外の「理想主義」を表現した作品の一つだ、と私が言っても誰も異を唱えますまい。


ということで、本書「吾輩は猫である」は、別に文学をなめてるわけでもなければ、空気を読んでいないわけでもなかったのです。むしろ本書は日本文学史において逍遥の思想と鴎外の思想を結合し、昇華させた一大傑作なのでございます。

 

そして本書はまた猫の視点で人間を描くことで、この時代の「啓蒙的な雰囲気」そのものを揶揄して見せたのでした。「一億総なんちゃら」「追いつけ追い越せ」と言っていた時代に、「あ、俺、猫でいいっす」と言い放ったのですから。そしてその雰囲気を持っていたのは同時にまた、文学の世界でもあったのです。その日本の文学界に向かって、漱石は、こう言い放ったのでございます。

「神の領域とか、どうでもいいっす。猫の領域でいいっす」と。


思い返せば坪内逍遥は江戸時代の戯作を否定することで「文学」という新たな文化を切り拓いたのでした。

 

そしてまた森鴎外二葉亭四迷は、その逍遥を否定することで「文学」を前に進ませたのでした。

 

さらに夏目漱石は本書を著すことで、まず逍遥と鴎外をアウフヘーベンし、さらに「猫の視点」によってその両者を否定したのでございます。

 

これぞ日本文学における新しい時代の到来であったと、私は断言するのでございます。


さて、そのように鴎外の文学観、芸術観を否定し、揶揄している本作でございますから、私は当然のことながら鴎外の中に眠っていたあの「論争癖の虫」が、またむくむくと起きだしてきたに違いないと思うのですね。

 

しかし鴎外は漱石については何も語りませんでした。それはなぜか。

 

それは、漱石の登場は実は鴎外にとって都合の良いことでもあったからです。

 

この頃、鴎外は「没理想論争」やその他の評論活動によって小説を執筆することに関する高いハードルを自ら設けてしまっていたのでした。そして「日本文学の象徴」という重荷を背負っていたのです。

 

しかし漱石がこの作品で文壇に登場、漱石が鴎外を笑い飛ばし、世間がそれを受け入れたことによって、鴎外はやっとこの肩の荷を下ろすことができたのです。

 

これはうろ覚えの話なのですが、かつて中上健次がデビューした時、石原慎太郎(だったと思うのですが、違うかもしれません)からこんなことを言われたそうです。

「お前が出てきてくれたおかげで、俺は楽になった」と。

 

そして村上龍はデビューした時、同じことを中上健次から言われたそうで、村上龍はまた村上春樹がデビューした時、同じことを春樹に言ったそうでございます。

 

いつの時代でも、その時代を背負う運命にある作家というのがいるものでございます。鴎外もまた漱石が登場した時、

「これで俺は楽になった」

と、そう思ったに違いないと私は思うのです。やっと「日本文学の象徴」ではなく、「普通の作家」になることができる、と。

 

だからこそ鴎外は漱石の登場から数年後執筆を再開し、そして彼の作品は初期は「高踏派」、後期は漱石が名乗った「余裕派」に含まれるわけです。鴎外は漱石の登場によって、高踏なことを言わなくてもよくなった、やれ文学がどうだ、芸術がどうだ、ということをそこまで気にせずに小説を執筆できるようになったのです。

 

これが、私が「鴎外の作品の初期と後期は別物」と考える理由なのでございます。

 

もちろん何でも一番じゃなかったら気が済まなかったという鴎外のこと、面白くはなかったでございましょうが、時代とはそういうものですから、仕方ありません。

 

鴎外とて言いたいことは山ほどあったでございましょう。しかし、そんな鴎外も結局は本書における苦沙弥先生のように、苦虫噛みつぶした顔で漱石の頭を撫でてやるしかなかったのでございます。ニャー。


と、いうわけで、最初のレビューから逍遥、四迷、鴎外と続いてきた私の素人講釈もここでいったん区切りがついたことにして、これより日本文学のレビューはしばしの小休止、来月からは飛ばしてしまった硯友社の面々や自然主義の作家たちを読んでいきたいと思う次第でございます。


おなじみ夏目漱石吾輩は猫である」に関する素人講釈でございました。

 

吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)