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文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

ヴェルヌが予見した飛行機の話。

 

 

えー、本日も相も変わらず、素人講釈にお付き合いいただければと思う次第でございます。

 

本日講釈垂れさせていただきたいのはジュール・ヴェルヌの「征服者ロビュール」でございます。

 

時は19世紀の終わり、アメリカの新興都市フィラデルフィアにある有名なクラブウェルドン協会。そこで喧々諤々の議論を繰り広げているのは集まった100人ほどの気球研究家たちでございました。

 

彼らは本職の技師ではなく、航空機の操縦に興味を持つ単なるアマチュアの集団でしかなかったものの、あるいはそれゆえに、熱狂的な気球主義者たち。

 

「空気より重い」機具や空飛ぶ機械、まあ要するに飛行機ですね、に対する強烈な敵意を持っていた彼らの会合に、一人の人物が現れます。その男の名はロビュール。そして彼はあろうことかその会場で、こんなことを言うのでした。

「諸君! わたしは知っている。一世紀にわたる経験、一世紀にわたる試みはすべて徒労の連続だったと。得るものとてなにもなかったのだ。にもかかわらず、まだ気球で大空を飛びまわれると頑固に信じている馬鹿者たちがいる。」

このロビュールが会場で宣言したこと、それは人間が空を支配するためには、気球よりも飛行機の方がより適している、ということだったのです。

ざわめく会場、そして罵声。しかしロビュールはなおも言うのです。

「気球には進歩というものがない。気球主義者の諸君、飛行機にこそ進歩はあるのだ。鳥は飛ぶ。だが鳥は気球じゃない。あれは精巧な機械なのだ!」

「諸君の気球がどんなに完全なものであろうとも、それが実用的な速度をだせないのが致命的なのだ。世界一周をするのに、諸君は一〇年かかる。一方、飛行機は一週間で世界をまわる」

沸き起こる抗議と否定の声。

「飛行家君、君はわれわれに空中飛行機のすばらしさを教えてくださっているが、そういう君は空を<飛んだ>ことがあるのかね?」
「もちろん!」
「で、空を征服したと?」
「たぶん!」
「征服者ロビュール万歳」

ロビュールの挑発的な発言の数々に気球主義者たちは怒り心頭、ピストルまで持ち出す始末。

 

しかし銃声が響き渡った時、ロビュールはまるで空飛ぶ機械に運ばれたように飛び立ってしまったのでした。

 


さて、そんな頃、世界中で謎の気象現象が話題となっていました。遥か空の上空から、トランペットの音が聞こえてくるというのです。実はその怪事件の犯人こそ、<あほうどり号>で世界を周遊するロビュールの仕業だったのでした。

 

ロビュールは飛行機の性能を見せつけるために気球協会の会長アンクル・ブルーデントと書記長のフィル・エヴァンスを拉致、<あほうどり号>に監禁して世界一周の旅へと出たのでありました・・・。

 


さて、本書が出版されたのは1886年のことでございます。この頃がどういう時代だったかというと、ライト兄弟が飛行機による友人動力飛行に成功したのが1903年、リンドバーグがニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したのが1927年のこと。

 

つまり19世紀後半には飛行機の実用化は夢のまた夢だったわけで、そう考えるとこの作品の先見性がうかがえますね。

 

しかし私が本日申し上げたいのは実はそのことではなく、ヴェルヌが飛行機の実用化だけでなく、飛行機の実用化が一体世界に何をもたらすかということまで予知していた、ということなのでございます。

 

たとえば第一次世界大戦第二次世界大戦における一般市民の被害者数を比較してみると明らかなのですが、第一次世界大戦では1000万人足らずだった一般市民の被害者は第二次世界大戦時には3800万人ぐらいにまで膨れ上がっているのですね。

 

で、なぜそうなっているかというと、理由は簡単、第一次世界大戦の後期から「戦略的空襲」が行われるようになったからなのです。

 

つまり飛行機が実用化されると同時に、あるいはその実用化を促す形で飛行機が軍事的に利用されるようになり、人類は上空から爆弾を落とす、という攻撃が可能となったわけです。

 

言い換えるならば、もしも飛行機が実用化されていなかったならば、あるいはこんなことを言うと論理の飛躍だと言われるかもしれませんが、科学が進歩しなかったならば、戦争という人間の行為もまた、ここまで悲惨にならずにすんだのかもしれない。

 

飛行機が空襲に利用される、そんなことは、例えば同じように空を飛ぶことを夢想したレオナルド・ダ・ヴィンチなんかは予想だにしなかったことでしょう。彼は多分、ただ空を飛びたかっただけのはず。それはライト兄弟しかり、リンドバーグしかり。

 

しかし実際にはいわゆる科学技術というものは、そんな夢物語だけでは収まらない、残酷な未来をもたらすものでもあるのです。

 

ジュール・ヴェルヌという人は初期は科学に対して楽天的であったが、後期は悲観的になった、と言われています。その原因としては、甥に銃撃されたことなどがあり人間不信に陥ったのではないかと言われていましたが、後に発見された初期の作品からもその説は否定されているようです。彼の科学技術に対するペシミスティックな視点というものは、実は最初から持ち合わせていたのだ、と。

 

実際、あれほどまでに未来を予見するほどの明晰な頭脳を持っていた彼が、科学技術に対してある種の信仰とも言えるほどの楽天主義者であったと考える方が無理があるんじゃないかと私は思うのでございます。

 

本書の最後に、著者はこう言います。

「いま、その答えはでているのだ。ロビュール、それは未来の科学である。いや、ひょっとするとあすの科学かもしれない。未来に待ちうけている科学の偉大な力なのだ」

ちなみに本書の出版からおよそ20年後、1904年にヴェルヌはこの物語の続編を執筆するのです。そのタイトルは「世界の支配者」。そしてこの物語は、ロビュールがあらゆる新発明を使って人類に被害をもたらそうとする話なのだとか。

 

もしもヴェルヌが現在に生きていたら、彼はインターネットや人工知能バイオテクノロジーや原子力をネタに、一体どんな物語を描くのでしょうか。

 

それは恐らく、多くの科学主義者たちが期待するような「初期ヴェルヌ」の物語にはなりえないのではないかと、私は思うのでございます。

 

あるいはもしかしたら、ヴェルヌは科学に対しては終始一貫してオプティミストであったのかもしれません。でも彼は、人間そのものに対してはペシミストであり続けたのかもしれない。

 

私たち自身は、あるいは私たちを代表する為政者や私たちが利用する企業は、決してロビュールにはならないと、私たちは本当にそう言い切れるのでしょうか。

 

いや、そもそもそんなことは問うべきことではないのでしょうか。


おなじみジュール・ヴェルヌ著「征服者ロビュール」に関する素人講釈でございました。

 

 

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