文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

ブレヒトおじさんの皮肉と諧謔に満ちたお話。

 

暦物語 (古典新訳文庫)

暦物語 (古典新訳文庫)

 

 

えー、相も変わりません。今日もばかばかしい講釈を一席たっぷりお付き合いいただければと思います。

 

16世紀に印刷技術が発展したころ、聖書や讃美歌とともに当時の民衆に深く愛されたのが「暦物語」と呼ばれた小冊子でございまして、イギリスではチャップ・ブックとも言われております。

 

いわゆる旅回りの商人がいろんなものと一緒に地方で売り歩いていた本のことでございまして、この「暦物語」に書かれていたのは暦や雑学といった実用的な知識と、民衆のための短くて読みやすく面白い物語でした。

 

本書は「三文オペラ」などの劇作家として有名なブレヒトによる「暦物語」でございます。まあ要するに、こむつかしいことはとりあえず脇に置いておきながらも、でもなんか心に引っ掛かるような、そんな物語たちでございます。

 

で、収められているのは四つの短篇と四つの詩、そして「コイナーさんの物語」と名付けられた小咄集。

 


本書の中で私が一番好きなのは、「亡命の途中に生まれた『老子道徳経』の伝説」という詩でございますねえ。

 

この詩の中で描かれているのは、かの有名な老子がいかにしてその著書「老子道徳経」を遺すに至ったかという物語でして。

 

まあ老子が好きな人なら誰でも知っている物語でしょうが、知らない、つうか老子とか別に興味ないし、ってな人のためにその内容をご紹介しましょう。

 

遥か古代の中国に一人の役人がおりました。70歳になった彼はその深い知識から多くの人に慕われていたのでございます。

 

まあそうなると当然、彼の元には出世の話などが多く寄せられたのですが、彼はそれが嫌になって国を出ようと決めます。

 

なぜなら彼、のちに老子と呼ばれるその人の思想とは「上善は水の如し」、正しさというものはいつだって水のように下に流れてゆく、偉くなることや強くなることは真理と呼べるものから遠ざかるんだよってなことだったのですから。だから出世話とか勘弁してくれ、と。

 

そういうわけで彼はめんどくさい話やそれを持ちかけてくる人々から逃れるために、牛の背に跨り、旅に出ることにします。

 

ところがある関所で彼は税関の男に止められるのですねえ。その税関の男は「高価なものに関税をかける!」と言いますが、老子のお供をしていた少年は答えます。「ありませんよ、そんなもの」と。

 

そして少年は言うのです。「この人はね、先生だったんだよ」と。

 

一体どんなことを教えていたんだ? と税関が訪ねると、少年は答えます。

 

「流れる水は柔らかいけど、
 時がたてば、大きな石にも勝つことを。
 ね、わかるでしょ、硬いものが負けるんだ」

 

なんでそうなるの? と税関は思いました。そこで、どうかそれを書き残してくれないか、と老子に頼みます。

 

ということで今も伝わっているのが「老子道徳経」、一般に「老子」という名で呼ばれている書物なのでございます。

 

さて、ここまではありふれた、よく知られている老子の伝説。ところが本書が面白いのは、最後にブレヒトがこの伝説にこんな言葉を付け加えているところなのでございます。

 

「表紙に名前が燦然と輝いているからといって、
 この本を書いた賢者だけを褒めてはならない!
 賢者からまずその知恵をもぎ取る必要があるのだから。
 だから税関の男にも感謝するべきなのだ。
 書いてくれと頼んだのだから。」

 

ああ、何という究極の下から目線でございましょうか!

 

いやでも、そうなのですよ。老子は確かにすごい。とても偉い。でも、そう言ってしまったら実は老子が自分で述べた思想とはかけ離れたものになってしまうじゃありませんか。だから、本当は老子よりもこの税関の男の方がすごいし、偉いんだよと。ここまで突き詰めての老子ですよ。「上善は水の如し」ですよ。……でも、もはやそうなったら一体何が何だかわけが分かりませんが。

 


本書には老子のほかにもブッダソクラテスの物語が収められているほか、ジョルダーノ・ブルーノやフランシス・ベーコンといった科学者たちの物語も収められています。

 

てことで、気分が乗って来たのでもう一つ。フランシス・ベーコンの物語「実験」は、こんなお話でございます。

 


政争に破れ、地位と名誉を奪われて自分の領地に帰ってきたフランシス・ベーコン。そんな彼に、一人の少年が召使として雇われます。

 

ベーコンの評判は地に落ちていたので、少年のおばあさんは言うのでした。

 

「あのお方はな、悪い人だから、気をつけるんだよ。どんなに偉いお方であっても、お金を山のようにもってるとしても、やっぱり悪い人なんだ。お前にパンをくれるご主人だから、仕事はきちんとおやり。でも、悪い人だってことは、忘れるんじゃないよ」

 

ベーコンは少年に、この世界にはどんなにたくさんの言葉があるのかを教えました。要するに、何かの出来事を描写して認識するためには、どれだけ多くの言葉が必要であるのか、ということを教えたのでございます。

 

そして、言葉を覚えることの大切さを教えると同時に、使わない方がよい言葉もある、ということも教えました。たとえば「よい」とか、「悪い」とか、「醜い」とか、「速い」とか、そういう言葉は、結局のところ何も述べていないのと同じだということを。

 

つまり、「速い」じゃ分からねえから時速何キロなのか言え、と。「悪い」じゃ分からねえからどの法律を犯してるのか言え、と。まあそういうことですね。そこを曖昧にしたまま「速い」とか「悪い」とかいう判断すんじゃねえぞ、と。

 

で、少年はそんなベーコンに影響されて、その思考法について理解していくのです。

 

「重要なのは、なにを知ってるかなんだ。人間は信じていることが多すぎ、知っていることが少なすぎる。だからどんなものでも、自分で、自分の手で、試してみる必要がある」

 

少年はもっと世の中のことを知りたいと思うようになりました。そのためには本を読むのが一番早いのですが、少年は字を読むことができません。

 

そこで少年は自分の頭で考えて、一冊も本を読まずに字を覚えようとするのでございました。

 

そんなある日のこと。それは雪の降るとても寒い日でした。

 

ベーコンと少年の乗った馬車が一羽のニワトリをひき殺してしまいます。ベーコンは死んだニワトリを見て、こう言います。

 

「内臓を全部かき出すんだ」

 

そしてかき出した後、そこに雪を詰めるよう少年に命じ、胸を張って、こう言いました。

 

「これで一週間は、きっと新鮮なままだ」

 

さて、そうして彼らは家に帰りますが、この時の寒さが原因でベーコンは風邪をひいてしまいます。

 

次の日、少年が呼ばれてベーコンの寝室に行くと、ベーコンは少年にニワトリの状態を尋ねました。ベーコンにとっては自分の病のことやほかのどんなことよりも、ニワトリの状態の方が気になるのですね。

 

少年は、まだ新鮮に見えます、と答えます。するとベーコンは満足そうにうなずいて、「また二日後に報告してくれ」と言いました。

 

しかしベーコンはそれからすぐに死んでしまうのです。

 

その後も少年はニワトリを観察し続けました。すると確かにベーコンが言ったように、ニワトリは六日たってもまだ新鮮なままのように見えます。

 

さすが、ベーコンさんの言った通りだ! と少年は思います。で、このことを大人たちに伝えようとするのです。

 

だけどまわりの大人はそんなこと信じようとはしませんでした。それどころかそんなこと、気にも留めていませんでした。

 

だからなんだってんだ? と。

 

彼らはそんなことよりも葬儀の準備や、その葬儀で牧師がどんな弔辞をするかのほうがよほど大切なことだったのです。

 

少年にとってはむしろそっちの方が、どうだっていい類のことだったのですが……。

 


本書はもともと1948年のクリスマスに出版される予定だったそうです。それがもろもろの事情で1949年の出版になってしまいましたが、出版されるや大反響を呼び、合計4万部のベストセラーとなったのでした。

 

それもそのはず。なぜなら本書はブレヒトが高尚な、見識ある、お偉い方々に向けて書いたものではなく、それこそタイトル通り「暦物語」として、広い一般大衆のために書いた物語たちなのですから。

 

そんな本書の中に描かれているものは、ごく普通の人々に対する愛情と慈しみ、そして、ちょっとだけ(いや、けっこうたくさん?)の皮肉。

 

訳者のあとがきによると、ブレヒトの書斎の天井の梁にはこんな言葉が書かれていたそうです。

 

「真実は具体的だ」

 

「真実は難しい」でも、「真実は複雑だ」でもないんですね。真実はいつも「具体的」なものであり、逆に言えば「具体的」なものだけが「真実」と呼べるのかもしれません。ということは、本当に大切なもの、「真実」というのは、誰の目にもちゃんと見えるように現れる。別に賢い人じゃなくたって、偉い人じゃなくたって、それはちゃんと理解できる。ブレヒトは本書においてそう言いたかったのでございましょう。

 

本書はまさにそんな物語たちでございます。別に難しいことが書いてあるわけでも、偉そうなことが書いてあるわけでもありません。

 

でもこの本を読めば、誰もが自分にとっての「真実」を、「具体的」に考えられるようになる、かもしれません。

 

いやあ、いいなあブレヒトおじさん。鋭いなあ、ブレヒトおじさん。

 

おなじみブレヒト著「暦物語」に関する素人講釈でございました。

 

暦物語 (古典新訳文庫)

暦物語 (古典新訳文庫)