文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

鏡の国の漱石の話。

 

 

草枕 (岩波文庫)

草枕 (岩波文庫)

 

  

えー、相も変わりません。本日も眉唾物の素人講釈に一席お付き合いいただければと思います。

 

本日取り上げるのは夏目漱石の「草枕」でございます。「智に働けば角が立つ」の冒頭で有名なこの作品、名作だけに様々な切り口がございましょう。

 

一応あらすじをぱぱっとご紹介すると、画工である主人公が俗世である東京を離れて熊本の田舎へやってくるのですね。で、ここで様々な人と出会いながら自分にとっての芸術とは何か、ということをひたすら考える、そんな話でございます。ぱぱっとしすぎですか(汗)。

 


で、私はこの作品を「鏡」をキーワードに読み解いていこうと思うのでございます。

 

さてさて、まず「鏡」とはなんでございましょう? まあ、皆さん毎朝見ておりますよね。人によっちゃあもっとしょっちゅう見る人もいらっしゃるかもしれませんが。あの鏡でございます。

 

この作品において鏡がはっきりとした形で登場するのは、第五章の場面でございます。

 

主人公が床屋に行くのですね。で、髪を切ってもらうのだけれども、当然その時に主人公が鏡を見るのです。しかし主人公は鏡に映った自分の顔を見て、ああ嫌だ嫌だと思う。何だこの鏡は、と。ちょっと長くなりますがその場面を引用しましょう。

「右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで裂ける。仰向くと蟇蛙を前から見たように真平らに圧し潰され、少しこごむと福禄寿の祈誓児のように頭がせり出してくる。いやしくもこの鏡に対する間は一人でいろいろな化物を兼勤しなくてはならぬ。写るわが顔の美術的ならぬはまず我慢するとしても、鏡の構造やら、色合や、銀紙の剥げ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜体を極めている。小人から罵詈されるとき、罵詈それ自身は別に痛痒を感ぜぬが、その小人の面前に起臥しなければならぬとすれば、誰しも不愉快だろう。」

つまり自分の顔が美しいとは言わないけれども、ここまでひどく見えるのは鏡のせいだ、と主人公は思うのですね。言いがかりにもほどがありますが。

ところで、鏡という言葉には道具としての意味のほか、実はもう一つあるそうなのですね。

 

万葉集にこんな歌があるそうで

「見る人の、語り継ぎてて、聞く人の、鏡にせむを、惜(あたら)しき、清きその名ぞ、おぼろかに、心思ひて、空言(むなこと)も、祖(おや)の名絶つな、大伴(おほとも)の、氏(うぢ)と名に負へる、大夫(ますらを)の伴(とも)」

この歌の「聞く人の、鏡にせむを」というのは、「聞く人が手本とするだろうに」という意味だそうで、つまり鏡というものはただありのままを写すものであるだけでなく、それを見て手本とすべきもの、という意味があるのです。

 

このことに先ほど引用した部分を重ね合わせると、主人公自身が自分自身を手本としたいとは思っていないことがよく分かります。ではなぜ手本としたくないかというと、自分自身が俗な醜い存在だと思っているからでしょう。

 

ここにこの物語の重要なテーマである「芸術とは何か」ということが示されていると私は思うのですね。

 

主人公は思います。

「恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲まき込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。
 これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である」

つまり世の中から一歩離れたところに自分が立つことによって芸術は生まれてくるのだ、と。

 

でもそうやって世の中から一歩離れたところに立つ、とはどういうことでしょうか。

 

このことを示しているのが、「鏡が池」だと私は思うのでございます。

 

水面を覗き込むと、そこには自分の顔が見えますよね。まるで鏡のように。つまり「鏡が池」はその名の通り巨大な鏡とも言えると思うのですね。

 

さて、ここで第七章に着目していただきたいのですが、この章は主人公が温泉に入りながらあれやこれやと考えている場面でございます。

 

このシーンの中で主人公は、ミレーが描いた「オフェリヤ」に思いを馳せるのですね。この絵はご存じの方も多いでしょうが、ハムレットの登場人物であるオフィーリアが川に身を投げて死んでいる様を描いたものです。

 

オフィーリアは死んで水面に浮かんでいます。ということは、実はオフィーリアは鏡の向こうからこちらの世界を見つめているわけです。

 

主人公は俗世から逃れようとして芸術について考えます。芸術的ではない形で世の中を見るということは、つまりあの床屋の鏡で世界を見るようなものです。

 

そうではない、もっと美しい鏡がこの世界にはあるのではないか、そうやってたどり着く先が、「鏡が池」なのでございますねえ。

 

しかし主人公がそこで見るものは、「死の影」なのでございました。非人情や芸術を突き詰めていけばそこにあるのはもはや「生」ではない。美しすぎるものは、人情のないものは、もはや動いてはいない。主人公はようやくそのことに気付くのでございます。

 

観察も良い。非人情を貫き通して気狂いになるのも結構だ。でもそれではまだ自分が理想とする芸術とは言えない。鏡の向こうの世界がどれだけ美しかろうと、そこはもはや死んだ世界に他ならない。漱石のそんな声が聞こえてきそうでございます。

 

美は死へと向かいます。なぜなら理屈で考えられることはその時点ですでに「止まって」いることだからです。

 

しかし人は「止まって」いるわけではありません。様々な思惑を持って自分勝手に「動い」ているもの。理屈では測れないものなのです。

 


物語の最後、主人公は那美さんの従兄弟である久一さんを送って舟に乗ります。その舟からは、物語の冒頭の舞台となった山が見えるのでした。

 

これは主人公がこの時、鏡の向こうの世界にいることを示しています。天狗岩を境として、世界はこちら側と向こう側に別れているのです。しかし鏡の向こうの世界にいながらも、主人公は決して死んでいるわけではありません。鏡の向こうの世界をさらに観察することによって、主人公はあちら側でもこちら側でもない世界に自分の求める「美」を発見するのです。

 

それが、お那美さんがふと見せた「憐れ」の表情だったのでした。

 


なぜ人は、美しくあることができないのでしょう。そしてもし美しくあろうとすれば、なぜ人は死ななければならないのでしょう。

 

でも本当の美しさというものは、実はそのどちらにもないのかもしれません。「美しさ」と「醜さ」を併せ持った「鏡」、それこそが漱石が描こうとした至高の芸術だったのかもしれない、そんなことを思うのです。

 


おなじみ夏目漱石著「草枕」に関する素人講釈でございました。

 

草枕 (岩波文庫)

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