文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

日本初のベストセラー作家の話。

 

武蔵野

武蔵野

 

 

えー、本日も一席、お付き合いいただきたいわけでございますが、本日ご紹介いたしますのは山田美妙の「武蔵野」でございます。

 

この山田美妙という人がどういう人かと申しますと、日本の近代文学における最初のベストセラー作家なのでございまして、それに加えて実はこの人こそが、日本文学の言文一致を最初に完成させた人なのであります。

 

でもそんなことを言うと、「え、ちょっと待って。言文一致と言えば、二葉亭四迷でしょ」と思う方もいらっしゃるかもしれません。でもその二葉亭四迷もまた、この山田美妙から大きな影響を受けていたのでございますねえ。

 

とりあえず現在ではほぼ忘れられた作家となってしまっているこの山田美妙ですが、彼の作品がどんなものであったかを実感していただくために、ちょっとしたイントロクイズをいたしましょう。

 

次に4つの作品の冒頭部分を紹介します。この4つの作品と、その作品の発表年代を並べ替えてみてください。

 

では、いきますよ。

 


A:「さまざまに移れば変る浮世かな。幕府さかえし時勢には、武士のみ時に大江戸の、都もいつか東京都、名もあらたまの年ごとに、開けゆく世の余沢なれや。」

 

B:「ああ今の東京、昔の武蔵野。今は錐も立てられぬほどの賑わしさ、昔は関も立てられぬほどの広さ。今仲の町で遊客に睨みつけられる烏も昔は海辺ばた四五町の漁師町でわずかに活計を立てていた。今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、極の素寒貧であッた。」

 

C:「千早振る神無月ももはや跡二日の余波となッた二十八日の午後三時頃に、神田見附の内より、塗渡る蟻あり、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ沸出て来るのは、孰れも顋を気にし給う方々。しかし熟々見て篤と点検すると、これにも種々さまざま種類のあるもので、まず髭から書立てれば、口髭、頬髯、顋の鬚、暴に興起した拿破崙髭に、狆チンの口めいた比斯馬克髭、そのほか矮鶏髭、貉髭、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡くもいろいろに生分かる。」

 

D:「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。」

 

 


さて、お分かりになりましたか? それでは回答を発表いたしましょう。

 

まずAの答えは坪内逍遥が春廻屋朧名義で1886年、明治19年に発表した「当世書生気質」でございます。

 

ではB、これは山田美妙のほぼデビュー作と言っても良い短編「武蔵野」でございまして、「当世書生気質」の翌年、1887年の明治20年に発表されたものでございます。

 

そしてC。これも同年1887年に二葉亭四迷が発表した「浮雲」でございます。ただこれは逍遥の手が随分加わっているのではないかと言われております。

 

最後のDは、分かった方も多いことでしょう。森鴎外の「舞姫」でございます。この舞姫が発表されたのは1890年、明治23年のことですから、「武蔵野」や「浮雲」よりも3年遅れての発表となりますね。

 

ということで答えはA、BとC、Dの順番になります。

 


で、どうでしょう、こうやって他の作品と見比べてみると、「武蔵野」と「浮雲」が当時の普通の文章と比べれば全く異なる文体であることがよく分かりますね。

 

さて、ところでここで「武蔵野」と「浮雲」を比較してみるとあることが分かります。というのは、「浮雲」は先にも述べたように二葉亭四迷の文章に逍遥が手を加えているわけです。「浮雲」は読者が読み進むことによって徐々に新しい文体に慣れてゆく、という構造になっているわけです。

 

ところが同時期に発表された「武蔵野」はそうではありませんでした。この作品の面白いところは、例えば次の文を読んでみればわかるでしょう。

 

「嬉しいぞや。早う高氏づらの首を斬りかけて世を元弘の昔に復したや」
「それは言わんでものこと。いかばかりぞその時の嬉しさは」
 これでわかッたこの二人は新田方だと。そして先年尊氏が石浜へ追い詰められたとも言い、また今日は早く鎌倉へこれら二人が向ッて行くと言うので見ると、二人とも間違いなく新田義興の隊の者だろう。

 

と、つまりどういうことかというと、この作品は今で言う時代小説なのですね。そこで美妙は地の文は言文一致体でありながら、登場人物たちの言葉はいかにも古風なものに「敢えて」しているわけです。

 

なぜかというと、そうすることによって新しい地の文と古めかしい会話の文を対照的にしてともに印象的になるよう、工夫しているわけです。

 

そう考えるとですよ、四迷と美妙、果たしてどちらがより巧妙に「小説」なるものを築き上げているかと言えば、どう考えても美妙の方なわけですね。普通に考えて「浮雲」風にやった方が楽だし、簡単です。文章や作品の構造のことなんて考えずにすみますから。でも「武蔵野」はそうではないのです。

 

で、実は二葉亭四迷が完全な言文一致体のみで作品を発表するのは「浮雲」の第三編からになりますが、山田美妙はすでにこの「武蔵野」において言文一致体を中心とした小説をものにしてるわけですから、「日本文学で言文一致体を完成させた人」と言えば、それは本来、二葉亭四迷じゃなく山田美妙にならないといけないわけです。

 

実際、二葉亭四迷は山田美妙の文章を何度も読み、参考にしていたとのこと。この二人は確か同郷の生まれで年も近かったこともあり、四迷は美妙をかなりライバル視していたのではないかと思います。

 

さて、で、この「武蔵野」が話題となり美妙は一躍若手作家のトップへと躍り出たのでした。この頃まだ二十歳になるかならないかという頃だったそうです。

 

そして明治22年には徳富蘇峰の主宰していた雑誌「国民之友」の付録として、この美妙の「胡蝶」と逍遥の「細君」という二つの作品が掲載されるのです。

 

この「国民之友」の付録として掲載されるということは、当時の文壇にとってものすごい意味のあることでした。いわば、紅白歌合戦のトリの片方を若手のアイドルがやったみたいなものですね。

 

坪内逍遥に文句を言う人は誰もいませんでしたが、何でもう一人がデビューしたばかりのペーペーにすぎない山田美妙なんだ、と。そういう話になったわけです。(ちなみにこれは余談ですが、翌明治23年の国民之友付録として発表されたのが、森鴎外の「舞姫」でした。)

 

まあそういうわけでですね、山田美妙という人は、二十歳そこそこの若者でありながら既に日本文学を背負って立つような存在へと成り上がったわけでございます。

 

同世代の文学者の中では山田美妙一人が横綱で、あとは四迷も尾崎紅葉もみんな前頭筆頭程度、という状況ですね。

 

だから普通に考えれば山田美妙という人の存在は、日本文学を学ぶ際には逍遥の次に必ず登場しなければならないはずですが、でもどうなんでしょう。知らない、聞いたことがある程度、という人の方が多いのではないでしょうか。

 

まあ要するに山田美妙という人はこの後、いわば「忘れられた作家」となるのです。

 

山田美妙が忘れられてしまった理由を、例えば内田魯庵なんかが「山田美妙斎の小説」というエッセイで詳細に語っています。

 

これはねえ、もう、本当にひどいエッセイです。このエッセイと、そして内田魯庵が山田美妙に対してとった態度を事細かに上げ連ねて思いっきり断罪してやろうかどうか、ちょっと考えているところでございますが、このエッセイの中で魯庵は美妙が文壇から姿を消した理由を、様々に述べておりまして、まあ簡単に言うと

 

1 その作品が結局文学として内容の薄いものだった
2 若くして成功したために天狗になって周りの人々に嫌われた

 

というこの2点になるわけですが、まあ美妙の性格がどうだったかは別として、この「山田美妙の小説は内容が薄い」説には、私はどうかと思うのですねえ。

 


ちょっと話がずれますが、私は山田美妙のことを思うとき、必ず同時に考えるのが村上春樹のことです。山田美妙と村上春樹は、本当によく似ています。

 

一言で言えば、美妙も春樹も、その内容が文学好きに対して「理解されない」のですね。で、「中身がない」と言われてしまう。

 

村上春樹も現在ではノーベル賞候補となっていますので、さすがに今「村上春樹なんて文学じゃない」とか言う人はあまりいないでしょうが、正直20年くらい前までははっきりとそう断言する人がいわゆる文壇とか、大学の教授とか、文学好きの間にはごろごろいました。

 

「最近の学生は卒論のテーマに村上春樹をやりたいとか言い出すから困る」とか、普通に言われていたものです。今じゃこの村上春樹ラノベになってるわけですが。確か柄谷行人なんかも村上春樹を評して「構造だけで中身がない」と言ってたような気がします。

 

で、村上春樹はそういう文壇に辟易し、というかもう彼らに認められることをさっさと諦めて海外に行くわけですね。で、そこで信頼できる翻訳者を「自分で」見つけ、海外で自分の著書が出版される足がかりを「自分で」つくったわけです。偉そうに振る舞うばっかりでなんの力もない日本の文壇なんかシカトしたんですね。

 

村上春樹がいま世界中で読まれているのは実はそういうことなんです。日本の文壇では何がどうなろうと決して認められることはないと気づいた春樹が、自ら外に出て行って海外の読者を開拓していったことが、現在の「世界文学としての村上春樹」という結果につながっているわけです。

 

よく春樹とノーベル賞の話題になった時に「いや、日本にはもっと優れた作家がたくさんいる」とか言う人がいますが、問題はそういうことじゃないんですよ。そんなこと言ったって無意味なんです。問題は、日本の文壇で評価されている作家が海外で大して評価されていない、という事実の方なんですよ。日本の文壇が結局のところ「自分たちが認めたい人しか認めていない、好きか嫌いかでしか判断していない」というレベルの低いものであることが、日本の文壇が評価しない村上春樹が海外で評価されている、という事実によって露呈していることが問題なんです。

 

でもそれは春樹のせいじゃないですよ。日本の文壇自体、もしくは「日本文学」そのものがおかしいというか、限界があるわけで、それを人のせいにしちゃいけない。だから私は春樹の悪口を言う前に、まず自分自身を反省することの方がもっと大切じゃないかと思いますがね。

 


では、なぜ美妙や春樹は文壇、あるいは「文学が好きな人たち」の間で評価されない、というよりもむしろ一言で言えば「嫌われる」のでしょうか。村上春樹を日本文学がまともに評価できないという事態は、実は山田美妙の頃から始まっているわけですが……

 

おっと、本当は私はここから先の話がしたかったのですが、もうここまでずいぶん書いてしまったので、この話はまた次回ということで。

 

おなじみ山田美妙著「武蔵野」に関する素人講釈でございました。

 

 

武蔵野

武蔵野

 

 

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