文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

吾輩が猫であらねばならぬ話。

 

吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)

 

 

講釈垂れさせていただきます。

 

鴎外と逍遥の大ゲンカ、「没理想論争」は二人の芸術観、文学観の違いを浮き彫りにいたしました。この流れはまた自然主義と浪漫主義に発展することなるのでございますが、実は逍遥にしろ鴎外にしろ、あるいは自然主義にしろ浪漫主義にしろ、ある共通点があったのでございます。

 

それはどちらの考え方も、「美は崇高である」ということを金科玉条にしていたということ。

 

「美は崇高である」とはいかなることでございましょう。この「美」とはすなわち、「優れた芸術」であり、「優れた文学作品」のことでございます。

 

例えば私たちが美しい自然を見て「わあ、きれいね」と言ったとしましょう。これは表面的な「美」にすぎません。しかしもし私たちが美しい自然を見て、そこに偉大なる神の御業を感じたり、あるいはそこに深い人生の意義のようなものを感じたとしたら、これこそが哲学や芸術の世界で語られる「真実の美」なのでございます。

 

そう考えると「真実の美」とはそれが現実であろうとフィクションであろうと描き出すことができることに気付くでしょう。小説というものが例えフィクションであったとしても、本当に優れたものならばそれは「真実の美」を描き出すことができましょう。

 

逍遥も鴎外も実はこのことについては意見が一致していたのです。ただ、そのために逍遥は「写実主義」を唱え、鴎外は「理想主義」を唱えたのでございました。

 

言い換えるならば二人ともどうやったら小説を「真実の美」という「神の領域」に持っていけるのか、という話をしていたわけで、だからこそ作家、芸術家も「神の領域」にたどり着こうとしなければならない、という考え方だったわけです。世に言う「啓蒙主義全盛の時代」というやつでございます。

 

でもまあ、こういう話はしんどいですよね。肩が凝るじゃありませんか。今でもこういう啓蒙的な人、独善的な求道者が時々いて、そういう人の「啓蒙」や「求道」は結局のところ単なる上から目線にすぎないのですが、まあそういう人とはあまり関わりたくないものでございます。

 

文学や小説について興味はあるけれど、その世界に足を踏み入れてみると、「神の領域への道はこっちだ!」「いや、あっちだ!」とやっている。カトリックプロテスタント大乗仏教小乗仏教のようなもの。どうせ同じ宗教なんだから、お前らもっと仲良くせえ、とそう思っている人も、多かったことでございましょう。

 

そんな時でございました。明治37年、雑誌「ホトトギス」に連載されたある作品が一世を風靡したのでございます。

 

その作品こそ何を隠そう、本日取り上げる「吾輩は猫である」なのです。


ではこの作品は、一体どこがどうすごかったのでしょうか。

しかしその前に、この作品が世に出た時の人々の反応をちょっと想像してみようではありませんか。

 

想像してみてください。みんながみんな「神の領域」へ至るために頑張らなければならないと思っている、その時にある男が現れて、こう言うのです。

 

吾輩は猫である

 

……お前、なめとんのか、と。空気読まんかい、と。そう思うでございましょう。まったく、これだからゆとりは、なんて、現代だったら言われるところでございます。

 

しかし幸いにも漱石が生まれた時代は現代ではなかったし、漱石ゆとり世代ではなかった! 人々は半ば呆れながら本書を読み始め……そして、この作品に恐れおののいたのでありました。


では一体どこに恐れおののいたのでありましょうか。

 

まず最初にこの作品は皆様ご存じの通り、ある名もなき猫が自分の飼い主やその周りの人々を「観察」している様子を描いたものなのでございます。

 

はい皆様ご注目。「観察」でございます。これこそかつて坪内逍遥が「小説神髄」で提唱し、「当世書生気質」で表そうとした、文学が文学たる最も重要な要素でございます。

 

しかもこの作品における猫の観察眼たるや、類まれなるものなのでございます。苦沙弥先生や迷亭さんの、なんと生き生きと描かれていることでございましょうか。これぞ逍遥の言う「写実主義」の極北と言っても過言ではございますまい。


それではこの作品はいわゆる逍遥の系譜に置くべき作品なのでしょうか。実は、そうではないのです。

 

逍遥の向こうを張る鴎外の説、それは「たとえ主観的であっても、その狂気のような主観に読者を引きずり込める作品」であったのでございました。

 

ならばもちろん鴎外派は本書をこそ賞賛すべきでありましょう。私たち読者は本書を読んで、この主人公の猫と一体化してともに喜び、ともに悔しがり、「まったく人間というものは」なんて思うのでございます。主人公は「猫」なのにも関わらず! 本書はわれわれ読者を猫にしてしまうのですよ。これを狂気と言わず何と言いましょう。これほどの狂気を成し遂げた作品がほかにございましょうか。

 

逍遥の文学観がリアリズムを重視しているのに対し、この作品はまさにその逆、アンチリアリズムでございます。だって主人公、猫なんですから。おや、誰ですか、「私の前世は猫だからこの物語はリアルだ」とかおっしゃっている人は?

 

そう考えると、まさにこの作品こそ鴎外の「理想主義」を表現した作品の一つだ、と私が言っても誰も異を唱えますまい。


ということで、本書「吾輩は猫である」は、別に文学をなめてるわけでもなければ、空気を読んでいないわけでもなかったのです。むしろ本書は日本文学史において逍遥の思想と鴎外の思想を結合し、昇華させた一大傑作なのでございます。

 

そして本書はまた猫の視点で人間を描くことで、この時代の「啓蒙的な雰囲気」そのものを揶揄して見せたのでした。「一億総なんちゃら」「追いつけ追い越せ」と言っていた時代に、「あ、俺、猫でいいっす」と言い放ったのですから。そしてその雰囲気を持っていたのは同時にまた、文学の世界でもあったのです。その日本の文学界に向かって、漱石は、こう言い放ったのでございます。

「神の領域とか、どうでもいいっす。猫の領域でいいっす」と。


思い返せば坪内逍遥は江戸時代の戯作を否定することで「文学」という新たな文化を切り拓いたのでした。

 

そしてまた森鴎外二葉亭四迷は、その逍遥を否定することで「文学」を前に進ませたのでした。

 

さらに夏目漱石は本書を著すことで、まず逍遥と鴎外をアウフヘーベンし、さらに「猫の視点」によってその両者を否定したのでございます。

 

これぞ日本文学における新しい時代の到来であったと、私は断言するのでございます。


さて、そのように鴎外の文学観、芸術観を否定し、揶揄している本作でございますから、私は当然のことながら鴎外の中に眠っていたあの「論争癖の虫」が、またむくむくと起きだしてきたに違いないと思うのですね。

 

しかし鴎外は漱石については何も語りませんでした。それはなぜか。

 

それは、漱石の登場は実は鴎外にとって都合の良いことでもあったからです。

 

この頃、鴎外は「没理想論争」やその他の評論活動によって小説を執筆することに関する高いハードルを自ら設けてしまっていたのでした。そして「日本文学の象徴」という重荷を背負っていたのです。

 

しかし漱石がこの作品で文壇に登場、漱石が鴎外を笑い飛ばし、世間がそれを受け入れたことによって、鴎外はやっとこの肩の荷を下ろすことができたのです。

 

これはうろ覚えの話なのですが、かつて中上健次がデビューした時、石原慎太郎(だったと思うのですが、違うかもしれません)からこんなことを言われたそうです。

「お前が出てきてくれたおかげで、俺は楽になった」と。

 

そして村上龍はデビューした時、同じことを中上健次から言われたそうで、村上龍はまた村上春樹がデビューした時、同じことを春樹に言ったそうでございます。

 

いつの時代でも、その時代を背負う運命にある作家というのがいるものでございます。鴎外もまた漱石が登場した時、

「これで俺は楽になった」

と、そう思ったに違いないと私は思うのです。やっと「日本文学の象徴」ではなく、「普通の作家」になることができる、と。

 

だからこそ鴎外は漱石の登場から数年後執筆を再開し、そして彼の作品は初期は「高踏派」、後期は漱石が名乗った「余裕派」に含まれるわけです。鴎外は漱石の登場によって、高踏なことを言わなくてもよくなった、やれ文学がどうだ、芸術がどうだ、ということをそこまで気にせずに小説を執筆できるようになったのです。

 

これが、私が「鴎外の作品の初期と後期は別物」と考える理由なのでございます。

 

もちろん何でも一番じゃなかったら気が済まなかったという鴎外のこと、面白くはなかったでございましょうが、時代とはそういうものですから、仕方ありません。

 

鴎外とて言いたいことは山ほどあったでございましょう。しかし、そんな鴎外も結局は本書における苦沙弥先生のように、苦虫噛みつぶした顔で漱石の頭を撫でてやるしかなかったのでございます。ニャー。


と、いうわけで、最初のレビューから逍遥、四迷、鴎外と続いてきた私の素人講釈もここでいったん区切りがついたことにして、これより日本文学のレビューはしばしの小休止、来月からは飛ばしてしまった硯友社の面々や自然主義の作家たちを読んでいきたいと思う次第でございます。


おなじみ夏目漱石吾輩は猫である」に関する素人講釈でございました。

 

吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)

 

 

森鴎外が坪内逍遥にケンカを売った話。

 

柵草紙の山房論文

柵草紙の山房論文

 

 

講釈垂れさせていただいます。

本日講釈させていただきたい「柵草紙の山房論文」でございますが、本書はまあ、一言で言うならば「森鴎外による坪内逍遥への言いがかり」でございます。

事の起こりは明治24年、坪内逍遥は雑誌「早稲田文学」を創刊いたしました。この雑誌の創刊号で連載が始まったのが、逍遥による「シェークスピア脚本詳註」。逍遥はこの連載を始めるにおいて、自らの姿勢について

「自分の理想(理念や主義)から論評するのではなく、客観的な態度でシェークスピアを紹介したい」

というようなことを宣言したのですね。で、このことを「没理想」と呼んだのです。

批評をするにおいて理念や主義にとらわれないという逍遥の姿勢は、別におかしい所はどこにもないと私は思うのですが、この発言に森鴎外が咬みついた。

鴎外はその頃「しがらみ草紙」という同人誌を発行していたのですが、その誌上におおむね次のようなことを掲載したのでございます。

「ほお、逍遥先生は『没理想』とおっしゃるが、果たして先生のおっしゃる『理想』とは何ぞや? 私が存じております哲学上の意味における『理想』とは意味が違うようですが、どういう意味で『理想』とおっしゃっているのか、どうぞ教えていただけませんか?
 そもそも先生は『客観的』な態度を随分好まれておられるようですが、ならば先生はもちろん、名作と言われている文学作品は皆おしなべて『客観的』であると、そうおっしゃるのでしょうな。まさかご存じない筈がございませんが、西洋の文学には古来より抒情詩なるものがございまして、この抒情詩は読んで字の如く情を詠うわけですが、この詠われている情もまた『客観的』だと、そうおっしゃるわけですな?」

で、逍遥としては驚いたのでございます。というのはこの言いがかりをつけられた「没理想」という言葉は連載の前口上のような部分で使われた言葉ですから、そんな言葉にいきなり「その言葉の厳密な意味を説明しろ」と言われるとは思っても見なかったのでしょう。

とは言え無視するわけにもいかないので、逍遥も誌上で

「いや、私はあくまでも理念や主観をなるべく避けたいという態度の話をしているのであって、そういうものが作品の中に存在しないと言っているわけではありませんよ。抒情詩はもちろん主観的に詠われた文学でしょうが、その中でも名作と言われるものはやはり作者の主観を客観的にみる視点があるのではないですか?」

というようなことを反論したわけでございます。そうするとまた鴎外が、

「ほお、主観の客観、私にはそれが何なのかさっぱり分かりませんなあ。もちろん先生は哲学にも精通してらっしゃるのでしょうが、一体誰がそのようなことを言っているのですか? 烏有先生という方はその著書において先生の主張と全く違うことを言っていますが…え? 烏有先生をご存じない? 先生ほどの博識な方が、あのハルトマンをご存じない? それはそれは。ということはまさか先生、西洋の古来の哲学者が未だ述べていない意味において『理想』だの『主観』だのとおっしゃっているのでしょうか。ということは先生は哲学における自らの一大体系を築きなさったわけですか。これはすごい。まさか先生がハルトマンをしのぐ哲学の世界的権威であったとは知りませなんだ。それではどうか先生の築き上げたその体系を私に伝授してくださいませんか」

とまた誌上で挑発しながら反論。それにまた逍遥が応えて……、ということでこの論争、何と1年間も続いたそうでございます。

そんな二人のこの論争は「没理想論争」と呼ばれています。本書はその論争の中の鴎外の言い分のみを集めたもの。

ちなみにお断りしておきますが、上に述べたのは私が二人の言っていることを「まあ大体こういうことを言っているのだろう」という想像と妄想ででっち上げた創作でございます。

というのは私、本書を何とか読んではみたのですが、はっきり言ってその内容があまりに難解で、ちんぷんかんぷんだったのでございます。そのため、この「没理論論争」の具体的な内容を正確に知りたい方は、どうかご自身で本書を紐解いてくださいませ。

ただ私は本書を読んでその意味はさっぱり分からなかったものの、とにかく「森鴎外という人は、とんでもなくウザイ奴だ。絶対に関わってはいけない類の人だ」ということだけは、よくよく理解した次第なのでございます。

まあ恐らく逍遥も、最初は相手をしていたものの、だんだん面倒臭くなったのでございましょう。最終的には

「なるほど、確かに鴎外先生のおっしゃるように私はまだまだ学問が足りないようでございます。どうぞ先生はその広大な知識をもって文学の世界を牽引してくださいませ。私はまだ修行の身ゆえ、今後も精進を重ねる次第でございます」

と、ある意味鴎外に詫びを入れさせられた形でこの論争は終結したのでありました。


さて、そのことを踏まえたうえで、私はこの論争が果たして当時の文学界においてどんな意味があったのかということを考えてみたいのでございます。

逍遥は、まあ、とんだ災難ではございましたが、こう言ってはなんですがこの人はその前に二葉亭四迷の「小説総論」と「浮雲」」の時点で、もはや作者として文学で名を遺すことはあきらめていたでしょうから、大した痛手ではなかったでしょう。

むしろ問題はこの論争の「勝者」となったはずの森鴎外でございます。

というのは、この論争をまわりで見ていた人たちの反応としては、

「いやはや、鴎外大先生、それだけ大言壮語を吐かれるのですから、次に先生が書かれる小説はそれはそれはご立派なものになるのでございましょうね」

ということに、なりますよね。私だったらそう思いますよ。これだけ文学と芸術と哲学に精通しておられる森鴎外大明神が、まさか、まさか駄作としか思えない小説や手すさびの小説などにその御手を煩わせるようなことは断じてなさるまい、と。

そして鴎外本人もまた、自分はそういうものが書けるはずだ、と思っていたのではないでしょうか。

つまり鴎外はこの論争で逍遥を言い負かして溜飲を下げたものの、結果としては自分が小説を書く時に果てしなく高いハードルを自ら設置することになってしまったわけです。

まあ、ただ「ハードルを上げすぎた」というのは実は鴎外だけでなく、四迷もまたそうだったのでしょう。彼らは日本文学の開拓者であり、トップランナーだったのでした。それ故に彼らはまず「小説とは何か」ということを自ら宣言したうえで小説を書かざるを得なかったし、彼らの理想とする「小説」とはすなわち西洋の長い歴史における「名作」のことだったのですから、鴎外も四迷も、また逍遥でさえも、もし「小説」を発表するとならばそれは必ず「名作」でなければならなかった。

そして彼らは、一般の日本人、とりわけ今後作家となって文学を背負って立つ若い文学青年たちにとってはシェイクスピアゲーテに匹敵する存在である、と思われなければならなかったのだと思うのですね。

この状況で、果たして鴎外なり四迷が小説なんて書けますか? という話なのですね。彼等が書く小説というのは当然、シェークスピアなりゲーテなりドストエフスキーの傑作に相当する小説でなければなりません。本人たちはもちろんのこと、周りの人たちもそう思っていた。そうでなければ、「なんだ、結局日本人には文学なんて無理なんだよ」と言われてしまうのです。


以前「小説神髄」のレビューでも触れた水村美苗の「日本語が亡びるとき」の中に、こんなことが書かれていたのです。

「日本文学にとって幸福だったのは、鴎外や漱石がドイツ語や英語でなくて日本語で小説を書いてくれたことだった」と。

もしも彼らが「日本人」であるより先に「作家」であったなら、外国語を自在に操る彼らですから、英語やドイツ語やロシア語で小説を書くことだってできたでしょう。もし彼らがそうしていたら、100年前にカズオ・イシグロが誕生していた、かもしれません。しなかったかもしれませんが。

でも彼らは日本語に、日本文学にこだわったのです。そして、だからこそ「日本文学」という英語でもドイツ語でもフランス語でもスペイン語でも書かれていない、いわばマイナー言語でありながら主要な文学が誕生することになるのです。

その生まれたばかりの「日本文学」の象徴的存在であったし、そうあらざるを得なかった逍遥や四迷や、とりわけ鴎外が、この頃「すでに西洋小説を会得した者」として、一体どんな小説を書くことができたというのでしょう?

この三人がデビュー作に続く小説なんて書けたはずがない、と私は思うのでございます。


とは言え、こんなことを言うと、「いや、しかし鴎外や四迷は20年後に執筆を再開するではないか」と、こう反論される方もいるかもしれません。

そうなのです。鴎外と四迷は長い沈黙を破って再び執筆を再開するのですが、彼らがそうできた理由は、ある人物が登場したからだと私は思っているのでございます。

その人物というのは・・・と、ここでまた紙幅が尽きてしまいました。てことでその話はまた次回にて。

 

おなじみ森鴎外「柵草紙の山房論文」に関する素人講釈でございました。

 

 

柵草紙の山房論文

柵草紙の山房論文

 

 

ユー、狂っちまいなよ! という話。

 

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

 

 

坪内逍遥が「当世書生気質」を発表したのが明治19年、二葉亭四迷が逍遥の理論をより発展させる形で「浮雲」を描いて見せたのが翌年の明治20年のことでございました。

しかし驚くなかれ、それから3年後、明治23年に日本文学はさらなるネクストステージへと向かうことになるのです。その立役者となったのが、森鴎外でありました。

ということで、本日は「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の三作まとめて講釈垂れさせていただきます。


鴎外の初期に発表した三作は「独逸三部作」、あるいは「浪漫三部作」とも言われておりまして、実は鴎外、この三作を発表した後は評論や翻訳にむしろ力を入れ始め、再び小説を書き始めるのはおよそ二十年後、明治42年のことでございます。

つまりこの三作と、よく知られる「高瀬舟」だとか「山椒大夫」だとかはちょっと別物、と考えるべきなのですね。

ではこの三作は一体どんな作品なのか、とりあえずあらすじをばばっとご紹介いたしましょう。


舞姫」は多くの方もご存じでしょう、鴎外の自伝的小説とも言われている作品でございます。ドイツで官吏の仕事をしている太田豊太郎はある日エリスという名の美少女と出会います。

エリスは踊り子をしていましたがその暮しは貧しく、父の葬儀の費用すらない、と泣いていたのを豊太郎に助けられたのです。

このことがきっかけで二人は交際をするようになりますが、そのことが同僚に知れて問題となり、豊太郎は免職となってしまいます。

その後新聞社の駐在員をしながらエリスとその母との三人で暮していた豊太郎でしたが、そんな豊太郎の元に復職の話が持ち上がるのです。

大臣の信頼を得た豊太郎は、大臣からともに帰国するようにと言われます。その場で約束をした豊太郎でしたが、実はその時、すでにエリスは妊娠しており・・・


うたかたの記」はドイツで美術を学ぶ学生巨瀬が友人に連れられて入った居酒屋で美しい少女と出会うことから始まります。

その頃巨瀬はかつて出会った菫売りの少女が忘れられず、その姿をローレライの絵に描いていたのでしたが、居酒屋で出会ったその少女こそ、巨瀬が忘れられずにいた少女、マリーなのでした。

マリーは巨瀬に自らの生い立ちを語ります。彼女の父がかつては有名な画家であったこと、彼女の母がかつて国王から懸想されていて、それを守るために父と母が死んでしまったこと。そしてマリーもまた父のような画家となるために美術学校でモデルをしながら独学で美術を学んでいること。

マリーは巨瀬を故郷の湖に誘います。そこで互いの思いを確かめ合った二人でしたが、ちょうどそこに国王が現れ、マリーの姿に彼女の母の幻影を見、追いかけてくるのです。

国王とのもみあいのためマリーは国王とともに湖に沈んでしまい・・・


文づかひ」は皇族が催す宴の席で身の上話をせよとせがまれた少年仕官、小林の物語。

彼がドイツに留学していた時、ドイツの軍との合同演習がありました。そこで彼はメエルハイムという軍人と出会いますが、あまりいい印象を感じませんでした。

演習の後、彼とメエルハイムはある伯爵の館へ招待されます。その伯爵の家には五人の姉妹がおり、とりわけ彼に印象的だったのはイ﹅ダという姫でございます。少し人と違った感性を持っているように思われるこのイ﹅ダ姫は親の言いつけにより、メエルハイムと婚約することになっていたのです。

小林がザックセンに住んでいることを話すと、ザックセンの伯爵の妻はイ﹅ダ姫の伯母だとのこと。そしてある日イ﹅ダは小林にどうか誰にも知られずに手紙を伯母に渡してほしい、と言うのです。

まだ出会ったばかりの日本人である彼にそんなことを頼むのは、それなりの理由があってのことだろうと小林はそれを承諾し、ザックセンに帰ったのち、伯爵の家に招かれた際に手紙を伯爵夫人に渡したのでした。

それからしばらくして、伯爵が催した社交会で小林はふと見覚えのある女性と出会います。その女性こそ、イ﹅ダ姫だったのです。今頃はメエルハイムとすでに結婚しているはずのイ﹅ダ姫がそこにいたその理由というのが・・・


というような物語なのですが、私は今回この三つの物語を「視点」という観点から考えてみたいのでございます。

まず「舞姫」。この物語は言うまでもなく、主人公豊太郎の独白、という形になっています。いわば日記のような感じですね。この物語で語られているのは、あくまでも豊太郎の「主観」なのです。

続いて「うたかたの記」。この物語は普通の小説によくあるような「客観的」な視点で語られています。例えるなら、昔話のようなものですね。「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがおって・・・」という感じです。

そして「文づかひ」。この物語は一見「舞姫」と同じ独白の形態をしているのです。しかしこの物語が「舞姫」と違うのは、この物語は私小説ではない、ということ。

舞姫」を読んだ読者は、当時も今も、豊太郎というのは恐らく鴎外本人のことなのだろうと推測して読みますね。しかしこの「文づかひ」をそう読む人はいないでしょう。いわばこの物語は「他人の主観」という視点で描かれているのです。


で、なぜそのことが重要かというと、恐らく鴎外はこの三作を発表することによって逍遥が提唱した「写実主義」を批判しようとしたのだと思うからなのです。

逍遥の「写実主義」というのは、乱暴に言えば「客観的」に、「緻密」に対象を描くことで物語は「文学としての小説」になる、というものでした。

しかし鴎外からすると、それは「小説」という芸術のたった一面しか説明していないのです。なぜなら鴎外自身が「舞姫」で証明したように、「主観的」であっても文学たりうることができるのだから。

「この小説は私が観察して描いたものですから、この小説の登場人物が善であれ悪であれ、作家である私とは関係ありません」というのが逍遥の立場であり、彼の考える「客観性」なんですね。鴎外に言わせると。

しかし鴎外からすれば「俺には善い部分もあれば悪い部分もある。強い所もあれば弱い所もある。だから俺の書いた作品には善い部分もあれば悪い部分もあるし、強い所もあれば弱い所もある。それを引き受けたうえで世に問うのが芸術であり、芸術家なんだ」ということなのだと思うのです。


で、この三作の中で最も重要な作品は「文づかひ」だと僕は思うのです。

この作品は一見「主観的」な作品のように見えますね。でも、主人公の小林は作者ではない。しかもこの物語は最後、主人公の小林が聞いたイ﹅ダ姫の物語で終わります。

ということは、こういうことになるのです。作者は小林の主観について語っているが、語られている小林はイ﹅ダの主観について語っている、そういう構造です。じゃあ、作者は一体何について語っているんですか? と。

これは一体なんなんだ、主観なのか、客観なのか、という話になるわけです。逍遥の理論や芸術観ではこの作品について何も説明することができないのですね。


うたかたの記」において、マリーは言います。

「われを狂人と罵る美術家ら、おのれらが狂人ならぬを憂へこそすべきなれ。英雄豪傑、名匠大家となるには、多少の狂気なくてかなはぬことは、ゼネカが論をも、シエエクスピアが言をも待たず。見玉へ、我学問の博きを。狂人にして見まほしき人の、狂人ならぬを見る、その悲しさ。」

鴎外に言わせれば、客観的な芸術家なんて二流なのです。たとえ狂っていたとしても、周りをその狂気に巻き込める人、他人を自分の主観の巻き添えにできる人、こういう人が鴎外の言う一流の芸術家であり、そういう人の書いた作品が鴎外の言う一流の芸術作品なのですね。関わる人は大変ですが。


というわけで、逍遥と鴎外というのはまさに水と油なわけでございます。とりわけ鴎外が逍遥のことを許せないってので、よせばいいのに鴎外、わざわざ逍遥にケンカを売りに行ったんだよ、ほんと困った人だよね、という話を次回はしたいなあ、と思っているのでございます。


おなじみ森鴎外舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の素人講釈でございました。

 

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

 

 

会いたかったけれど会いにいかなかった人の話。

 

長谷川辰之助

長谷川辰之助

 

 

講釈垂れさせていただきます。

「逢ひたくて逢はずにしまふ人は澤山ある。
それは私の方から人を尋ねるといふことが、殆ど絶待的に出來ないからである。」

鴎外のこんな言葉で始まるこのエッセイ。

鴎外がなぜ人を尋ねることが出来ないかというと、彼には役所の仕事がある。そしてそれに加えて記者連中がひっきりなしに訪ねてくる。記者の相手などしたくはないのだが、邪険にするとあいつらはあることないこと書きたてる。それは困るので仕方なく相手をする。そうすると自分から人を尋ねる余裕がない。と、そういうことだそうでございます。

しかし鴎外には、本当は会いたかった人が、どうやらたくさんいたようなのでございます。

長谷川辰之助君も、私の逢ひたくて逢へないでゐた人の一人であつた。私のとうとう尋ねて行かずにしまつた人の一人であつた。」

長谷川辰之助とは、二葉亭四迷の本名。そう、鴎外はどうやら、二葉亭四迷と会って話がしたかったようなのでした。


ではそんな鴎外、四迷の作品については一体どう考えていたのでしょう。ちょっと引用してみましょう。

浮雲には私も驚かされた。小説の筆が心理的方面に動き出したのは、日本ではあれが始であらう。あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く。」

どうやら鴎外は四迷の「浮雲」をかなり高く評価していたようです。しかし最後が気になりますね。

「あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く。」

まあ評価はしていたようですが、それは「あの時代だから」のようです。

さらに四迷はツルゲーネフなどロシア文学の翻訳でも有名ですが、

「飜譯がえらいといふことだ。私は別段にえらいとも思はない。あれは當前だと思ふ。飜譯といふものはあんな風でなくてはならないのだ。あんな風でない飜譯といふものが隨分あるが、それが間違つてゐるのである。」

と、こちらもやっぱり褒めているのかけなしているのか、なんだかよく分かりませんが、多分けなしているつもりはないのでございましょう。

そうして会いたいのなら会いに行けばいいものを、なんだかんだと理由をつけて、鴎外は結局四迷に会いにはいかなかったようですが、それから二十年後、四迷が再び沈黙を破って小説を発表、特に「平凡」は大きな話題となりました。

そうすると、鴎外はまた思うのです。

「平凡が出た。
 私は又逢ひたいやうな氣がした。」

だから会いに行けばいいじゃないかと、そう思うのでございますが、鴎外は言うのでした。

「流行る人の處へは猫も杓子も尋ねて行く。何も私が尋ねて行かなくても好いと思ふ。」

どっちなんだお前は、と。どうしたいのかよく分かりませんが。

とは言え鴎外曰く、全く交際がないわけでもないそうで、

「Gorjki を譯するのに、獨逸譯を參考したいと云つて、借りによこされたから、私は人に本を貸すことは大嫌なのに、此人に丈は貸したことがある。何とかいふ露西亞人が横濱で雜誌を發刊するのに、私の舞姫を露語に譯して遣りたいが、差支はなからうかと、手紙で問ひによこされたことがある。私は直に差支はないと云つて遣つた。」

ということで、ゴーリキーのドイツ語訳を貸してやったし、「舞姫」をロシア語に翻訳するのも許してやったと。……多分、四迷に好意を持っていた証拠なのでございましょう。

それでも会いに行かなかった鴎外ですが、そうするとなんと二葉亭四迷の方から鴎外に会いに来てくれたそうで

「前年の事ではあるが、何月何日であつたか記憶しない。日記に書いてある筈だと思つて、繰返して去年ぢゆうの日記を見たが、書いてない。こんな人の珍らしく來られたのが書いてないやうではといふので、私の日記は私の信用を失つたのである。」

と、日記にすら書かなかった鴎外ですが、しかしその日のことはしっかり覚えているようでございます。

「急いで逢ひに出て見ると、長谷川辰之助君は青み掛かつた洋服を着てすわつてをられた。
 (中略)
 話をする。私には勿論隔はない。先方も遠慮はしない。丸で初て逢つた人のやうではない。」

鴎外と四迷のファーストコンタクトは、互いに好感触のようでございました。初めて会った人とは思えないほどなのだから、ずいぶん打ち解けたのでございましょう。まあ、日記には書いていないようですが。

長谷川辰之助君は、舞姫を譯させて貰つて有難いといふやうな事を、最初に云はれた。それはあべこべで、お禮は私が言ふべきだ、あんな詰まらないものを、好く面倒を見て譯して下さつたと答へた。
 血笑記の事を問うた。あれはもう譯してしまつて、本屋の手に廻つてゐると話された。
 洋行すると云はれた。私は、かういふ人が洋行するのは此上もない事だと思つて、うれしく感じて、それは結構な事だ、二十年このかた西洋の樣子を見ずにゐる私なんぞは、羨ましくてもしかたがないと云つた。」

話の内容もなかなかよく覚えているようです。日記には書いていないようですが。

それから四迷は一時間ばかりで帰ってしまったとのことでした。そして鴎外は、

「その後、私は長谷川辰之助君の事は忘れてゐた。」

とのことで、どうやらもうすっかり興味を失ってしまったそうでございます。そりゃ日記に書くのも忘れるよ。

さてそれからしばらく経って、鴎外は新聞記事で二葉亭四迷がヨーロッパ滞在中に肺結核となり、帰国を余儀なくされることになったことを知るのです。

鴎外はわざわざインド洋を渡るという遠回りで帰ってくるのだから、さほど重体でもないのだろうと、そう思っていたようでございます。

しかし四迷はご存じの通り、帰郷の船上で亡くなってしまったのでした。

鴎外は言います。

「併し臨終の折の天候はどうであつたか知らない。時刻は何時であつたか知らない。船の何處で死なれたか知らない。」

そして自分は四迷の死について何も知らないと、そう断ったうえで、こう言うのでございます。

「程よく冷えて、和やはらかな海の上の空氣は、病のある胸をも喉をも刺戟しない。久し振で胸を十分にひろげて呼吸をせられる。何とも言へない心持がする。船は動くか動かないか知れないやうに、晝のぬくもりを持つてゐる太洋の上をすべつて行く。暫く仰向いて星を見てゐられる。本郷彌生町の家のいつもの居間の机の上にランプの附いてゐるのが、ふと畫のやうに目に浮ぶ。併しそこへ無事で歸り著かれようか、それまで體が續くまいかなどといふ餘計な考は、不思議に起つて來ない。
 長谷川辰之助君はぢいつと目を瞑つてをられた。そして再び目を開かれなかつた。」

これは、鴎外が想像した四迷の最期でございます。鴎外はこのエッセイの最後に、二葉亭が死ぬその瞬間を想像し、それを小説にしてこのエッセイを閉じるのです。

いわゆるエッセイの終わり方としては、ちょっと不思議な終わり方ですよね。

さて、では鴎外はなぜそのようなことをしたのでしょうか。


実は鴎外、このエッセイの中で一度も四迷のことを「二葉亭四迷」とは呼んでいないのですね。ずっと「長谷川辰之助君」で通しているのです。

それはもしかしたらこういうことなのかもしれません。

鴎外は一個人である「長谷川辰之助」に対しては、会いたいような会いたくないようなそんな気持ちだったし、またあまり興味もなかった。わざわざ日記に書くこともなかった。

なぜなら鴎外にとって興味のある人、どうしても会いたい人は「長谷川辰之助」ではなく「二葉亭四迷」だったのだから。

そして「二葉亭四迷」にはいつでも会いに行くことができるのです。書斎に行って彼が遺した本を開けばいい。作家とは、そういうものでしょう。

だからこそ鴎外は、作家であり読者でもある森鴎外として、作家二葉亭四迷には別れの言葉の代わりに別れの小説を贈りたかった。そういうことのなのではないでしょうか。

そう考えると、鴎外が四迷に「会いたいようでいて、会いたくないようでもあった」という気持ちも、なんだか分かる気がするのでございます。

そして鴎外の二葉亭四迷に対する本当の気持ちも、伝わってくるような気がするのでございます。


おなじみ森鴎外長谷川辰之助」の素人講釈でございました。

 

鷗外随筆集 (岩波文庫)

鷗外随筆集 (岩波文庫)

 

 

「浮雲」の何がそんなにすごいのさ、という話。

 

浮雲 (岩波文庫)

浮雲 (岩波文庫)

 

 

前回のレビューで「浮雲」の講釈を垂れさせていただきましたが、何度も申しますようにこの作品はすごかった。そりゃーもう、すごかった。

いやお前、すごいすごいって一体何がすごいのさ? と、そうお思いのことでございましょう。ということで、引き続き「浮雲」について講釈垂れさせていただきます。


この作品のあらすじは前回のレビューをご覧いただくこととして、本書を読んで坪内逍遥がおったまげ、白旗を揚げたその理由について考えてみましょう。


二葉亭四迷は本書を書く前に、ある雑誌に「小説総論」というエッセイを書いています。このエッセイは逍遥の「小説神髄」を踏まえたうえで四迷自身の小説観を表現したものなのですが、こんな文章で始まるのです。

「凡そ形(フホーム)あれば茲に意(アイデア)あり。意は形に依って見われ形は意に依って存す。物の生存の上よりいわば、意あっての形形あっての意なれば、孰れを重とし孰を軽ともしがたからん。されど其持前の上よりいわば意こそ大切なれ。意は内に在ればこそ外に形われもするなれば、形なくとも尚在りなん。されど形は意なくして片時も存すべきものにあらず。意は己の為に存し形は意の為に存するものゆえ、厳敷しくいわば形の意にはあらで意の形をいう可きなり。」

つまり、小説には形(フォーム)と意(アイデア)があると。形というのは、たとえば文体のことであり、表現方法のことでしょう。一方で意とは物語のテーマのようなものを言うのだと思うのですね。

で、四迷は「大事なのは形より意だ」と言っているのです。では意(アイデア)とは一体なんでしょう。

実はこの意の問題こそ、逍遥が「小説神髄」で語らなかったことだったのです。「小説を道徳から解放するべきだ」とは言うものの、そうやって描くべきものはなにか、ということについては逍遥は何も語らなかった。

だからこそ「当世書生気質」においても、逍遥は確かに書生の様子を緻密に描写して見せたけれども、意地悪な言い方をすれば、ただ描写しただけでその奥には何もなかった。(このことは後に森鴎外が逍遥を厳しく批判して論争となるのですが、今日はその話ではありません)

しかし四迷が描いて見せたこの「浮雲」は、むしろ最初に意(アイデア)があってこそ生まれた小説だったのです。

その意とはなにか。それはタイトルが示す「浮雲」でございます。

空に浮かんでいる雲はふわふわとあてどなく彷徨っているように見えます。雲をつなぎとめるもの、確信できるものがどこにもないということを表しているのです。

主人公の文三は学校を卒業したいわゆるインテリなのだけれども、ところが彼の自負する「学問」は、現実の社会生活においては実用性を持たないという事実。たとえ学問をしても、自分は社会の浮雲でしかないという現実。実はそういう本音と建前の狭間を描くことこそ「文学としての小説」であり、「勧善懲悪小説からの脱却」だと、四迷はこの作品において宣言したのです。

そしてそれこそが「当世書生気質」にはなくて、西洋の名作と言われる小説には必ずあるものなのですね。坪内逍遥、まずこの時点でおったまげた。


さらに、逍遥の「当世書生気質」よりも四迷の「浮雲」の方がより西洋小説に近かった理由がもう一つありました。それは、本書「浮雲」を読めば、読者は主人公である文三と自分自身を一体化させることができる、ということ。

本書で作者が描こうとしたものは文三という若者の苦悩や煩悶です。本書を読んだとき、逍遥は気づいたに違いありません。読んでいるうちに、まるで自分が文三と同じ気持ちになっていることに。

これもまた、逍遥が一年前に上梓した「当世書生気質」ではなしえなかったことなのでした。

逍遥は一年前、「当世書生気質」を「これぞ西洋風小説!」というつもりで書いたのでしょう。しかし、あの作品を読んで小山田に共感したり、彼の身に起こったことをまるで自分のことのように感じる読者はいなかったのです。「当世書生気質」を読んでも、読者は自分が書生になった気持ちにはならないのでございます。

しかし本書「浮雲」を読めば、読者の誰もがまるで自分が文三になったように苦悩し、煩悶するでしょう。自分が「浮雲」のような不安定さ、不安感を感じるのです。そして逍遥が耽溺した西洋小説の面白さというものは、まさにそこにあった。

小説の面白さとは、読んでいるうちにまるで自分がラスコーリニコフのような気分になって怯えたり苦悩したりしてしまうこと、ウェルテルの悲恋をさも自分の身に起こったことのように感じてしまうこと、グレゴール・ザムザの気持ちに共感してしまって「ああ、もし明日の朝、目が覚めたら虫になってたらどうしよう」とつい思い悩んでしまうこと、そうではありませんか?

本書「浮雲」は日本の小説で初めて、そういう西洋小説と同じ読み心地を読者に与えることに成功した小説だったのでした。

そしてそれこそが逍遥が「小説神髄」で提唱した、「人情を描くこと」に他ならなかったのでございます。これもまた、逍遥が自ら提唱しながらなしえなかったことだったのです。

ということで、逍遥ここでおったまげたうえに白旗を揚げた。もう完敗です。


イデアが大事だということも、読者が小説の登場人物に感情移入するように書くということも、今では「え? 小説ってそういうもんでしょ?」って誰もが思うでしょうが、当時は二葉亭四迷による本書によって初めてみんなが「あ、そういうことだったんだ」と気づいたのです。

ということで、そりゃあ坪内逍遥、自分の書いていた「続当世書生気質」なんて引っ込めますよ。「当世書生気質」は西洋風小説です、なんて、恥ずかしくて言えませんよ。


というのが、私の考える本書「浮雲」のすごいところなのでございます。

いやはやこんなものがですよ、「当世書生気質」から僅か一年で出るなんて、明治の日本人、恐るべしでございますねえ。


おなじみ二葉亭四迷浮雲」の素人講釈でございました。

 

浮雲 (岩波文庫)

浮雲 (岩波文庫)

 

 

日本文学史上で一番いい人の話。

 

浮雲 (岩波文庫)

浮雲 (岩波文庫)

 

 

講釈垂れさせていただきます。

明治19年、読書界を大いに沸かせた「小説神髄」と「当世書生気質」でございましたが、早くもその翌年、一冊の書物が小説好きの心をわしづかみにしたのでございます。その書物こそ何を隠そう、本日ご紹介する「浮雲」でありました。

それではまず、物語のあらすじをざっとご紹介いたしましょう。

主人公は文三という若者。幼き頃に父を失い、母の手一つで育てられた彼は、いつか出世して母に楽な暮らしをさせてやりたいと勉学に励み、無事東京の学校に入学、晴れて書生となってっからも遊蕩なぞには目もくれず、真面目一辺倒の学生でございました。

この文三は東京で親戚の家に居候しているのですが、この家の叔母というのがちょっと癖のある人物で。

というのはこの叔母お政、表だって邪険にするわけではないのですが、腹の底では文三のことを嫌っているようで、チクリチクリと文三に厭味を言ったりするのでございます。

文三としても正直居づらい家ではあるのですが、とは言え書生の間は先立つものもなし、ひたすらぐっと我慢をしていたわけで。

さてこの家にはお政と文三のほかにお政の娘、文三の従妹にあたるお勢という娘もおりまして、この娘が非常に美しい。加えて学問の好きな女子でございまして、文三に対しても親しみと尊敬をこめて接してくれるのです。文三がお政に我慢してでも居候している理由には、このお勢の存在も大きかったのでございました。

さてそんな文三も無事卒業し、就職することとなりまして。そうして録を食むようになると、お政はまるで掌を返したように文三をほめそやしてくれます。また文三も給料をかせげる身になったからには故郷の母を東京に呼んで共に暮らそうかと、そんなことも考えておりました。

そういうことなら是非とも嫁を貰った方がいい、お政は暗にお勢をやってもいいということで。お勢もまた、まんざら悪い気持でもない様子。文三の人生は順風満帆のように思われたのでした。

ところがここで青天の霹靂。文三はある日会社の上司の癇に触れてしまったのか、クビになってしまうのでございます。

そうなるとお政はまた態度豹変。文三に向かってろくでなしだの意気地なしだなどと言いたい放題。もはや以前のような遠慮もありません。

それに加えて文三にはさらに悩みの種がございまして。この家の近所に住む本田昇という男、文三の同僚でもあったこの男は文三とは違って随分世渡りの上手い男で。

口が上手くておだて上手なこの昇という男のことをお政も気に入っているようですし、加えて会社ではクビになった文三と引き換え、昇は昇級をしたのだとか。

この昇が、用もないのに文三を心配してと言いながら度々この家に遊びに来るその本当の目的は、どうやらお勢にあるらしく。

さあ気が気でない文三でございます。お勢のことも気になるが、いやそれ以前に自分の将来のことも心配だ。あああどうしたらいいものか…。


実は坪内逍遥は「当世書生気質」の最後にこんなことを述べております。

「作者幸ひに間暇を得なば、再び管城子をやとひいれて、他日『続当世書生気質』を綴らんとす。」

続編書くよ。どうぞご期待あれ! と逍遥は意気高々に宣言して「当世書生気質」を閉じたのでございます。

そんなこともありましたから、この「浮雲」が刊行された時には「遂に来たか!」と急ぎ買い求めた者もさぞ多かったことでございましょう。

ところが頁をめくってびっくり、そこにはこう書かれていたのでした。

「合作の名はあれどもその実四迷大人の筆になりぬ 文章の巧なる所趣向の面白き所は総て四迷大人の骨折なり」

そう、本書は表紙には春廻舎朧、二葉亭四迷の合作と銘打ってあったものの、その実二葉亭四迷という当時誰も聞いたことのなかった若者の単著であったのでございます。

まあ、軽い詐欺ではございますが、版元からすれば仕方のないこと。確かに前年に刊行された「小説神髄」「当世書生気質」はよく売れたものの、未だ逍遥の提唱する「文学としての小説」なんぞ海のものとも山のものとも知れぬわけでございます。「当世書生気質」が売れたのは、それを書いたのが文学士坪内雄蔵、春廻舎朧であったからだと考えるのが普通でございましょう。

そこで逍遥は本書を世に出すために、いわば自分の名をまだ名もなき新人二葉亭四迷に貸してやったのでございます。これは何よりも四迷のことを思ってのこと、実際本書もまたベストセラーとなり、二葉亭四迷個人にはこの「浮雲」の続編の依頼が来るのでございます。

ちょっと想像してみましょう。逍遥が「当世書生気質」に続編を書く旨宣言していたということは、普通に考えればそのころすでに頭の中で構想が練られていたと考えるのが妥当です。もしかしたら書き始めていたかもしれません。

ところがそんな折、彼はまだデビューしていない若者の原稿を読むことになるのです。そしてその原稿は、自分が構想していた、あるいはすでに執筆し始めていたかもしれない「続当世書生気質」よりも優れた作品だった。

さあ、この時もしも坪内逍遥が自分の立身出世のみを考えるような精神の卑しい人物であったならば、何やかやと因縁をつけて本書を闇に葬ったことでしょう。あるいはそこまでしなくても、「ヤバイ、あの原稿が世に出る前に続編を書き終えなければ!」と急ぎ執筆に取り掛かったことでございましょう。

しかし逍遥はそうはしなかったのでした。彼はその原稿「浮雲」を、むしろ世に出すために尽力したのでございます。そして自分は「続当世書生気質」を書くこと自体をやめてしまった。

言うなれば坪内逍遥は本書を「続当世書生気質」と認めたと言っても過言ではございません。

自分のライバル、あるいはもしかしたら自分よりも上かもしれない人物を潰すことなく無関心を装うこともなくあえて推挙する、そんなことができるのは、並大抵の人物ではございません。人が良すぎるとも言いますが。

まあ文学界広し、大作家多しと言えども、いい意味では個性が強い、悪い意味では……コホン、まあ、色んな人がいるわけで。


というわけで、坪内逍遥が立派な人だという話をしていたら、肝心の本書の内容に触れる紙幅が無くなってしまいました。

坪内逍遥が認めざるを得なかったほど、この作品はすごかった。「当世書生気質」を、まさに発展させた物語だったのでございますが、どこがどうすごかったのかというその話はまた後日。

おなじみ二葉亭四迷浮雲」の素人講釈でございました。

 

浮雲 (岩波文庫)

浮雲 (岩波文庫)

 

 

遂に、新しき詩歌のときは来りぬ、という話。

 

明治・大正 詩集の装幀:The Art of Japanese Book Covers: Late 19th and Early 20th Century (紫紅社文庫)

明治・大正 詩集の装幀:The Art of Japanese Book Covers: Late 19th and Early 20th Century (紫紅社文庫)

 

 講釈垂れさせていただきます。

 

文学士坪内雄蔵が小説の世界に西洋の風を招き入れるより3年前、一足早く西洋の風が吹いたのが、詩歌の世界でございました。

明治15年、外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎という東京大学の教授、助教授によって英米仏の訳詩十四編と創作詩五編が収められた新体詩抄」は、俳句でも和歌でもない「詩」という新たな文学を世に提示したのでございます。

その3年後、湯浅半月は同志社英学校神学科の卒業式で全688行からなる一大長編叙事詩「十二の石塚」を朗読。後に出版された本書は日本の近代詩の嚆矢となりました。

また、同じくクリスチャンであった北村透谷が詩集「蓬莱曲」を出版したのが、明治21年のこと。透谷はまた評論家としても活躍し、若くして夭折するものの、後の島崎藤村らに大きな影響を与えます。

小説のみならず詩の世界においても西洋化、近代化をものにした大人物として、鴎外こと森林太郎、山田美妙の両者も忘れるわけにはいきませんね。

さらに、後に自然主義の先駆となる国木田独歩を中心に、田山花袋柳田國男らの詩が収められた「抒情詩」が発表されたのは、明治30年のことでした。

 

さて、明治初期の啓蒙主義と急激な欧化の風潮は、一方でナショナリズムを生み出すことにもなるのでございます。

そんな時代に登場した新体詩一番の大スターと言えば、島崎藤村でございましょう。明治30年に処女作若菜集で登場した藤村は、その後も「一葉舟」「落梅集」など明治の浪漫主義を体現する詩人でございました。

藤村と人気を二分したのが、土井晩翠でございます。その処女詩集天地有情は女性的で柔らかな抒情詩を得意とする藤村に対して男性的な叙事詩的作風で注目を集めました。

また明治33年には「明星」の刊行が始まります。与謝野晶子「みだれ髪」はもちろんのこと、与謝野鉄幹もまた多くの詩を発表し、特に晶子との合著である「毒草」は話題となりました。

後に小説家としても活躍する岩野泡鳴が登場したのもこの頃。自ら苦悶詩と称した作風で「夕潮」などの作品を残しました。

「明星」と人気を二分した詩歌雑誌が「文庫」でございます。ここで活躍したのが河井酔茗。第一詩集「無弦弓」などが有名ですね。

また河井酔茗とともに「文庫」の代表詩人と目されたのが、伊良子清白でございます。彼が発表した詩集は「孔雀船」ただ一編でしたが、近代詩至上の白眉と称される作品です。

 

さて、浪漫主義はやがて象徴主義へと発展してゆき、ボードレールランボーに影響された若い詩人たちが登場し始めます。

藤村が詩の世界から引退して後、詩壇の第一人者と目されたのは薄田泣菫でございました。「暮笛集」などの彼の詩は、後に北原白秋ら後世の詩人に大きな影響を与えたと言われています。

また日本における象徴詩を完成された人物として、蒲原有明を忘れるわけにはいきませんね。「春鳥集」は挿画が青木繁であることでも有名です。

明治28年に出版された上田敏の訳詩集海潮音は、実はこの時期に再評価されたのでした。上田は今では「近代詩壇の母」とも称されているそうでございます。

 

そして「白露」と並び称された北原白秋三木露風の時代が訪れます。

白秋が処女詩集邪宗門を刊行したのが明治42年、そしてこの年は三木露風が第二詩集「庭園」を発表、文語調の清新な詩風で評価を得た年でもありました。

白秋が設立した「パンの会」に加わった人物として、木下杢太郎がおりますね。エキゾチシズム溢れる江戸趣味を漂わせた情調詩が持ち味でございました。

 

時代は大正に移り、新象徴派の詩人たちが登場し始めます。日夏耿之介は第一詩集「転身の頌」を限定百部で出版、彼は自らの詩をゴシック・ロマンと称したのでした。

上田敏の「海潮音」と並んで名訳詩集の誉れが高いのが、堀口大学「月下の一群」でございます。堀口はまた、新感覚の知的抒情詩も多く創作しました。

大正時代の詩人の一番人気と言えば、やはり萩原朔太郎でございましょう。処女詩集「月に吠える」を発表したのが大正6年のこと。朔太郎の登場によって日本の詩壇は新たな展開を迎えたと言っても過言ではございますまい。

また「愛の詩集」で有名な室生犀星が登場したのもこの頃でございます。北原白秋を通じて始まった犀星と朔太郎の交流は、生涯続いたそうでございます。

大正13年宮沢賢治が生前に唯一発表した詩集が春と修羅でございます。これは著者の自費出版として刊行されました。

そして大正の末期、象徴主義に代わって吹き荒れたのが、ダダイズムでございます。虚無的で、既成芸術への反発心に満ちたこの前衛芸術からは高橋新吉ダダイスト新吉の詩」辻潤の編集によって刊行されたのでございます。

 

と、ざざざっと明治・大正の詩史を述べてまいりましたが、何をやりたかったかと言えば、本書に書影が掲載されている初版本を出来るだけ多く紹介したかったのでございます。

という事でちょっと付け足しますと、ほかにも石川啄木「一握の砂」とか、窪田空穂「まひる野」とか、竹久夢二「小夜曲」とか、あああ、全部はとても紹介しきれません!

 

ということで、ここに名前を出した名著の初版本を見てみたいなと思われた方がおられましたら、どうぞ本書を一度手に取っていただければ、これ講釈冥利に尽きるというものでございます。

 

いやはや、美しい本というのはいいですねえ。

最後に、本書の「はじめに」で引用されている、多くの詩集の装幀も手がけた恩地孝四郎の言葉から。

「本は文明の旗だ。その旗は当然美しくあらねばならない。美しくない旗は、旗の効用を無意味若しくは薄弱にする。美しくない本は、その効用を減殺される。すなわち本である以上美しくなければ意味がない。」

おなじみ工藤早弓「明治・大正詩集の装幀」の素人講釈でございました。

 

おまけ 本書の画像の一部をご紹介。

島崎藤村若菜集

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 北原白秋邪宗門

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萩原朔太郎猫町

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