文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

無限の集合論がヤバすぎる話。

 

「神」の証明―なぜ宗教は成り立つか (講談社現代新書)

「神」の証明―なぜ宗教は成り立つか (講談社現代新書)

 

 

えー。相も変わりません。本日もまた一席お付き合いいただければと思う次第でございますが、本日ご紹介したいのは落合仁司著の「<神>の証明―なぜ宗教は成り立つか」でございます。

 


で、いきなりなんですが、あなたは神を信じるでしょうか?

 

そう言われると恐らく多くの人は「うん、まあ、一応信じる」と答えるのではないかと思うのですね。よく「日本人は無宗教だ」と言われますが、無宗教と無神論は違うのでありまして、特定の宗教に帰依していないことは別に無神論ではないのですよね。この辺の感覚って外国の人にはうまく伝わらないのですが。

 

無神論の人というのは、よく宗教というものは、あるいは信仰というのは非合理なんだと仰います。それ故に私はそんなものは信じないのだ、と。

 

しかしですね、これは本書で述べられていることですが、論理的に何かを存在しないと証明することって、実はめっちゃ難しいんですよね。と言うかそんなことはほぼ不可能に近い。だから私は宗教や信仰は不合理だ、と言う人がいたら、「じゃあ、あなたは神の不在を論理的に証明できるんですか?」と、こう問いかけたいのであります。

 

そうすると多分できないのですよね。ということはその人は、「神の不在」という論理的に証明できないことを真実だと思っている、つまり信じているってことになるわけでありまして、そうするとですよ、実は「神だの宗教だのは論理的ではない」と言っている人の方が一見合理的であるように見えて実は非論理的だ、ということになると思いませんか? だってその人は「神は存在しない」という非合理を信じているのですから。

 

……うーん、もうなんか、早速わけのわからない話になりつつありますが。

 


多くの人が宗教と論理とは対極にある、と考えているかもしれません。でも、本当にそうでしょうか?

 

では本書に倣って、キリスト教を例に考えてみましょう。

 

キリスト教という宗教はイスラム教と同じくユダヤ教から派生したのですね。2000年ぐらい前に。

 

で、この2000年前の新興宗教であったキリスト教は、まず西へ西へと布教が広まってゆくわけです。

 

ところでここで気になることがあるのです。というのはですよ、2000年ぐらい前の西ヨーロッパと中東の間にあったのはギリシャを中心とした地中海文化圏でございます。

 

で、この辺にはそれこそプラトンアリストテレスから連綿と続くギリシャ哲学の論理体系ができあがっていたはずなんですよね。

 

そんなギリシャの影響下にあった地域がこの頃続々とキリスト教化していった、これって不思議なことだと思いませんか?

 

ギリシャと言えばこの時代のいわば都会ですよ。で、そこには知識人たちもたくさんいたでしょう。そんなところにですよ、ナザレだか何だかよく分からん田舎から一人の漁師(ヨハネ)が現れて言うのです。

 

「俺は神の子を知ってる」

 

「はあ?」でございますよ。普通に考えたら。「なんだこの田舎者は?」てな話でございます。しかもよく話を聞いたらその神の子とやらはどっかの大工の倅らしいぞ、と。「お前なめとんのか」ってことになるはずだと思うのですよねえ。

 

ところがなぜかそうはならなかったのでした。何でなのかはよく分かりませんが、歴史的事実としてキリスト教ギリシャに広まり、そしてさらに西へと広まってゆくのです。

 

しかもそのうちにキリスト教とその神学の方がギリシャの哲学よりも重要なものと考えられるようになり、ルネサンスの頃にヨーロッパで再発見されるまで、ソクラテスアリストテレスも皆忘れ去られてしまうのですよね。

 

とは言え、ヨーロッパの、とりわけギリシャ近辺のキリスト教父たちは彼らギリシャ哲学を研究している哲学者たちと対峙せざるをえなかったわけで、そんな中で生まれてくるのが、様々なキリスト教神学なのでございます。

 

この神学の中で有名なものは主に三つあります。それが神の受肉、三位一体論、そしてキリストの再生と神化の問題です。

 

当時の知識人たちの中でも、さすがに無神論者はいませんでした。でもですよ、それでもやはり気になるのは、神の存在を否定しようとは思わないが、なんでキリストが神の子なんだよ、というところでしょう。

 

すごく単純に言えば、偉いのは神でしょ、キリストじゃないでしょ、ってことですよね。あと神が人になったり、人が神になったり、そんなことってあるんですか? と。

 

で、私たちは通常、このことを受け入れることを「信仰」と呼んでいるんじゃないでしょうか。

 

ところが本書において著者は言うのです。「いや、実はそこは信仰の問題じゃないんだ」と。

 

つまりさっき挙げたキリスト教で言う神の受肉、三位一体、キリストが人でありながら同時に神でもある、というこの3点は「信じるか信じないか」という問題ではなく、論理的に証明が可能である、と、こう言うのです。

 

で、そのために著者が用いるのが、数学における集合論なのでございます。

 

この集合論とは、カントールというドイツの数学者が創始したある数字の集まりと別の数字の集まりとの関係を定式化する、という数学の理論でございまして、例えばAの中に1と2と3が含まれている場合、A={1,2,3}と表記し、1,2,3である要素aはa∈Aと表記します。

 

で、例えばBという集合がありそれがB={1,2,3,6}だとすると、AはBの部分集合であると言い、A⊂Bと表記するのですね。

 

で、ここに三位一体論、東方正教で言う三一論をあてはめると、キリスト教における「神」とは、「父(生まれざる者かつ発出されざるもの)」と「子(生まれる者)」と「精霊(発出されるもの)」によって成り立っています。しかし同時にこの三者は「父」である、と言うそういう話なのです。

 

これを数学的な表現に置き換えると、生まれる者であるキリストをA、発出されるものである精霊をB、父なる神は生まれざる者かつ発出されざるものだから¬Aかつ¬B(¬というのは~ではない、という記号です)なので、

 

x={A,B,¬Aかつ¬B}

 

が証明できればよい、という、そういう話になるのですね。

 


ところでこの集合論において無限ということを考えると、必ずパラドックスに陥ってしまいます。

 

例えばA={1,2,3,4,5,6,7,8,9,10}という集合があったとします。この時この集合に含まれる偶数の集合Bを考えると、B={2,4,6,8,10}になりますよね。ということは、Aという集合に含まれる部分集合Bの要素は5つですから、Aに含まれる要素の数10よりも少ない数字になります。というかそうならなくてはなりません。BはAの部分集合なんですから。

 

しかしこの集合Aが無限であったらどうなるでしょうか。Aの要素であるnがn+1,n+2,と無限に続いているとします。で、偶数は2nですから、仮にnの無限集合というものがあり得るとするならば、本来そのnの部分集合であるべきはずの2nから始まる部分集合Bもまた無限の要素を持つことになります。

 

集合Bは集合Aの部分集合であるはずなのだから、本来ならばBの要素は必ずAよりも少なくなければならないのに、Aの要素が無限であるとするならば、その部分集合であるBの要素もまた無限に存在することになる。つまりBの要素の数がAの要素の数よりも少なくならないのですね。

 

これはつまり無限の中に無限があるということになるわけで、そうするとですよ、その無限の中にもまた無限があり、さらにその無限の中にもまた無限があり……ということになってしまうわけです。

 

で、これもまた、実は神学上の問題と共通しているのですね。つまりキリストや精霊と父なる神が神という本質の元で同じでありながら別の存在だとすると、神が無限であるならばキリストや精霊は無限ではないはずじゃないの? ってことが神学上の「信仰」として受け入れなければならないところだったのです。

 

でも先に例を挙げたように無限の集合というものを想定した場合、実は神学におけるさっきの問題というのは論理的にどこかおかしいのではなく、むしろ無限の集合を想定した場合の論理をそのまま表現しているってことになるわけですね。

 


それどころか、実は無限の集合について考えるとさらに面白い結論が導かれるのです。というのは、集合Aの要素が無限だとした場合、その部分集合であるBの要素の数は、Aの数を超えてしまうのです。

 

とすると、この無限の部分集合がもたらす結論は、なぜキリストが神の子であるにもかかわらず、キリスト教は「神」ではなく「イエス・キリスト」を信仰の対象とするのか、という問題とつながってくるわけですね。

 


ということで、先に提示したキリスト教における三つの信仰の対象となるもの、「神の受肉」「三位一体」「キリストの神化」というのは実は信じるか信じないか、という話ではなく、論理的な問題である、ということがお分かりいただけたでしょうか。

 

論理を突き詰めると信仰は否定される、と通常私たちは思っていますよね。ところが、あら不思議。無限の集合論というものを考えた時、実は論理こそが信仰を裏付けちゃっているのです。

 

この無限集合の特質を証明した時、カントールはこう言ったそうです。

 

「私は見た。しかし信じられない」

 

そして彼の集合論は19世紀当時の数学界から猛反発を食らい、彼の師であるクローネッカーは彼の研究成果を出版を妨害し、ポアンカレに至っては「彼の証明した集合は集合ではない」とまで言い放ったのだとか。

 

ま、自分は無神論者だ、という方は、「信仰は非合理だ!」なんて非合理なことを言う前に、まずこの問題に真剣に取り組むべきなのでしょうねw

 


さて、それでは宗教というものは実は、完全に合理的なものだと言えるのでしょうか。つまり、宗教に信仰というものはそもそも必要のないものなのでしょうか。

 

そのことに対する本書の答えは「NO」なのですね。実はここまでの証明には一つだけ大きな穴があるのです。

 

それが何かと言うと、結局のところ、ここまでの論理はあくまでも「神が存在する」「神は無限である」という前提においてこそ成り立つ論理だ、ということです。

 

神がこの世界に存在するとするならば、そしてその神が無限であるとするならば、その神の存在も、その神がどのようにして私たち人間と関わることができるのかということも、そしてなぜ私たちが信仰によって神へと導かれることが可能なのかということも、証明する論理が成り立つわけです。

 

つまりここまで述べてきたことは、神という存在の内的世界においてのみ通用する論理である、ということ。

 

なのでもしも神というものがこの世界に存在しないのであれば、あるいは神が無限ではないとするならば、ここまで述べてきた論理の組み立てはすべて意味を失ってしまいます。

 

それは逆に言えば、こういうことです。

 

もしもあなたが神を信じるならば、ここまで述べてきた論理によってあなたは神を受け入れることができる。

 

と、そういう話なのですね。

 

著者は言います。

 

「何か騙されたような気がするであろうか。」

 

……うん、ちょっとね。

 

でもね、これもまた無限のパラドックスなのです。というのは、現状私たちは何かを理解するためには、無限であるものをとりあえず「信じる」しか論理的に乗り越える方法を持ってはいないのだから。「神」や、あるいは「論理」というものを、まず想定して受け入れなければならないのです。

 

「そもそも無限なんていう、存在しないものを考えるからそんなことになるんだ」と言う人もいるかもしれません。でもそれはそれで、「無限なんて存在しない」という論理的に証明できない信仰に基づいた論理の組み立てです。

 

つまり私たちはみんな、「神」を「信じる」か、あるいは「神以外の何か(科学とか数学とか)」をまず「信じる」ことによってしか、「考える」ことができないということ。

 


本書が描いていることは、私たちの認識能力には限界があるということを「宗教」と「数学」という一見かけ離れているように思える二つの分野が同時に証明している、ということです。

 

これは多分、「この世界は私たちが見た瞬間に生まれる」というゲーデル不完全性定理とか、量子力学におけるシュレーディンガーの猫の話と同じことでしょう。

 

もし私がある世界を信じないとするならば、私にとってそんな世界は存在しないし、あるいは存在していたとしてもそんな世界を認識することも解釈することもできないわけですから。

 


本書の最後を著者はこんな言葉でしめくくります。

「宗教とは語るものではなく、まず何よりも信じるものなのである」

あるいはそれは、私たち自身が決して「無限ではありえない」ということの証明なのかもしれませんね。

 


いやはや、実はいろんなところで「有限数の集合論はただの算数だけれど、無限の集合論はマジでヤバイよ」という話をちらほら聞いていたのですが、確かに無限の集合論はヤバイw 私は文系なので、多分ちゃんと理解したうえで話してるわけではありませんが、またこのことは別の類書も読んで改めて考えてみたいなと思うところでございます。

 

おなじみ落合仁司著「<神>の証明―なぜ宗教は成り立つか」に関する素人講釈でございました。

ソクラテス探偵の名推理!犯人はプラトニック・ラブじゃなかった話。

 

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 

 

講釈垂れさせていただきます。というよりも本日は、講釈と言うよりも世の中にまかり通っている誤った言説について、それは違うよと言わせていただきたいのでございます。

 

その言説が何かって、「プラトニック・ラブ」でございます。

 

「プラトニック・ラブ」という言葉を知らない人はいないでしょう。肉体的な愛よりも崇高な、精神的な結びつきの愛のことでございます。

 

その思想が描かれているのが本日ご紹介したいプラトンの「饗宴」なのだ、と多くの人が思っていることでございましょう。

 

でも、申し訳ありませんが、私は本日はっきりと言わせていただきます。

 

それ、間違ってますから!

 

ついでに言えば「饗宴」に出てくる話で有名なものに「人間球体説」があります。男と女はかつて一つの球体であった、それが神によって二つに分断されたために、人はお互いの欠けたもう一人の自分を求めて恋をするのだ、というそういう話ですね。

 

これも、申し訳ありませんが、はっきり言わせていただきます。

 

ソクラテスはそんな話してませんから!

 


というわけで、本書の内容をばばっとご紹介いたしましょう。

 

ある日、アガトンという青年の家で宴が催されました。で、ソクラテスもそこに招待されるのですが、「えー、まじでー、めんどくせー」と言うソクラテスがしぶしぶ家に到着すると、宴はどうやら前日から始まっていた様子。てことでもう客たちはみんなベロベロになっているのです。

 

そんな中、ひとりが言うのですねえ。「いやもう、酒は飲み飽きたわ。これ以上飲めんわ。それより、誰か面白い話してくんない?」

 

なかなかの無茶ぶりでございますが、それに一人がこう答えたのでありました。

 

「よし、じゃあみんなで愛について語るのはどうか」

 

「はあ?」でございますねえ。「それの何が面白いんだ?」と私は思いますが、ところが、なぜかその意見が採用されます。きっとその場にいた人たちは随分酔っていたんでしょうねえ。

 

ということで、みんなひとりずつ愛について演説していこうぜ、となぜかそんな話になるのでございます。

 

ま、そうやって順番にそこにいた者たちの愛についての演説があり、最後にソクラテスが登場するわけですが、ソクラテスにいたるまでのいろんな人の意見をまとめると、だいたいこんな感じになるのです。

 

① 愛=エロスとは、神である。それもとても偉大な神だ。

 

② 愛が神として優れている理由、それは愛が「自制」を促すからだ。(好きな人の前ではみんなかっこつけたいでしょ?)

 

③ ゆえに、自制をもたらさぬ愛、ぶっちゃけて言えば肉欲的な愛というものは愛の中でも一段レベルの低い愛である。

 

④ てことは、人が人を愛する場合においてとりわけ至上の愛とは何か、それは年長者の男性が美少年を愛する愛のことである。だって肉欲的になりようがないものね。

 

ということで、一般によく言われる「プラトニック・ラブ」というのは、実はプラトンがこの作品の前半で描き出した当時のギリシャ人たちの常識的な恋愛観だということがお分かりになるでしょう。

 

ついでに言えば、人間球体説もこの前半の部分において登場するアリストファネスの説でございます。ソクラテスの説ではありません。

 

さて、本書の前半の③ぐらいまでは「確かにそうだ」と思う方も多いのではないでしょうか。だから恐らく、多くの人がソクラテスが「プラトニック・ラブ」は崇高なものだと言った、と思っているのでございましょう。

 

でも、実はこの作品でソクラテスはこの当時のギリシャ人たちの恋愛観は「間違ってる」と言っているのです。だって、そうじゃなきゃ、みんなの話の後にソクラテスが満を持して登場する意味がないじゃないですか。

 


ちょっと話がずれますが、プラトン著作が2000年以上にわたって読まれ続けているその理由はなんでしょう?

 

もちろんソクラテスがすごい思想家である、ということが第一の条件でしょうが、私はそれだけではないと思うのですね。

 

私が思うプラトンが読まれ続けている理由、それは一言で言うならば、「面白いから」です。

 

…いや、お前は何を言っているんだ? とそう思われるかもしれませんが、もう少し話を聞いてください。

 

ではなぜ「面白い」のかというと、それはプラトン著作は押しなべてある物語の構造を備えているということです。

 

その物語の構造というのは、推理小説なのですね。

 

推理小説でよくあるパターンとして、こういうのがあるでしょう。

殺人事件が起こる。

 

   ↓

 

刑事やほかの誰かが推理をするが間違っている。そしてさらに連続殺人事件発生。

 

   ↓

 

みんながあたふたする中、名探偵登場。真犯人を暴き出す。

 

   ↓

 

めでたしめでたし。

 

こういう推理小説、読んだことあるでしょう?

 

実はプラトン著作はこれと同じ構造を持っています。

 

つまり、まず最初にいろいろな人が自説を述べてゆきます。これは当時のギリシャ人にとってはかなり常識的な説であるか、あるいは論理的に必然的に導かれる説です。

 

で、読者はこの前半を読みながら「なるほど、そうだそうだ」と思うのですが、最後にソクラテスが登場して、言うのです。

 

「いや、それは違うよ。事件の真相は……」

 

で、ここで読者にとっては認識の逆転が起こるので、プラトン著作というのは哲学書でありながら非常に「面白い」のです。まるで推理小説を読んでいるような感覚を味わうことができるのですから。

 


ということで本書「饗宴」もまた、そういうスタイルをとっています。本書では、至高の愛とは(後世で言う)「プラトニック・ラブ」だよね、とみんなの話がまとまりかけたところでソクラテスが登場、自説を語り始めるのです。

 

「プラトニック・ラブ」も「人間球体説」も、愛という事件の真相ではないと。

 


では、ソクラテス名探偵が述べた愛の真相とはどんなものなのでしょうか。まとめてみましょう。

 

ソクラテスは自説を述べるのではなく、女友達のディオティマから聞いた話をする。

 

まあ要するに、愛について何かを知っている者がもしいるとするなら、それはお前らみたいな(もちろん彼自身も含めた)酔っぱらいのオッサン連中なわけねーだろうがってソクラテスは言うのですね。人間には男と女がいるってこと忘れてんじゃないの? と。

 

で、オッサン連中が愛について語ったりすると、どうせ話はエロい話になるか、「女なんていらねー! 友情が大事だー!」みたいな話にしかならないだろうがと。ま、昔も今も男というのは大して変わらないってことですね(悲)。居酒屋で男同志集まってそんな話をしているそこのアナタ! 2000年以上前にすでにソクラテスに見透かされてますよw

 

② ディオティマによると、愛=エロスは神ではないらしい。

 

「神」か否かということは普遍的なものや絶対的なものであるか否かということです。で、当時は美は神だと思われていました。それは絶対的なものだと。しかしソクラテスは「美しい人っていうのは、美しくあろうとしなくても美しいでしょ。でも愛する人っていうのは愛そうとしなくても愛にあふれている人のことじゃないじゃん」と言うのです。だから愛を神としてまるで美のようなものとして語るのは間違ってるよ、と。

 

③ 愛とは「神」を求める心のことを言うらしい。

 

では愛とはなんなのか。ディオティマによると、愛=エロスというのは永続性への希求なのですね。

 

「神」が絶対的で普遍的なものであるならば、それは永続性のあるものです。そして愛とはそれを求める心だとディオティマは言うのです。ということは、愛し合う男女がいたら「セックスしたい」と思う方が普通なのですね。だって子孫を遺すことは永続性を求める行為ですから。だからセックスは別に卑しい行為でもなんでもないわけです。にもかかわらずそういう風に導かれる論理があれば、そっちの方がどこかおかしいのですね。永続性を希求しないわけですから。

 

で、愛=永続性への希求なのだとしたら、それは何も人と人の間のものだけではないだろう、とディオティマは言うのです。国家に対する愛とか、学問に対する愛というのもありえるよね、と。

 

では、そこに順序はあるでしょうか。「プラトニック・ラブ」は普通の愛より優れているとか、男女の愛より男同士の愛の方が崇高だとか、人間同士の愛よりも国家や学問への愛の方が素晴らしいとか、そういうことがありうるでしょうか?

 

ないですよね。どう考えたって。なぜなら、問題は希求する「対象」ではなく、希求するという「行為それ自体」なのですから。

 

「対象」が愛の優劣や順序を決めるとするならば、その「対象」の何によって優劣が決まるのでしょう?

 

「俺はお前よりたくさんの女と寝たことがあるから俺の方がお前より愛を知ってる」なんて言う人がいたらどうでしょうか。「はあ?」ですよね。数が大事なわけじゃない。

 

同じように「俺の方が賢いから俺の方がお前より智(ソフィア)を愛している」なんて言う人はどうでしょうか。あるいは「俺の方が国家の歴史をお前よりもよく知っているから、俺の方がお前より国家を愛している」なんて言う人は?

 

「愛」って、能力や知識の量が大事なんでしょうか。そうじゃないですよね。

 

永続性を希求するという「行為」よりもむしろその「対象」に注意を向けるから、「対象」の数や量や質が気になるのです。でも、それって要するに自分の欲を満たしたいだけで、愛じゃないだろ、って話です。「プラトニック・ラブ」だろうと何だろうと、愛に順序や優劣をつけるとするなら、そっちの方がよっぽど単なる肉欲なんじゃないですか? と。あんたたちそんなことも分からないの? 酔っぱらってんじゃないの? と。(酔っぱらってるんですが)

 


ということで、実は本書においてソクラテスは、「プラトニック・ラブ」をむしろ否定しているということがお分かりになるでしょう。少年愛を礼賛しているわけでもありません。一体どうしてそんなことになってるんですかね。

 

「プラトニック・ラブ」はおかしい、愛する「対象」に目を向けること自体が間違っている、というのが本書「饗宴」の趣旨なはずなのですが、なぜか本書によって「プラトニック・ラブ」は世界中に広まってゆくのでした。「プラトニック・ラブ」なんて、単なる酔っぱらいの戯言にすぎないんですけどね。まったく、ソクラテスプラトンも、草葉の陰で泣いているのではないでしょうか。それとも呆れているでしょうか。

 


と、まあ、鼻息荒く述べさせていただきましたが、プラトン著作の「面白さ」は実は、ソクラテスという人が当時の常識の範疇からしてかなり過激なことを言っているからだ、とも言えるのかもしれません。論理的な推理、そしてそこから導かれる意外な真相、これぞ推理小説の醍醐味とも言えましょう。プラトン著作をまだ読んだことがないという方は、ミステリーを読む感覚で、ソクラテス探偵の名推理を味わってみていただきたいのでございます。

 

最後にもう一度繰り返しますが、「プラトニック・ラブ」は言うなればワトソン君の推理です。でもシャーロック・ホームズの推理は違いますから! これはもう、声を大にして言いたいのです。

 


おなじみプラトン著「饗宴」に関する素人講釈でございました。

 

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 

 

まるで足つぼマッサージみたいな話

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 

えー、本日もお付き合いいただきたく、またぐだぐだと講釈垂れさせていただきたいわけでございますが、本日ご紹介したいのはショーペンハウアーの「読書について」でございます。

 

ショーペンハウアーと言えば、ニーチェにも影響を与えたと言われる偉い哲学者でありますが、本書はタイトル通り、そんなショーペンハウアーさんによる読書に関するエッセイなのでございます。

 

より正確に言えば晩年に出版された『余暇と補遺』というエッセイ集の中の読書に関するものを集めたのが本書でして、ほかにも「自殺について」や「幸福論」なんかも有名ですね。

 

このショーペンハウアーという人はまあ、なかなかアクの強い人なんでございまして、本書もタイトルが「読書について」なのだから読書の効用だとか、本はたくさん読んだ方がいいよーとか、そんなことが書いてあるのだろうと普通は思うでございましょう。

 

が、全然そんな話ではないのでございます。なぜならショーペンハウアーさん、本書の最初のエッセイである「自分の頭で考える」の冒頭でこんなことを言っちゃうのですから。


「どんなにたくさん蔵書があっても、整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ」

 

ええ、もう、いきなり「ギクッ」でございますねえ。ええと、ショーペンハウアーさん、もしかして私の本棚をご覧になりましたか?

 

そしてショーペンハウアーさんは言うのでした。「本なんか読むより、自分の頭で考える方がよっぽど大事だ」と。大体愛書家とかいう奴らはみんな自分の頭でものを考えようとせずに、どっかの本から誰かの言葉を引っ張ってきて知識をひけらかしてやがる。本ばっかり読んでるとそんなくだらない奴になっちゃうよ、と。

 

で、イギリスの詩人アレクサンダー・ポープの言葉を引用するのですが、この引用がまたひどい。


「頭の中は 本の山
 永遠に読み続ける 悟ることなく」

 

……嫌ですねえ。何なんでしょうか、この人は。

 


さらにショーペンハウアーさんの怒りは匿名の批評家たちにも向けられます。文句があるなら名乗ればいいものを、匿名の影に隠れて人の書いたものを批判するとは何事か、と。


「物書きの世界における匿名は、市民共同体における金銭詐欺にあたる。「名乗りでよ、ごろつき。さもなければ沈黙を守れ」が合言葉でなければならない。署名のない批評に対して、ただちに「詐欺師」という言葉を補ってかまわない」

 

……そこまで言わなくてもいいんじゃないかと思ったり。

 


で、二つ目のエッセイが「著述と文体について」なのですが、これもまたすごい。どうもショーペンハウアーさんは言葉の誤用が気になる方のようでございます。

 

とにかく最近のドイツ語の誤用は目に余る! と、そりゃもう読みながらこっちにまで唾が飛んでくるんじゃないかというくらいの剣幕で、正確なドイツ語を使うことのできないへぼ文士どもをこきおろすのでございます。

 

特に言葉の本当の意味を知らないくせに新語をでっち上げ、大したことを言っていないくせにまるで深遠なことを言っているように見せかけようとするクズがいる、と。


「痛ましいまでに脳みそが足りないのを埋め合わせようと、新語、新手の意味合いの語、あらゆる種類の言い回しや合成語を用いて、懸命に知者をよそおおうとする」

 

それが誰かと言うと、フィヒテでありシェリングでありヘーゲルだと。

 

……こらこら、名前を出しなさんな。

 


そして最後に収録されている「読書について」では、ショーペンハウアーさんの怒りはさらに高まります。

 

大体において現代に出版されている本の十中八九はクソであると。文学の世界で時代の波にもまれて生き残る名作なんて数十年に一冊出るかでないかなのだから、毎日大量に出版される本のほとんどは読むべき価値がない。

 

にもかかわらずこんなに毎日大量の本が出版されるのは、読者の多くがただ新しいだけで価値があると思い込んでいるからであり、出版社や書店や批評家がそうであるかのように触れ回っているからであり、それに乗っかって大量の三文文士が小金を稼いでいるからだ、と。

 

そしてショーペンハウアーさんはこう言い放つのでございます。


「したがって私たちが本を読む場合、最も大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大うけする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである」

 

もうショーペンハウアーさん、この世界の人間の大半のことが嫌いなんじゃないかと思うわけでございます。

 

一方でショーペンハウアーさんはこんなことも言っています。


「退屈には、客観的退屈と主観的退屈の二種類がある。(中略)主観的に退屈なのは、読者がそのテーマに関心がないせいで、読者側の関心になんらかの制約があるからだ。だからどんなにすばらしいものでも、主観的に退屈、つまり人によっては退屈なこともある。また逆に劣悪なものでも、人によってはそのテーマや著者に興味をおぼえ、主観的に気晴らしになることもある」

 

そう考えると、何が良書で何がそうでないかは結局人それぞれ、なのかもしれません。ていうか、そういうことにしとこうじゃありませんか。ね、ショーペンハウアーさん。

 


ま、よく本には多少の毒があった方がいい、なんてことを言いますが、本書はまさに猛毒でございます。心臓の弱い方は読むのを控えた方がよろしいかと。

 

とは言え実はショーペンハウアーさんはただ悪口や暴言を吐きまくる嫌な人なのではございません。いやむしろショーペンハウアーさんからすれば、彼の言葉は毒なんかではなく、その言葉で耳が痛いとすれば、それはこちらに問題があるのです。

 

足つぼマッサージを痛がる人は内臓のどこかが悪い、というのと同じですね。

 

そんなわけで本書を読むことは心の健康にも良い、かもしれません。良くないかもしれません。私は責任持ちません。

 

でも、どうです? ショーペンハウアー先生の足つぼマッサージならぬ耳つぼマッサージ、人によっては結構痛い(私はかなり痛かった(泣))ですが、あなたも一度試してみませんか?

 

おなじみショーペンハウアー著「読書について」に関する素人講釈でございました。

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 

鏡の国の漱石の話。

 

 

草枕 (岩波文庫)

草枕 (岩波文庫)

 

  

えー、相も変わりません。本日も眉唾物の素人講釈に一席お付き合いいただければと思います。

 

本日取り上げるのは夏目漱石の「草枕」でございます。「智に働けば角が立つ」の冒頭で有名なこの作品、名作だけに様々な切り口がございましょう。

 

一応あらすじをぱぱっとご紹介すると、画工である主人公が俗世である東京を離れて熊本の田舎へやってくるのですね。で、ここで様々な人と出会いながら自分にとっての芸術とは何か、ということをひたすら考える、そんな話でございます。ぱぱっとしすぎですか(汗)。

 


で、私はこの作品を「鏡」をキーワードに読み解いていこうと思うのでございます。

 

さてさて、まず「鏡」とはなんでございましょう? まあ、皆さん毎朝見ておりますよね。人によっちゃあもっとしょっちゅう見る人もいらっしゃるかもしれませんが。あの鏡でございます。

 

この作品において鏡がはっきりとした形で登場するのは、第五章の場面でございます。

 

主人公が床屋に行くのですね。で、髪を切ってもらうのだけれども、当然その時に主人公が鏡を見るのです。しかし主人公は鏡に映った自分の顔を見て、ああ嫌だ嫌だと思う。何だこの鏡は、と。ちょっと長くなりますがその場面を引用しましょう。

「右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで裂ける。仰向くと蟇蛙を前から見たように真平らに圧し潰され、少しこごむと福禄寿の祈誓児のように頭がせり出してくる。いやしくもこの鏡に対する間は一人でいろいろな化物を兼勤しなくてはならぬ。写るわが顔の美術的ならぬはまず我慢するとしても、鏡の構造やら、色合や、銀紙の剥げ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜体を極めている。小人から罵詈されるとき、罵詈それ自身は別に痛痒を感ぜぬが、その小人の面前に起臥しなければならぬとすれば、誰しも不愉快だろう。」

つまり自分の顔が美しいとは言わないけれども、ここまでひどく見えるのは鏡のせいだ、と主人公は思うのですね。言いがかりにもほどがありますが。

ところで、鏡という言葉には道具としての意味のほか、実はもう一つあるそうなのですね。

 

万葉集にこんな歌があるそうで

「見る人の、語り継ぎてて、聞く人の、鏡にせむを、惜(あたら)しき、清きその名ぞ、おぼろかに、心思ひて、空言(むなこと)も、祖(おや)の名絶つな、大伴(おほとも)の、氏(うぢ)と名に負へる、大夫(ますらを)の伴(とも)」

この歌の「聞く人の、鏡にせむを」というのは、「聞く人が手本とするだろうに」という意味だそうで、つまり鏡というものはただありのままを写すものであるだけでなく、それを見て手本とすべきもの、という意味があるのです。

 

このことに先ほど引用した部分を重ね合わせると、主人公自身が自分自身を手本としたいとは思っていないことがよく分かります。ではなぜ手本としたくないかというと、自分自身が俗な醜い存在だと思っているからでしょう。

 

ここにこの物語の重要なテーマである「芸術とは何か」ということが示されていると私は思うのですね。

 

主人公は思います。

「恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲まき込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。
 これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である」

つまり世の中から一歩離れたところに自分が立つことによって芸術は生まれてくるのだ、と。

 

でもそうやって世の中から一歩離れたところに立つ、とはどういうことでしょうか。

 

このことを示しているのが、「鏡が池」だと私は思うのでございます。

 

水面を覗き込むと、そこには自分の顔が見えますよね。まるで鏡のように。つまり「鏡が池」はその名の通り巨大な鏡とも言えると思うのですね。

 

さて、ここで第七章に着目していただきたいのですが、この章は主人公が温泉に入りながらあれやこれやと考えている場面でございます。

 

このシーンの中で主人公は、ミレーが描いた「オフェリヤ」に思いを馳せるのですね。この絵はご存じの方も多いでしょうが、ハムレットの登場人物であるオフィーリアが川に身を投げて死んでいる様を描いたものです。

 

オフィーリアは死んで水面に浮かんでいます。ということは、実はオフィーリアは鏡の向こうからこちらの世界を見つめているわけです。

 

主人公は俗世から逃れようとして芸術について考えます。芸術的ではない形で世の中を見るということは、つまりあの床屋の鏡で世界を見るようなものです。

 

そうではない、もっと美しい鏡がこの世界にはあるのではないか、そうやってたどり着く先が、「鏡が池」なのでございますねえ。

 

しかし主人公がそこで見るものは、「死の影」なのでございました。非人情や芸術を突き詰めていけばそこにあるのはもはや「生」ではない。美しすぎるものは、人情のないものは、もはや動いてはいない。主人公はようやくそのことに気付くのでございます。

 

観察も良い。非人情を貫き通して気狂いになるのも結構だ。でもそれではまだ自分が理想とする芸術とは言えない。鏡の向こうの世界がどれだけ美しかろうと、そこはもはや死んだ世界に他ならない。漱石のそんな声が聞こえてきそうでございます。

 

美は死へと向かいます。なぜなら理屈で考えられることはその時点ですでに「止まって」いることだからです。

 

しかし人は「止まって」いるわけではありません。様々な思惑を持って自分勝手に「動い」ているもの。理屈では測れないものなのです。

 


物語の最後、主人公は那美さんの従兄弟である久一さんを送って舟に乗ります。その舟からは、物語の冒頭の舞台となった山が見えるのでした。

 

これは主人公がこの時、鏡の向こうの世界にいることを示しています。天狗岩を境として、世界はこちら側と向こう側に別れているのです。しかし鏡の向こうの世界にいながらも、主人公は決して死んでいるわけではありません。鏡の向こうの世界をさらに観察することによって、主人公はあちら側でもこちら側でもない世界に自分の求める「美」を発見するのです。

 

それが、お那美さんがふと見せた「憐れ」の表情だったのでした。

 


なぜ人は、美しくあることができないのでしょう。そしてもし美しくあろうとすれば、なぜ人は死ななければならないのでしょう。

 

でも本当の美しさというものは、実はそのどちらにもないのかもしれません。「美しさ」と「醜さ」を併せ持った「鏡」、それこそが漱石が描こうとした至高の芸術だったのかもしれない、そんなことを思うのです。

 


おなじみ夏目漱石著「草枕」に関する素人講釈でございました。

 

草枕 (岩波文庫)

草枕 (岩波文庫)

 

 

ブレヒトおじさんの皮肉と諧謔に満ちたお話。

 

暦物語 (古典新訳文庫)

暦物語 (古典新訳文庫)

 

 

えー、相も変わりません。今日もばかばかしい講釈を一席たっぷりお付き合いいただければと思います。

 

16世紀に印刷技術が発展したころ、聖書や讃美歌とともに当時の民衆に深く愛されたのが「暦物語」と呼ばれた小冊子でございまして、イギリスではチャップ・ブックとも言われております。

 

いわゆる旅回りの商人がいろんなものと一緒に地方で売り歩いていた本のことでございまして、この「暦物語」に書かれていたのは暦や雑学といった実用的な知識と、民衆のための短くて読みやすく面白い物語でした。

 

本書は「三文オペラ」などの劇作家として有名なブレヒトによる「暦物語」でございます。まあ要するに、こむつかしいことはとりあえず脇に置いておきながらも、でもなんか心に引っ掛かるような、そんな物語たちでございます。

 

で、収められているのは四つの短篇と四つの詩、そして「コイナーさんの物語」と名付けられた小咄集。

 


本書の中で私が一番好きなのは、「亡命の途中に生まれた『老子道徳経』の伝説」という詩でございますねえ。

 

この詩の中で描かれているのは、かの有名な老子がいかにしてその著書「老子道徳経」を遺すに至ったかという物語でして。

 

まあ老子が好きな人なら誰でも知っている物語でしょうが、知らない、つうか老子とか別に興味ないし、ってな人のためにその内容をご紹介しましょう。

 

遥か古代の中国に一人の役人がおりました。70歳になった彼はその深い知識から多くの人に慕われていたのでございます。

 

まあそうなると当然、彼の元には出世の話などが多く寄せられたのですが、彼はそれが嫌になって国を出ようと決めます。

 

なぜなら彼、のちに老子と呼ばれるその人の思想とは「上善は水の如し」、正しさというものはいつだって水のように下に流れてゆく、偉くなることや強くなることは真理と呼べるものから遠ざかるんだよってなことだったのですから。だから出世話とか勘弁してくれ、と。

 

そういうわけで彼はめんどくさい話やそれを持ちかけてくる人々から逃れるために、牛の背に跨り、旅に出ることにします。

 

ところがある関所で彼は税関の男に止められるのですねえ。その税関の男は「高価なものに関税をかける!」と言いますが、老子のお供をしていた少年は答えます。「ありませんよ、そんなもの」と。

 

そして少年は言うのです。「この人はね、先生だったんだよ」と。

 

一体どんなことを教えていたんだ? と税関が訪ねると、少年は答えます。

 

「流れる水は柔らかいけど、
 時がたてば、大きな石にも勝つことを。
 ね、わかるでしょ、硬いものが負けるんだ」

 

なんでそうなるの? と税関は思いました。そこで、どうかそれを書き残してくれないか、と老子に頼みます。

 

ということで今も伝わっているのが「老子道徳経」、一般に「老子」という名で呼ばれている書物なのでございます。

 

さて、ここまではありふれた、よく知られている老子の伝説。ところが本書が面白いのは、最後にブレヒトがこの伝説にこんな言葉を付け加えているところなのでございます。

 

「表紙に名前が燦然と輝いているからといって、
 この本を書いた賢者だけを褒めてはならない!
 賢者からまずその知恵をもぎ取る必要があるのだから。
 だから税関の男にも感謝するべきなのだ。
 書いてくれと頼んだのだから。」

 

ああ、何という究極の下から目線でございましょうか!

 

いやでも、そうなのですよ。老子は確かにすごい。とても偉い。でも、そう言ってしまったら実は老子が自分で述べた思想とはかけ離れたものになってしまうじゃありませんか。だから、本当は老子よりもこの税関の男の方がすごいし、偉いんだよと。ここまで突き詰めての老子ですよ。「上善は水の如し」ですよ。……でも、もはやそうなったら一体何が何だかわけが分かりませんが。

 


本書には老子のほかにもブッダソクラテスの物語が収められているほか、ジョルダーノ・ブルーノやフランシス・ベーコンといった科学者たちの物語も収められています。

 

てことで、気分が乗って来たのでもう一つ。フランシス・ベーコンの物語「実験」は、こんなお話でございます。

 


政争に破れ、地位と名誉を奪われて自分の領地に帰ってきたフランシス・ベーコン。そんな彼に、一人の少年が召使として雇われます。

 

ベーコンの評判は地に落ちていたので、少年のおばあさんは言うのでした。

 

「あのお方はな、悪い人だから、気をつけるんだよ。どんなに偉いお方であっても、お金を山のようにもってるとしても、やっぱり悪い人なんだ。お前にパンをくれるご主人だから、仕事はきちんとおやり。でも、悪い人だってことは、忘れるんじゃないよ」

 

ベーコンは少年に、この世界にはどんなにたくさんの言葉があるのかを教えました。要するに、何かの出来事を描写して認識するためには、どれだけ多くの言葉が必要であるのか、ということを教えたのでございます。

 

そして、言葉を覚えることの大切さを教えると同時に、使わない方がよい言葉もある、ということも教えました。たとえば「よい」とか、「悪い」とか、「醜い」とか、「速い」とか、そういう言葉は、結局のところ何も述べていないのと同じだということを。

 

つまり、「速い」じゃ分からねえから時速何キロなのか言え、と。「悪い」じゃ分からねえからどの法律を犯してるのか言え、と。まあそういうことですね。そこを曖昧にしたまま「速い」とか「悪い」とかいう判断すんじゃねえぞ、と。

 

で、少年はそんなベーコンに影響されて、その思考法について理解していくのです。

 

「重要なのは、なにを知ってるかなんだ。人間は信じていることが多すぎ、知っていることが少なすぎる。だからどんなものでも、自分で、自分の手で、試してみる必要がある」

 

少年はもっと世の中のことを知りたいと思うようになりました。そのためには本を読むのが一番早いのですが、少年は字を読むことができません。

 

そこで少年は自分の頭で考えて、一冊も本を読まずに字を覚えようとするのでございました。

 

そんなある日のこと。それは雪の降るとても寒い日でした。

 

ベーコンと少年の乗った馬車が一羽のニワトリをひき殺してしまいます。ベーコンは死んだニワトリを見て、こう言います。

 

「内臓を全部かき出すんだ」

 

そしてかき出した後、そこに雪を詰めるよう少年に命じ、胸を張って、こう言いました。

 

「これで一週間は、きっと新鮮なままだ」

 

さて、そうして彼らは家に帰りますが、この時の寒さが原因でベーコンは風邪をひいてしまいます。

 

次の日、少年が呼ばれてベーコンの寝室に行くと、ベーコンは少年にニワトリの状態を尋ねました。ベーコンにとっては自分の病のことやほかのどんなことよりも、ニワトリの状態の方が気になるのですね。

 

少年は、まだ新鮮に見えます、と答えます。するとベーコンは満足そうにうなずいて、「また二日後に報告してくれ」と言いました。

 

しかしベーコンはそれからすぐに死んでしまうのです。

 

その後も少年はニワトリを観察し続けました。すると確かにベーコンが言ったように、ニワトリは六日たってもまだ新鮮なままのように見えます。

 

さすが、ベーコンさんの言った通りだ! と少年は思います。で、このことを大人たちに伝えようとするのです。

 

だけどまわりの大人はそんなこと信じようとはしませんでした。それどころかそんなこと、気にも留めていませんでした。

 

だからなんだってんだ? と。

 

彼らはそんなことよりも葬儀の準備や、その葬儀で牧師がどんな弔辞をするかのほうがよほど大切なことだったのです。

 

少年にとってはむしろそっちの方が、どうだっていい類のことだったのですが……。

 


本書はもともと1948年のクリスマスに出版される予定だったそうです。それがもろもろの事情で1949年の出版になってしまいましたが、出版されるや大反響を呼び、合計4万部のベストセラーとなったのでした。

 

それもそのはず。なぜなら本書はブレヒトが高尚な、見識ある、お偉い方々に向けて書いたものではなく、それこそタイトル通り「暦物語」として、広い一般大衆のために書いた物語たちなのですから。

 

そんな本書の中に描かれているものは、ごく普通の人々に対する愛情と慈しみ、そして、ちょっとだけ(いや、けっこうたくさん?)の皮肉。

 

訳者のあとがきによると、ブレヒトの書斎の天井の梁にはこんな言葉が書かれていたそうです。

 

「真実は具体的だ」

 

「真実は難しい」でも、「真実は複雑だ」でもないんですね。真実はいつも「具体的」なものであり、逆に言えば「具体的」なものだけが「真実」と呼べるのかもしれません。ということは、本当に大切なもの、「真実」というのは、誰の目にもちゃんと見えるように現れる。別に賢い人じゃなくたって、偉い人じゃなくたって、それはちゃんと理解できる。ブレヒトは本書においてそう言いたかったのでございましょう。

 

本書はまさにそんな物語たちでございます。別に難しいことが書いてあるわけでも、偉そうなことが書いてあるわけでもありません。

 

でもこの本を読めば、誰もが自分にとっての「真実」を、「具体的」に考えられるようになる、かもしれません。

 

いやあ、いいなあブレヒトおじさん。鋭いなあ、ブレヒトおじさん。

 

おなじみブレヒト著「暦物語」に関する素人講釈でございました。

 

暦物語 (古典新訳文庫)

暦物語 (古典新訳文庫)

 

 

知識よりもお金よりも大切なものの話。

 

八十日間世界一周 (岩波文庫)

八十日間世界一周 (岩波文庫)

 

それでは本日も一席、お付き合いいただければと思います。

 

本日講釈垂れさせていただきたいのは、ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」でございます。

 

時は19世紀の終わり。イギリスのとある社交クラブで、一人の紳士が賭けをしたのでございます。その賭けとは、「八十日で世界一周はできるのか?」ということ。

 

できる、と主張したのは本書の主人公である英国紳士フィリアス・フォッグ氏。そしてフォッグ氏はこの賭けに勝つために、召使のフランス人パスパルトゥーを連れて八十日間世界一周の旅に出たのでありました。

 

このフォッグ氏というのがクラブ内でも有名な変人で、とにかく金持ちであるのは間違いなのですが、その資産を一体どうやって手に入れたのかは誰も知りません。というのはこのフォッグ氏、極端なほど無口な人で、自分のことはおろかよほどのことがない限り自分から何か言葉を発することすらしないのです。

 

加えてこのフォッグ氏はとにかく几帳面というか、神経質な人で、時間は一分一秒すら狂わせたことがないし、前の召使いをクビにした理由なんて、髭剃りの温度を90℃に指定したにもかかわらず88℃で持ってきたからだ、というほど。

 

そしてフォッグ氏はどんなことが起こっても冷静沈着、ただ一言こう言うのでした。

 

「大丈夫、それも計算に入っていますから」


そんなフォッグ氏ですが、とにかく彼の頭にあるのは八十日間で世界を一周するという、いわば時間のことだけ。船室でも彼は予定表を広げて、今日は何日、あるいは何時間損失したか、あるいは利益となったかということばかり。

 

そして外の風景などには目もくれず、唯一の趣味とも言えるトランプゲームに熱中しているのでした。

 

そこで、読者としてはこう思うのではないでしょうか。そんな旅のどこが楽しいんだ? と。旅の醍醐味とは風景を楽しんだり、いつもならできない経験をすることにこそあるのではないか、と。しかしフォッグ氏はまるでそんなことには興味もない様子。

 

しかしそんな読者の期待に応えてくれるのが、召使のパスパルトゥーなのでございます。この陽気なフランス人は、むしろ我々一般の、ごく普通な読者の代表としてフォッグ氏の代わりに異国の旅を満喫してくれるわけですが、ところが、このパスパルトゥー君のおかげで、旅はいつも予定外の災難に遭うこととなるのです。

 

しかしそれでもフォッグ氏は、こう言うのでした。

 

「大丈夫、それも計算に入っていますから」

 

さらにこの物語を盛り上げてくれるのが、刑事フィックスでございます。ちょうどフォッグ氏が旅に出たころ、ロンドンではある事件が話題となっておりました。銀行から多額のお金が盗まれたというこの事件、犯人は立派な紳士の姿をしていたというのです。

 

その犯人の人相図を見て、この犯人こそフォッグ氏に違いないと確信したフィックスは、フォッグ氏を追いかけて、ともに世界を一周するのでございます。

 

はてさてフォッグ氏、果たして本当に八十日間で世界一周できるのでしょうか? そしてフォッグ氏とは一体何者なのでございましょう? それは、読んでみてのお楽しみなのでございます。

 


さて、そんな物語である本書が出版されたのは1873年でございます。

蒸気機関車が発明されたのが1804年、世界最初の商用鉄道ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通したのが1825年のこと。日本でも1年前の1872年に新橋―横浜間で鉄道が開通しました。

 

科学の発展によるこの交通革命は、事実上「地球を小さくした」ものでした。そして、もしも潤沢な資金さえ持っているならば、この巨大な世界をわずか八十日間で一周できるのだ、ということを、ヴェルヌはこの小説で証明して見せたのです。

 

さらに科学技術と経済の発展した21世紀の現在なら、もっと短期間で世界を一周することも可能でしょう。

 

しかし私は思うのです。この物語においてヴェルヌが本当に描きたかったものは一体なんなのだろう、と。

 

それは、鉄道を発明した科学技術の素晴らしさなのでしょうか。あるいは、お金さえあれば世界を一周することも可能なのだ、という、資本主義の素晴らしさだったのでしょうか。

 

私はどちらでもないのだと思うのですね。いやもちろん、科学技術も経済の発展も大事な要素ではあります。しかしそれよりも大切なものがある。

 

この旅において、作者はフォッグ氏が一体どれぐらいの時間を使い、あるいは浮かせたのかということと同時に、一体いくらのお金を使ったのかということも明記していきます。そして最終的にはこの世界一周という旅において、フォッグ氏が一銭の損もしなかったかわりに、一銭の得もしなかったことが示されるのです。

 

その代わりにフォッグ氏が得たもの、それは、一人の愛する女性と、そしてパスパルトゥーという誠実な召使だったのでした。

 


たとえどれだけ科学が発展したところで、たとえどれだけ世界が豊かになったところで、それだけでは何かが足りないのです。

 

その足りないもの、ヴェルヌがこの物語において本当に描きたかったもの、それはフォッグ氏の心の中の強い意志や勇気のようなものだったんじゃないか、と。

 

それは、科学やお金では決して手に入れられないもの。いやむしろ、科学の発展や資産を築くためにむしろ必要なもの。


21世紀を生きる私たちは、ヴェルヌが生きた時代よりもより賢く、より便利に、そしてより豊かになっています。

 

だけど私たちはそれらを利用して、この世界を本当に幸福に、楽しく、公平にしていると言えるのでしょうか。そうしようとする意志や、勇気をもっているでしょうか。

 

もしもヴェルヌが現在に甦ったら、やっぱり彼は人間に失望してしまうかもしれません。我々人類はもっとうまくやれるはずじゃないのか? なんて、そんな物語を描くのかもしれません。

 

だけど、それこそまさに空想の物語。その物語を描くのは、今を生きる私たちの仕事なのですから。

 

19世紀であれ21世紀であれ、本当に大切なものはなんでしょう。それは一人一人の人間の心の中にある何か。

 

もしかしたらそれを私たちは「センス・オブ・ワンダー」と呼ぶのかもしれない、そんなことを思うのでございます。

 


おなじみジュール・ヴェルヌ著「八十日間世界一周」に関する素人講釈でございました。

 

八十日間世界一周 (岩波文庫)

八十日間世界一周 (岩波文庫)

 

 

ヴェルヌが予見した飛行機の話。

 

 

えー、本日も相も変わらず、素人講釈にお付き合いいただければと思う次第でございます。

 

本日講釈垂れさせていただきたいのはジュール・ヴェルヌの「征服者ロビュール」でございます。

 

時は19世紀の終わり、アメリカの新興都市フィラデルフィアにある有名なクラブウェルドン協会。そこで喧々諤々の議論を繰り広げているのは集まった100人ほどの気球研究家たちでございました。

 

彼らは本職の技師ではなく、航空機の操縦に興味を持つ単なるアマチュアの集団でしかなかったものの、あるいはそれゆえに、熱狂的な気球主義者たち。

 

「空気より重い」機具や空飛ぶ機械、まあ要するに飛行機ですね、に対する強烈な敵意を持っていた彼らの会合に、一人の人物が現れます。その男の名はロビュール。そして彼はあろうことかその会場で、こんなことを言うのでした。

「諸君! わたしは知っている。一世紀にわたる経験、一世紀にわたる試みはすべて徒労の連続だったと。得るものとてなにもなかったのだ。にもかかわらず、まだ気球で大空を飛びまわれると頑固に信じている馬鹿者たちがいる。」

このロビュールが会場で宣言したこと、それは人間が空を支配するためには、気球よりも飛行機の方がより適している、ということだったのです。

ざわめく会場、そして罵声。しかしロビュールはなおも言うのです。

「気球には進歩というものがない。気球主義者の諸君、飛行機にこそ進歩はあるのだ。鳥は飛ぶ。だが鳥は気球じゃない。あれは精巧な機械なのだ!」

「諸君の気球がどんなに完全なものであろうとも、それが実用的な速度をだせないのが致命的なのだ。世界一周をするのに、諸君は一〇年かかる。一方、飛行機は一週間で世界をまわる」

沸き起こる抗議と否定の声。

「飛行家君、君はわれわれに空中飛行機のすばらしさを教えてくださっているが、そういう君は空を<飛んだ>ことがあるのかね?」
「もちろん!」
「で、空を征服したと?」
「たぶん!」
「征服者ロビュール万歳」

ロビュールの挑発的な発言の数々に気球主義者たちは怒り心頭、ピストルまで持ち出す始末。

 

しかし銃声が響き渡った時、ロビュールはまるで空飛ぶ機械に運ばれたように飛び立ってしまったのでした。

 


さて、そんな頃、世界中で謎の気象現象が話題となっていました。遥か空の上空から、トランペットの音が聞こえてくるというのです。実はその怪事件の犯人こそ、<あほうどり号>で世界を周遊するロビュールの仕業だったのでした。

 

ロビュールは飛行機の性能を見せつけるために気球協会の会長アンクル・ブルーデントと書記長のフィル・エヴァンスを拉致、<あほうどり号>に監禁して世界一周の旅へと出たのでありました・・・。

 


さて、本書が出版されたのは1886年のことでございます。この頃がどういう時代だったかというと、ライト兄弟が飛行機による友人動力飛行に成功したのが1903年、リンドバーグがニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したのが1927年のこと。

 

つまり19世紀後半には飛行機の実用化は夢のまた夢だったわけで、そう考えるとこの作品の先見性がうかがえますね。

 

しかし私が本日申し上げたいのは実はそのことではなく、ヴェルヌが飛行機の実用化だけでなく、飛行機の実用化が一体世界に何をもたらすかということまで予知していた、ということなのでございます。

 

たとえば第一次世界大戦第二次世界大戦における一般市民の被害者数を比較してみると明らかなのですが、第一次世界大戦では1000万人足らずだった一般市民の被害者は第二次世界大戦時には3800万人ぐらいにまで膨れ上がっているのですね。

 

で、なぜそうなっているかというと、理由は簡単、第一次世界大戦の後期から「戦略的空襲」が行われるようになったからなのです。

 

つまり飛行機が実用化されると同時に、あるいはその実用化を促す形で飛行機が軍事的に利用されるようになり、人類は上空から爆弾を落とす、という攻撃が可能となったわけです。

 

言い換えるならば、もしも飛行機が実用化されていなかったならば、あるいはこんなことを言うと論理の飛躍だと言われるかもしれませんが、科学が進歩しなかったならば、戦争という人間の行為もまた、ここまで悲惨にならずにすんだのかもしれない。

 

飛行機が空襲に利用される、そんなことは、例えば同じように空を飛ぶことを夢想したレオナルド・ダ・ヴィンチなんかは予想だにしなかったことでしょう。彼は多分、ただ空を飛びたかっただけのはず。それはライト兄弟しかり、リンドバーグしかり。

 

しかし実際にはいわゆる科学技術というものは、そんな夢物語だけでは収まらない、残酷な未来をもたらすものでもあるのです。

 

ジュール・ヴェルヌという人は初期は科学に対して楽天的であったが、後期は悲観的になった、と言われています。その原因としては、甥に銃撃されたことなどがあり人間不信に陥ったのではないかと言われていましたが、後に発見された初期の作品からもその説は否定されているようです。彼の科学技術に対するペシミスティックな視点というものは、実は最初から持ち合わせていたのだ、と。

 

実際、あれほどまでに未来を予見するほどの明晰な頭脳を持っていた彼が、科学技術に対してある種の信仰とも言えるほどの楽天主義者であったと考える方が無理があるんじゃないかと私は思うのでございます。

 

本書の最後に、著者はこう言います。

「いま、その答えはでているのだ。ロビュール、それは未来の科学である。いや、ひょっとするとあすの科学かもしれない。未来に待ちうけている科学の偉大な力なのだ」

ちなみに本書の出版からおよそ20年後、1904年にヴェルヌはこの物語の続編を執筆するのです。そのタイトルは「世界の支配者」。そしてこの物語は、ロビュールがあらゆる新発明を使って人類に被害をもたらそうとする話なのだとか。

 

もしもヴェルヌが現在に生きていたら、彼はインターネットや人工知能バイオテクノロジーや原子力をネタに、一体どんな物語を描くのでしょうか。

 

それは恐らく、多くの科学主義者たちが期待するような「初期ヴェルヌ」の物語にはなりえないのではないかと、私は思うのでございます。

 

あるいはもしかしたら、ヴェルヌは科学に対しては終始一貫してオプティミストであったのかもしれません。でも彼は、人間そのものに対してはペシミストであり続けたのかもしれない。

 

私たち自身は、あるいは私たちを代表する為政者や私たちが利用する企業は、決してロビュールにはならないと、私たちは本当にそう言い切れるのでしょうか。

 

いや、そもそもそんなことは問うべきことではないのでしょうか。


おなじみジュール・ヴェルヌ著「征服者ロビュール」に関する素人講釈でございました。