文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

会いたかったけれど会いにいかなかった人の話。

 

長谷川辰之助

長谷川辰之助

 

 

講釈垂れさせていただきます。

「逢ひたくて逢はずにしまふ人は澤山ある。
それは私の方から人を尋ねるといふことが、殆ど絶待的に出來ないからである。」

鴎外のこんな言葉で始まるこのエッセイ。

鴎外がなぜ人を尋ねることが出来ないかというと、彼には役所の仕事がある。そしてそれに加えて記者連中がひっきりなしに訪ねてくる。記者の相手などしたくはないのだが、邪険にするとあいつらはあることないこと書きたてる。それは困るので仕方なく相手をする。そうすると自分から人を尋ねる余裕がない。と、そういうことだそうでございます。

しかし鴎外には、本当は会いたかった人が、どうやらたくさんいたようなのでございます。

長谷川辰之助君も、私の逢ひたくて逢へないでゐた人の一人であつた。私のとうとう尋ねて行かずにしまつた人の一人であつた。」

長谷川辰之助とは、二葉亭四迷の本名。そう、鴎外はどうやら、二葉亭四迷と会って話がしたかったようなのでした。


ではそんな鴎外、四迷の作品については一体どう考えていたのでしょう。ちょっと引用してみましょう。

浮雲には私も驚かされた。小説の筆が心理的方面に動き出したのは、日本ではあれが始であらう。あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く。」

どうやら鴎外は四迷の「浮雲」をかなり高く評価していたようです。しかし最後が気になりますね。

「あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く。」

まあ評価はしていたようですが、それは「あの時代だから」のようです。

さらに四迷はツルゲーネフなどロシア文学の翻訳でも有名ですが、

「飜譯がえらいといふことだ。私は別段にえらいとも思はない。あれは當前だと思ふ。飜譯といふものはあんな風でなくてはならないのだ。あんな風でない飜譯といふものが隨分あるが、それが間違つてゐるのである。」

と、こちらもやっぱり褒めているのかけなしているのか、なんだかよく分かりませんが、多分けなしているつもりはないのでございましょう。

そうして会いたいのなら会いに行けばいいものを、なんだかんだと理由をつけて、鴎外は結局四迷に会いにはいかなかったようですが、それから二十年後、四迷が再び沈黙を破って小説を発表、特に「平凡」は大きな話題となりました。

そうすると、鴎外はまた思うのです。

「平凡が出た。
 私は又逢ひたいやうな氣がした。」

だから会いに行けばいいじゃないかと、そう思うのでございますが、鴎外は言うのでした。

「流行る人の處へは猫も杓子も尋ねて行く。何も私が尋ねて行かなくても好いと思ふ。」

どっちなんだお前は、と。どうしたいのかよく分かりませんが。

とは言え鴎外曰く、全く交際がないわけでもないそうで、

「Gorjki を譯するのに、獨逸譯を參考したいと云つて、借りによこされたから、私は人に本を貸すことは大嫌なのに、此人に丈は貸したことがある。何とかいふ露西亞人が横濱で雜誌を發刊するのに、私の舞姫を露語に譯して遣りたいが、差支はなからうかと、手紙で問ひによこされたことがある。私は直に差支はないと云つて遣つた。」

ということで、ゴーリキーのドイツ語訳を貸してやったし、「舞姫」をロシア語に翻訳するのも許してやったと。……多分、四迷に好意を持っていた証拠なのでございましょう。

それでも会いに行かなかった鴎外ですが、そうするとなんと二葉亭四迷の方から鴎外に会いに来てくれたそうで

「前年の事ではあるが、何月何日であつたか記憶しない。日記に書いてある筈だと思つて、繰返して去年ぢゆうの日記を見たが、書いてない。こんな人の珍らしく來られたのが書いてないやうではといふので、私の日記は私の信用を失つたのである。」

と、日記にすら書かなかった鴎外ですが、しかしその日のことはしっかり覚えているようでございます。

「急いで逢ひに出て見ると、長谷川辰之助君は青み掛かつた洋服を着てすわつてをられた。
 (中略)
 話をする。私には勿論隔はない。先方も遠慮はしない。丸で初て逢つた人のやうではない。」

鴎外と四迷のファーストコンタクトは、互いに好感触のようでございました。初めて会った人とは思えないほどなのだから、ずいぶん打ち解けたのでございましょう。まあ、日記には書いていないようですが。

長谷川辰之助君は、舞姫を譯させて貰つて有難いといふやうな事を、最初に云はれた。それはあべこべで、お禮は私が言ふべきだ、あんな詰まらないものを、好く面倒を見て譯して下さつたと答へた。
 血笑記の事を問うた。あれはもう譯してしまつて、本屋の手に廻つてゐると話された。
 洋行すると云はれた。私は、かういふ人が洋行するのは此上もない事だと思つて、うれしく感じて、それは結構な事だ、二十年このかた西洋の樣子を見ずにゐる私なんぞは、羨ましくてもしかたがないと云つた。」

話の内容もなかなかよく覚えているようです。日記には書いていないようですが。

それから四迷は一時間ばかりで帰ってしまったとのことでした。そして鴎外は、

「その後、私は長谷川辰之助君の事は忘れてゐた。」

とのことで、どうやらもうすっかり興味を失ってしまったそうでございます。そりゃ日記に書くのも忘れるよ。

さてそれからしばらく経って、鴎外は新聞記事で二葉亭四迷がヨーロッパ滞在中に肺結核となり、帰国を余儀なくされることになったことを知るのです。

鴎外はわざわざインド洋を渡るという遠回りで帰ってくるのだから、さほど重体でもないのだろうと、そう思っていたようでございます。

しかし四迷はご存じの通り、帰郷の船上で亡くなってしまったのでした。

鴎外は言います。

「併し臨終の折の天候はどうであつたか知らない。時刻は何時であつたか知らない。船の何處で死なれたか知らない。」

そして自分は四迷の死について何も知らないと、そう断ったうえで、こう言うのでございます。

「程よく冷えて、和やはらかな海の上の空氣は、病のある胸をも喉をも刺戟しない。久し振で胸を十分にひろげて呼吸をせられる。何とも言へない心持がする。船は動くか動かないか知れないやうに、晝のぬくもりを持つてゐる太洋の上をすべつて行く。暫く仰向いて星を見てゐられる。本郷彌生町の家のいつもの居間の机の上にランプの附いてゐるのが、ふと畫のやうに目に浮ぶ。併しそこへ無事で歸り著かれようか、それまで體が續くまいかなどといふ餘計な考は、不思議に起つて來ない。
 長谷川辰之助君はぢいつと目を瞑つてをられた。そして再び目を開かれなかつた。」

これは、鴎外が想像した四迷の最期でございます。鴎外はこのエッセイの最後に、二葉亭が死ぬその瞬間を想像し、それを小説にしてこのエッセイを閉じるのです。

いわゆるエッセイの終わり方としては、ちょっと不思議な終わり方ですよね。

さて、では鴎外はなぜそのようなことをしたのでしょうか。


実は鴎外、このエッセイの中で一度も四迷のことを「二葉亭四迷」とは呼んでいないのですね。ずっと「長谷川辰之助君」で通しているのです。

それはもしかしたらこういうことなのかもしれません。

鴎外は一個人である「長谷川辰之助」に対しては、会いたいような会いたくないようなそんな気持ちだったし、またあまり興味もなかった。わざわざ日記に書くこともなかった。

なぜなら鴎外にとって興味のある人、どうしても会いたい人は「長谷川辰之助」ではなく「二葉亭四迷」だったのだから。

そして「二葉亭四迷」にはいつでも会いに行くことができるのです。書斎に行って彼が遺した本を開けばいい。作家とは、そういうものでしょう。

だからこそ鴎外は、作家であり読者でもある森鴎外として、作家二葉亭四迷には別れの言葉の代わりに別れの小説を贈りたかった。そういうことのなのではないでしょうか。

そう考えると、鴎外が四迷に「会いたいようでいて、会いたくないようでもあった」という気持ちも、なんだか分かる気がするのでございます。

そして鴎外の二葉亭四迷に対する本当の気持ちも、伝わってくるような気がするのでございます。


おなじみ森鴎外長谷川辰之助」の素人講釈でございました。

 

鷗外随筆集 (岩波文庫)

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