文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

本は、出版業界は、作家は、そして読者は、いかにして生まれたのか、という話。

 

ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

 

 

「本」ですよ!「本」!そして「書店」!
私が愛する、これを読んでいるあなたもまた、深く愛しているであろう「本」と「書店」はいかにして誕生したのでありましょう。ということで、本日はヨーロッパにおける「本」と「書店」について深く知ることのできる一冊を、講釈垂れさせていただきます。

 

現在私たちが普通に考えるような「本」が誕生するために最も重要だった出来事、それは言うまでもなく1455年のグーテンベルグによる『グーテンベルグ聖書』の印刷でございましょう。それは正しく、人類史における革命でありました。

 

この印刷革命がもたらしたものは流通網の拡大であり、すなわち世界的なベストセラー作家の誕生なのでございます。

 

本書「ヨーロッパ 本と書店の物語」はまず、セルバンテスの「ドン・キホーテ」の物語から始まります。この1605年にマドリッドで出版された「ドン・キホーテ」は、例えば14世紀に出版されたダンテの「神曲」と比較しても圧倒的な速さでヨーロッパ全土に翻訳、刊行されて広まっていった、いわば印刷革命後の最初の世界的ベストセラー作品だったのであります。

 

また同時にこの「ドン・キホーテ」が重要なのは、主人公ドン・キホーテがいわゆる愛書家であったことでしょう。何町という畑地を売り払って100冊以上の「騎士物語」を買い込み、読み耽っていたという主人公、このキャラクターはまた、1605年にはすでに「愛書家」「書痴」と呼ばれるような人々が既に生まれていたことを示すものでございます。

 

さて、16世紀にヨーロッパで印刷業が最も盛んだった街はどこか、ご存じでしょうか。答えはフランスのリヨン。この街では書物の大市が開かれ、外国の書籍商たちも支店を設けているなど、ヨーロッパ全土における書物の供給地となっていたそうでございます。

 

とはいえ、書店の存在は長い間、大都市圏に限られたものでありました。そんな時代、地域を巡って民衆に向けて書物を広めて回ったのが、行商本屋の存在でございます。

 

彼らの扱った本は暦や占書、綴り字練習帳、妖精物語や恋愛小説など。フランスではこうした行商人によって売られた本は「青本」と呼ばれ、イギリスでは「チャップ・ブック」と呼ばれました。

 


ところで、「ドン・キホーテ」のセルバンテスはベストセラー作家とはなったものの、その版権を版元に安く売り払ってしまったおかげで経済的には苦しい人生を余儀なくされました。

 

しかしそういった状況に変化が起こったのが、ドイツにおけるゲーテの誕生でございます。彼の「若きヴェルテルの悩み」もまたヨーロッパ中で大ヒット、ヴェルテルの服装を真似る者や自殺者が相次いだと言われておりますが、この頃には出版者と作者、読者の三位一体となった出版業界ができあがっていたので、ゲーテには巨万の富がもたらされたようでございます。

 

さてさて、書物というものが民衆の間に根付くようになると、誕生するのが「貸本屋」であり、「古本屋」の存在でございましょう。

 

貸本屋や古本屋を利用することで、読者はより廉価に、しかもたくさんの書物に触れることができるようになり、当然のこととしてそれは愛書家の数を増やすことにもつながりましょう。するとまた出版業界はさらに巨大になる、という構図でございます。

 

出版業界の巨大化は職業作家を生み出します。しかし一方でバルザックが「幻滅」で描いて見せたように、いわゆる三文文士の存在や、作家志望のものを騙すような書籍商が生まれてくるのもまた、この頃でございました。

 

そんな出版業界において、19世紀にイギリスで起こった産業革命もまた、エポックメイキングな出来事でございました。とりわけ鉄道の誕生は大きな影響をもたらし、イギリスでは鉄道の利用者や乗客たちに向けて本や新聞を販売する「キオスク書店」が誕生。この「キオスク書店」は手軽に持ち運べる本の需要を生み出し、後のペンギンブックスのようなペーパーバック、日本で言う文庫本ですね、その源流となっていくのでございます。

 


と、そんな感じでヨーロッパにおける出版、本の流通、読者の誕生、作家の存在などをイギリス、フランス、イタリア、ドイツなどに焦点を当てながら俯瞰しようとするこの一冊。

 

もちろん読書好きにはたまらない話題がてんこ盛りでございます。書店と作家の関係と言えば、当然書店員でありながら創作を続けたノーベル賞作家ヘルマン・ヘッセ、またフランスの「シェイクスピア・アンド・カンパニイ」が文学の世界に与えた影響なども外せませんよね。

 

「本がすき!」なあなたはもちろん「本屋が好き!」というあなたにこそおすすめの一冊!

ああ、ヨーロッパの書店、一度訪れてみたいものでございます。

 

おなじみ小田光雄「ヨーロッパ 本と書店の物語」に関する素人講釈でございました。

 

ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

 

 

蒸気とエーテルが織りなす本格ミステリの話。

 

 

本日も一席お付き合いいただきたく、講釈垂れさせていただきたいのは芦辺拓著「スチームオペラ」でございます。

 

蒸気を動力源とした巨大科学都市。街路を蒸気辻馬車がガッシュガッシュと煙と轟音をまき散らして駆け巡り、空に浮かぶは気球タクシーや蝙蝠型飛行機。そびえたつ摩天楼には回転式投影装置によって幻灯新聞が映し出されておりました。

 

そう、そこはスチームパンクがお好きな方ならおなじみの、マッドヴィクトリアンファンタジーの世界。

 

この都市に住む18歳の女の子エマ・ハートリーは眠気眼で町へ飛び出し、蒸気辻馬車に乗り込んだのでございます。

 

「港へお願いします。全速力で、石炭代割増しつきでね!」

 

彼女が向かった先、倫敦港第二埠頭では、彼女の父タイガー・ハートリーが船長を務める巨大船≪極光号≫の帰還を誰もが今か今かと待ち構えておりました。

 

港に集まった大衆。もちろんマスコミ「絵入り伝声新報」の記者たちは蛇腹型のパイプを通じて蓄音機に繋がったラッパを手に様子を全国へ伝えています。

 

そんな中、ロビュール=モルス型空中船≪極光号≫が上空から虹色の光を放ちながら舞い降りてくるのでございました。

 

何を隠そう≪極光号≫、我々の世界で言う「宇宙船」だったのでございます。

 

おいちょっと待て、とおっしゃる方もいるかもしれません。蒸気で一体どうやって宇宙へ行くんだ、と。

 

蒸気を動力源とした世界でありながら宇宙航行を可能としたもの、それは「エーテル」の発見でありました。

 

我々の世界ではアインシュタインによってその存在を否定された光を伝播するための物質「エーテル」でございますが、しかしこのスチームパンク的世界ではもちろん実在するのでございます。ええ、スチームパンクとはそういうものでございます。

 

ま、でもこういう話はそういうのが好きな理系の方にお任せするとして…

 

物語を進めましょう。≪極光号≫が無事寄港し、エマは父が船から降りるのを待ちますが、一向に降りてくる気配がありません。しかも「絵入り伝声新報」では≪極光号≫が宇宙で重要な発見をしたとのことが報じられているのです。

 

日頃探偵小説や冒険小説を読み漁っていたエマはこれは怪しい、という直観のもと、≪極光号≫に忍び込むのです。

 

そこで彼女が見たものは、巨大なカプセルに収容された一人の少年。そしてその少年はエマの姿を見ると、驚いてそのカプセルの中から出てきたのでございます。

 

「あなたは一体、誰?」
「ぼくの名前は、ユージン」

 

果たしてこの少年は何者でしょうか? 宇宙人? だとしたら彼はどうして言葉が通じるのでございましょう?

 

そこに現れたのが名探偵バルサック・ムーリエ。彼はこのカプセルの調査のために≪極光号≫に招かれたのですが、彼の手腕を披露することもなく、カプセルは開放されて少年もまた外に出てきていたのでありました。

 

そんなことがきっかけで、エマとユージンはともにムーリエの助手となるのでございます。

 

ムーリエは名探偵ですから、当然彼の元には殺人事件の調査の依頼が舞い込むわけで、そしてその殺人事件というのも、当然のことながら密室殺人のような不可解なものばかり。

 

そうしてムーリエとともに殺人事件の解決に取り組むエマとユージンでしたが、二人はこの世界そのものの根底を揺るがす巨大な事件へと巻き込まれてゆくのでございます。

 

その事件とは……、おっと、ここから先は読んでのお楽しみということにしておきましょう。


スチームパンク的世界で繰り広げられる本格推理、それが本書の持ち味でございますが、同時に本書はエマとユージンという少年少女の壮大なる冒険譚でもあります。

 

著者に曰く、「そうですね……うん、早い話が、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」の本格ミステリ版ですよ!」ってことで、そんなにはっきり言ってしまっていいのかと、私がここまで話してきたのは一体なんだったんだと言いたくなりますが(知らんがな)、まあ要するにそういうことでございます。

 

解説の辻真先は言います。

「ミステリ作家は嘘つきで、SF作家は法螺吹きだ。――誰かのそんな文章を読んだことがある(ぼくじゃなかったよね)。その公式に当てはめると、『スチームオペラ』の作者は、法螺を吹き吹き嘘をつかねばならない。作者の肺活量の問題だ。それも(あいつ、どんなウソをつくかな)と疑いの目で見ている読者にむかって、である」

SFを名乗ることも、本格ミステリを名乗ることも、どちらもいわゆる「(あいつ、どんなウソをつくかな)と疑いの目で見ている読者」を相手にすることでございましょう。

 

そんな一癖も二癖もある読者の自覚がある貴方はもちろん、もっと純朴にハラハラドキドキしたいそこの貴方も、この作者の嘘と法螺の壮大なオペラに酔いしれること、これ必至。

 

本書を読み終えた時、きっとあなたはこう思うことでございましょう。

「ああ、これは確かにスチームパンクでなければならない本格ミステリだ」と。

 

この愛すべき蒸気とエーテルの世界、貴方も推理と冒険してみませんか?


おなじみ芦辺拓著「スチームオペラ」に関する素人講釈でございました。

 

 

落語に関するマジメな話。

 

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

 

 

えー、相も変わりません。今日もばかばかしい話を一席お付き合いいただければと思います。

 

「話芸」と言っても色々ございます。その中でもとりわけ学問として研究されているのが、本書でも取り上げられている落語でございましょう。今回講釈させていただきます「落語の言語学」は、落語というものを「ことば」の観点から掘り下げてみよう、というものでございます。

 

著者はまず第一章で話芸は三種に分けられる、と言います。その三種とは、

 

ハナス芸=落語、漫才、漫談
カタル芸=浄瑠璃浪花節浪曲
ヨム芸 =講談(講釈)

 

で、落語と漫才や漫談は同じ「ハナス芸」ではあるものの、ことばの観点から大きな違いがあるのでございます。

 

それが、落語は落語家の地の語り、高座での客に向けた語り、噺の中での語り、の三つがある一方、漫才や漫談では地の語りと客に向けた語りの二種類しかない場合が多い、ということ。つまり落語というものは落語家が噺を「演じる」ものであるところでございましょう。

 

同じ題目をやるにしても、それぞれの噺家によって微妙に味わいが異なってくるものでございます。例えば古典落語には江戸と上方とどちらでも演じられる演目もあれば、どちらかでしか演じられないものもございます。

 

有名な「寿限無」なんかは本来上方発祥の演目ですが、江戸落語で聞く機会もございましょう。また江戸落語で聞くにしてもどの演者で聞くかによって、また趣が変わってくるのでございますね。

 


また本書では落語の「マエオキ」に注目します。

 

落語には「まくら」と呼ばれる本題に入る前のちょっとした雑談があることは有名ですが、そのまくらに入る前にも落語家それぞれ個性があるようでございます。

 

本書では様々な落語家のマエオキを例に出して比較しているのですが、例えば有名な五代目古今亭志ん生

「えー、あたくしんところは、えー、落語でありまして、落語はいちばんハナはごくみじっかいのから、だんだんとながい一席になりまして、ハナはみじかかったんですな。「土瓶がもるよ」「そこ(底)まで気がつきません」、なんてえのが落語だったんですな」

という感じで、まくらに入る前のマエオキからしっかり笑いを取るところが五代目志ん生の名人たる所以かもしれません。

一方これが昭和の爆笑王、今の林家三平のお父さん、初代林家三平になると

「三平でございまして、あ、どうも、どうもすいませんですけど。ほんとなんですから、もう。ほんとですよ、もう。だから、もう、からだ大事にしてください、ほんとに。ほんとなんですから。あぶないんですから、今は、もう。ほんとなんですから、もう」

とこうなって、もうマエオキなのか何だかわかりませんが、でもそれがまた魅力だったのでございましょうねえ。

ついでにもう一人ご紹介しますと、立川志らくのマエオキは

「まあ、とにかく、一席おつきあいのほどをねがいますが、まあ、でも、落語家ってのは、ほんとに、ばかっ丁寧なことをいいますね、一席おつきあいのほどをねがいますだなんて。いまどき、そんな丁寧なことをいうやつ、いませんね、これは、ね」

と、マエオキでマエオキを否定する、という、いかにも立川流らしいマエオキでございます。


さて、落語と言えばやはりオチでございまして、オチがあるから「落語」なわけでございます。細かいことを言えば落語の演目の中には「牡丹燈篭」のように笑い話ではないものも多いので、そういうものはオチがないのでございますが。

 

このオチにもいろんな種類のオチがあるのですね。本書でもそんなさまざまな演目のオチについて分析しているのですが、まあ、最も一般的なオチと言えば「地口オチ」でございましょう。要するにダジャレで落とすってことですね。

 

例えば「大山詣り」という演目がございますが、これは熊五郎が長屋の仲間と一緒に大山に参詣しようとするのですが、江戸に着く前夜に大酒を飲んで仲間とケンカしてしまうのですね。で、仲間内の取り決めで、江戸を出るときにもし仲間とケンカをした奴がいたら、そいつの頭を丸坊主にするっていう取り決めがしてあったので、仲間たちは熊五郎が寝ている間にその髪を全部剃ってしまい、熊五郎を置いて先に出立してしまうのです。

 

さあ、目を覚ました熊五郎は驚いた。頭は丸坊主にされて、しかも置いてけぼりにされたっていうんで、我慢がならん。これは仕返しをしてやろうというので、熊五郎、急いで仲間より一足先に江戸へ帰り、長屋のかみさん連中を集めるのです。

 

熊五郎は、実は船が転覆してしまって、みんな死んでしまった、助かったのは俺だけだ、俺は仲間の菩提を弔うために坊主になることにした、と仲間のかみさん達に言います。そしてあんたたちも夫が死んだのだから尼にならなきゃならん、ひいてはその髪を剃らなきゃならん、っていうので、熊五郎、仲間のかみさんたちをみんな丸坊主にしてしまった。

 

そこに仲間たちが帰ってきて驚いた。おかみさんたちがみんな丸坊主になっているのですから。これはどうしたことだ、熊五郎の仕業だっていうんで大騒動。

 

で、この騒ぎを何とか鎮めようっていうので吉兵衛さんという人がその場に出てきて、こう言うのです。

 

「しかしみなさん、こんなにめでたいことはないねえ」

「吉兵衛さん、冗談じゃねえや、かかあ坊主にされてどこがめでたいっていうんだい」

「だって、考えてもごらんよ。参詣もすんで、みんな無事に帰ってきて、おけがなくてめでたい」

 

「お怪我」と「お毛が」の掛詞でございますね。ちなみにこういう地口オチは通の間ではあまり評判がよろしくないようで、私は好きなんですけどねえ。本書によると井上ひさしなんかも地口オチに好意的だったようでございます。


まあそんなわけで、本書は落語というものを学術的な観点から捉えたものではございますが、そもそも落語というものは難しい仏教説話を面白おかしく話したことから始まったそうでございますから、その落語をまた難しく考えるというのもこれはこれで面白いものでございます。

 

まあ、世の中には難しい話というのはつまらない話と相場が決まっておりまして、だからこそみんなあんまり難しい話ばっかりされると「なんだこいつは。つまらん奴だ」なんてことを言われてしまうのでございますねえ。それでも話の最後にオチでもありゃいいんですが、まあ理屈っぽい話というのはただつまらないだけでオチも何もあったもんじゃございませんが……

 

おや、誰ですか? いま私の方を指さして笑ったのは。え? オチがなくて理屈っぽいのはお前の話だって? ひどいことを言う人もいたもんだ。私の話がつまらないって、そう言いたいんですかい。

 

まったく、私はまあ、そんなこと言われても気にしませんがね。ええ、全然へこんだりなんてしませんよ。

 

おや、そんなことを言っているとまた別の人が。え? お前の話は確かに理屈っぽいが、ある意味では面白い?

 

嬉しいことを言ってくれるじゃありませんか。「ある意味」ってのがちょっと気になりますが、いえいえ、嘘でございます。そんなことは気にしませんよ、私は。

 

ね、捨てる神あれば拾う神ありとはこのことだ。え? どうか悪口を言われても、お気を落とすことのないように、って? ありがたやありがたや。こりゃほんとに神さまだ。

 

ええ、ええ、ありがとうございます。まったくへこんだりいたしませんよ。この私がそんな悪口で気を落としたりなんて、するものですかい。

 

なんせ私、オチない男ですから。


……おなじみ野村雅昭「落語の言語学」の素人講釈でございました。

 

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

 

 

近代と中世のエッセンスを絶妙にブレンドしたデザイナーの話。

講釈垂れさせていただきます。

マッキントッシュ、と言えば、多くの人がまず思い浮かべるのは恐らくアップルのパソコンでございましょう。あるいは、ファッションに造詣の深い方なら英国の老舗ブランドのマッキントッシュを思い浮かべるかもしれません。

しかし、忘れてはいけないもう一人のマッキントッシュ、それこそがスコットランドを代表するデザイナー、チャールズ・レニー・マッキントッシュでございます。

と言っても、イームズウィリアム・モリスなんかと比較したら、デザインに興味のない方は聞いたことがないという方が多いかもしれません。

C.R.マッキントッシュの代表作と言えば、「Hill House」というデザインチェアーでしょうか。この異様に背もたれの部分が高い椅子、見たことがある人もおられるかもしれませんね。

建築のデザインとしてはまず第一に挙げなければならないのが、グラスゴー美術学校でございましょう。まあ日本でよく流れるスコットランドの映像と言ったら大抵グラスゴーの映像で(たとえばこの前の国民投票のときとか)、しかも大抵このグラスゴー美術学校の映像だったりするのですよね。

さてそれでは、そんなマッキントッシュはどんな人なのでございましょうか。

彼が生まれたのは1868年、日本では明治元年になります。十六歳の時に建築家を志した彼はグラスゴーの建築家ジョン・ハッチンソンの弟子になるかたわら、グラスゴー美術大学の夜間部に入学、日中は実務を学び、夜は芸術の基礎を学んだのでした。

大学卒業後はロンドンに移り住み、新進気鋭の建築家として活躍し始めます。初期はウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォーから強い影響を受けていましたが、やがて仲間たちと〝ザ・フォー″というグループを結成、活動拠点を生地グラスゴーに移し、後にグラスゴー・スタイルと呼ばれる独創的なスタイルを生み出すのです。


さて、それでは、そんなマッキントッシュのスタイルの独自性とはどういうところにあったのでしょう。

彼のスタイルを決定づけたもの、それは彼の生れた町、グラスゴーにあったのでした。

例えばモリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動は産業革命が生み出した大量生産の商品に対するアンチテーゼとして行われたものでした。そうして中世の手仕事に帰ることで生活と芸術が統一されるのだ、というのが彼らの理念であったわけです。

しかし彼の生れた町、グラスゴーというのはヴィクトリア朝時代、英国第二の都市と呼ばれた町でございます。そのこともあってマッキントッシュのデザインはモリスやアール・ヌーヴォーのデザインのような中世的な華麗な柔らかさを感じさせる一方で、鉄やガラスを多用するなど近代的でクールなものが絶妙なバランスで同居したものになっているのでございます。

また彼はこの時代の多くの芸術家たちと同じように、ジャポニスム、日本の美術の影響を強く受けていることでも有名です。

しかもそこにも彼がグラスゴー出身であることが深くかかわっていて、というのも明治新政府の使節団であったあの有名な岩倉使節団の一行が視察した町、というのがグラスゴーなのだそうでございます。ということは、恐らく当時の日本人たちにとってヨーロッパとはすなわちグラスゴーであったということもできましょう。


マッキントッシュのデザインの魅力は、例えば同時代のデザイナーでモリスの影響を受けた人として、アルフォンス・ミュシャほど女性的であるわけでもなく、ウィーン分離派のヨーゼフ・ホフマンほど近代的でもないところでしょうか。

直線を活かしたデザインは確かにモダンなのだけれど、自然と切り離されたデザインではない、近代と中世、モダニズムと懐古主義が絶妙なバランスで共存しているところ、と言えるのかもしれません。

 

うーん、しかし、やはり美術やデザインを言葉で説明するというのは難しいものですね…。

ということで、いささか不完全燃焼ではありますが、平凡社コロナブックス「マッキントッシュの世界」に関する素人講釈でございました。

 

 

話題に出たデザインチェアー「Hill House」

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薔薇モチーフのステンドグラスでも有名ですね。

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グラスゴー美術学校

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吾輩が猫であらねばならぬ話。

 

吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)

 

 

講釈垂れさせていただきます。

 

鴎外と逍遥の大ゲンカ、「没理想論争」は二人の芸術観、文学観の違いを浮き彫りにいたしました。この流れはまた自然主義と浪漫主義に発展することなるのでございますが、実は逍遥にしろ鴎外にしろ、あるいは自然主義にしろ浪漫主義にしろ、ある共通点があったのでございます。

 

それはどちらの考え方も、「美は崇高である」ということを金科玉条にしていたということ。

 

「美は崇高である」とはいかなることでございましょう。この「美」とはすなわち、「優れた芸術」であり、「優れた文学作品」のことでございます。

 

例えば私たちが美しい自然を見て「わあ、きれいね」と言ったとしましょう。これは表面的な「美」にすぎません。しかしもし私たちが美しい自然を見て、そこに偉大なる神の御業を感じたり、あるいはそこに深い人生の意義のようなものを感じたとしたら、これこそが哲学や芸術の世界で語られる「真実の美」なのでございます。

 

そう考えると「真実の美」とはそれが現実であろうとフィクションであろうと描き出すことができることに気付くでしょう。小説というものが例えフィクションであったとしても、本当に優れたものならばそれは「真実の美」を描き出すことができましょう。

 

逍遥も鴎外も実はこのことについては意見が一致していたのです。ただ、そのために逍遥は「写実主義」を唱え、鴎外は「理想主義」を唱えたのでございました。

 

言い換えるならば二人ともどうやったら小説を「真実の美」という「神の領域」に持っていけるのか、という話をしていたわけで、だからこそ作家、芸術家も「神の領域」にたどり着こうとしなければならない、という考え方だったわけです。世に言う「啓蒙主義全盛の時代」というやつでございます。

 

でもまあ、こういう話はしんどいですよね。肩が凝るじゃありませんか。今でもこういう啓蒙的な人、独善的な求道者が時々いて、そういう人の「啓蒙」や「求道」は結局のところ単なる上から目線にすぎないのですが、まあそういう人とはあまり関わりたくないものでございます。

 

文学や小説について興味はあるけれど、その世界に足を踏み入れてみると、「神の領域への道はこっちだ!」「いや、あっちだ!」とやっている。カトリックプロテスタント大乗仏教小乗仏教のようなもの。どうせ同じ宗教なんだから、お前らもっと仲良くせえ、とそう思っている人も、多かったことでございましょう。

 

そんな時でございました。明治37年、雑誌「ホトトギス」に連載されたある作品が一世を風靡したのでございます。

 

その作品こそ何を隠そう、本日取り上げる「吾輩は猫である」なのです。


ではこの作品は、一体どこがどうすごかったのでしょうか。

しかしその前に、この作品が世に出た時の人々の反応をちょっと想像してみようではありませんか。

 

想像してみてください。みんながみんな「神の領域」へ至るために頑張らなければならないと思っている、その時にある男が現れて、こう言うのです。

 

吾輩は猫である

 

……お前、なめとんのか、と。空気読まんかい、と。そう思うでございましょう。まったく、これだからゆとりは、なんて、現代だったら言われるところでございます。

 

しかし幸いにも漱石が生まれた時代は現代ではなかったし、漱石ゆとり世代ではなかった! 人々は半ば呆れながら本書を読み始め……そして、この作品に恐れおののいたのでありました。


では一体どこに恐れおののいたのでありましょうか。

 

まず最初にこの作品は皆様ご存じの通り、ある名もなき猫が自分の飼い主やその周りの人々を「観察」している様子を描いたものなのでございます。

 

はい皆様ご注目。「観察」でございます。これこそかつて坪内逍遥が「小説神髄」で提唱し、「当世書生気質」で表そうとした、文学が文学たる最も重要な要素でございます。

 

しかもこの作品における猫の観察眼たるや、類まれなるものなのでございます。苦沙弥先生や迷亭さんの、なんと生き生きと描かれていることでございましょうか。これぞ逍遥の言う「写実主義」の極北と言っても過言ではございますまい。


それではこの作品はいわゆる逍遥の系譜に置くべき作品なのでしょうか。実は、そうではないのです。

 

逍遥の向こうを張る鴎外の説、それは「たとえ主観的であっても、その狂気のような主観に読者を引きずり込める作品」であったのでございました。

 

ならばもちろん鴎外派は本書をこそ賞賛すべきでありましょう。私たち読者は本書を読んで、この主人公の猫と一体化してともに喜び、ともに悔しがり、「まったく人間というものは」なんて思うのでございます。主人公は「猫」なのにも関わらず! 本書はわれわれ読者を猫にしてしまうのですよ。これを狂気と言わず何と言いましょう。これほどの狂気を成し遂げた作品がほかにございましょうか。

 

逍遥の文学観がリアリズムを重視しているのに対し、この作品はまさにその逆、アンチリアリズムでございます。だって主人公、猫なんですから。おや、誰ですか、「私の前世は猫だからこの物語はリアルだ」とかおっしゃっている人は?

 

そう考えると、まさにこの作品こそ鴎外の「理想主義」を表現した作品の一つだ、と私が言っても誰も異を唱えますまい。


ということで、本書「吾輩は猫である」は、別に文学をなめてるわけでもなければ、空気を読んでいないわけでもなかったのです。むしろ本書は日本文学史において逍遥の思想と鴎外の思想を結合し、昇華させた一大傑作なのでございます。

 

そして本書はまた猫の視点で人間を描くことで、この時代の「啓蒙的な雰囲気」そのものを揶揄して見せたのでした。「一億総なんちゃら」「追いつけ追い越せ」と言っていた時代に、「あ、俺、猫でいいっす」と言い放ったのですから。そしてその雰囲気を持っていたのは同時にまた、文学の世界でもあったのです。その日本の文学界に向かって、漱石は、こう言い放ったのでございます。

「神の領域とか、どうでもいいっす。猫の領域でいいっす」と。


思い返せば坪内逍遥は江戸時代の戯作を否定することで「文学」という新たな文化を切り拓いたのでした。

 

そしてまた森鴎外二葉亭四迷は、その逍遥を否定することで「文学」を前に進ませたのでした。

 

さらに夏目漱石は本書を著すことで、まず逍遥と鴎外をアウフヘーベンし、さらに「猫の視点」によってその両者を否定したのでございます。

 

これぞ日本文学における新しい時代の到来であったと、私は断言するのでございます。


さて、そのように鴎外の文学観、芸術観を否定し、揶揄している本作でございますから、私は当然のことながら鴎外の中に眠っていたあの「論争癖の虫」が、またむくむくと起きだしてきたに違いないと思うのですね。

 

しかし鴎外は漱石については何も語りませんでした。それはなぜか。

 

それは、漱石の登場は実は鴎外にとって都合の良いことでもあったからです。

 

この頃、鴎外は「没理想論争」やその他の評論活動によって小説を執筆することに関する高いハードルを自ら設けてしまっていたのでした。そして「日本文学の象徴」という重荷を背負っていたのです。

 

しかし漱石がこの作品で文壇に登場、漱石が鴎外を笑い飛ばし、世間がそれを受け入れたことによって、鴎外はやっとこの肩の荷を下ろすことができたのです。

 

これはうろ覚えの話なのですが、かつて中上健次がデビューした時、石原慎太郎(だったと思うのですが、違うかもしれません)からこんなことを言われたそうです。

「お前が出てきてくれたおかげで、俺は楽になった」と。

 

そして村上龍はデビューした時、同じことを中上健次から言われたそうで、村上龍はまた村上春樹がデビューした時、同じことを春樹に言ったそうでございます。

 

いつの時代でも、その時代を背負う運命にある作家というのがいるものでございます。鴎外もまた漱石が登場した時、

「これで俺は楽になった」

と、そう思ったに違いないと私は思うのです。やっと「日本文学の象徴」ではなく、「普通の作家」になることができる、と。

 

だからこそ鴎外は漱石の登場から数年後執筆を再開し、そして彼の作品は初期は「高踏派」、後期は漱石が名乗った「余裕派」に含まれるわけです。鴎外は漱石の登場によって、高踏なことを言わなくてもよくなった、やれ文学がどうだ、芸術がどうだ、ということをそこまで気にせずに小説を執筆できるようになったのです。

 

これが、私が「鴎外の作品の初期と後期は別物」と考える理由なのでございます。

 

もちろん何でも一番じゃなかったら気が済まなかったという鴎外のこと、面白くはなかったでございましょうが、時代とはそういうものですから、仕方ありません。

 

鴎外とて言いたいことは山ほどあったでございましょう。しかし、そんな鴎外も結局は本書における苦沙弥先生のように、苦虫噛みつぶした顔で漱石の頭を撫でてやるしかなかったのでございます。ニャー。


と、いうわけで、最初のレビューから逍遥、四迷、鴎外と続いてきた私の素人講釈もここでいったん区切りがついたことにして、これより日本文学のレビューはしばしの小休止、来月からは飛ばしてしまった硯友社の面々や自然主義の作家たちを読んでいきたいと思う次第でございます。


おなじみ夏目漱石吾輩は猫である」に関する素人講釈でございました。

 

吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)

 

 

森鴎外が坪内逍遥にケンカを売った話。

 

柵草紙の山房論文

柵草紙の山房論文

 

 

講釈垂れさせていただいます。

本日講釈させていただきたい「柵草紙の山房論文」でございますが、本書はまあ、一言で言うならば「森鴎外による坪内逍遥への言いがかり」でございます。

事の起こりは明治24年、坪内逍遥は雑誌「早稲田文学」を創刊いたしました。この雑誌の創刊号で連載が始まったのが、逍遥による「シェークスピア脚本詳註」。逍遥はこの連載を始めるにおいて、自らの姿勢について

「自分の理想(理念や主義)から論評するのではなく、客観的な態度でシェークスピアを紹介したい」

というようなことを宣言したのですね。で、このことを「没理想」と呼んだのです。

批評をするにおいて理念や主義にとらわれないという逍遥の姿勢は、別におかしい所はどこにもないと私は思うのですが、この発言に森鴎外が咬みついた。

鴎外はその頃「しがらみ草紙」という同人誌を発行していたのですが、その誌上におおむね次のようなことを掲載したのでございます。

「ほお、逍遥先生は『没理想』とおっしゃるが、果たして先生のおっしゃる『理想』とは何ぞや? 私が存じております哲学上の意味における『理想』とは意味が違うようですが、どういう意味で『理想』とおっしゃっているのか、どうぞ教えていただけませんか?
 そもそも先生は『客観的』な態度を随分好まれておられるようですが、ならば先生はもちろん、名作と言われている文学作品は皆おしなべて『客観的』であると、そうおっしゃるのでしょうな。まさかご存じない筈がございませんが、西洋の文学には古来より抒情詩なるものがございまして、この抒情詩は読んで字の如く情を詠うわけですが、この詠われている情もまた『客観的』だと、そうおっしゃるわけですな?」

で、逍遥としては驚いたのでございます。というのはこの言いがかりをつけられた「没理想」という言葉は連載の前口上のような部分で使われた言葉ですから、そんな言葉にいきなり「その言葉の厳密な意味を説明しろ」と言われるとは思っても見なかったのでしょう。

とは言え無視するわけにもいかないので、逍遥も誌上で

「いや、私はあくまでも理念や主観をなるべく避けたいという態度の話をしているのであって、そういうものが作品の中に存在しないと言っているわけではありませんよ。抒情詩はもちろん主観的に詠われた文学でしょうが、その中でも名作と言われるものはやはり作者の主観を客観的にみる視点があるのではないですか?」

というようなことを反論したわけでございます。そうするとまた鴎外が、

「ほお、主観の客観、私にはそれが何なのかさっぱり分かりませんなあ。もちろん先生は哲学にも精通してらっしゃるのでしょうが、一体誰がそのようなことを言っているのですか? 烏有先生という方はその著書において先生の主張と全く違うことを言っていますが…え? 烏有先生をご存じない? 先生ほどの博識な方が、あのハルトマンをご存じない? それはそれは。ということはまさか先生、西洋の古来の哲学者が未だ述べていない意味において『理想』だの『主観』だのとおっしゃっているのでしょうか。ということは先生は哲学における自らの一大体系を築きなさったわけですか。これはすごい。まさか先生がハルトマンをしのぐ哲学の世界的権威であったとは知りませなんだ。それではどうか先生の築き上げたその体系を私に伝授してくださいませんか」

とまた誌上で挑発しながら反論。それにまた逍遥が応えて……、ということでこの論争、何と1年間も続いたそうでございます。

そんな二人のこの論争は「没理想論争」と呼ばれています。本書はその論争の中の鴎外の言い分のみを集めたもの。

ちなみにお断りしておきますが、上に述べたのは私が二人の言っていることを「まあ大体こういうことを言っているのだろう」という想像と妄想ででっち上げた創作でございます。

というのは私、本書を何とか読んではみたのですが、はっきり言ってその内容があまりに難解で、ちんぷんかんぷんだったのでございます。そのため、この「没理論論争」の具体的な内容を正確に知りたい方は、どうかご自身で本書を紐解いてくださいませ。

ただ私は本書を読んでその意味はさっぱり分からなかったものの、とにかく「森鴎外という人は、とんでもなくウザイ奴だ。絶対に関わってはいけない類の人だ」ということだけは、よくよく理解した次第なのでございます。

まあ恐らく逍遥も、最初は相手をしていたものの、だんだん面倒臭くなったのでございましょう。最終的には

「なるほど、確かに鴎外先生のおっしゃるように私はまだまだ学問が足りないようでございます。どうぞ先生はその広大な知識をもって文学の世界を牽引してくださいませ。私はまだ修行の身ゆえ、今後も精進を重ねる次第でございます」

と、ある意味鴎外に詫びを入れさせられた形でこの論争は終結したのでありました。


さて、そのことを踏まえたうえで、私はこの論争が果たして当時の文学界においてどんな意味があったのかということを考えてみたいのでございます。

逍遥は、まあ、とんだ災難ではございましたが、こう言ってはなんですがこの人はその前に二葉亭四迷の「小説総論」と「浮雲」」の時点で、もはや作者として文学で名を遺すことはあきらめていたでしょうから、大した痛手ではなかったでしょう。

むしろ問題はこの論争の「勝者」となったはずの森鴎外でございます。

というのは、この論争をまわりで見ていた人たちの反応としては、

「いやはや、鴎外大先生、それだけ大言壮語を吐かれるのですから、次に先生が書かれる小説はそれはそれはご立派なものになるのでございましょうね」

ということに、なりますよね。私だったらそう思いますよ。これだけ文学と芸術と哲学に精通しておられる森鴎外大明神が、まさか、まさか駄作としか思えない小説や手すさびの小説などにその御手を煩わせるようなことは断じてなさるまい、と。

そして鴎外本人もまた、自分はそういうものが書けるはずだ、と思っていたのではないでしょうか。

つまり鴎外はこの論争で逍遥を言い負かして溜飲を下げたものの、結果としては自分が小説を書く時に果てしなく高いハードルを自ら設置することになってしまったわけです。

まあ、ただ「ハードルを上げすぎた」というのは実は鴎外だけでなく、四迷もまたそうだったのでしょう。彼らは日本文学の開拓者であり、トップランナーだったのでした。それ故に彼らはまず「小説とは何か」ということを自ら宣言したうえで小説を書かざるを得なかったし、彼らの理想とする「小説」とはすなわち西洋の長い歴史における「名作」のことだったのですから、鴎外も四迷も、また逍遥でさえも、もし「小説」を発表するとならばそれは必ず「名作」でなければならなかった。

そして彼らは、一般の日本人、とりわけ今後作家となって文学を背負って立つ若い文学青年たちにとってはシェイクスピアゲーテに匹敵する存在である、と思われなければならなかったのだと思うのですね。

この状況で、果たして鴎外なり四迷が小説なんて書けますか? という話なのですね。彼等が書く小説というのは当然、シェークスピアなりゲーテなりドストエフスキーの傑作に相当する小説でなければなりません。本人たちはもちろんのこと、周りの人たちもそう思っていた。そうでなければ、「なんだ、結局日本人には文学なんて無理なんだよ」と言われてしまうのです。


以前「小説神髄」のレビューでも触れた水村美苗の「日本語が亡びるとき」の中に、こんなことが書かれていたのです。

「日本文学にとって幸福だったのは、鴎外や漱石がドイツ語や英語でなくて日本語で小説を書いてくれたことだった」と。

もしも彼らが「日本人」であるより先に「作家」であったなら、外国語を自在に操る彼らですから、英語やドイツ語やロシア語で小説を書くことだってできたでしょう。もし彼らがそうしていたら、100年前にカズオ・イシグロが誕生していた、かもしれません。しなかったかもしれませんが。

でも彼らは日本語に、日本文学にこだわったのです。そして、だからこそ「日本文学」という英語でもドイツ語でもフランス語でもスペイン語でも書かれていない、いわばマイナー言語でありながら主要な文学が誕生することになるのです。

その生まれたばかりの「日本文学」の象徴的存在であったし、そうあらざるを得なかった逍遥や四迷や、とりわけ鴎外が、この頃「すでに西洋小説を会得した者」として、一体どんな小説を書くことができたというのでしょう?

この三人がデビュー作に続く小説なんて書けたはずがない、と私は思うのでございます。


とは言え、こんなことを言うと、「いや、しかし鴎外や四迷は20年後に執筆を再開するではないか」と、こう反論される方もいるかもしれません。

そうなのです。鴎外と四迷は長い沈黙を破って再び執筆を再開するのですが、彼らがそうできた理由は、ある人物が登場したからだと私は思っているのでございます。

その人物というのは・・・と、ここでまた紙幅が尽きてしまいました。てことでその話はまた次回にて。

 

おなじみ森鴎外「柵草紙の山房論文」に関する素人講釈でございました。

 

 

柵草紙の山房論文

柵草紙の山房論文

 

 

ユー、狂っちまいなよ! という話。

 

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

 

 

坪内逍遥が「当世書生気質」を発表したのが明治19年、二葉亭四迷が逍遥の理論をより発展させる形で「浮雲」を描いて見せたのが翌年の明治20年のことでございました。

しかし驚くなかれ、それから3年後、明治23年に日本文学はさらなるネクストステージへと向かうことになるのです。その立役者となったのが、森鴎外でありました。

ということで、本日は「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の三作まとめて講釈垂れさせていただきます。


鴎外の初期に発表した三作は「独逸三部作」、あるいは「浪漫三部作」とも言われておりまして、実は鴎外、この三作を発表した後は評論や翻訳にむしろ力を入れ始め、再び小説を書き始めるのはおよそ二十年後、明治42年のことでございます。

つまりこの三作と、よく知られる「高瀬舟」だとか「山椒大夫」だとかはちょっと別物、と考えるべきなのですね。

ではこの三作は一体どんな作品なのか、とりあえずあらすじをばばっとご紹介いたしましょう。


舞姫」は多くの方もご存じでしょう、鴎外の自伝的小説とも言われている作品でございます。ドイツで官吏の仕事をしている太田豊太郎はある日エリスという名の美少女と出会います。

エリスは踊り子をしていましたがその暮しは貧しく、父の葬儀の費用すらない、と泣いていたのを豊太郎に助けられたのです。

このことがきっかけで二人は交際をするようになりますが、そのことが同僚に知れて問題となり、豊太郎は免職となってしまいます。

その後新聞社の駐在員をしながらエリスとその母との三人で暮していた豊太郎でしたが、そんな豊太郎の元に復職の話が持ち上がるのです。

大臣の信頼を得た豊太郎は、大臣からともに帰国するようにと言われます。その場で約束をした豊太郎でしたが、実はその時、すでにエリスは妊娠しており・・・


うたかたの記」はドイツで美術を学ぶ学生巨瀬が友人に連れられて入った居酒屋で美しい少女と出会うことから始まります。

その頃巨瀬はかつて出会った菫売りの少女が忘れられず、その姿をローレライの絵に描いていたのでしたが、居酒屋で出会ったその少女こそ、巨瀬が忘れられずにいた少女、マリーなのでした。

マリーは巨瀬に自らの生い立ちを語ります。彼女の父がかつては有名な画家であったこと、彼女の母がかつて国王から懸想されていて、それを守るために父と母が死んでしまったこと。そしてマリーもまた父のような画家となるために美術学校でモデルをしながら独学で美術を学んでいること。

マリーは巨瀬を故郷の湖に誘います。そこで互いの思いを確かめ合った二人でしたが、ちょうどそこに国王が現れ、マリーの姿に彼女の母の幻影を見、追いかけてくるのです。

国王とのもみあいのためマリーは国王とともに湖に沈んでしまい・・・


文づかひ」は皇族が催す宴の席で身の上話をせよとせがまれた少年仕官、小林の物語。

彼がドイツに留学していた時、ドイツの軍との合同演習がありました。そこで彼はメエルハイムという軍人と出会いますが、あまりいい印象を感じませんでした。

演習の後、彼とメエルハイムはある伯爵の館へ招待されます。その伯爵の家には五人の姉妹がおり、とりわけ彼に印象的だったのはイ﹅ダという姫でございます。少し人と違った感性を持っているように思われるこのイ﹅ダ姫は親の言いつけにより、メエルハイムと婚約することになっていたのです。

小林がザックセンに住んでいることを話すと、ザックセンの伯爵の妻はイ﹅ダ姫の伯母だとのこと。そしてある日イ﹅ダは小林にどうか誰にも知られずに手紙を伯母に渡してほしい、と言うのです。

まだ出会ったばかりの日本人である彼にそんなことを頼むのは、それなりの理由があってのことだろうと小林はそれを承諾し、ザックセンに帰ったのち、伯爵の家に招かれた際に手紙を伯爵夫人に渡したのでした。

それからしばらくして、伯爵が催した社交会で小林はふと見覚えのある女性と出会います。その女性こそ、イ﹅ダ姫だったのです。今頃はメエルハイムとすでに結婚しているはずのイ﹅ダ姫がそこにいたその理由というのが・・・


というような物語なのですが、私は今回この三つの物語を「視点」という観点から考えてみたいのでございます。

まず「舞姫」。この物語は言うまでもなく、主人公豊太郎の独白、という形になっています。いわば日記のような感じですね。この物語で語られているのは、あくまでも豊太郎の「主観」なのです。

続いて「うたかたの記」。この物語は普通の小説によくあるような「客観的」な視点で語られています。例えるなら、昔話のようなものですね。「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがおって・・・」という感じです。

そして「文づかひ」。この物語は一見「舞姫」と同じ独白の形態をしているのです。しかしこの物語が「舞姫」と違うのは、この物語は私小説ではない、ということ。

舞姫」を読んだ読者は、当時も今も、豊太郎というのは恐らく鴎外本人のことなのだろうと推測して読みますね。しかしこの「文づかひ」をそう読む人はいないでしょう。いわばこの物語は「他人の主観」という視点で描かれているのです。


で、なぜそのことが重要かというと、恐らく鴎外はこの三作を発表することによって逍遥が提唱した「写実主義」を批判しようとしたのだと思うからなのです。

逍遥の「写実主義」というのは、乱暴に言えば「客観的」に、「緻密」に対象を描くことで物語は「文学としての小説」になる、というものでした。

しかし鴎外からすると、それは「小説」という芸術のたった一面しか説明していないのです。なぜなら鴎外自身が「舞姫」で証明したように、「主観的」であっても文学たりうることができるのだから。

「この小説は私が観察して描いたものですから、この小説の登場人物が善であれ悪であれ、作家である私とは関係ありません」というのが逍遥の立場であり、彼の考える「客観性」なんですね。鴎外に言わせると。

しかし鴎外からすれば「俺には善い部分もあれば悪い部分もある。強い所もあれば弱い所もある。だから俺の書いた作品には善い部分もあれば悪い部分もあるし、強い所もあれば弱い所もある。それを引き受けたうえで世に問うのが芸術であり、芸術家なんだ」ということなのだと思うのです。


で、この三作の中で最も重要な作品は「文づかひ」だと僕は思うのです。

この作品は一見「主観的」な作品のように見えますね。でも、主人公の小林は作者ではない。しかもこの物語は最後、主人公の小林が聞いたイ﹅ダ姫の物語で終わります。

ということは、こういうことになるのです。作者は小林の主観について語っているが、語られている小林はイ﹅ダの主観について語っている、そういう構造です。じゃあ、作者は一体何について語っているんですか? と。

これは一体なんなんだ、主観なのか、客観なのか、という話になるわけです。逍遥の理論や芸術観ではこの作品について何も説明することができないのですね。


うたかたの記」において、マリーは言います。

「われを狂人と罵る美術家ら、おのれらが狂人ならぬを憂へこそすべきなれ。英雄豪傑、名匠大家となるには、多少の狂気なくてかなはぬことは、ゼネカが論をも、シエエクスピアが言をも待たず。見玉へ、我学問の博きを。狂人にして見まほしき人の、狂人ならぬを見る、その悲しさ。」

鴎外に言わせれば、客観的な芸術家なんて二流なのです。たとえ狂っていたとしても、周りをその狂気に巻き込める人、他人を自分の主観の巻き添えにできる人、こういう人が鴎外の言う一流の芸術家であり、そういう人の書いた作品が鴎外の言う一流の芸術作品なのですね。関わる人は大変ですが。


というわけで、逍遥と鴎外というのはまさに水と油なわけでございます。とりわけ鴎外が逍遥のことを許せないってので、よせばいいのに鴎外、わざわざ逍遥にケンカを売りに行ったんだよ、ほんと困った人だよね、という話を次回はしたいなあ、と思っているのでございます。


おなじみ森鴎外舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の素人講釈でございました。

 

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

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