文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

落語に関するマジメな話。

 

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

 

 

えー、相も変わりません。今日もばかばかしい話を一席お付き合いいただければと思います。

 

「話芸」と言っても色々ございます。その中でもとりわけ学問として研究されているのが、本書でも取り上げられている落語でございましょう。今回講釈させていただきます「落語の言語学」は、落語というものを「ことば」の観点から掘り下げてみよう、というものでございます。

 

著者はまず第一章で話芸は三種に分けられる、と言います。その三種とは、

 

ハナス芸=落語、漫才、漫談
カタル芸=浄瑠璃浪花節浪曲
ヨム芸 =講談(講釈)

 

で、落語と漫才や漫談は同じ「ハナス芸」ではあるものの、ことばの観点から大きな違いがあるのでございます。

 

それが、落語は落語家の地の語り、高座での客に向けた語り、噺の中での語り、の三つがある一方、漫才や漫談では地の語りと客に向けた語りの二種類しかない場合が多い、ということ。つまり落語というものは落語家が噺を「演じる」ものであるところでございましょう。

 

同じ題目をやるにしても、それぞれの噺家によって微妙に味わいが異なってくるものでございます。例えば古典落語には江戸と上方とどちらでも演じられる演目もあれば、どちらかでしか演じられないものもございます。

 

有名な「寿限無」なんかは本来上方発祥の演目ですが、江戸落語で聞く機会もございましょう。また江戸落語で聞くにしてもどの演者で聞くかによって、また趣が変わってくるのでございますね。

 


また本書では落語の「マエオキ」に注目します。

 

落語には「まくら」と呼ばれる本題に入る前のちょっとした雑談があることは有名ですが、そのまくらに入る前にも落語家それぞれ個性があるようでございます。

 

本書では様々な落語家のマエオキを例に出して比較しているのですが、例えば有名な五代目古今亭志ん生

「えー、あたくしんところは、えー、落語でありまして、落語はいちばんハナはごくみじっかいのから、だんだんとながい一席になりまして、ハナはみじかかったんですな。「土瓶がもるよ」「そこ(底)まで気がつきません」、なんてえのが落語だったんですな」

という感じで、まくらに入る前のマエオキからしっかり笑いを取るところが五代目志ん生の名人たる所以かもしれません。

一方これが昭和の爆笑王、今の林家三平のお父さん、初代林家三平になると

「三平でございまして、あ、どうも、どうもすいませんですけど。ほんとなんですから、もう。ほんとですよ、もう。だから、もう、からだ大事にしてください、ほんとに。ほんとなんですから。あぶないんですから、今は、もう。ほんとなんですから、もう」

とこうなって、もうマエオキなのか何だかわかりませんが、でもそれがまた魅力だったのでございましょうねえ。

ついでにもう一人ご紹介しますと、立川志らくのマエオキは

「まあ、とにかく、一席おつきあいのほどをねがいますが、まあ、でも、落語家ってのは、ほんとに、ばかっ丁寧なことをいいますね、一席おつきあいのほどをねがいますだなんて。いまどき、そんな丁寧なことをいうやつ、いませんね、これは、ね」

と、マエオキでマエオキを否定する、という、いかにも立川流らしいマエオキでございます。


さて、落語と言えばやはりオチでございまして、オチがあるから「落語」なわけでございます。細かいことを言えば落語の演目の中には「牡丹燈篭」のように笑い話ではないものも多いので、そういうものはオチがないのでございますが。

 

このオチにもいろんな種類のオチがあるのですね。本書でもそんなさまざまな演目のオチについて分析しているのですが、まあ、最も一般的なオチと言えば「地口オチ」でございましょう。要するにダジャレで落とすってことですね。

 

例えば「大山詣り」という演目がございますが、これは熊五郎が長屋の仲間と一緒に大山に参詣しようとするのですが、江戸に着く前夜に大酒を飲んで仲間とケンカしてしまうのですね。で、仲間内の取り決めで、江戸を出るときにもし仲間とケンカをした奴がいたら、そいつの頭を丸坊主にするっていう取り決めがしてあったので、仲間たちは熊五郎が寝ている間にその髪を全部剃ってしまい、熊五郎を置いて先に出立してしまうのです。

 

さあ、目を覚ました熊五郎は驚いた。頭は丸坊主にされて、しかも置いてけぼりにされたっていうんで、我慢がならん。これは仕返しをしてやろうというので、熊五郎、急いで仲間より一足先に江戸へ帰り、長屋のかみさん連中を集めるのです。

 

熊五郎は、実は船が転覆してしまって、みんな死んでしまった、助かったのは俺だけだ、俺は仲間の菩提を弔うために坊主になることにした、と仲間のかみさん達に言います。そしてあんたたちも夫が死んだのだから尼にならなきゃならん、ひいてはその髪を剃らなきゃならん、っていうので、熊五郎、仲間のかみさんたちをみんな丸坊主にしてしまった。

 

そこに仲間たちが帰ってきて驚いた。おかみさんたちがみんな丸坊主になっているのですから。これはどうしたことだ、熊五郎の仕業だっていうんで大騒動。

 

で、この騒ぎを何とか鎮めようっていうので吉兵衛さんという人がその場に出てきて、こう言うのです。

 

「しかしみなさん、こんなにめでたいことはないねえ」

「吉兵衛さん、冗談じゃねえや、かかあ坊主にされてどこがめでたいっていうんだい」

「だって、考えてもごらんよ。参詣もすんで、みんな無事に帰ってきて、おけがなくてめでたい」

 

「お怪我」と「お毛が」の掛詞でございますね。ちなみにこういう地口オチは通の間ではあまり評判がよろしくないようで、私は好きなんですけどねえ。本書によると井上ひさしなんかも地口オチに好意的だったようでございます。


まあそんなわけで、本書は落語というものを学術的な観点から捉えたものではございますが、そもそも落語というものは難しい仏教説話を面白おかしく話したことから始まったそうでございますから、その落語をまた難しく考えるというのもこれはこれで面白いものでございます。

 

まあ、世の中には難しい話というのはつまらない話と相場が決まっておりまして、だからこそみんなあんまり難しい話ばっかりされると「なんだこいつは。つまらん奴だ」なんてことを言われてしまうのでございますねえ。それでも話の最後にオチでもありゃいいんですが、まあ理屈っぽい話というのはただつまらないだけでオチも何もあったもんじゃございませんが……

 

おや、誰ですか? いま私の方を指さして笑ったのは。え? オチがなくて理屈っぽいのはお前の話だって? ひどいことを言う人もいたもんだ。私の話がつまらないって、そう言いたいんですかい。

 

まったく、私はまあ、そんなこと言われても気にしませんがね。ええ、全然へこんだりなんてしませんよ。

 

おや、そんなことを言っているとまた別の人が。え? お前の話は確かに理屈っぽいが、ある意味では面白い?

 

嬉しいことを言ってくれるじゃありませんか。「ある意味」ってのがちょっと気になりますが、いえいえ、嘘でございます。そんなことは気にしませんよ、私は。

 

ね、捨てる神あれば拾う神ありとはこのことだ。え? どうか悪口を言われても、お気を落とすことのないように、って? ありがたやありがたや。こりゃほんとに神さまだ。

 

ええ、ええ、ありがとうございます。まったくへこんだりいたしませんよ。この私がそんな悪口で気を落としたりなんて、するものですかい。

 

なんせ私、オチない男ですから。


……おなじみ野村雅昭「落語の言語学」の素人講釈でございました。

 

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)