文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

ブレヒトおじさんの皮肉と諧謔に満ちたお話。

 

暦物語 (古典新訳文庫)

暦物語 (古典新訳文庫)

 

 

えー、相も変わりません。今日もばかばかしい講釈を一席たっぷりお付き合いいただければと思います。

 

16世紀に印刷技術が発展したころ、聖書や讃美歌とともに当時の民衆に深く愛されたのが「暦物語」と呼ばれた小冊子でございまして、イギリスではチャップ・ブックとも言われております。

 

いわゆる旅回りの商人がいろんなものと一緒に地方で売り歩いていた本のことでございまして、この「暦物語」に書かれていたのは暦や雑学といった実用的な知識と、民衆のための短くて読みやすく面白い物語でした。

 

本書は「三文オペラ」などの劇作家として有名なブレヒトによる「暦物語」でございます。まあ要するに、こむつかしいことはとりあえず脇に置いておきながらも、でもなんか心に引っ掛かるような、そんな物語たちでございます。

 

で、収められているのは四つの短篇と四つの詩、そして「コイナーさんの物語」と名付けられた小咄集。

 


本書の中で私が一番好きなのは、「亡命の途中に生まれた『老子道徳経』の伝説」という詩でございますねえ。

 

この詩の中で描かれているのは、かの有名な老子がいかにしてその著書「老子道徳経」を遺すに至ったかという物語でして。

 

まあ老子が好きな人なら誰でも知っている物語でしょうが、知らない、つうか老子とか別に興味ないし、ってな人のためにその内容をご紹介しましょう。

 

遥か古代の中国に一人の役人がおりました。70歳になった彼はその深い知識から多くの人に慕われていたのでございます。

 

まあそうなると当然、彼の元には出世の話などが多く寄せられたのですが、彼はそれが嫌になって国を出ようと決めます。

 

なぜなら彼、のちに老子と呼ばれるその人の思想とは「上善は水の如し」、正しさというものはいつだって水のように下に流れてゆく、偉くなることや強くなることは真理と呼べるものから遠ざかるんだよってなことだったのですから。だから出世話とか勘弁してくれ、と。

 

そういうわけで彼はめんどくさい話やそれを持ちかけてくる人々から逃れるために、牛の背に跨り、旅に出ることにします。

 

ところがある関所で彼は税関の男に止められるのですねえ。その税関の男は「高価なものに関税をかける!」と言いますが、老子のお供をしていた少年は答えます。「ありませんよ、そんなもの」と。

 

そして少年は言うのです。「この人はね、先生だったんだよ」と。

 

一体どんなことを教えていたんだ? と税関が訪ねると、少年は答えます。

 

「流れる水は柔らかいけど、
 時がたてば、大きな石にも勝つことを。
 ね、わかるでしょ、硬いものが負けるんだ」

 

なんでそうなるの? と税関は思いました。そこで、どうかそれを書き残してくれないか、と老子に頼みます。

 

ということで今も伝わっているのが「老子道徳経」、一般に「老子」という名で呼ばれている書物なのでございます。

 

さて、ここまではありふれた、よく知られている老子の伝説。ところが本書が面白いのは、最後にブレヒトがこの伝説にこんな言葉を付け加えているところなのでございます。

 

「表紙に名前が燦然と輝いているからといって、
 この本を書いた賢者だけを褒めてはならない!
 賢者からまずその知恵をもぎ取る必要があるのだから。
 だから税関の男にも感謝するべきなのだ。
 書いてくれと頼んだのだから。」

 

ああ、何という究極の下から目線でございましょうか!

 

いやでも、そうなのですよ。老子は確かにすごい。とても偉い。でも、そう言ってしまったら実は老子が自分で述べた思想とはかけ離れたものになってしまうじゃありませんか。だから、本当は老子よりもこの税関の男の方がすごいし、偉いんだよと。ここまで突き詰めての老子ですよ。「上善は水の如し」ですよ。……でも、もはやそうなったら一体何が何だかわけが分かりませんが。

 


本書には老子のほかにもブッダソクラテスの物語が収められているほか、ジョルダーノ・ブルーノやフランシス・ベーコンといった科学者たちの物語も収められています。

 

てことで、気分が乗って来たのでもう一つ。フランシス・ベーコンの物語「実験」は、こんなお話でございます。

 


政争に破れ、地位と名誉を奪われて自分の領地に帰ってきたフランシス・ベーコン。そんな彼に、一人の少年が召使として雇われます。

 

ベーコンの評判は地に落ちていたので、少年のおばあさんは言うのでした。

 

「あのお方はな、悪い人だから、気をつけるんだよ。どんなに偉いお方であっても、お金を山のようにもってるとしても、やっぱり悪い人なんだ。お前にパンをくれるご主人だから、仕事はきちんとおやり。でも、悪い人だってことは、忘れるんじゃないよ」

 

ベーコンは少年に、この世界にはどんなにたくさんの言葉があるのかを教えました。要するに、何かの出来事を描写して認識するためには、どれだけ多くの言葉が必要であるのか、ということを教えたのでございます。

 

そして、言葉を覚えることの大切さを教えると同時に、使わない方がよい言葉もある、ということも教えました。たとえば「よい」とか、「悪い」とか、「醜い」とか、「速い」とか、そういう言葉は、結局のところ何も述べていないのと同じだということを。

 

つまり、「速い」じゃ分からねえから時速何キロなのか言え、と。「悪い」じゃ分からねえからどの法律を犯してるのか言え、と。まあそういうことですね。そこを曖昧にしたまま「速い」とか「悪い」とかいう判断すんじゃねえぞ、と。

 

で、少年はそんなベーコンに影響されて、その思考法について理解していくのです。

 

「重要なのは、なにを知ってるかなんだ。人間は信じていることが多すぎ、知っていることが少なすぎる。だからどんなものでも、自分で、自分の手で、試してみる必要がある」

 

少年はもっと世の中のことを知りたいと思うようになりました。そのためには本を読むのが一番早いのですが、少年は字を読むことができません。

 

そこで少年は自分の頭で考えて、一冊も本を読まずに字を覚えようとするのでございました。

 

そんなある日のこと。それは雪の降るとても寒い日でした。

 

ベーコンと少年の乗った馬車が一羽のニワトリをひき殺してしまいます。ベーコンは死んだニワトリを見て、こう言います。

 

「内臓を全部かき出すんだ」

 

そしてかき出した後、そこに雪を詰めるよう少年に命じ、胸を張って、こう言いました。

 

「これで一週間は、きっと新鮮なままだ」

 

さて、そうして彼らは家に帰りますが、この時の寒さが原因でベーコンは風邪をひいてしまいます。

 

次の日、少年が呼ばれてベーコンの寝室に行くと、ベーコンは少年にニワトリの状態を尋ねました。ベーコンにとっては自分の病のことやほかのどんなことよりも、ニワトリの状態の方が気になるのですね。

 

少年は、まだ新鮮に見えます、と答えます。するとベーコンは満足そうにうなずいて、「また二日後に報告してくれ」と言いました。

 

しかしベーコンはそれからすぐに死んでしまうのです。

 

その後も少年はニワトリを観察し続けました。すると確かにベーコンが言ったように、ニワトリは六日たってもまだ新鮮なままのように見えます。

 

さすが、ベーコンさんの言った通りだ! と少年は思います。で、このことを大人たちに伝えようとするのです。

 

だけどまわりの大人はそんなこと信じようとはしませんでした。それどころかそんなこと、気にも留めていませんでした。

 

だからなんだってんだ? と。

 

彼らはそんなことよりも葬儀の準備や、その葬儀で牧師がどんな弔辞をするかのほうがよほど大切なことだったのです。

 

少年にとってはむしろそっちの方が、どうだっていい類のことだったのですが……。

 


本書はもともと1948年のクリスマスに出版される予定だったそうです。それがもろもろの事情で1949年の出版になってしまいましたが、出版されるや大反響を呼び、合計4万部のベストセラーとなったのでした。

 

それもそのはず。なぜなら本書はブレヒトが高尚な、見識ある、お偉い方々に向けて書いたものではなく、それこそタイトル通り「暦物語」として、広い一般大衆のために書いた物語たちなのですから。

 

そんな本書の中に描かれているものは、ごく普通の人々に対する愛情と慈しみ、そして、ちょっとだけ(いや、けっこうたくさん?)の皮肉。

 

訳者のあとがきによると、ブレヒトの書斎の天井の梁にはこんな言葉が書かれていたそうです。

 

「真実は具体的だ」

 

「真実は難しい」でも、「真実は複雑だ」でもないんですね。真実はいつも「具体的」なものであり、逆に言えば「具体的」なものだけが「真実」と呼べるのかもしれません。ということは、本当に大切なもの、「真実」というのは、誰の目にもちゃんと見えるように現れる。別に賢い人じゃなくたって、偉い人じゃなくたって、それはちゃんと理解できる。ブレヒトは本書においてそう言いたかったのでございましょう。

 

本書はまさにそんな物語たちでございます。別に難しいことが書いてあるわけでも、偉そうなことが書いてあるわけでもありません。

 

でもこの本を読めば、誰もが自分にとっての「真実」を、「具体的」に考えられるようになる、かもしれません。

 

いやあ、いいなあブレヒトおじさん。鋭いなあ、ブレヒトおじさん。

 

おなじみブレヒト著「暦物語」に関する素人講釈でございました。

 

暦物語 (古典新訳文庫)

暦物語 (古典新訳文庫)

 

 

知識よりもお金よりも大切なものの話。

 

八十日間世界一周 (岩波文庫)

八十日間世界一周 (岩波文庫)

 

それでは本日も一席、お付き合いいただければと思います。

 

本日講釈垂れさせていただきたいのは、ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」でございます。

 

時は19世紀の終わり。イギリスのとある社交クラブで、一人の紳士が賭けをしたのでございます。その賭けとは、「八十日で世界一周はできるのか?」ということ。

 

できる、と主張したのは本書の主人公である英国紳士フィリアス・フォッグ氏。そしてフォッグ氏はこの賭けに勝つために、召使のフランス人パスパルトゥーを連れて八十日間世界一周の旅に出たのでありました。

 

このフォッグ氏というのがクラブ内でも有名な変人で、とにかく金持ちであるのは間違いなのですが、その資産を一体どうやって手に入れたのかは誰も知りません。というのはこのフォッグ氏、極端なほど無口な人で、自分のことはおろかよほどのことがない限り自分から何か言葉を発することすらしないのです。

 

加えてこのフォッグ氏はとにかく几帳面というか、神経質な人で、時間は一分一秒すら狂わせたことがないし、前の召使いをクビにした理由なんて、髭剃りの温度を90℃に指定したにもかかわらず88℃で持ってきたからだ、というほど。

 

そしてフォッグ氏はどんなことが起こっても冷静沈着、ただ一言こう言うのでした。

 

「大丈夫、それも計算に入っていますから」


そんなフォッグ氏ですが、とにかく彼の頭にあるのは八十日間で世界を一周するという、いわば時間のことだけ。船室でも彼は予定表を広げて、今日は何日、あるいは何時間損失したか、あるいは利益となったかということばかり。

 

そして外の風景などには目もくれず、唯一の趣味とも言えるトランプゲームに熱中しているのでした。

 

そこで、読者としてはこう思うのではないでしょうか。そんな旅のどこが楽しいんだ? と。旅の醍醐味とは風景を楽しんだり、いつもならできない経験をすることにこそあるのではないか、と。しかしフォッグ氏はまるでそんなことには興味もない様子。

 

しかしそんな読者の期待に応えてくれるのが、召使のパスパルトゥーなのでございます。この陽気なフランス人は、むしろ我々一般の、ごく普通な読者の代表としてフォッグ氏の代わりに異国の旅を満喫してくれるわけですが、ところが、このパスパルトゥー君のおかげで、旅はいつも予定外の災難に遭うこととなるのです。

 

しかしそれでもフォッグ氏は、こう言うのでした。

 

「大丈夫、それも計算に入っていますから」

 

さらにこの物語を盛り上げてくれるのが、刑事フィックスでございます。ちょうどフォッグ氏が旅に出たころ、ロンドンではある事件が話題となっておりました。銀行から多額のお金が盗まれたというこの事件、犯人は立派な紳士の姿をしていたというのです。

 

その犯人の人相図を見て、この犯人こそフォッグ氏に違いないと確信したフィックスは、フォッグ氏を追いかけて、ともに世界を一周するのでございます。

 

はてさてフォッグ氏、果たして本当に八十日間で世界一周できるのでしょうか? そしてフォッグ氏とは一体何者なのでございましょう? それは、読んでみてのお楽しみなのでございます。

 


さて、そんな物語である本書が出版されたのは1873年でございます。

蒸気機関車が発明されたのが1804年、世界最初の商用鉄道ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通したのが1825年のこと。日本でも1年前の1872年に新橋―横浜間で鉄道が開通しました。

 

科学の発展によるこの交通革命は、事実上「地球を小さくした」ものでした。そして、もしも潤沢な資金さえ持っているならば、この巨大な世界をわずか八十日間で一周できるのだ、ということを、ヴェルヌはこの小説で証明して見せたのです。

 

さらに科学技術と経済の発展した21世紀の現在なら、もっと短期間で世界を一周することも可能でしょう。

 

しかし私は思うのです。この物語においてヴェルヌが本当に描きたかったものは一体なんなのだろう、と。

 

それは、鉄道を発明した科学技術の素晴らしさなのでしょうか。あるいは、お金さえあれば世界を一周することも可能なのだ、という、資本主義の素晴らしさだったのでしょうか。

 

私はどちらでもないのだと思うのですね。いやもちろん、科学技術も経済の発展も大事な要素ではあります。しかしそれよりも大切なものがある。

 

この旅において、作者はフォッグ氏が一体どれぐらいの時間を使い、あるいは浮かせたのかということと同時に、一体いくらのお金を使ったのかということも明記していきます。そして最終的にはこの世界一周という旅において、フォッグ氏が一銭の損もしなかったかわりに、一銭の得もしなかったことが示されるのです。

 

その代わりにフォッグ氏が得たもの、それは、一人の愛する女性と、そしてパスパルトゥーという誠実な召使だったのでした。

 


たとえどれだけ科学が発展したところで、たとえどれだけ世界が豊かになったところで、それだけでは何かが足りないのです。

 

その足りないもの、ヴェルヌがこの物語において本当に描きたかったもの、それはフォッグ氏の心の中の強い意志や勇気のようなものだったんじゃないか、と。

 

それは、科学やお金では決して手に入れられないもの。いやむしろ、科学の発展や資産を築くためにむしろ必要なもの。


21世紀を生きる私たちは、ヴェルヌが生きた時代よりもより賢く、より便利に、そしてより豊かになっています。

 

だけど私たちはそれらを利用して、この世界を本当に幸福に、楽しく、公平にしていると言えるのでしょうか。そうしようとする意志や、勇気をもっているでしょうか。

 

もしもヴェルヌが現在に甦ったら、やっぱり彼は人間に失望してしまうかもしれません。我々人類はもっとうまくやれるはずじゃないのか? なんて、そんな物語を描くのかもしれません。

 

だけど、それこそまさに空想の物語。その物語を描くのは、今を生きる私たちの仕事なのですから。

 

19世紀であれ21世紀であれ、本当に大切なものはなんでしょう。それは一人一人の人間の心の中にある何か。

 

もしかしたらそれを私たちは「センス・オブ・ワンダー」と呼ぶのかもしれない、そんなことを思うのでございます。

 


おなじみジュール・ヴェルヌ著「八十日間世界一周」に関する素人講釈でございました。

 

八十日間世界一周 (岩波文庫)

八十日間世界一周 (岩波文庫)

 

 

ヴェルヌが予見した飛行機の話。

 

 

えー、本日も相も変わらず、素人講釈にお付き合いいただければと思う次第でございます。

 

本日講釈垂れさせていただきたいのはジュール・ヴェルヌの「征服者ロビュール」でございます。

 

時は19世紀の終わり、アメリカの新興都市フィラデルフィアにある有名なクラブウェルドン協会。そこで喧々諤々の議論を繰り広げているのは集まった100人ほどの気球研究家たちでございました。

 

彼らは本職の技師ではなく、航空機の操縦に興味を持つ単なるアマチュアの集団でしかなかったものの、あるいはそれゆえに、熱狂的な気球主義者たち。

 

「空気より重い」機具や空飛ぶ機械、まあ要するに飛行機ですね、に対する強烈な敵意を持っていた彼らの会合に、一人の人物が現れます。その男の名はロビュール。そして彼はあろうことかその会場で、こんなことを言うのでした。

「諸君! わたしは知っている。一世紀にわたる経験、一世紀にわたる試みはすべて徒労の連続だったと。得るものとてなにもなかったのだ。にもかかわらず、まだ気球で大空を飛びまわれると頑固に信じている馬鹿者たちがいる。」

このロビュールが会場で宣言したこと、それは人間が空を支配するためには、気球よりも飛行機の方がより適している、ということだったのです。

ざわめく会場、そして罵声。しかしロビュールはなおも言うのです。

「気球には進歩というものがない。気球主義者の諸君、飛行機にこそ進歩はあるのだ。鳥は飛ぶ。だが鳥は気球じゃない。あれは精巧な機械なのだ!」

「諸君の気球がどんなに完全なものであろうとも、それが実用的な速度をだせないのが致命的なのだ。世界一周をするのに、諸君は一〇年かかる。一方、飛行機は一週間で世界をまわる」

沸き起こる抗議と否定の声。

「飛行家君、君はわれわれに空中飛行機のすばらしさを教えてくださっているが、そういう君は空を<飛んだ>ことがあるのかね?」
「もちろん!」
「で、空を征服したと?」
「たぶん!」
「征服者ロビュール万歳」

ロビュールの挑発的な発言の数々に気球主義者たちは怒り心頭、ピストルまで持ち出す始末。

 

しかし銃声が響き渡った時、ロビュールはまるで空飛ぶ機械に運ばれたように飛び立ってしまったのでした。

 


さて、そんな頃、世界中で謎の気象現象が話題となっていました。遥か空の上空から、トランペットの音が聞こえてくるというのです。実はその怪事件の犯人こそ、<あほうどり号>で世界を周遊するロビュールの仕業だったのでした。

 

ロビュールは飛行機の性能を見せつけるために気球協会の会長アンクル・ブルーデントと書記長のフィル・エヴァンスを拉致、<あほうどり号>に監禁して世界一周の旅へと出たのでありました・・・。

 


さて、本書が出版されたのは1886年のことでございます。この頃がどういう時代だったかというと、ライト兄弟が飛行機による友人動力飛行に成功したのが1903年、リンドバーグがニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したのが1927年のこと。

 

つまり19世紀後半には飛行機の実用化は夢のまた夢だったわけで、そう考えるとこの作品の先見性がうかがえますね。

 

しかし私が本日申し上げたいのは実はそのことではなく、ヴェルヌが飛行機の実用化だけでなく、飛行機の実用化が一体世界に何をもたらすかということまで予知していた、ということなのでございます。

 

たとえば第一次世界大戦第二次世界大戦における一般市民の被害者数を比較してみると明らかなのですが、第一次世界大戦では1000万人足らずだった一般市民の被害者は第二次世界大戦時には3800万人ぐらいにまで膨れ上がっているのですね。

 

で、なぜそうなっているかというと、理由は簡単、第一次世界大戦の後期から「戦略的空襲」が行われるようになったからなのです。

 

つまり飛行機が実用化されると同時に、あるいはその実用化を促す形で飛行機が軍事的に利用されるようになり、人類は上空から爆弾を落とす、という攻撃が可能となったわけです。

 

言い換えるならば、もしも飛行機が実用化されていなかったならば、あるいはこんなことを言うと論理の飛躍だと言われるかもしれませんが、科学が進歩しなかったならば、戦争という人間の行為もまた、ここまで悲惨にならずにすんだのかもしれない。

 

飛行機が空襲に利用される、そんなことは、例えば同じように空を飛ぶことを夢想したレオナルド・ダ・ヴィンチなんかは予想だにしなかったことでしょう。彼は多分、ただ空を飛びたかっただけのはず。それはライト兄弟しかり、リンドバーグしかり。

 

しかし実際にはいわゆる科学技術というものは、そんな夢物語だけでは収まらない、残酷な未来をもたらすものでもあるのです。

 

ジュール・ヴェルヌという人は初期は科学に対して楽天的であったが、後期は悲観的になった、と言われています。その原因としては、甥に銃撃されたことなどがあり人間不信に陥ったのではないかと言われていましたが、後に発見された初期の作品からもその説は否定されているようです。彼の科学技術に対するペシミスティックな視点というものは、実は最初から持ち合わせていたのだ、と。

 

実際、あれほどまでに未来を予見するほどの明晰な頭脳を持っていた彼が、科学技術に対してある種の信仰とも言えるほどの楽天主義者であったと考える方が無理があるんじゃないかと私は思うのでございます。

 

本書の最後に、著者はこう言います。

「いま、その答えはでているのだ。ロビュール、それは未来の科学である。いや、ひょっとするとあすの科学かもしれない。未来に待ちうけている科学の偉大な力なのだ」

ちなみに本書の出版からおよそ20年後、1904年にヴェルヌはこの物語の続編を執筆するのです。そのタイトルは「世界の支配者」。そしてこの物語は、ロビュールがあらゆる新発明を使って人類に被害をもたらそうとする話なのだとか。

 

もしもヴェルヌが現在に生きていたら、彼はインターネットや人工知能バイオテクノロジーや原子力をネタに、一体どんな物語を描くのでしょうか。

 

それは恐らく、多くの科学主義者たちが期待するような「初期ヴェルヌ」の物語にはなりえないのではないかと、私は思うのでございます。

 

あるいはもしかしたら、ヴェルヌは科学に対しては終始一貫してオプティミストであったのかもしれません。でも彼は、人間そのものに対してはペシミストであり続けたのかもしれない。

 

私たち自身は、あるいは私たちを代表する為政者や私たちが利用する企業は、決してロビュールにはならないと、私たちは本当にそう言い切れるのでしょうか。

 

いや、そもそもそんなことは問うべきことではないのでしょうか。


おなじみジュール・ヴェルヌ著「征服者ロビュール」に関する素人講釈でございました。

 

 

満たされぬ征服欲に悶絶する話。

 

 

相も変わらず本日も、本当か嘘か分からない話を一席お付き合いいただきたいのでございます。

 

本日講釈垂れさせていただきたいのは、ドイツ文学者として有名な種村李弘さん翻訳のコレクションシリーズ「砂男 無気味なもの」。「砂男」は「くるみ割り人形」で有名なドイツのロマン主義文学者E.T.A.ホフマン作、そして「無気味なもの」はそのホフマンの「砂男」を中心としてフロイトが無気味さについて考察したものでございます。

そして最後に種村さんがホフマンとフロイトを通して「吸血鬼」や「人工美女」について述べた「ホフマンとフロイト」が収められているのです。

 

さてそれでは本書の中心であるホフマンの「砂男」について、少し長くなりますがあらすじをご紹介いたしましょう。

 


物語は主人公のナタナエルが故郷の友人ロータールに送った手紙から始まります。その手紙の中でナタナエルは、ある出来事について語るのです。

 

大学生のナタナエルは故郷を離れ大学都市で独り暮らしをしていましたが、そんな彼の下宿先に一人の男が現れるのです。イタリア人だというその男は彼に晴雨計を売りつけようとします。

 

怒ったナタナエルはその男に暴言を浴びせて追い返してしまいました。

 

いや、そこまでしなくてもいいんじゃないか、と思うかもしれません。しかしナタナエルによると彼がそうしたのにはあるわけがあるそうなのです。

 

そのわけというのは、彼がまだ幼かった頃にさかのぼります。当時ナタナエルの一家は夕食後、父親の書斎に集まって、円卓で会話を楽しむのが習慣となっていました。幼かったナタナエルはこの習慣をいつも楽しみにしていたのです。

 

ところがこうして夕食後に父の書斎に行った時、時折夜が更けてくると、母親が子どもたちにこう言うのですね。

 

「さあ、子どもたち! お寝みの時間よ! お寝みなさい! 砂男がきますよ、ほら、もう聞こえてるわ」

 

母親がそう言うと、確かにドアの向こうから何やら足音が聞こえるのです。

 

さてこの砂男とは、一体どんな恐ろしい怪物なのでしょう。ナタナエルはそのことを母親に尋ねますが、彼女は「砂男なんていないのよ、坊や」と取り合ってくれません。そこでナタナエルが乳母に尋ねると、乳母はこう言うのでした。

 

「おれはおそろしい男でな、子供たちがお寝んねしねえで駄々をこねていると、そこへやってきて目ン玉のなかさ砂を一つかみ投げ込んでくだ。そうして目ン玉が血だらけになってギョロリととび出すと、それを袋に入れて、半月の夜に自分の子供らの餌食に運んで行くだよ」

 

ああ、なんて恐ろしいことでしょう! しかしそのことを聞いたナタナエルは好奇心の虜になってしまいました。そうしてその姿を見てみたいと、こっそり父親の書斎に隠れていたのです。

 

そうしてナタナエルが隠れていると、父親の書斎に一人の人物が現れました。その人物とは、時折一家の昼食に招かれてくる弁護士のコッペリウスでした。

 

コッペリウスはとても醜い風貌をしており、しかも子供嫌いなこともあってナタナエルら子どもたちから嫌われている人物。

 

そんなコッペリウスとナタナエルの父親は、二人で何やら錬金術師めいた奇妙な行為を始めます。恐ろしくなったナタナエルはうっかり隠れていたカーテンの蔭から姿を見せてしまいます。

 

「見ーたーなー!」とばかりにナタナエルに襲いかかるコッペリウス。しかしそこは父親のお蔭で何とか助かったのですが・・・

 


さて、実は先日ナタナエルに晴雨計を売ろうとした男、この男はナタナエルによるとコッペリウスだったと言うのです。

 

そんなあらましを綴った手紙を誤ってロータールではなくその妹であり彼の恋人でもあるクララに送ってしまったナタナエル。クララは彼を心配して、そんなことはとても合理的でない話だと言います。そしてナタナエルもまた休暇を得て故郷に戻り、クララやロータールと過ごすうちに確かにそうかもしれないと思うようになるのでした。

 

そうして故郷から再び下宿先へ帰ると、下宿先は火事で焼けてしまっていました。偶然友人が彼の荷物を無事外に出し、新しい下宿先へと運んでくれていたので、ナタナエルは新しい家へと向かいます。その家は、彼が授業を取っている物理学の教授スパランツァーニの家の向かいでした。

 

さてこの家に、再びコッペリウスが現れるのです。そして彼は今度は眼鏡を買わないか、というのでした。ナタナエルもさすがに彼が幼少の頃に出会ったコッペリウスだというのは非現実的だと思い、前日の行為の後ろめたさから、望遠鏡を買うことにします。

 

そして望遠鏡で窓の向こうを見てみると、スパランツァーニ教授の家の窓にある若い女性がいるのでした。なんて美しい女性だろう、ナタナエルは一瞬にして恋に落ちてしまいます。

 

しかしこの女性、スパランツァーニ教授の娘オリンピアは実は、自動人形、ロボットだったのですねえ。

 


ああ、なんだかずいぶん話しすぎてしまいました。クララという恋人がいながら自動人形のオリンピアに恋をしてしまったナタナエルがどうなるのか、この先は読んでのお楽しみといたしましょう。

 


さて、フロイトはこの物語について、眼球喪失=去勢不安の物語だと解釈するのですが、正直私自身はこの解釈についてはあまりピンときませんでした。(まあ、そもそも私はフロイトに始まる物語の精神分析的解釈全般にピンとこないのですが)

 


で、何もフロイトにケンカを売るつもりはございませんが、私自身はこの物語を「男の征服欲の物語」だと読んだのでございます。

 


まあ男というのは、多かれ少なかれ理屈っぽい生き物でございます。なぜ理屈っぽいかと言えば、よく分からんのが耐え難いのでございましょう。

 

しかし現実の世の中にはよく分からんことにあふれているもの。そこで男は「分かりたいけれど分からない=征服したいけど征服できない」という葛藤を心に抱えて大人になってゆくのでございます。

 

そんな「分かりたいけれど分からない」ものの中で大きな要素を占めるのが「世の中=自然」と「女性」なのでございますねえ。

 

男にとって人生のテーマとも言えるのがこの「現実」と「女性」をどう「自分の思いのままに動かすか」なのです。そう言うと女性の方はイラッとされるかもしれませんが。

 

そう考えると、理系に男性が多いのも、あるいは「すごーい!」と女性から言われると大抵の男が鼻の下を伸ばすのも、これみな男の征服欲によるものではないかと私は思うのでございます。(あ、別に理系の男性がとりわけ征服欲が強いと言いたいわけじゃないですよ。男は征服欲が強いから理系になりやすいって話で、私のように文系でも征服欲の強い男はいくらでもいると思うので)

 


ナタナエルが砂男=コッペリウスを恐怖するのもまた、彼が理解できないものだからだと思うのです。近代的な合理性をもって理解しようとしてもそこから零れ落ちる不可解なもの、それが砂男なのだと。

 

そしてまたナタナエルの心理には、恋人クララへの恐怖もあるように感じるのです。だけど自動人形であるオリンピアには自我というものがないですから、男であるナタナエルは分かったつもりになりやすい、というか分からない苦悩を感じる必要がないのですね。まあフィギュア好きや二次元萌えなんていうのもこの類かもしれません。(ちなみに本書によるとデカルトも美少女の人形を持ち歩いていたとか! オタクの元祖はデカルトだったのか!!)

 


とまあ、話を広げすぎて収拾がつかなくなってしまいましたが、まあなんにせよこの物語はフロイトも指摘している通り、不気味で、奇怪な物語なのでございます。

 

しかしなんですな、こういう理解できないものを描いたものを理屈で語ろうとするこのレビューなんかは、これ私の征服欲の結果でありましょう。

 

そして私もまたナタナエル君のように、満たされぬ「征服欲」に悶絶するのでございます(涙)もっとうまく書けると思ったんだけどな・・・

 


おなじみ種村李弘コレクション「砂男 無気味なもの」に関する素人講釈でございました。

 

 

どれだけ賢くなったところでねえ、という話。

 

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

 

 

 

それでは本日もばかばかしい話を一席。

ウクライナの作家ブルガーコフによる二編の中編が収められた本書。解説でも触れられていることでございますが、収められた二編はどちらもファウストフランケンシュタインに通ずる「創造主の実験に対する責任」がテーマなのでございます。

特に当時のソ連政府に対する風刺の厳しい「犬の心臓」は発禁処分となり、1980年代にペレストロイカが始まるまで世に出ることが許されなかったとのことです。

本日はそんな過激な本書について、講釈垂れさせていただきます。


ということで、最初の一編「犬の心臓」は、こんなお話。

ソビエト連邦成立直後のモスクワ。道端のゴミを漁ったり、町の人々に蹴られたりしながらなんとか生きていた一匹の犬に、思わぬ僥倖が訪れます。その犬を見つけた一人のブルジョワ紳士が彼を家へと連れ帰ってくれたのです。

僕はなんて幸運な犬なんだ! と喜ぶその犬は「コロ」と名付けられ、家の中でどんないたずらをしても怒られることなく、食事も十分に豪華なものを与えられて幸せに暮らしておりました。

ところがそんなコロに飼い主の紳士フィリップ・フィリパーノヴィチはあることを行うのでございます。

モスクワでも有名な外科医だった彼がコロに施したこと、それは人間の脳の下垂体と睾丸をコロに移植することなのでした。

さて、そうして脳と睾丸を移植されたコロは見る見るうちに人間のような姿に変化していくのでございます。果たしてコロは犬なのか、それとも人間なのか、はたまた犬人間? とにかく続きは読んでからのお楽しみでございます。


そしてもう一編「運命の卵」。

動物学者プルシコフはある日、とんでもない発見をしてしまいます。カエルの専門家である彼のその発見とは、ある光線を浴びせると動物の繁殖力が高まるというものでした。

おりしもその頃、モスクワでは鶏の間で原因不明の疫病が蔓延し、ほぼ絶滅状態となってしまいます。

この緊急事態を救うため、プルシコフ教授に白羽の矢が立てられます。国営の農場「赤い光線」の農場長に任命された男ロックはプルシコフの制作した光線の出る箱を使ってドイツから来た卵に光線を当て、鶏の大量繁殖を図るのです。

しかし農村の人々はみんな、噂していました。「機械で卵をかえすなんて、考えられない。そんなことは悪魔の仕業だ。あれは悪魔の卵だ」と。

さて、そうして鶏の卵だったはずのその卵から孵ったのは実は……。

いやはやこの続きもまた、ここでは申し上げられませぬ。是非ご自身で読んでいただきたいと、そう思うのでございます。


さて、これらの作品はソ連政府や彼らの社会主義に対する風刺、ということになっているようですが、実際のところこれらの作品は特定の政府とか思想に対する風刺だけではなく、資本主義に対する風刺でもあるし、それ以前に思想やあるいは科学のような「知性」そのものに対する風刺でもあるのでしょう。

私たち現代人はきっと過去の人たちよりずっと賢くて、しかも技術の発展でいろんな力も持っているはずなのに、この世界は別に良くなっているわけじゃないですよね。環境破壊は止められないし、テロの恐怖に脅かされるし、格差は解消されるどころかますます拡大している。

はてさて、それは私たち人類の「知性」がまだまだ足りないからなのでしょうか。


「知性」ってね、怖いと思うのですよ。何が怖いって、それって人を服従させる手段になりえるものだから。

法律とか、軍事力とか、お金とかと同じように、いわゆる科学的な自然法則や、究極的にはその自然法則に行きつく「論理」というものは私たちをある意味支配しています。

で、法律と軍事力とお金と自然法則と論理に共通することって、それらがみな「非情」なものだってことなんですよね。

何が言いたいかっていうと、「賢いかもしれないが人間としてクズ」みたいな人が生まれることを、「知性」は止めることができないということ。お金とか法律なんかが「金持ちかもしれないが人間としてクズ」とか、「権力者かもしれないが人間としてクズ」という人間が生まれることを止められないのと同じように。

そしてお金や法律が善人にも悪人にも平等に適用されるように、知性だって同じ。だから知性を使って人を殺すための理屈を考えつくことだってできてしまう。


「犬の心臓」で手術をされ、「人間」になってしまった犬のコロは、犬らしい行動をする一方、「人間」としての権利を主張し始めます。

しかし彼に手術を施した医師フィリパーノヴィチはそんなコロ、人間名コロフに強い不快感を覚えるのです。お前なんか犬のくせに、と。ブルジョワが「お前なんか労働者のくせに」と思うのと同じように。

そんな蔑視を感じたコロフは言います。「別に俺が人間にしてくれと頼んだわけじゃないぞ」と。そして犬ならばきっと怒った時は咬みつくのでしょうが、人間としての知能を持ったコロフはもっと別の手段でフィリパーノヴィチに攻撃をし始めるのでございます。


人間を人間と規定するもの、もしもそれが「知性」だというのなら、恐らく人間となったコロの物語「犬の心臓」はハッピーエンドとなったことでしょう。もしもコロフの「脳」が問題なのならば、もっと優れた脳を移植すれば問題は解決するはず。

でもこの作品はそういう風には終わらないのですねえ。それはきっと、作者ブルガーコフが言いたかったことがそういうことではないからでしょう。それはタイトルが「犬の心臓」であることからもうかがえます。

作者はフィリパーノヴィチを借りて役人や社会主義者たちを軽蔑していますが、実はそんなフィリパーノヴィチもまた、作者にとっては軽蔑の対象でしかないのです。

なぜなら人間に必要なもの、それは「知性」=「脳」よりも「心臓」なのだから。

例え犬が知性を持っても、そのハートが犬であるならば、結果は悲惨なものになるんだ、と。


もし作者が「知性」というものに楽観的であったならば、この作品はもっと別の結末を迎えたでしょうし、タイトルも「犬の心臓」ではなかったはず。

だとするならば、この作品を発禁処分にした者たちは気づいていたのかもしれません。自分たちが人間以下の心臓の持ち主であることに。

でも別に当時のソ連に限らずこの世界には、屁理屈ばっかり言って人の気持ちの分からない、そんな人間以下の心臓の持ち主がなんて多いことか。

いやはや、犬の心臓にはなりたくないものでございますねえ。とか言いつつ私自身、自分の心臓にはまったく自信がございませんが(汗)。ウー、ワン!

(実は人間よりも犬の方がずっと心が大きかったりするよね、とかいうのはまた別の話)


おなじみミハイル・ブルガーコフ著「犬の心臓・運命の卵」に関する素人講釈でございました。

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

 

 

愛と自由が両立する瞬間は奇跡だという話。

 

Xのアーチ (集英社文庫)

Xのアーチ (集英社文庫)

 

 

それでは本日も講釈垂れさせていただきたく、またお付き合いいただければと思う次第でございます。

本日ご紹介したい本書「Xのアーチ」でございますが、この物語は説明することがなかなか難しい。

後にアメリカ独立宣言の起草者となるトマス・ジェファーソン、彼は故郷のヴァージニアからパリを訪れていました。そんな彼の元に、奴隷の黒人少女サリーが娘の伴として赴くことから物語は始まるのでございます。

サリーの主人であるトマスは積極的に黒人の弁護を行っていた人物でもあり、奴隷制廃止論者でした。そのため彼の奴隷たちは彼のことを慕ってもいたのです。

さてそんな時、トマスやサリーたちが宿泊していたホテルでのこと。サリーは真夜中に自分のベッドに忍び寄る影に気づきます。

彼女を襲った人物、それはあろうことか彼女の主人であるトマスでした。

必死の抵抗にもかかわらず、トマスによって凌辱されてしまうサリー。でも、誰にもトマスをとがめることのできる者はいませんでした。なぜならサリーは奴隷であり、トマスの所有物だったのだから。

ここで、サリーには二つの選択肢が提示されるのでございます。

トマスとともにアメリカに帰れば、サリーは確かに奴隷のままだけれども、彼の愛人として、彼の館の女主人としての地位が確保されるでしょう。そして彼女自身、トマスのことを愛しているのです。

しかしここはパリ。自由・平等・博愛の街。だからもしここで逃げだせば、奴隷の身分から解放され、一人の人間として自由になることができる。たとえそうすることがより困難な状況をもたらすとしても、恐らく一人の人間としての尊厳は守られるでしょう。

さて、サリーはどちらを選択するべきなのでしょうか?


と、実はここまでは500ページあるこの物語の100ページ足らずでしかありません。いわばプロローグのようなもの。

ここから物語は永劫都市と呼ばれる宗教に支配されたパラレルワールドの未来の話になり、20世紀末のベルリンとアメリカの話になるのです。さらに登場人物たちがそれらのさまざまな世界の中でなぜか相関し合っていくという次第。


「愛」は大切だ、と言って反論する人はいないでしょう。「自由」が大切だと言って反論する人も。

そして私たちはみんな「愛」も「自由」もどちらも大切なものだと、当たり前のようにそう思っている。

でも、作者は言うのです。「この二つを結合させることはほぼ無理だ。奇跡でも起きない限り」と。


「愛」とは何か、ということと、「自由」とは何か、ということは別の話なのですね。言うなれば「愛」と「自由」はそれぞれ別にアーチを描いて動いているのです。

ある行動は「愛」という視点からは正しいかもしれない。でも、「自由」という視点からはそうではない。

なぜなら、「愛」というものは必然的に相手を支配したり、あるいは支配されることを積極的に受け入れることである半面、「自由」というものは必然的に人間関係そのものを否定するものだから。

だけど、私たちは誰もが「愛」と「自由」はどちらも大切だと思っているから、この二つのアーチが結合しなければならないと思っている。「愛」のアーチと「自由」のアーチが交差するXの中心点、これこそが「幸福」だと。

でもそんなことはきっと、ほとんど滅多に起きるものではないのです。それこそ「奇跡」でも起きない限り。


「愛」と「自由」の二律相反は男女のような個人間の関係性だけでなく、個人と社会や国家との関係においても、また国家と国家の関係においても言えることだと思うのですね。

本書では明らかにされていないのですが、私はおそらく「永劫都市」というパラレルワールドは「フランス革命に失敗した未来」なのだと思うのです。

そのパラレルワールドでは中世のヨーロッパがそうであったように、「宗教」が「奇跡」を保証している。

一方今私たちが生きているこの世界では「近代的な価値観」が「奇跡」を保証していますよね。

「宗教」や「近代的な価値観(資本主義とか、合理主義とか)」は言うのです。「愛」と「自由」が結合する「Xのアーチ」、つまり「幸福」は実現されるのだ、と。

この「幸福」を宗教では「解脱」と呼ぶのでしょうし、近代的な価値観では「成功」と呼ぶのでしょう。

でもね、「奇跡」というのはいつだって「一瞬」なのです。ということは、「奇跡」が起きるまでの間、私たちはずっと何かを我慢し、何かに不満を感じ、何かを足らないと感じ、何か間違っていると感じ続けなければならないということでもあるし、「奇跡」が起きた後もまた、もう一度「奇跡」が起きるまでその不幸を背負っていくということでもある。

それが「奇跡を信じる」ということ。

逆に言えば「奇跡を信じた」その時、私たちは「不幸」になることが確定するのかもしれません。もちろん、ほんの一瞬だけ訪れる「幸福」を除いて。

「宗教を信じる」こと、あるいは「近代的な価値観を受け入れる」ということは、実はそういうことなのかもしれません。

かと言って、宗教や近代を批判しても、別に何も解決はしないのです。そんなことをしたところで、その先に待っているのはただのニヒリズム

「人間なんて結局は動物か、あるいは機械にすぎないじゃないか。ごちゃごちゃ考えるのはやめて、実用的に、享楽的に生きようぜ。金と権力を手に入れて生きてる間にいい思いをした奴が勝ちだ。そうだろ?」なんてね。


「愛」「自由」「無」という三つのキーワードから歴史を考えると、最初は「無」のために人が生きた時代であったのでしょう。そこに宗教という名の「愛」という秩序が生まれた。そして人類はさらに「自由」というもう一つの大切なものを発見したのです。

ま、私は現代思想なんてさっぱり分かりませんが、ポストモダンってのは結局「愛」と「自由」と「無」の先にあるなにかについて深く考えていくことだったのでしょう。多分。

ところが時代はポストモダン=近代を超えるどころか、どうやら前近代、前中世に戻っているような気もしますねえ。「愛」も「自由」も結局は単なる建前、幻想にすぎなくて、ニヒリストが肩で風を切って歩くような、そんな世の中になりそうな気がいたします。

 

「いいか、よく聞けよ」とエッチャーは小声で言った。「人間は三つのもののためにしか死なない。愛か、自由か、無だ」

 

あなたは何のために生きますか? 愛? 自由? それとも、無? それとも……


おなじみスティーヴ・エリクソン著「Xのアーチ」に関する素人講釈でございました。

 

Xのアーチ (集英社文庫)

Xのアーチ (集英社文庫)

 

 

分かり合えない、っていうのは案外大事なことかもしれない話。

 

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

 

 

今日は私の大好きな一冊について、講釈垂れさせていただきたく、またお付き合いいただければと思います。

 


本書は作者の梨木香歩さんが学生時代に留学していたイギリスに再び訪れた時の思い出を語ったエッセイでございます。

 

半年間イギリスに滞在することになった作者は、20年前に下宿していたウェスト夫人の家へと向かいます。その道すがら思い出すのは、かつてその下宿で共に過ごした友人ジョーのこと。

 

教師をしていたジョーは小説よりもドラマティックな人生を歩んできた女性でした。そんな彼女の元に、ずっと消息不明だった恋人エイドリアンが訪れます。

 

しかしそのエイドリアンはインドで妻子を持っており、犯罪まがいのことを繰り返してここまでたどり着いたようでした。

 

エイドリアンはウェスト夫人の小切手帳を盗み、お金を引き落とそうとして失敗、再び行方知れずとなり、ジョーもまた、彼に付き添って下宿を出て行ったのでした。

 

そんなことを思いながら、作者は彼女に言いたくても言えなかった言葉を思い出します。

――ねえ、ジョー、私はもう、救世主願望は持たないことにしてる。

そう言うときっとジョーは、こう言うのだろう、と作者は思うのでした。

――そうね、それは賢いわ。けれど人間にはどこまでも巻き込まれていこう、と意志する権利もあるのよ。

その他、本書で語られるのはウェスト夫人の下宿で出会った人々の話。尊大でプライドがありすぎるナイジェリア人の家族やご近所の婦人方と引っ越して来たばかりの有名人夫婦、かつてウェスト夫人のナニーだった忠義者のドリス。

 


イギリス滞在の後、作者はカナダへ向かいます。モンゴメリの暮らしたプリンスエドワード島へ行き、ウェスト夫人の謀略で行きたくなかったニューヨークでクリスマスを過ごし、カナダのトロントに滞在します。

 

この時出会うのが、大家のジョン。彼は自閉的傾向のある人物でした。

 

トロントを去る時、作者は迎えに来てくれたジョンとこんな会話をするのです。

――言ってないことを察するのは難しいね。

――そうなんだよ、難しいんだ、化学の論文なんかよりずっと。

――ああ、化学の論文の方がそれは、遥かに論理的合理的だものね、でも私にはそっちがずっと難しい。

――僕たち、足して二で割れないもんだろうか。

――そうだねえ、全ての人間を足してその数で割ったら、みんな分かり合えるようになるかなあ。

――うーん、でもそれもどうかなあ。

――分かり合えない、っていうのは案外大事なことかもしれないねえ。

――うーん……。この間、不動産屋がアラブから来たばかりの人たち連れてきただろう、君、初めてだったんじゃないか。

――いや、初めてではなかったけど。

――そう。彼らのことをわからないと言う人がいるけど、自分の論理を押し付けてくるという点では、僕にはみんな同じだな。

 

このエッセイの根底にあるのは「分かり合えなさ」だと思うのです。私たちは誰も、絶対に分かり合うことなんてできない、というどうしようもなく残酷で、不条理にも思える現実。

 

例えば海外で暮らすことを「国際交流」だとか「相互理解」とか言うけれど、そんなものは嘘っぱちだと思うのですね。実際に海外で暮してみて分かる、理解できることというのは、「郷に入れば郷に従う」しかないってことで、「あ、やっぱり自分は日本人で、この国の人たちとは違うんだ」っていうことなんじゃないかと。

 

この「分かり合えない」という現実を前に、人それぞれ様々な反応をすることでしょう。

 

そのことに思い悩む人、自分が悪いと自分を責める人、他人を責める人、諦める人……

 

そうして「分かり合えなさ」を補うために、私たちはみな、何らかの暫定的な拠って立つ何かにすがるでしょう。

 

例えば国家や文化、例えばお金、例えば宗教、例えば科学的合理性。

 

もちろん、暫定的な拠って立つ何かを持つこともまた重要なのです。最初の話で作者がジョーにこう問いかけるように。

「……こういう嗜好は私たちの中に確かにある、けれど私たちはお互いの知らないそれぞれの思春期を通して、注意深くそれをコントロールしてきたよね、それがあくまでも趣味の領域をでないように、そうだったでしょう? こんなにも無防備に、それに――つまり無所属というようなことに――激しく感応するセンサーは、何か不吉な方向性をもっているのではない?」

でもそれらはあくまでも「暫定的」なものであって「絶対的」なものではないのに、私たちはついそれを忘れてしまい、そしてジョンが言うように「自分の論理を押し付け」てしまう。

 


このエッセイの最後はウェスト夫人から作者に送られた幾つかの手紙で締めくくられます。

 

それらの手紙が送られてきたのは、ちょうどニューヨークで連続自爆テロがあった頃。

 

ウェスト夫人は手紙の中で、こう言うのでした。

「ああ、こういうことがすべてうまく収まって、また一緒に庭でお茶が飲めたらどんなにいいでしょう。私は左肩にドリスを、右肩にはこの間亡くなったマーガレットを乗せてるわ。貴方の大好きなロビンも、きっと何代も前のロビンたちを引き連れてクッキングアップルの木の上で歌うでしょう。いつものように、ドライブにも行きましょう。春になったら、苺を摘みに。それから水仙やブルーベルが咲き乱れる、あの川べりに。きっとまた、カモの雛たちが走り回っているわ。私たちはまたパンくずを持って親になった去年の雛たちの子どもたちにあげるのよ。私たちは毎年そういうことを続けてきたのです。毎年続けていくのです……」

もしこの世界に「真実」というものがあるのなら、「私たちは決して分かり合うことなんてできない」ということもまた、「真実」の一つなのかもしれません。

 

もしかしたら私たちが「分かり合おう」とする限り、私たちは争い続けなければならないのかもしれない。私たちは分かり合えるはずだ、という思い、信念や理想のようなものが、「分かり合えない」と感じるものに憎悪を抱かせるのかもしれない。

 

「分かり合おう」という思いはもしかしたら、「分かり合えない」という現実から目をそらしているだけなのかもしれない。

 

でも、作者はこう言いたいんじゃないか、と私は思うのです。

 

大切なことは「分かり合おう」とすることではないし、お互いを理解することでもない。そんなことよりももっと大切なことは、一緒にお茶を飲むことや、一緒にドライブをすること、一緒に苺を摘みに行くことだ、と。「分かり合う」のではなく、経験を「共有」することなのだ、と。

 

そうして経験を「共有」することで、私たちは「分かり合え」ていなくても「通じ合う」ことができる。作者とウェスト夫人のように。


「春になったら苺を摘みに」。そんな風に誰かを誘うことができる、そういう人になりたいものでございますねえ。


おなじみ梨木香歩著「春になったら苺を摘みに」に関する素人講釈でございました。

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)