地獄で神を見る話。
えー、相も変わりません。相も変わりませんが、本日はまじめな話を一席。 大岡昇平の「野火」をご紹介したいのでございます。
太平洋戦争時、フィリピンのレイテ島。主人公の田村一等兵は肺病を患ったため、わずかな食料を渡されて隊を追い出され、野戦病院へと向かいます。
しかしすでに敗色濃厚なこの時、病院でも手持ちの食料が尽きた病人を置いておく余裕はなく、彼は再び隊へと戻ります。
もちろんそこで迎え入れてもらえるはずもなく、分隊長は言うのでした。
「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰ってくる奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みたいな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら――死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それがいまじゃお前のたった一つの御奉公だ」
そうして彼は病院へ戻りますが、当然入れてもらえるはずもなく…。
病院のまわりには、同じように軍からも病院からも追い出されて周りでぶらついている兵士たちがいます。彼もその中に混じって、ただ「がんばって」坐りこんでいました。
その時、米軍が空から病院を爆撃、彼は命からがらその場を逃げだします。
やみくもに山のなかへ逃げ込みさまよっているうちに、彼は一軒の小屋を発見しました。
もはや空き家となったその家の周りには畑がありました。恐らく現地人がそこで暮していたものの、戦場となったために捨てて逃げだしたのでしょう。
畑には芋や豆がありました。この戦場の楽園のような小屋で彼は身を隠すのです。
ある日彼は山の頂に光るものを見つけます。それは十字架でした。
そこは恐らく教会で、周りには現地人たちの集落があるのでしょう。
その晩、彼は夢を見ます。それは、こんな夢なのでした。
彼がある村の中を歩いていると、目の前に大きな教会があります。
中に入ると、どうやら葬儀をしている様子。
彼は現地人の群れをかき分け棺桶に近づき、一体だれが弔われているのか、覗きこみます。
すると、そこに眠っていたのは彼自身なのでした。
では、一体俺は誰なのだろう? 彼はそう思います。そして気づくのでした。
そうか、今の俺は魂なのだ。俺はもう、死んでいるのだ、と。
その時、棺の中で死んでいるはずの彼の死体がふと口を開き、呟いたのです。
「De profundis clamavit――われ深き淵より汝を呼べり」と。
翌朝、目覚めた彼はその教会をめざし、小屋を出ます。
そうして彼が出会うのは、神なのか。
もちろん、そんなはずはないのです。
それは、この先も永遠に続く無間地獄の始まりに過ぎないのでした……
この作品は一般に「戦記文学」「戦争文学」と呼ばれています。
しかし本書の解説において、吉田健一はこう述べているのです。
「野火」では、大岡氏のそれまでのどの作品にも増してそういう、それこそ小説の本領である実験が行われていると。
つまりこの作品において、乱暴に言えば「戦争」というのは一つの舞台設定にすぎないということです。
作者が描こうとしたものはなにか。それは「戦争」すらも一つの条件でしかあり得ないような、より普遍的で、より形而上的な問いです。
すなわち「神」とは何か、ということ。
それは旧約聖書のテーマと通じるのかもしれません。なぜ人間はエデンを追放されなければならなかったのか。なぜ神は人間に過酷な試練を与えるのか。
人間は神を呼べば呼ぶほど、深い淵のなかへ落ちていく……なぜ?
なぜ平和のために戦争をしなければならないのか。なぜ己が生きるために人を殺さなければならないのか。なぜ人を喰ってでも人は生きたいと願うのか。もし生還できたとしても、残りの生涯を罪の意識を抱えて生きなければならないのに、それでも生き続けたいと願うのはなぜなのか。
なぜ? なぜこの世は地獄なのか。「神」を求めてしまうほどに。
野火、山の中から空へと昇ってゆく煙がそこにあるということは、すなわちその下には人間がいるということです。
そこに人間がいるということは、そこに地獄があるということです。
「われ深き淵より汝を呼べり」という旧約聖書の言葉は、次のように続きます。
「われ山にむかいて目をあぐ、わが助けはいずこより来るや」
もしも戦場という地獄に「神」がいたとして、そしてその「神」の一人子イエスが人間の姿となってその戦場に遣わされたとしたら、「彼」は飢えた兵士にこう言うかもしれません。
「俺を殺して、そして喰え」と。
その時、その言葉に従うのが信仰なのでしょうか。
それとも、その言葉に抗うこと、それが信仰なのでしょうか。
そこでこの物語を書き始め、そしてこの物語は最後、こんな言葉で締めくくられるのです。
「神に栄えあれ」
それは戦争が過ぎてもなお、彼が「深い淵」にいることを示しているのでしょう。
「はじめに言葉ありき」と聖書は書いています。そして神は自分の姿に似せて人間をつくったのだ、と。「神」が人間をつくったのだ、と。
しかし戦場で「神」を問うこの物語は、私たち読者をある一つの答えへと導きます。
この物語が描き出す矛盾、「なぜ?」の答えはきっと、たった一つしかない。
それはつまり、こういうこと。
「この世界に「神」などいない。それは過酷な状況におかれた我々人間がつくりだすものだ。逆に言えば「神」が存在するということは、この世界が地獄であることの証明に他ならないのだ」
「神」はまた同時に、「お国のために死ね」と矛盾を突きつける「国家」でもあるのでしょう。
そしてこの結論は、さらに恐ろしい推論へと読者へ導くのです。
もし野で人が暮らすならば必ず火を起こす=野火を生むように、「神」や「国家」というものが人が生きていく上で絶対に必要なものであるとするならば……。
その先を敢えて言おうとは思いませんが、もしこの作品が描き出した結論が間違っているとするならば、そこにはまた「なぜ?」が生まれてしまうのです。
「なぜ、戦争はいつも「神」や「国家」の名目のもとに行われるのか」と。
その答えは結局、「神のみぞ知る」のかもしれない。
たとえ人間がその答えを知りえたとしても、この「深い淵」、地獄から抜け出せるわけではないのだから。
おなじみ大岡昇平「野火」に関する素人講釈でございました。