文芸素人講釈

古今東西の文芸作品について、講釈垂れさせていただきます。

どれだけ賢くなったところでねえ、という話。

 

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

 

 

 

それでは本日もばかばかしい話を一席。

ウクライナの作家ブルガーコフによる二編の中編が収められた本書。解説でも触れられていることでございますが、収められた二編はどちらもファウストフランケンシュタインに通ずる「創造主の実験に対する責任」がテーマなのでございます。

特に当時のソ連政府に対する風刺の厳しい「犬の心臓」は発禁処分となり、1980年代にペレストロイカが始まるまで世に出ることが許されなかったとのことです。

本日はそんな過激な本書について、講釈垂れさせていただきます。


ということで、最初の一編「犬の心臓」は、こんなお話。

ソビエト連邦成立直後のモスクワ。道端のゴミを漁ったり、町の人々に蹴られたりしながらなんとか生きていた一匹の犬に、思わぬ僥倖が訪れます。その犬を見つけた一人のブルジョワ紳士が彼を家へと連れ帰ってくれたのです。

僕はなんて幸運な犬なんだ! と喜ぶその犬は「コロ」と名付けられ、家の中でどんないたずらをしても怒られることなく、食事も十分に豪華なものを与えられて幸せに暮らしておりました。

ところがそんなコロに飼い主の紳士フィリップ・フィリパーノヴィチはあることを行うのでございます。

モスクワでも有名な外科医だった彼がコロに施したこと、それは人間の脳の下垂体と睾丸をコロに移植することなのでした。

さて、そうして脳と睾丸を移植されたコロは見る見るうちに人間のような姿に変化していくのでございます。果たしてコロは犬なのか、それとも人間なのか、はたまた犬人間? とにかく続きは読んでからのお楽しみでございます。


そしてもう一編「運命の卵」。

動物学者プルシコフはある日、とんでもない発見をしてしまいます。カエルの専門家である彼のその発見とは、ある光線を浴びせると動物の繁殖力が高まるというものでした。

おりしもその頃、モスクワでは鶏の間で原因不明の疫病が蔓延し、ほぼ絶滅状態となってしまいます。

この緊急事態を救うため、プルシコフ教授に白羽の矢が立てられます。国営の農場「赤い光線」の農場長に任命された男ロックはプルシコフの制作した光線の出る箱を使ってドイツから来た卵に光線を当て、鶏の大量繁殖を図るのです。

しかし農村の人々はみんな、噂していました。「機械で卵をかえすなんて、考えられない。そんなことは悪魔の仕業だ。あれは悪魔の卵だ」と。

さて、そうして鶏の卵だったはずのその卵から孵ったのは実は……。

いやはやこの続きもまた、ここでは申し上げられませぬ。是非ご自身で読んでいただきたいと、そう思うのでございます。


さて、これらの作品はソ連政府や彼らの社会主義に対する風刺、ということになっているようですが、実際のところこれらの作品は特定の政府とか思想に対する風刺だけではなく、資本主義に対する風刺でもあるし、それ以前に思想やあるいは科学のような「知性」そのものに対する風刺でもあるのでしょう。

私たち現代人はきっと過去の人たちよりずっと賢くて、しかも技術の発展でいろんな力も持っているはずなのに、この世界は別に良くなっているわけじゃないですよね。環境破壊は止められないし、テロの恐怖に脅かされるし、格差は解消されるどころかますます拡大している。

はてさて、それは私たち人類の「知性」がまだまだ足りないからなのでしょうか。


「知性」ってね、怖いと思うのですよ。何が怖いって、それって人を服従させる手段になりえるものだから。

法律とか、軍事力とか、お金とかと同じように、いわゆる科学的な自然法則や、究極的にはその自然法則に行きつく「論理」というものは私たちをある意味支配しています。

で、法律と軍事力とお金と自然法則と論理に共通することって、それらがみな「非情」なものだってことなんですよね。

何が言いたいかっていうと、「賢いかもしれないが人間としてクズ」みたいな人が生まれることを、「知性」は止めることができないということ。お金とか法律なんかが「金持ちかもしれないが人間としてクズ」とか、「権力者かもしれないが人間としてクズ」という人間が生まれることを止められないのと同じように。

そしてお金や法律が善人にも悪人にも平等に適用されるように、知性だって同じ。だから知性を使って人を殺すための理屈を考えつくことだってできてしまう。


「犬の心臓」で手術をされ、「人間」になってしまった犬のコロは、犬らしい行動をする一方、「人間」としての権利を主張し始めます。

しかし彼に手術を施した医師フィリパーノヴィチはそんなコロ、人間名コロフに強い不快感を覚えるのです。お前なんか犬のくせに、と。ブルジョワが「お前なんか労働者のくせに」と思うのと同じように。

そんな蔑視を感じたコロフは言います。「別に俺が人間にしてくれと頼んだわけじゃないぞ」と。そして犬ならばきっと怒った時は咬みつくのでしょうが、人間としての知能を持ったコロフはもっと別の手段でフィリパーノヴィチに攻撃をし始めるのでございます。


人間を人間と規定するもの、もしもそれが「知性」だというのなら、恐らく人間となったコロの物語「犬の心臓」はハッピーエンドとなったことでしょう。もしもコロフの「脳」が問題なのならば、もっと優れた脳を移植すれば問題は解決するはず。

でもこの作品はそういう風には終わらないのですねえ。それはきっと、作者ブルガーコフが言いたかったことがそういうことではないからでしょう。それはタイトルが「犬の心臓」であることからもうかがえます。

作者はフィリパーノヴィチを借りて役人や社会主義者たちを軽蔑していますが、実はそんなフィリパーノヴィチもまた、作者にとっては軽蔑の対象でしかないのです。

なぜなら人間に必要なもの、それは「知性」=「脳」よりも「心臓」なのだから。

例え犬が知性を持っても、そのハートが犬であるならば、結果は悲惨なものになるんだ、と。


もし作者が「知性」というものに楽観的であったならば、この作品はもっと別の結末を迎えたでしょうし、タイトルも「犬の心臓」ではなかったはず。

だとするならば、この作品を発禁処分にした者たちは気づいていたのかもしれません。自分たちが人間以下の心臓の持ち主であることに。

でも別に当時のソ連に限らずこの世界には、屁理屈ばっかり言って人の気持ちの分からない、そんな人間以下の心臓の持ち主がなんて多いことか。

いやはや、犬の心臓にはなりたくないものでございますねえ。とか言いつつ私自身、自分の心臓にはまったく自信がございませんが(汗)。ウー、ワン!

(実は人間よりも犬の方がずっと心が大きかったりするよね、とかいうのはまた別の話)


おなじみミハイル・ブルガーコフ著「犬の心臓・運命の卵」に関する素人講釈でございました。

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

 

 

愛と自由が両立する瞬間は奇跡だという話。

 

Xのアーチ (集英社文庫)

Xのアーチ (集英社文庫)

 

 

それでは本日も講釈垂れさせていただきたく、またお付き合いいただければと思う次第でございます。

本日ご紹介したい本書「Xのアーチ」でございますが、この物語は説明することがなかなか難しい。

後にアメリカ独立宣言の起草者となるトマス・ジェファーソン、彼は故郷のヴァージニアからパリを訪れていました。そんな彼の元に、奴隷の黒人少女サリーが娘の伴として赴くことから物語は始まるのでございます。

サリーの主人であるトマスは積極的に黒人の弁護を行っていた人物でもあり、奴隷制廃止論者でした。そのため彼の奴隷たちは彼のことを慕ってもいたのです。

さてそんな時、トマスやサリーたちが宿泊していたホテルでのこと。サリーは真夜中に自分のベッドに忍び寄る影に気づきます。

彼女を襲った人物、それはあろうことか彼女の主人であるトマスでした。

必死の抵抗にもかかわらず、トマスによって凌辱されてしまうサリー。でも、誰にもトマスをとがめることのできる者はいませんでした。なぜならサリーは奴隷であり、トマスの所有物だったのだから。

ここで、サリーには二つの選択肢が提示されるのでございます。

トマスとともにアメリカに帰れば、サリーは確かに奴隷のままだけれども、彼の愛人として、彼の館の女主人としての地位が確保されるでしょう。そして彼女自身、トマスのことを愛しているのです。

しかしここはパリ。自由・平等・博愛の街。だからもしここで逃げだせば、奴隷の身分から解放され、一人の人間として自由になることができる。たとえそうすることがより困難な状況をもたらすとしても、恐らく一人の人間としての尊厳は守られるでしょう。

さて、サリーはどちらを選択するべきなのでしょうか?


と、実はここまでは500ページあるこの物語の100ページ足らずでしかありません。いわばプロローグのようなもの。

ここから物語は永劫都市と呼ばれる宗教に支配されたパラレルワールドの未来の話になり、20世紀末のベルリンとアメリカの話になるのです。さらに登場人物たちがそれらのさまざまな世界の中でなぜか相関し合っていくという次第。


「愛」は大切だ、と言って反論する人はいないでしょう。「自由」が大切だと言って反論する人も。

そして私たちはみんな「愛」も「自由」もどちらも大切なものだと、当たり前のようにそう思っている。

でも、作者は言うのです。「この二つを結合させることはほぼ無理だ。奇跡でも起きない限り」と。


「愛」とは何か、ということと、「自由」とは何か、ということは別の話なのですね。言うなれば「愛」と「自由」はそれぞれ別にアーチを描いて動いているのです。

ある行動は「愛」という視点からは正しいかもしれない。でも、「自由」という視点からはそうではない。

なぜなら、「愛」というものは必然的に相手を支配したり、あるいは支配されることを積極的に受け入れることである半面、「自由」というものは必然的に人間関係そのものを否定するものだから。

だけど、私たちは誰もが「愛」と「自由」はどちらも大切だと思っているから、この二つのアーチが結合しなければならないと思っている。「愛」のアーチと「自由」のアーチが交差するXの中心点、これこそが「幸福」だと。

でもそんなことはきっと、ほとんど滅多に起きるものではないのです。それこそ「奇跡」でも起きない限り。


「愛」と「自由」の二律相反は男女のような個人間の関係性だけでなく、個人と社会や国家との関係においても、また国家と国家の関係においても言えることだと思うのですね。

本書では明らかにされていないのですが、私はおそらく「永劫都市」というパラレルワールドは「フランス革命に失敗した未来」なのだと思うのです。

そのパラレルワールドでは中世のヨーロッパがそうであったように、「宗教」が「奇跡」を保証している。

一方今私たちが生きているこの世界では「近代的な価値観」が「奇跡」を保証していますよね。

「宗教」や「近代的な価値観(資本主義とか、合理主義とか)」は言うのです。「愛」と「自由」が結合する「Xのアーチ」、つまり「幸福」は実現されるのだ、と。

この「幸福」を宗教では「解脱」と呼ぶのでしょうし、近代的な価値観では「成功」と呼ぶのでしょう。

でもね、「奇跡」というのはいつだって「一瞬」なのです。ということは、「奇跡」が起きるまでの間、私たちはずっと何かを我慢し、何かに不満を感じ、何かを足らないと感じ、何か間違っていると感じ続けなければならないということでもあるし、「奇跡」が起きた後もまた、もう一度「奇跡」が起きるまでその不幸を背負っていくということでもある。

それが「奇跡を信じる」ということ。

逆に言えば「奇跡を信じた」その時、私たちは「不幸」になることが確定するのかもしれません。もちろん、ほんの一瞬だけ訪れる「幸福」を除いて。

「宗教を信じる」こと、あるいは「近代的な価値観を受け入れる」ということは、実はそういうことなのかもしれません。

かと言って、宗教や近代を批判しても、別に何も解決はしないのです。そんなことをしたところで、その先に待っているのはただのニヒリズム

「人間なんて結局は動物か、あるいは機械にすぎないじゃないか。ごちゃごちゃ考えるのはやめて、実用的に、享楽的に生きようぜ。金と権力を手に入れて生きてる間にいい思いをした奴が勝ちだ。そうだろ?」なんてね。


「愛」「自由」「無」という三つのキーワードから歴史を考えると、最初は「無」のために人が生きた時代であったのでしょう。そこに宗教という名の「愛」という秩序が生まれた。そして人類はさらに「自由」というもう一つの大切なものを発見したのです。

ま、私は現代思想なんてさっぱり分かりませんが、ポストモダンってのは結局「愛」と「自由」と「無」の先にあるなにかについて深く考えていくことだったのでしょう。多分。

ところが時代はポストモダン=近代を超えるどころか、どうやら前近代、前中世に戻っているような気もしますねえ。「愛」も「自由」も結局は単なる建前、幻想にすぎなくて、ニヒリストが肩で風を切って歩くような、そんな世の中になりそうな気がいたします。

 

「いいか、よく聞けよ」とエッチャーは小声で言った。「人間は三つのもののためにしか死なない。愛か、自由か、無だ」

 

あなたは何のために生きますか? 愛? 自由? それとも、無? それとも……


おなじみスティーヴ・エリクソン著「Xのアーチ」に関する素人講釈でございました。

 

Xのアーチ (集英社文庫)

Xのアーチ (集英社文庫)

 

 

分かり合えない、っていうのは案外大事なことかもしれない話。

 

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

 

 

今日は私の大好きな一冊について、講釈垂れさせていただきたく、またお付き合いいただければと思います。

 


本書は作者の梨木香歩さんが学生時代に留学していたイギリスに再び訪れた時の思い出を語ったエッセイでございます。

 

半年間イギリスに滞在することになった作者は、20年前に下宿していたウェスト夫人の家へと向かいます。その道すがら思い出すのは、かつてその下宿で共に過ごした友人ジョーのこと。

 

教師をしていたジョーは小説よりもドラマティックな人生を歩んできた女性でした。そんな彼女の元に、ずっと消息不明だった恋人エイドリアンが訪れます。

 

しかしそのエイドリアンはインドで妻子を持っており、犯罪まがいのことを繰り返してここまでたどり着いたようでした。

 

エイドリアンはウェスト夫人の小切手帳を盗み、お金を引き落とそうとして失敗、再び行方知れずとなり、ジョーもまた、彼に付き添って下宿を出て行ったのでした。

 

そんなことを思いながら、作者は彼女に言いたくても言えなかった言葉を思い出します。

――ねえ、ジョー、私はもう、救世主願望は持たないことにしてる。

そう言うときっとジョーは、こう言うのだろう、と作者は思うのでした。

――そうね、それは賢いわ。けれど人間にはどこまでも巻き込まれていこう、と意志する権利もあるのよ。

その他、本書で語られるのはウェスト夫人の下宿で出会った人々の話。尊大でプライドがありすぎるナイジェリア人の家族やご近所の婦人方と引っ越して来たばかりの有名人夫婦、かつてウェスト夫人のナニーだった忠義者のドリス。

 


イギリス滞在の後、作者はカナダへ向かいます。モンゴメリの暮らしたプリンスエドワード島へ行き、ウェスト夫人の謀略で行きたくなかったニューヨークでクリスマスを過ごし、カナダのトロントに滞在します。

 

この時出会うのが、大家のジョン。彼は自閉的傾向のある人物でした。

 

トロントを去る時、作者は迎えに来てくれたジョンとこんな会話をするのです。

――言ってないことを察するのは難しいね。

――そうなんだよ、難しいんだ、化学の論文なんかよりずっと。

――ああ、化学の論文の方がそれは、遥かに論理的合理的だものね、でも私にはそっちがずっと難しい。

――僕たち、足して二で割れないもんだろうか。

――そうだねえ、全ての人間を足してその数で割ったら、みんな分かり合えるようになるかなあ。

――うーん、でもそれもどうかなあ。

――分かり合えない、っていうのは案外大事なことかもしれないねえ。

――うーん……。この間、不動産屋がアラブから来たばかりの人たち連れてきただろう、君、初めてだったんじゃないか。

――いや、初めてではなかったけど。

――そう。彼らのことをわからないと言う人がいるけど、自分の論理を押し付けてくるという点では、僕にはみんな同じだな。

 

このエッセイの根底にあるのは「分かり合えなさ」だと思うのです。私たちは誰も、絶対に分かり合うことなんてできない、というどうしようもなく残酷で、不条理にも思える現実。

 

例えば海外で暮らすことを「国際交流」だとか「相互理解」とか言うけれど、そんなものは嘘っぱちだと思うのですね。実際に海外で暮してみて分かる、理解できることというのは、「郷に入れば郷に従う」しかないってことで、「あ、やっぱり自分は日本人で、この国の人たちとは違うんだ」っていうことなんじゃないかと。

 

この「分かり合えない」という現実を前に、人それぞれ様々な反応をすることでしょう。

 

そのことに思い悩む人、自分が悪いと自分を責める人、他人を責める人、諦める人……

 

そうして「分かり合えなさ」を補うために、私たちはみな、何らかの暫定的な拠って立つ何かにすがるでしょう。

 

例えば国家や文化、例えばお金、例えば宗教、例えば科学的合理性。

 

もちろん、暫定的な拠って立つ何かを持つこともまた重要なのです。最初の話で作者がジョーにこう問いかけるように。

「……こういう嗜好は私たちの中に確かにある、けれど私たちはお互いの知らないそれぞれの思春期を通して、注意深くそれをコントロールしてきたよね、それがあくまでも趣味の領域をでないように、そうだったでしょう? こんなにも無防備に、それに――つまり無所属というようなことに――激しく感応するセンサーは、何か不吉な方向性をもっているのではない?」

でもそれらはあくまでも「暫定的」なものであって「絶対的」なものではないのに、私たちはついそれを忘れてしまい、そしてジョンが言うように「自分の論理を押し付け」てしまう。

 


このエッセイの最後はウェスト夫人から作者に送られた幾つかの手紙で締めくくられます。

 

それらの手紙が送られてきたのは、ちょうどニューヨークで連続自爆テロがあった頃。

 

ウェスト夫人は手紙の中で、こう言うのでした。

「ああ、こういうことがすべてうまく収まって、また一緒に庭でお茶が飲めたらどんなにいいでしょう。私は左肩にドリスを、右肩にはこの間亡くなったマーガレットを乗せてるわ。貴方の大好きなロビンも、きっと何代も前のロビンたちを引き連れてクッキングアップルの木の上で歌うでしょう。いつものように、ドライブにも行きましょう。春になったら、苺を摘みに。それから水仙やブルーベルが咲き乱れる、あの川べりに。きっとまた、カモの雛たちが走り回っているわ。私たちはまたパンくずを持って親になった去年の雛たちの子どもたちにあげるのよ。私たちは毎年そういうことを続けてきたのです。毎年続けていくのです……」

もしこの世界に「真実」というものがあるのなら、「私たちは決して分かり合うことなんてできない」ということもまた、「真実」の一つなのかもしれません。

 

もしかしたら私たちが「分かり合おう」とする限り、私たちは争い続けなければならないのかもしれない。私たちは分かり合えるはずだ、という思い、信念や理想のようなものが、「分かり合えない」と感じるものに憎悪を抱かせるのかもしれない。

 

「分かり合おう」という思いはもしかしたら、「分かり合えない」という現実から目をそらしているだけなのかもしれない。

 

でも、作者はこう言いたいんじゃないか、と私は思うのです。

 

大切なことは「分かり合おう」とすることではないし、お互いを理解することでもない。そんなことよりももっと大切なことは、一緒にお茶を飲むことや、一緒にドライブをすること、一緒に苺を摘みに行くことだ、と。「分かり合う」のではなく、経験を「共有」することなのだ、と。

 

そうして経験を「共有」することで、私たちは「分かり合え」ていなくても「通じ合う」ことができる。作者とウェスト夫人のように。


「春になったら苺を摘みに」。そんな風に誰かを誘うことができる、そういう人になりたいものでございますねえ。


おなじみ梨木香歩著「春になったら苺を摘みに」に関する素人講釈でございました。

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

 

 

本は、出版業界は、作家は、そして読者は、いかにして生まれたのか、という話。

 

ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

 

 

「本」ですよ!「本」!そして「書店」!
私が愛する、これを読んでいるあなたもまた、深く愛しているであろう「本」と「書店」はいかにして誕生したのでありましょう。ということで、本日はヨーロッパにおける「本」と「書店」について深く知ることのできる一冊を、講釈垂れさせていただきます。

 

現在私たちが普通に考えるような「本」が誕生するために最も重要だった出来事、それは言うまでもなく1455年のグーテンベルグによる『グーテンベルグ聖書』の印刷でございましょう。それは正しく、人類史における革命でありました。

 

この印刷革命がもたらしたものは流通網の拡大であり、すなわち世界的なベストセラー作家の誕生なのでございます。

 

本書「ヨーロッパ 本と書店の物語」はまず、セルバンテスの「ドン・キホーテ」の物語から始まります。この1605年にマドリッドで出版された「ドン・キホーテ」は、例えば14世紀に出版されたダンテの「神曲」と比較しても圧倒的な速さでヨーロッパ全土に翻訳、刊行されて広まっていった、いわば印刷革命後の最初の世界的ベストセラー作品だったのであります。

 

また同時にこの「ドン・キホーテ」が重要なのは、主人公ドン・キホーテがいわゆる愛書家であったことでしょう。何町という畑地を売り払って100冊以上の「騎士物語」を買い込み、読み耽っていたという主人公、このキャラクターはまた、1605年にはすでに「愛書家」「書痴」と呼ばれるような人々が既に生まれていたことを示すものでございます。

 

さて、16世紀にヨーロッパで印刷業が最も盛んだった街はどこか、ご存じでしょうか。答えはフランスのリヨン。この街では書物の大市が開かれ、外国の書籍商たちも支店を設けているなど、ヨーロッパ全土における書物の供給地となっていたそうでございます。

 

とはいえ、書店の存在は長い間、大都市圏に限られたものでありました。そんな時代、地域を巡って民衆に向けて書物を広めて回ったのが、行商本屋の存在でございます。

 

彼らの扱った本は暦や占書、綴り字練習帳、妖精物語や恋愛小説など。フランスではこうした行商人によって売られた本は「青本」と呼ばれ、イギリスでは「チャップ・ブック」と呼ばれました。

 


ところで、「ドン・キホーテ」のセルバンテスはベストセラー作家とはなったものの、その版権を版元に安く売り払ってしまったおかげで経済的には苦しい人生を余儀なくされました。

 

しかしそういった状況に変化が起こったのが、ドイツにおけるゲーテの誕生でございます。彼の「若きヴェルテルの悩み」もまたヨーロッパ中で大ヒット、ヴェルテルの服装を真似る者や自殺者が相次いだと言われておりますが、この頃には出版者と作者、読者の三位一体となった出版業界ができあがっていたので、ゲーテには巨万の富がもたらされたようでございます。

 

さてさて、書物というものが民衆の間に根付くようになると、誕生するのが「貸本屋」であり、「古本屋」の存在でございましょう。

 

貸本屋や古本屋を利用することで、読者はより廉価に、しかもたくさんの書物に触れることができるようになり、当然のこととしてそれは愛書家の数を増やすことにもつながりましょう。するとまた出版業界はさらに巨大になる、という構図でございます。

 

出版業界の巨大化は職業作家を生み出します。しかし一方でバルザックが「幻滅」で描いて見せたように、いわゆる三文文士の存在や、作家志望のものを騙すような書籍商が生まれてくるのもまた、この頃でございました。

 

そんな出版業界において、19世紀にイギリスで起こった産業革命もまた、エポックメイキングな出来事でございました。とりわけ鉄道の誕生は大きな影響をもたらし、イギリスでは鉄道の利用者や乗客たちに向けて本や新聞を販売する「キオスク書店」が誕生。この「キオスク書店」は手軽に持ち運べる本の需要を生み出し、後のペンギンブックスのようなペーパーバック、日本で言う文庫本ですね、その源流となっていくのでございます。

 


と、そんな感じでヨーロッパにおける出版、本の流通、読者の誕生、作家の存在などをイギリス、フランス、イタリア、ドイツなどに焦点を当てながら俯瞰しようとするこの一冊。

 

もちろん読書好きにはたまらない話題がてんこ盛りでございます。書店と作家の関係と言えば、当然書店員でありながら創作を続けたノーベル賞作家ヘルマン・ヘッセ、またフランスの「シェイクスピア・アンド・カンパニイ」が文学の世界に与えた影響なども外せませんよね。

 

「本がすき!」なあなたはもちろん「本屋が好き!」というあなたにこそおすすめの一冊!

ああ、ヨーロッパの書店、一度訪れてみたいものでございます。

 

おなじみ小田光雄「ヨーロッパ 本と書店の物語」に関する素人講釈でございました。

 

ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

 

 

蒸気とエーテルが織りなす本格ミステリの話。

 

 

本日も一席お付き合いいただきたく、講釈垂れさせていただきたいのは芦辺拓著「スチームオペラ」でございます。

 

蒸気を動力源とした巨大科学都市。街路を蒸気辻馬車がガッシュガッシュと煙と轟音をまき散らして駆け巡り、空に浮かぶは気球タクシーや蝙蝠型飛行機。そびえたつ摩天楼には回転式投影装置によって幻灯新聞が映し出されておりました。

 

そう、そこはスチームパンクがお好きな方ならおなじみの、マッドヴィクトリアンファンタジーの世界。

 

この都市に住む18歳の女の子エマ・ハートリーは眠気眼で町へ飛び出し、蒸気辻馬車に乗り込んだのでございます。

 

「港へお願いします。全速力で、石炭代割増しつきでね!」

 

彼女が向かった先、倫敦港第二埠頭では、彼女の父タイガー・ハートリーが船長を務める巨大船≪極光号≫の帰還を誰もが今か今かと待ち構えておりました。

 

港に集まった大衆。もちろんマスコミ「絵入り伝声新報」の記者たちは蛇腹型のパイプを通じて蓄音機に繋がったラッパを手に様子を全国へ伝えています。

 

そんな中、ロビュール=モルス型空中船≪極光号≫が上空から虹色の光を放ちながら舞い降りてくるのでございました。

 

何を隠そう≪極光号≫、我々の世界で言う「宇宙船」だったのでございます。

 

おいちょっと待て、とおっしゃる方もいるかもしれません。蒸気で一体どうやって宇宙へ行くんだ、と。

 

蒸気を動力源とした世界でありながら宇宙航行を可能としたもの、それは「エーテル」の発見でありました。

 

我々の世界ではアインシュタインによってその存在を否定された光を伝播するための物質「エーテル」でございますが、しかしこのスチームパンク的世界ではもちろん実在するのでございます。ええ、スチームパンクとはそういうものでございます。

 

ま、でもこういう話はそういうのが好きな理系の方にお任せするとして…

 

物語を進めましょう。≪極光号≫が無事寄港し、エマは父が船から降りるのを待ちますが、一向に降りてくる気配がありません。しかも「絵入り伝声新報」では≪極光号≫が宇宙で重要な発見をしたとのことが報じられているのです。

 

日頃探偵小説や冒険小説を読み漁っていたエマはこれは怪しい、という直観のもと、≪極光号≫に忍び込むのです。

 

そこで彼女が見たものは、巨大なカプセルに収容された一人の少年。そしてその少年はエマの姿を見ると、驚いてそのカプセルの中から出てきたのでございます。

 

「あなたは一体、誰?」
「ぼくの名前は、ユージン」

 

果たしてこの少年は何者でしょうか? 宇宙人? だとしたら彼はどうして言葉が通じるのでございましょう?

 

そこに現れたのが名探偵バルサック・ムーリエ。彼はこのカプセルの調査のために≪極光号≫に招かれたのですが、彼の手腕を披露することもなく、カプセルは開放されて少年もまた外に出てきていたのでありました。

 

そんなことがきっかけで、エマとユージンはともにムーリエの助手となるのでございます。

 

ムーリエは名探偵ですから、当然彼の元には殺人事件の調査の依頼が舞い込むわけで、そしてその殺人事件というのも、当然のことながら密室殺人のような不可解なものばかり。

 

そうしてムーリエとともに殺人事件の解決に取り組むエマとユージンでしたが、二人はこの世界そのものの根底を揺るがす巨大な事件へと巻き込まれてゆくのでございます。

 

その事件とは……、おっと、ここから先は読んでのお楽しみということにしておきましょう。


スチームパンク的世界で繰り広げられる本格推理、それが本書の持ち味でございますが、同時に本書はエマとユージンという少年少女の壮大なる冒険譚でもあります。

 

著者に曰く、「そうですね……うん、早い話が、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」の本格ミステリ版ですよ!」ってことで、そんなにはっきり言ってしまっていいのかと、私がここまで話してきたのは一体なんだったんだと言いたくなりますが(知らんがな)、まあ要するにそういうことでございます。

 

解説の辻真先は言います。

「ミステリ作家は嘘つきで、SF作家は法螺吹きだ。――誰かのそんな文章を読んだことがある(ぼくじゃなかったよね)。その公式に当てはめると、『スチームオペラ』の作者は、法螺を吹き吹き嘘をつかねばならない。作者の肺活量の問題だ。それも(あいつ、どんなウソをつくかな)と疑いの目で見ている読者にむかって、である」

SFを名乗ることも、本格ミステリを名乗ることも、どちらもいわゆる「(あいつ、どんなウソをつくかな)と疑いの目で見ている読者」を相手にすることでございましょう。

 

そんな一癖も二癖もある読者の自覚がある貴方はもちろん、もっと純朴にハラハラドキドキしたいそこの貴方も、この作者の嘘と法螺の壮大なオペラに酔いしれること、これ必至。

 

本書を読み終えた時、きっとあなたはこう思うことでございましょう。

「ああ、これは確かにスチームパンクでなければならない本格ミステリだ」と。

 

この愛すべき蒸気とエーテルの世界、貴方も推理と冒険してみませんか?


おなじみ芦辺拓著「スチームオペラ」に関する素人講釈でございました。

 

 

落語に関するマジメな話。

 

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

 

 

えー、相も変わりません。今日もばかばかしい話を一席お付き合いいただければと思います。

 

「話芸」と言っても色々ございます。その中でもとりわけ学問として研究されているのが、本書でも取り上げられている落語でございましょう。今回講釈させていただきます「落語の言語学」は、落語というものを「ことば」の観点から掘り下げてみよう、というものでございます。

 

著者はまず第一章で話芸は三種に分けられる、と言います。その三種とは、

 

ハナス芸=落語、漫才、漫談
カタル芸=浄瑠璃浪花節浪曲
ヨム芸 =講談(講釈)

 

で、落語と漫才や漫談は同じ「ハナス芸」ではあるものの、ことばの観点から大きな違いがあるのでございます。

 

それが、落語は落語家の地の語り、高座での客に向けた語り、噺の中での語り、の三つがある一方、漫才や漫談では地の語りと客に向けた語りの二種類しかない場合が多い、ということ。つまり落語というものは落語家が噺を「演じる」ものであるところでございましょう。

 

同じ題目をやるにしても、それぞれの噺家によって微妙に味わいが異なってくるものでございます。例えば古典落語には江戸と上方とどちらでも演じられる演目もあれば、どちらかでしか演じられないものもございます。

 

有名な「寿限無」なんかは本来上方発祥の演目ですが、江戸落語で聞く機会もございましょう。また江戸落語で聞くにしてもどの演者で聞くかによって、また趣が変わってくるのでございますね。

 


また本書では落語の「マエオキ」に注目します。

 

落語には「まくら」と呼ばれる本題に入る前のちょっとした雑談があることは有名ですが、そのまくらに入る前にも落語家それぞれ個性があるようでございます。

 

本書では様々な落語家のマエオキを例に出して比較しているのですが、例えば有名な五代目古今亭志ん生

「えー、あたくしんところは、えー、落語でありまして、落語はいちばんハナはごくみじっかいのから、だんだんとながい一席になりまして、ハナはみじかかったんですな。「土瓶がもるよ」「そこ(底)まで気がつきません」、なんてえのが落語だったんですな」

という感じで、まくらに入る前のマエオキからしっかり笑いを取るところが五代目志ん生の名人たる所以かもしれません。

一方これが昭和の爆笑王、今の林家三平のお父さん、初代林家三平になると

「三平でございまして、あ、どうも、どうもすいませんですけど。ほんとなんですから、もう。ほんとですよ、もう。だから、もう、からだ大事にしてください、ほんとに。ほんとなんですから。あぶないんですから、今は、もう。ほんとなんですから、もう」

とこうなって、もうマエオキなのか何だかわかりませんが、でもそれがまた魅力だったのでございましょうねえ。

ついでにもう一人ご紹介しますと、立川志らくのマエオキは

「まあ、とにかく、一席おつきあいのほどをねがいますが、まあ、でも、落語家ってのは、ほんとに、ばかっ丁寧なことをいいますね、一席おつきあいのほどをねがいますだなんて。いまどき、そんな丁寧なことをいうやつ、いませんね、これは、ね」

と、マエオキでマエオキを否定する、という、いかにも立川流らしいマエオキでございます。


さて、落語と言えばやはりオチでございまして、オチがあるから「落語」なわけでございます。細かいことを言えば落語の演目の中には「牡丹燈篭」のように笑い話ではないものも多いので、そういうものはオチがないのでございますが。

 

このオチにもいろんな種類のオチがあるのですね。本書でもそんなさまざまな演目のオチについて分析しているのですが、まあ、最も一般的なオチと言えば「地口オチ」でございましょう。要するにダジャレで落とすってことですね。

 

例えば「大山詣り」という演目がございますが、これは熊五郎が長屋の仲間と一緒に大山に参詣しようとするのですが、江戸に着く前夜に大酒を飲んで仲間とケンカしてしまうのですね。で、仲間内の取り決めで、江戸を出るときにもし仲間とケンカをした奴がいたら、そいつの頭を丸坊主にするっていう取り決めがしてあったので、仲間たちは熊五郎が寝ている間にその髪を全部剃ってしまい、熊五郎を置いて先に出立してしまうのです。

 

さあ、目を覚ました熊五郎は驚いた。頭は丸坊主にされて、しかも置いてけぼりにされたっていうんで、我慢がならん。これは仕返しをしてやろうというので、熊五郎、急いで仲間より一足先に江戸へ帰り、長屋のかみさん連中を集めるのです。

 

熊五郎は、実は船が転覆してしまって、みんな死んでしまった、助かったのは俺だけだ、俺は仲間の菩提を弔うために坊主になることにした、と仲間のかみさん達に言います。そしてあんたたちも夫が死んだのだから尼にならなきゃならん、ひいてはその髪を剃らなきゃならん、っていうので、熊五郎、仲間のかみさんたちをみんな丸坊主にしてしまった。

 

そこに仲間たちが帰ってきて驚いた。おかみさんたちがみんな丸坊主になっているのですから。これはどうしたことだ、熊五郎の仕業だっていうんで大騒動。

 

で、この騒ぎを何とか鎮めようっていうので吉兵衛さんという人がその場に出てきて、こう言うのです。

 

「しかしみなさん、こんなにめでたいことはないねえ」

「吉兵衛さん、冗談じゃねえや、かかあ坊主にされてどこがめでたいっていうんだい」

「だって、考えてもごらんよ。参詣もすんで、みんな無事に帰ってきて、おけがなくてめでたい」

 

「お怪我」と「お毛が」の掛詞でございますね。ちなみにこういう地口オチは通の間ではあまり評判がよろしくないようで、私は好きなんですけどねえ。本書によると井上ひさしなんかも地口オチに好意的だったようでございます。


まあそんなわけで、本書は落語というものを学術的な観点から捉えたものではございますが、そもそも落語というものは難しい仏教説話を面白おかしく話したことから始まったそうでございますから、その落語をまた難しく考えるというのもこれはこれで面白いものでございます。

 

まあ、世の中には難しい話というのはつまらない話と相場が決まっておりまして、だからこそみんなあんまり難しい話ばっかりされると「なんだこいつは。つまらん奴だ」なんてことを言われてしまうのでございますねえ。それでも話の最後にオチでもありゃいいんですが、まあ理屈っぽい話というのはただつまらないだけでオチも何もあったもんじゃございませんが……

 

おや、誰ですか? いま私の方を指さして笑ったのは。え? オチがなくて理屈っぽいのはお前の話だって? ひどいことを言う人もいたもんだ。私の話がつまらないって、そう言いたいんですかい。

 

まったく、私はまあ、そんなこと言われても気にしませんがね。ええ、全然へこんだりなんてしませんよ。

 

おや、そんなことを言っているとまた別の人が。え? お前の話は確かに理屈っぽいが、ある意味では面白い?

 

嬉しいことを言ってくれるじゃありませんか。「ある意味」ってのがちょっと気になりますが、いえいえ、嘘でございます。そんなことは気にしませんよ、私は。

 

ね、捨てる神あれば拾う神ありとはこのことだ。え? どうか悪口を言われても、お気を落とすことのないように、って? ありがたやありがたや。こりゃほんとに神さまだ。

 

ええ、ええ、ありがとうございます。まったくへこんだりいたしませんよ。この私がそんな悪口で気を落としたりなんて、するものですかい。

 

なんせ私、オチない男ですから。


……おなじみ野村雅昭「落語の言語学」の素人講釈でございました。

 

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

落語の言語学 (平凡社ライブラリー)

 

 

近代と中世のエッセンスを絶妙にブレンドしたデザイナーの話。

講釈垂れさせていただきます。

マッキントッシュ、と言えば、多くの人がまず思い浮かべるのは恐らくアップルのパソコンでございましょう。あるいは、ファッションに造詣の深い方なら英国の老舗ブランドのマッキントッシュを思い浮かべるかもしれません。

しかし、忘れてはいけないもう一人のマッキントッシュ、それこそがスコットランドを代表するデザイナー、チャールズ・レニー・マッキントッシュでございます。

と言っても、イームズウィリアム・モリスなんかと比較したら、デザインに興味のない方は聞いたことがないという方が多いかもしれません。

C.R.マッキントッシュの代表作と言えば、「Hill House」というデザインチェアーでしょうか。この異様に背もたれの部分が高い椅子、見たことがある人もおられるかもしれませんね。

建築のデザインとしてはまず第一に挙げなければならないのが、グラスゴー美術学校でございましょう。まあ日本でよく流れるスコットランドの映像と言ったら大抵グラスゴーの映像で(たとえばこの前の国民投票のときとか)、しかも大抵このグラスゴー美術学校の映像だったりするのですよね。

さてそれでは、そんなマッキントッシュはどんな人なのでございましょうか。

彼が生まれたのは1868年、日本では明治元年になります。十六歳の時に建築家を志した彼はグラスゴーの建築家ジョン・ハッチンソンの弟子になるかたわら、グラスゴー美術大学の夜間部に入学、日中は実務を学び、夜は芸術の基礎を学んだのでした。

大学卒業後はロンドンに移り住み、新進気鋭の建築家として活躍し始めます。初期はウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォーから強い影響を受けていましたが、やがて仲間たちと〝ザ・フォー″というグループを結成、活動拠点を生地グラスゴーに移し、後にグラスゴー・スタイルと呼ばれる独創的なスタイルを生み出すのです。


さて、それでは、そんなマッキントッシュのスタイルの独自性とはどういうところにあったのでしょう。

彼のスタイルを決定づけたもの、それは彼の生れた町、グラスゴーにあったのでした。

例えばモリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動は産業革命が生み出した大量生産の商品に対するアンチテーゼとして行われたものでした。そうして中世の手仕事に帰ることで生活と芸術が統一されるのだ、というのが彼らの理念であったわけです。

しかし彼の生れた町、グラスゴーというのはヴィクトリア朝時代、英国第二の都市と呼ばれた町でございます。そのこともあってマッキントッシュのデザインはモリスやアール・ヌーヴォーのデザインのような中世的な華麗な柔らかさを感じさせる一方で、鉄やガラスを多用するなど近代的でクールなものが絶妙なバランスで同居したものになっているのでございます。

また彼はこの時代の多くの芸術家たちと同じように、ジャポニスム、日本の美術の影響を強く受けていることでも有名です。

しかもそこにも彼がグラスゴー出身であることが深くかかわっていて、というのも明治新政府の使節団であったあの有名な岩倉使節団の一行が視察した町、というのがグラスゴーなのだそうでございます。ということは、恐らく当時の日本人たちにとってヨーロッパとはすなわちグラスゴーであったということもできましょう。


マッキントッシュのデザインの魅力は、例えば同時代のデザイナーでモリスの影響を受けた人として、アルフォンス・ミュシャほど女性的であるわけでもなく、ウィーン分離派のヨーゼフ・ホフマンほど近代的でもないところでしょうか。

直線を活かしたデザインは確かにモダンなのだけれど、自然と切り離されたデザインではない、近代と中世、モダニズムと懐古主義が絶妙なバランスで共存しているところ、と言えるのかもしれません。

 

うーん、しかし、やはり美術やデザインを言葉で説明するというのは難しいものですね…。

ということで、いささか不完全燃焼ではありますが、平凡社コロナブックス「マッキントッシュの世界」に関する素人講釈でございました。

 

 

話題に出たデザインチェアー「Hill House」

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薔薇モチーフのステンドグラスでも有名ですね。

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グラスゴー美術学校

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